『Who are ―― ”You”?』
 
 
 
 その日、きみは商店街を抜けて駅前へと歩いていた。
「あ、遅いですよー」
 きみの姿を見つけて、駅前のベンチに座っていた少女が小走りに近寄ってきた。
肩の辺りで揃えられた短い髪が、少女の動きに合わせて元気よく跳ねる。
 きみの前まで走ってきた少女は、胸の辺りに手を当てて少し乱れた呼吸が整うのを待った。
それから、「十二時に、って約束したじゃないですか」拗ねるような上目遣いできみを見上げてそう言った。
「わるい、わるい。でも、五分も遅れてないだろ?」
 きみはそう答えたが、それは彼女のお気に召さなかったらしい。
「三十秒も遅刻ですっ」
 口を尖らせて、腕時計をきみの顔の前に突きつける。
 その拗ねた仕草がやけに子供っぽくて、きみは笑いながら少女の頭を軽く押さえた。
「まあ、そう言うな。……そうだ、お詫びにアイスをご馳走してやるから」
「本当ですか?」
 少女の表情がころっと変わる。
 だが、慌ててその弛んだ表情を引き締めると、
「そんな、食べ物で釣られたりしませんからねっ」
 と、また怒った顔で睨んできた。もっとも、顔の造作のせいかはたまた性格のせいか、
怖いという印象はまるでない。こんなことを言ったら彼女は怒るだろうが、小学生が弟か 妹を叱っているようにしか見えない。
「そうか、残念だな。せっかく今日は三段重ねをおごってやろうと思っていたんだが」
 きみが素知らぬ顔でそう言うと、彼女は葛藤するような表情を見せた。
「……全部バニラですか?」
「ああ、全部バニラだ」
 きみが頷くのを見て、彼女は小さな眉を寄せて考え込んだ。
 沈黙することしばし。
 やがて、
「……今回だけ、特別ですからね」
「はいはい」
「わー、誠意がないですー」
 そんなことを言いながら、彼女の顔はもう笑っていた。
 きみが大好きな、そして一度は諦めかけた、輝くような笑顔だった。
 
 
 
 
 
 彼女の名は、美坂栞。
 付き合い始めてもう半年以上にもなる、きみの恋人だ。
 
 
 
 
 
「それでですね、お姉ちゃんったらひどいんですよー」
 高々と積み上げられたアイスを舐めながら、楽しそうに栞が話している。
 三段重ねの約束だったはずが、いつの間にやら栞の手には五段重ねのアイスが握られて いた。
今にも崩れそうなそれを、いかにも幸せそうに口に付ける。
「わたしにはまだ無理だ、なんて言うんですよ。ひどいでしょう?」
 栞の声が、心地よくきみの耳をくすぐる。適当に相槌を打ちながら、きみはその話を右から左と聞き流していた。
 何しろ、きみにとっては話の内容よりも目の前の少女の表情の方が面白かったのだから。
 感心するほど、ころころと表情がよく変わる少女だった。
 笑った顔、怒った顔、拗ねた顔。同じ表情が十秒と続かず、目まぐるしく入れ替わる。
 ――まったく、黙って座ってれば儚げなお嬢様で通るのにな……
 そんなことを考えて、きみは苦笑した。
 ――もっとも、そんな栞だったらこんなに惹かれはしなかっただろうけどな。
 ふときみは、冬の『あの日』のことを思い出していた。
 最後の最後まで涙を見せることなく、笑顔を浮かべていた少女。
 その強さに惹かれていったのは、いったいいつからだったのか……
「……さんっ」
 全てを受け入れて。
 全てを諦めて。
 それでも、明るさを失うことなく笑顔を浮かべていた少女。
 その強さに奇跡が訪れたのは、ひょっとしたら当然のことだったのかもしれないな……
「……さんっ、……さんっ!」
「うわっ!」
 物思いに沈んでいたきみの頬に、急に冷たい物が押しつけられた。
 驚いて身体を引くと、いつの間にか二段にまで減ったアイスを手に、栞がきみの顔を 睨んでいた。
 ――まずい。
「お、どうした、栞?」
「どうした、じゃないですよっ。何ぼーっとしてるんですかっ」
「いや、ぼーっとなんかしてないぞ」
「じゃあ、私の質問に答えてください」
 質問……何だったか。
 どうやら、考え事をしている間に聞き逃してしまったらしい。
「いや、それが俺は最近急に耳が遠くなってな。もう一回言ってくれ」
「そんなこと言う人嫌いですー」
 完全に拗ねた表情で栞が言う。
 きみが話を聞き流していたせいで、かなり腹を立てているようだ。
「いや、そこを何とか……」
「誕生日はいつですか、って聞いたんですっ」
 そっぽを向いたまま、栞がそう言った。
 誕生日……
「二月一日だ」
「それは私の誕生日ですっ」
 栞の頬が膨らんだ。こういう表情も可愛くて、きみはついからかってしまうのだが、
これ以上は本気でまずい。
 きみは慌てて記憶の引き出しを漁って、今日の日付と照合した。
「えーと……あ、明後日だな」
「え?」
 栞が驚いた表情できみの方に向き直った。
「いや、だから明後日の月曜日だって。すっかり忘れてたな」
 子供の頃はともかく、今となっては誕生日などどうということもない。最後に誕生日パーティーをしたのは何年前だったか……
 正直なところ、きみにとっては誕生日よりも祝祭日の方がよっぽどありがたいくらいだ。
「わ、大変ですー」
 だが、栞にとってはそうではないようだった。
「何が大変なんだ?」
「だって、急いでパーティーの準備をしないといけないじゃないですか」
 さも当然、といった様子でそんなことを言ってくる。
「いや、いいって。そんな年でもないし」
「だめですっ。誕生日はちゃんとお祝いして、生まれてきたことを感謝する日なんですから」
 きみは断ってみたが、栞の決意は固かった。
 今時、そんなことを大真面目に言う人間が何人いるだろうか……そう思って、きみは 苦笑した。
この街なら、意外と大勢いそうだ。
 それに、栞のこういう所がきみは嫌いではなかった。
「えーっと、一日早いですけど、明日が日曜日ですから都合がいいですね。明日、何か 用事ありますか?」
「いや、ないけど……」
「じゃあ、明日の夕方六時に私の家に来てください。明日の主役なんですから、もう遅れない で下さいよ」
「わかった、わかった」
 きみがそう答えると、栞は勢い込んで立ち上がった。
「じゃあ、今日はこれで帰りますね」
「え? さっき会ったばっかりだろ?」
「だって、明日の準備がありますから」
 悪戯っぽく微笑んで、栞が慌ただしく駆け出していく。
「ぜったい遅れないでくださいねー」
 その勢いに苦笑いしながら、きみも手を振った。
 ……誕生日、か。
 目を閉じて、アイスクリーム屋の椅子の背もたれに体重をかけてみる。
 ずっと昔、誕生日は特別な日だった。その日だけは、誰が何と言おうと自分が主役だった。
まるで世界が自分を中心に廻っているような……そんな気がするくらい、特別な日だった。
 ……誕生日パーティーか。
 懐かしい、そして気恥ずかしい響きの言葉だった。
 だが、それでも心のどこかが弾んでくるような気持ちになっていることを――きみは 否定しきれなかった。
 
 
 
 
 
 そして、翌日。
「……そろそろいいかな」
 きみは、美坂家の玄関の前に立っていた。
 何か手土産の一つも持ってこようかと思ったが、祝われる立場の人間が土産を持ち込む のもどうかと思い、結局は手ぶらのままだ。
 まあ、せいぜい栞と香里くらいしかいないだろうから――まさか両親がいるなどという こともないだろう――それほど気を使うこともないだろう。
 時刻は六時三分前。
 早すぎず遅すぎず、丁度いい刻限だ。
 ピンポーン。
 呼び鈴を鳴らす。
『はーい』
「あ、俺だけど……」
『あ、いらっしゃーい。どうぞ上がってくださいー』
 インターホン越しに聞こえる栞の声に従い、扉を開ける。
 その途端――
 
 
 
  「「「「「「「「「ハッピーバースデーーー!」」」」」」」」」
 
 
 
 景気のいいクラッカーの音とともに、そんな声が一斉に響いた。
「……え?」
 予想もしなかった事態にきみが呆然としている間に、見知った顔が幾つも近づいて くる。
「うぐぅ、お誕生日おめでとう! これでボクより一つお兄さんだね」
 と、あゆ。
「ひどいよ〜、わたしたちには教えてくれないなんて……」
 と、名雪。
「ま、真琴は別に、ただ暇だったから来ただけなんだからねっ」
 と、真琴。
「……おめでとうございます」
 と、美汐。
「……お誕生日、おめでとう」
 と、舞。
「あははーっ、おめでとうございますーっ」
 と、佐祐理。
「よ、おめでとさん」
 と、北川。
「驚きました? お姉ちゃんといっしょに、昨日のうちに呼んでまわったんですよ」
 そして、栞。
 大勢の友人たちが、口々に祝いの言葉をかけてくれる。
 ――まったく、お節介な連中だな……
 そんなことを思いながらも、きみは目頭が熱くなってくるのを感じていた。
 それでも、
「みんな、よっぽど暇だったみたいだな」
 つい、そんな憎まれ口を叩いてしまう。
「わ、ひどいよ〜」
 口ではそう言いながら、名雪の顔は笑っている。
 どうやら、きみの内心など彼女には――いや、それどころか栞や他の面々にもお見通し らしい。
「まったく、素直になりなさいよねっ」
「真琴に言われたくはないぞ」
「そんなことばっかり言ってると、友達ができないよ」
「あゆに言われたくもないぞ」
「うぐぅ」
「うぐぅ」
「うぐぅ……真似しないでよっ」
「うぐうぐうぐぅ」
「……前から時々言ってるけど、何なの、それ?」
「何か新種の挨拶ですかーっ?」
「……動物さん?」
「……違うと思いますが……」
「残念だな、天野。舞が正解だ。うぐぅと言うのは羽根のある動物でな、主食はたい焼き なんだ」
「わ、そうだったんだ」
「水瀬、信じない方がいいぞ、こいつの言うことは」
「はぇ? そうなんですかー?」
「わー、北川さんひどいですー。ちょっと意地悪ですけど、嘘つきじゃないですよっ」
「おぅ、栞の言うとおりだ」
「ちょっとじゃなくて、だいぶ意地悪よぅ」
「うん、真琴ちゃんの言うとおりだよ」
「うぐぅ、ひどいぞ、あゆあゆ」
「うぐぅ……やっぱり意地悪だよっ」
 さすがにこれだけの人数が集まると大騒ぎになる。
 玄関口に溜まったまま、ああだこうだと騒いでいると、金属を打ち合わせる硬い音が 響き渡った。
「はいはい、いつまでも玄関で騒いでないで、居間の方に移ってちょうだい」
 音の出所を見ると、おたまとフライパンを手にした香里の姿があった。
 今まで台所にいたのか、エプロンを付けているのが何だか新鮮に見える。
「よう、香里。邪魔するぞ」
「ええ、本当に邪魔だけどね」
 しれっとした顔で、そんなことを口にする。
「香里……」
「冗談よ」
 きみの情けない顔がよほど面白かったのか、香里が吹き出す。
 そして、
「とりあえず……誕生日、おめでとう」
 香里は、実に彼女らしい笑顔でもって、きみに祝福を贈ってくれた。
 
 
 
 
 
「ちゃんと飲んでますか〜っ?」
「ああ、飲んでるってば……」
 顔を真っ赤にしてもたれかかってくる栞に、きみは辟易した顔を悟られないように 注意しながら答えた。
 そもそもの原因は、北川が持ち込んだ一本のシャンペンであった。
 アルコール度はせいぜい5%程度だと言ってはいたが、そこにいた数人の理性を吹き飛ばす には充分だったらしい。
 ふと気がつけば栞が冷蔵庫からビールを持ち出し、美汐がキャビネットに飾られていた洋酒に 目をつけ……あとはお定まりの展開である。
「あ、ほっぺた冷たくて気持ちいいですー」
 突然、栞が抱きついてきた。
 火照った顔をきみの頬に押しつけ、気持ちよさそうに頬ずりしている。
「おいおい、栞……」
「はい? なんですか?」
 きみの目を、栞の潤んだ瞳が覗き込んだ。白い肌がほの赤く染まった姿が、なんとも言えず艶を感じさせる。
 きみは、思わず生唾を飲み込んだ。
 可愛いな……
 改めてそう感じる。
「いや……」
 正直に言うのが照れくさく、きみは目をそらした。
「わー、気になりますー」
「なんでもないって……」
「相変わらず仲がいいわね」
 栞とじゃれ合っていると、香里の声が聞こえた。
 ワインを入れたグラスを舐めるようにしながら、きみの横、ソファの上に腰を下ろす。
「月宮さんと沢渡さんは寝かせてきたわよ」
「ああ、ありがとう」
「あの二人、明日は二日酔いで大変でしょうけどね」
 そう言って、チェシャ猫じみた悪戯っぽい笑いを浮かべる。
「無茶な飲み方してたからな……」
 ビールとワインとウイスキーのチャンポンを飲まされてうぐうぐ言っていたあゆの様子を思い出して、きみは苦笑いした。
 ふと見れば、他の面々――美汐や名雪たちも、それぞれに轟沈している。
「なんだ、俺たち以外は全滅か?」
「先輩たちはさっさと逃げ出したみたいだし……そうみたいね」
「北川はどうした?」
「北川くんなら……」
 香里の指さした先に、ワインの瓶を抱えてテーブルに突っ伏した北川の姿があった。
 ……香里に飲み負けたのか。
 きみは、心の中で少しだけ北川に同情した。
「それで……」
「お姉ちゃん、くっつきすぎですっ」
 香里が何か話し始めた時、しばらく黙っていた栞が急に割り込んできた。
 きみの身体に抱きつくようにして、座った視線で香里を牽制している。
「あら」
 香里は少し驚いたようだったが、すぐに笑顔に戻ると、きみの方に手を伸ばしてきた。
「いいじゃない、減るものじゃなし」
 そんなことを言いながらきみの手をとって、自分の頬に当てた。
「いくらお姉ちゃんでも、それは駄目っ」
 栞がきみの手を取り返そうとするのをかわして、回り込んで今度は逆の手をとる。
「まったく、羨ましいわねー」
「ぜったい駄目ですーっ」
 その手を栞が取り返すと、また逆の手を香里が取る。二人の姉妹は、騒ぎながらきみの 周りを回って、きみの手の取り合いにしばらく興じていた。
「あはははは……あー、疲れた」
 笑いながら、香里が向かいのソファに腰を下ろした。
「もう、お姉ちゃん嫌いですー」
 そんなことを言いながら、栞はきみの隣に腰を下ろす。きみの両手は、栞の腕にがっちりと抱えられていたが。
「香里、お前もかなり酔ってるな?」  きみが言うと、
「まあね」  と答えて香里は口を笑いの形に歪めた。
「でも、羨ましいっていうのは本当よ」
「え?」
 きみは聞き返したが、香里は取り合わずに、くすくすと笑いながらポケットから何かを 取り出した。
「そうそう、遅くなったけど。はい、プレゼント」
 そう言って渡されたのは、小さな箱だった。
 開けてみると、メーターのような物が入っている。
「……万歩計……?」
「毎朝、ご苦労様」
 そう言って、香里はまた可笑しそうに笑い出した。
 きみも、さすがにこれには笑うしかなかった。
「やれやれ……香里らしいと言うか、何と言うか……」
「まあ、そう拗ねないで。栞からもあるんだから」
「え?」
 きみは栞の方を振り向いた。
 彼女は顔を赤くしているが……それが、酔ったためだけに見えないのは、きみの気のせいだろうか?
「ひょっとして、似顔絵か……?」
「それは間に合いませんでした……クリスマスには、間に合わせますからっ」
「そうか……」
 きみは、ほっと胸を撫で下ろした。
「いや、急ぐことはないぞ。なんならずっと未完成でも気にしないしな」
「そんなこと言う人嫌いですー」
 いつものように栞が口を尖らせる。
 そして、ちょっと待って下さい、と言い置いて栞は台所の方へ姿を消した。
「なんだか、気になるな……」
 香里の方を見ると、楽しそうに目だけで笑っている。
 栞は、すぐに戻ってきた。
「あの……誕生日、おめでとうございますっ。これ、プレゼントです」
 そう言って、栞はお盆に乗せた「それ」を差し出してきた。
 白くて、丸くて、冷たそうな……
「……雪だるま?」
 きみには、そうとしか見えなかった。
「そう、ですけど……やっぱり、変でしたか?」
 栞の目が潤む。
「あの、本当はもっとちゃんとした物を用意したかったんですけど、急でしたし、私、何も思いつかなくて……」
 恥ずかしいのか、指先でストールを弄りながら、栞がそう言った。
 その仕草と、きみの機嫌を伺うかのような上目遣いが、どうにも小動物じみた印象を 感じさせる。
「……やっぱり、変ですよね……?」
「いや、これはこれで嬉しいけど」
 栞の不安を取り除くように、その頭を軽く撫でて微笑んでやる。
「本当ですか?」
「ああ、もちろん。……まあ、どうやって置いておくかが問題だけどな」
 そう言うと、不安げだった栞の顔がほころんだ。
「大丈夫ですっ。冷凍庫に入れておけば冬まで保ちますからっ」
 一転、勢い込んだ様子でそんなことを言う。
「冷凍庫……って、家までどうやって持って帰るんだ」
「ドライアイスくらい、貸してあげるわよ」
 笑いながら香里が口を挟んできた。
 こうなってしまえば、もうきみに勝ち目はない。
「わかった、わかった。ありがたく頂いて帰るよ」
「ありがとうございますー」
「プレゼントする方がお礼言ってどうするのよ」
「いいのっ。嬉しいんだから」
 笑いながらの香里の横槍に、栞がまたむくれ顔になる。
 その様子に笑いを浮かべた時、急に欠伸が出た。
「……あ、眠くなりました?」
「ああ、さすがに酔いが廻ってきたかな……?」
 一度意識してしまうと、急に睡魔が襲ってきた。瞼が垂れ下がってきて、頭が左右に 揺れ始めたのが自分でも分かった。
 遠ざかりつつある意識の中、くすくすと笑い声が聞こえる。
「いいですよ、そのまま寝ても……」
 その声と同時に、身体が引っ張られた。
 ソファに横倒しになった頭の下に、柔らかい感触を感じる。上を見上げる体勢になった
視界の中に、きみの顔を覗きこんでいる栞の笑顔が映った。
「気持ちいいですか……?」
 栞の手が、優しくきみの頭を撫でている。
「……ああ」
 その膝に体重を預けて、きみは目を閉じた。
 こらえていた睡魔が一斉に襲いかかってきて、きみの意識を連れ去っていく。
柔らかい暖かさに包まれるように感じて、きみは身体を胎児のように丸めた。
膝を折った
姿勢のまま、意識が溶けていくに任せる。
 ――あたたかいな。
 ああ、そうか、と独りごちてきみは微かな笑みを浮かべた。
 誕生日というのは、こういう日だった――幸せになるはずの日だったのだ。
 閉じられた瞼の中に、あの雪の日に見た栞の顔が映る。その顔がほころんでいく情景を 最後に、
きみの意識は栞の体温に溶かされるように薄れて、夢の中へ沈んでいった。
 
 
 
 
 
「ん……」
 目覚まし時計の音が、遠く聞こえる。
 半ば寝ぼけた頭のまま、きみは手を伸ばして目覚まし時計のスイッチを止めた。布団に くるまったまま、大きく伸びをする。
「もう朝か……ん?」
 身を起こした拍子に、周りの様子が目に入ってきた。
 いつもと同じ、何の変わり映えもしない自分の部屋。
 その光景を見ていると、昨晩の騒ぎが不意にどうしようもなく遠いものに感じられた。
「そうか、夢か……」
 呟いて、ため息を漏らす。
 結局、今日もいつもと同じような、何てこともない一日になるのだろう。
 誕生日と言っても、何か特別なことがあるわけじゃない。
 現実なんて、そんなものだ。
「まあ、いい夢だったし、いいか……」
 とりあえず着替えようと、ベッドから下りる。
 と、踏み出した足が、ぴちゃりと音を立てた。床の一部が、濡れていたらしい。
「なんだ?」
 雨漏りだろうか?
 だが、天井を見上げてみても、それらしい跡はない。そもそも、昨日は雨は降っていない。
 夜露の類……と考えるのも無理がありそうだ。
 それにしては、水の量が多すぎる。
 下手をすると水たまりとさえ言えるような濡れ方だった。
 そう、まるで――
 
 
 
 ――雪の塊が、そこで溶けてしまったかのような。
 
 
 
「そう、か……」
 何が分かったというわけでもない。
 それでもきみは、自然にそう呟いていた。
 こらえきれない笑いが、喉の奥からわき上がってくる。
 急に気分が軽くなって、きみは窓のカーテンを開いた。
 青い空と鮮やかな日差しが、目に飛び込んでくる。
 誕生日は特別な日だと――そんな昔の想いを、もう一度信じてもいいような、そんな気にさせてくれるような天気だった。
 こんな日なら、奇跡の一つくらい起こるのかもしれないな――
 ほんのささやかな、奇跡とは呼べないくらいの奇跡が。
 そんなことを思いながら、きみは鼻歌混じりに準備を済ませ、部屋を後にした。
 きっと今日はいいことがある――そんな確信を、心のどこかに抱きながら。
 
 
 
 
 
 
 
ギャラさんありがとうございます。
うーん、上手いなあというのがひとつ。あとひとつは、思わずにやにやとしてしまうほど幸せだなー、という感想。
ほんとに、上手いですねえ、文体は淡々としてるのに、ちょっと幻想的で、でもあったかいです。
栞、かわいい。でも、そんな妹をからかう香里はもっと...(笑)
PresentはSnowmanか。
かわいいなあ、栞(^_^)
 
HID
(1999/11/1)


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