傘がないから 

 

朝の天気予報は「晴れ、時々雨」。

外の穏やかな陽気からは信じられなかったけど、

私は折りたたみの傘をかばんの隅に入れて、家を後にする。

退院後の検診で、今日は隣にいないあの子。

昨日の寂しそうな顔を、つい思い浮かべてしまうけど、

私は、あの子に向けた言葉を、自分にも言い聞かせる。

「明日がダメでも、あさってがあるでしょ?」

ずいぶんと待ち遠しかった、冬の終わり。

近い過去に、私が決して望むことのなかった終わり。

でも、今は、待ちわびた終幕。

新たな舞台の幕開けを知らせるように、

桜のつぼみが、萌芽の瞬間を披露する。

まだ真新しいランドセルを背負って、

無邪気に笑う、子供たちの素顔。

そんな日常につられた、一人きりの私の笑顔に、

少し恥ずかしくもなるけど、

それも、やっぱり嬉しいことなんだと思う。

私は今、確かに自分でこの道を歩いている。

陽気に見合った、晴れやかな顔で。

春に似合った、穏やかな顔で。

 

 

端から見れば何の事もない授業も、わたしにとっては特別で。

名雪と相沢君は、学年が変わってクラスも変わってしまったけど、

彼とは結局、最後まで同じ教室での授業。

 

腐れ縁も、ここまで来ると感心ね、

なんてそっけなく言ってしまったけど、

私の奥底は、取り止めのない喜びを抑えるのに必死だった。

 

彼の、私に見せる、何気ないしぐさとか、

彼の、私へ向ける、朗らかな声とか、

彼の、私を見つめる、透き通った瞳とか。

 

もちろん、いろんな事を、何度も想った。

 

私、彼で本当に良いの?

彼は、私で良いと言ってくれるかな?

 

私、本当に幸せになってもいいの?

あの子以上の幸せを求めてもいいの?

 

でも、今は春が来たから。

幸せと想える春がやって来たから。

奇跡は、確かに起こったから。

 

たまには天気予報も当てになるものだ。

食堂に向かう廊下の窓に、水滴が跳ね始めて、

それはすぐに大粒になる。

 

午後になっても、一向に光を通そうとしない厚い雨雲から、

絶え間なく雫が滴り落ちる。

地面を叩く音を、この教室まで響かせる。

 

相変わらず、彼は机に伏して、

夢の世界に旅立っている。

…大丈夫なのかしら、と老婆心。

 

今日の雨は、好きな雨。

全てを濡らして、流してくれそうな雨。

当たって帰るのも、悪くない雨。

 

そんな事して帰ったら、あの子は心配するかしら?

 

でも、たまには心配をかけるお姉ちゃんでも、

いいよね。

たまには、少し自分の楽しみのままに行動するお姉ちゃんでも、

いいよね。

たまには、自分の幸せに正直な、一人の女の子でも…いいでしょ?

 

顔だけを腕の上にのせ、寝ぼけ眼でこちらを向いた彼に、

そう、心の中で呟いて、微笑んだ自分が、

少し、嬉しかった。

 

 

そして、放課後がやってくる。

私は傘をかばんから出して、

教室を出る。

 

ふと視線を移せば、

やっぱり昇降口に、彼の後ろ姿。

どんよりとした曇り空を恨めしそうに見つめて。

 

だから、私は傘をしまって。

忍び足で近付き、背中を押す。

 

「よう、美坂」

「北川君、どうしたの?」

「見ての通りさ」

 

そう言って微笑む彼の顔がたまらなくいとおしくて、

そんな私の想いが、雨越しに伝わらないかとても不安で。

 

「そう」

「なあ、美坂は傘持ってきてないのか?」

 

不思議ね。

普通なら、きっと相合傘なんでしょう?

 

でも、今は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうね、私も…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「傘、ないから」

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、北川君?」

「何だ、美坂」

「一緒に帰りましょ」

 

「…傘もないのにか?」

「二人で帰れば、傘なんていらないわよ」

 

「風邪引くぞ」

「それもきっと大丈夫よ」

 

「…そうか?」

「そうよ」

 

少し困った彼の顔を見ている私が、

かなり、嬉しかった。

 

 

「ほら、早く行きましょ」

「おい、美坂っ、ちょっと待てっ…」

 

子供にそうするように、戸惑っている彼の手を引き、

私達は雨の中を走り出す。

 

制服が肌に絡み付いて、

髪の毛が顔に絡み付いて、

二人の腕も、心に絡み付いて。

 

「おい、ちょっと歩きにくくないか…」

「そう? じゃあ、離すわね」

「…いや、別にいいけど…」

 

私、どんな顔しているかな。

あなたは今、どんなこと考えてるのかな。

私といて、幸せなのかな。

 

幸せ…だよね?

私は…幸せ、だよ。

 

冷たい雨の滴りの中で、

いつまでも、強くつないだ手の暖かさが、

すごく、嬉しかった。






【感謝の言葉】

ずいぶんと可愛い香里を書いていただいてありがとう、坂瀬さん。
縁あってこの作品を本HPに置かせていただくことになりました。
どうぞみなさん、お楽しみください。

HID 1999/08/10 

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