「この恋の始まりも、恋の終わりも」






鍋から白い湯気が立ち上る。
私はチョコレートが入ったカップをその中に入れて、窓の外を眺めていると、どさっと屋
根から雪が落ちる音が聞こえた。暗闇にわずかに映える白い雪はいつ見ても綺麗だと思っ
た。
彼も同じ雪を見ているだろうか。
家にいる時でもつい彼のことを想ってしまう。転校してきたあの頃は全く気にもしなかっ
たのに。
一年前。栞の病気で精一杯だった私は、転校してきた相沢君には何の興味も持たなかった。
あまりにも心に余裕がなかったので。心が死にかけていたので。
それからしばらくして桜が咲き誇った春になると、栞の病気は快方に向かっていった。そ
れと共に私の心にも少しずつ余裕が生まれ始めた。少しずつ色々なものが心に入ってくる
ようになった。
強風で吹き飛ばされて辺りをピンクに染める桜の花びら。わずかに甘い春の風の匂い。「お
姉ちゃん」と呼んでくれる栞の柔らかい声。そして、素直じゃないけどとても優しい相沢
君の姿。
いつも目で追うようになった。彼のどんな仕草も見逃さないように。
そうして、私は相沢君を好きになっていった。どくんどくん、と心の奥にある小さく熱
いものが大きくなりながら。相沢君と名雪が付き合っていることを知っていながら。





ふうっと一つため息をついて目を落とすと、チョコレートが溶けだしていた。キッチンに
漂う甘い香りをすっと吸い込むと、心地よくて少し楽な気分になった。疲れている時は甘
いものを食べるといい、とよく聞くが、匂いだけでも気持ちを和ませてくれるかもしれな
い。そう思って大きく吸い込んでみたそれは体中を駆け巡り、心にたどり着き、そっとし
まいこんでいた甘くて切ないあの日の記憶を蘇らせた。私はそっと頬に右手を添えた。
黄昏が訪れて銀杏が鮮やかに赤に照らされた秋の日。
突然、相沢君から映画を見に行こう、と誘われた。
「名雪と行く約束だったんだけど、クラブの用事で急に行けなくなってさ。チケット無駄
にするの、もったいないと思って」
そう言って鞄から二枚のチケットを取り出した。
 二人きりでもないのに頬が熱くなる。私は努めて普通に喋ろうとした。
「遠慮しておくわ。名雪に悪いわ」
 けれど声は少し上ずっていて、ますます私を動揺させた。北川君とでも行ったら、と言
うと、相沢君は
「うーん、男同士で行くのはちょっと、な」と少し困った様子で言った。私はチケットを
見ると、それは全米でNo.1を記録した有名な恋愛の映画だった。
 どくん。
 胸が大きく打った。
 わかっている。つもりだった。相沢君は友達として誘ってくれていることも。私は二人
の邪魔をせずに、側からそっと見つめていないといけないことも。
 だから断らなければ、と顔を向けた瞬間、目が合ってしまった。
 どくん。
 また大きく打った。
 そんな優しい瞳で見ないで。
私に変な期待を持たせないで。
 ずっと続く私の沈黙を拒否と捉えたのか、彼は言った。
「嫌だったいいんだ。突然誘った俺が悪いんだからさ」
 そしてチケットを鞄にしまおうとした。
「待って!」
 私は咄嗟に叫んだ。相沢君は驚いた目で私を見た。驚いたのは私も同じだった。
「いいよ。映画、見に行きましょう」
 そう言ってしまったから。言った後で後悔していない自分に気付いたから。





 私は相沢君の半歩後ろを歩いていた。嫌でも目がいってしまう彼の耳は柔らかそうだっ
た。たいした会話もしないまま、夕日で窓が赤くなった駅前のビルを通り過ぎると、映画
館が見えてきた。
 平日とあってか、館内はそれほど混んでいなかった。相沢君の左隣に座ってしばらくし
て、照明がおとされて映画が始まった。
 前評判が良かったので、私は見てみたいと興味を持っていた。けれど、こんな形で見る
ことになるとは思ってもいなかった。話が進んでいっても内容は全く頭に入ってこない。
すぐ隣にいる相沢君のことだけが気になった。どんな顔で、どんな気持ちでみてるんだろ
う。
少しでも私を想ってくれてるかな。
微かな期待が胸を支配してどうしようもない気持ちになって、私はそっと彼の横顔を覗
いてみた。暗闇でもつやつやとした唇。すっとした綺麗なラインの鼻筋。静かに伏せられ
たまつ毛。私はもっと見てみたい欲望に襲われて、少しうつむき加減の彼に顔を近づける
と、彼は穏やかに寝息を立てていた。
自分から誘っといて、と軽い脱力感を感じて私はため息をついた。そして、私、何を期
待していたんだろう、と自嘲気味に笑って、スクリーンに向き直ろうとした時、目が止ま
った。
肘掛けに置かれた相沢君の手。私はその手に右手をのせてしまっていた。
あたたかい。
彼の温もりが、はっきりと伝わってきた。それからどれくらいしたんだろう。彼が目を
覚ますまで、私はずっと右手に彼を感じていた。
映画の内容はすっかり忘れてしまったが、彼の温度は今でもはっきり覚えている。





十分熱せられたチョコレートを型に流し込む。それから後片付けをしていると、栞が帰
ってきた。ただいまー、と大きな声で言いながら、栞はキッチンに入ってきた。
「あれ?何してるの、お姉ちゃん?」
「チョコレートを作っているのよ」
栞に背を向けたまま、流しで手を動かしながら言った。
「へえ、珍しいね。お姉ちゃん、今までバレンタインにチョコなんて作ったことないのに」
 栞は言った。
「別にいいでしょー。私がチョコ作るなんて似合わない?」
 私はチョコレートを冷蔵庫に入れながら、冗談で、けれどかなり切実に訊いてみた。
 ううん、そんなことないけど、と言う栞が私を直視する。彼女はしばらく何か考え込ん
だ様子でいると、突如にこっと笑って、興味津々といった感じで言った。
「もしかして、好きな人でもできたの?」
 突然そんなことを言われて、びっくりした。私が呆気にとられていると、栞はきゃあき
ゃあ騒ぎ始めた。どうやら私の無言の時間を、勝手に解釈してしまったようだ。
「どんな人かな?お姉ちゃん、理想が高そうだからかなりのハンサムかな?うわー、気に
なるなあ」
早口言葉みたいに喋る栞のものすごい勢いに圧倒されて、私はただただ突っ立っていた。
そんな私におかまいなしに栞は
「お姉ちゃんからチョコ貰えるなんて絶対に彼氏、喜ぶよ。あつあつだなー、もう」
嵐のように騒ぐだけ騒いでから、栞はキッチンから出て行った。
栞の騒ぎ声が消えたキッチンに、私のやり切れないため息が大きく響いた。両想いなら、
ね、と冷蔵庫にもたれながら呟いた声はあまりに情けなくて、思わず泣きたくなった。
私は相沢君が好きだ。彼の目も鼻も口も耳も手の温もりも。彼の全てを誰よりも愛して
いる。けれど、彼の瞳に私は映っていない。いつも名雪だけがそこにいて、きらきら輝い
ている。
自分も気付いているし、他人から見ても明らかだろう。私の片想いは絶対に成就しない
ことも。彼を想う気持ちを早く捨てるべきだということも。
それでも。それでもかすかな望みにすがりつく自分がいる。
もしかしたら。
明日チョコレートと一緒に想いを渡したら、もしかしたら振り向いてくれるかもしれな
い。





降り積もった雪に朝日が銀色に光る街中を、私は学校に向かう。チョコレートが入った
鞄がやけに重く感じられて、引きずるようにして教室にたどり着くと、大半のクラスメー
トが登校していた。とは言っても、今は受験シーズンの真っ最中なので、欠席する人も多
い。たしか北川君も今日は私立の大学を受験すると言っていた。
教室は女の子達が、いつもよりにぎやかなお喋りに夢中になっていた。ねえ、誰に渡す
のよ?そういうあんたこそ誰なのよ、といった類の話が室内を交差する。ひっきりなしに
盛り上がる女の子は、心の奥では期待と不安でいるんだろう。
普段の日に告白するには勇気が足りなくて、ふられることを思うと夜も眠れない。高ま
る心を押さえつけて、友達でいようと決めた彼の姿はあまりに遠すぎる。
ずっときっかけを求めているのかもしれない。もどかしい気持ちを持て余していた今ま
での日々に終わりを告げるために。新しい始めをどこかで切望していた気持ちを解き放つ
ために。





授業が始まり、私は前の二人――あいかわらず遅刻ギリギリだったが――に目を向ける。
名雪はいつも通りだが、受験も終わって授業を聞く気なんてないのか、相沢君も机に突っ
伏して熟睡していた。私も鞄のチョコレートが気になって、先生の話なんて全く耳に入っ
てこなかった。
いつ、どうやって渡そうか、と心が落ち着かなくて熱くなる。けれど一方で、渡してど
うなるの、と分からない未来に怯えて、ブレーキがかかる。
 そうやって葛藤している内に午前の授業が終わり、昼食もろくに喉を通らず、いつしか
午後の授業も終わりに近づいていた。やがてチャイムが鳴り、簡単なホームルームが終わ
ると、女の子達はお目当ての男の子の元に駆け出した。
 私は帰る準備をしている名雪に声をかけた。
「相沢君にチョコレート、渡さないの?」
「家に帰ってから渡すよ。家でも一緒だから大きなチョコ作ったんだよ」
 手で大きさを表そうとする名雪に私は、ふーん、と生返事をすると相沢君が言った。
「おい。言っとくけど俺は甘いの苦手だから少ししか食べないぞ」
「うー、頑張って作ったんだから全部食べてよー」
 しょうがないな、と相沢君は不機嫌そうに言ったが、その顔は全然嫌そうじゃなくて。
そんな彼の反応を楽しむように、名雪はにこにこ笑って。
 瞬間、私の心に冷たいものが走った。昨日、幸せに満ち溢れてチョコレートを作ったで
あろう名雪を思うと、急に締め付けられるように苦しくなった。
自分とは大違いで、羨ましくて憎くて悔しくて。そんな感情を名雪に抱いた自分が嫌に
なって、私はこぶしを強く握った。爪がくい込む鋭い痛みがじわじわと掌に広がってゆく。
掌の汗がぬるぬるして気持ち悪いと感じたその時、私は気付いた。
「ん?どうしたの、香里。ぼうーとしちゃって」
「・・・え?あ、ううん。何でもないよ」
私は目を伏せて掌を見てみた。はっきりとついた爪の跡。じんとくる痛み。
そうか、私は恐れていたんだ。痛がることに、傷つくことに。愛情と友情の狭間で、親
友を演じられると信じていた。自分の妹の存在さえ無視していたんだから、それくらい大
丈夫と、自分自身に言い聞かせて。相沢君との会話を楽しみ、時折向けられる彼の目線を
堪能することで、私は傷つくことなく接していられると思っていた。
思っていたのに、今はこんなにも苦しい。
二人見つめあって笑う姿。私は知らない二人だけの秘密の会話。もっと些細なこと。二
人の席が隣り合っていることさえ、今の私には堪え切れなくなっている。
あの日。相沢君が映画に誘ってくれなかったら、こんなに苦しまずにすんだのに。
思わず、相沢君を責めたい気持ちに駆られた。
けれど、すぐさまその考えを消し去った。私はどこかで知っていたからだ。
私には彼を責めることなんかできない、と。
名雪がいる相沢君を好きになったのも、彼の手に触れたのも全て私の意思。私の欲望が
この恋を始めたのなら、私が決着をつけないといけないんだ。恋の終わりに。
私は立ち上がってコートを羽織った。
「香里、帰るの?」
「うん」
「じゃあ、一緒に帰ろうよ」
「ごめん、私、用事があるから一人で帰るね」
それから私は相沢君の方に向き直して言った。
「相沢君」
「なんだ?」
彼が私を見上げた。向き合う彼の瞳を逸らさずに私は言った。
「義理チョコの一つもあげられなくてごめんなさいね」
「うーん、残念だなー」
「来年はちゃんとあげるから。本当にごめんね」
それだけ言ってから私は教室を出た。手にした鞄は朝の時ほど重く感じられなかった。





校門を出て、薄雲に覆われて薄いブルーの空を見上げた。ただ何となくそうしているは
ずだったのに、いつの間にか涙が溢れ出していた。びっくりした。
あまりに突然だったので、急いで人気のいない方へと走った。その間、泣いた分だけ、
そして学校から離れていく分だけ、心の奥にある相沢君との想い出がだんだんと色褪せていくのを確かに感じていた。
どれだけ走ったのか、私は橋の上にいた。涙はとめどなく溢れてきたが、無理に我慢し
ようとはしなかった。幸い周りには人がいなかったが、例え居たとしても、私は泣き続け
たと思う。今の私には、そうすることしかできなかったから。そうしないといけない気が
したから。
やがて、川の静かなせせらぎが耳に入るほどに落ち着いた頃、私は鞄からチョコレートを
取り出して緩やかな流れの川に放り投げた。ぽちゃん、と音を立てたそれはゆっくりと流
れ始めた。ゆっくりと私から遠ざかっていく。涙はもう流さなかった。
完全に視界から消えるのを見届けてから、さて、と背筋を伸ばして呟いた。雲間から差
し込む陽があたたかかった。
その時、頬の涙の跡が凍ってしまうかと思うくらいの突風が吹いた。それは髪の毛を踊
らす程に強かったが、私は右手をポケットに入れなかった。むき出しの右手が冷えていく
ことなんか気にかけずに、私は歩き始めた。












10万ヒット記念にTAKさんから頂きました。
ありがとうございます。
…そういえば最近、香里を書いてないな。

HID
2001/2/27


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