『Velvet Snow』
 
 
枕元のスピーカーから音楽が流れ出す。
目覚ましの曲、私の好きだった曲。
すでに目覚めていた私は、すぐにステレオのスイッチを切る。
今の私にはこの曲も必要ない、煩わしいだけだ。
カーテンの隙間からは眩しい陽射しがこぼれている。
 
また、朝だ。
ベッドから出てしんと冷えた板張りの床に立つ。
ふと目を上げると鏡に映る女の子。沈んだ顔をしている。晴れた朝にふさわしくない。
”これは私?”
だんだん自分の心が現実から離れていく。
”こんな気持ちはいつからだろう?”
それは醒めて見る夢のような、夢の中にいるような。
「本当に夢ならいいのに。」そうつぶやく。
本当はわかっている。こんな気持ちがいつから始まったのか。
なぜ、そうなったのか。そしていつ終わるのか。
私はただ、カレンダーの日にちを一日ずつ消してゆくためだけに生きていた。
カウントダウンの先にあるかなしみを、少しでも軽くしようと、固く、心を閉ざして。
 
部活が終わる頃には、朝の陽射しが嘘のように重い雲が空を覆っていた。
『朝のうちは晴れていますが、お昼前から雲が出て、午後には雪になるでしょう。』
出がけに聞くともなしに聞いた天気予報があたったわけだ。
肩にかけたリュックには部活の道具、手には木の把手の大ぶりの傘。
こんなときでも、天気予報を聞いて傘を持ってきている自分に苦笑したくなる。
 
私達のクラスの下駄箱で立ちつくしている女の子がいる。
腰までとどく柔らかそうな長い髪、それによく似合う柔らかい雰囲気。
水瀬名雪だ。
私の親友。今の私を現実に繋ぎ止めてくれる唯一の人。
そのあたたかさで。
けれど、私は彼女が何かを抱えているのを知っている。
捨てきれない何か、どんなに悲しくても、寂しくても、捨ててはいけない何かを。
それでも柔らかく笑っていられる、そんな彼女の強さがうらやましくなる。
 
今日はいつもと違う感じがした。何かを考えこむように立ちつくしている。
声をかけるのもためらう程だ。
「ねえ、なに下駄箱で固まってるの?」思いきって話しかける。
「もしかして寝てた?」真剣な表情が返ってくるのがこわくて、冗談めかしてつけ足す。
「香里、部活だったの?」普段の表情に戻って名雪が言う。
私は、内心ほっとしながら言葉をつなぐ。
「うん、もう終わったけどね。陸上も終わりでしょ?」
「うん。」
「じゃあ、お茶でも飲んで行く?久し振りだし。」
べつにお茶なんて飲みたくなかった。
ただ名雪と一緒にいたいと思った。名雪と一緒の時は、私はまだ現実に繋がっていられる。
昔のように他愛のない話で笑ったりできる。
ちょっとの間、迷うように考えこんでいる。そういえば、この前の電話でいとこが来るって言ってたな。
「あ、そうか、今日は午後から用事があるって言ってたよね。」
名雪から拒否の言葉を聞くのがこわくて、先回りして言う。
「うん、そうだけど、まだ時間あるから大丈夫だよ。」やさしく笑って名雪が言う。ほっとする。
バカみたいだ。こんな些細なことで一喜一憂している。
なんて、心が弱くなっているんだろう。
「そう、じゃあ行こうか。」私はいつもの自分を装うために、すぐに歩き出す。
「うん。」名雪がうなずく。
昇降口の扉を開けて二人で並んで外に出る。冷たい風が二人の髪を揺らす。
 
 
ぶ厚い木でできた重い扉を開ける。暖かな空気が体を包む。
今日の空のような沈んだ雰囲気の店内。普段の賑わいが嘘のようだ。
窓際の席に無言のまま座る。二人とも店の雰囲気に溶けこんでしまっている。
名雪はやはり普段と違う。何か考えこんでいるように黙っている時間が多い。
「雪降りだしそうだね。」名雪が言う。
「そうね、でもめずらしくもないでしょう?」
「うん、でも今日は降ってほしくなかったんだ。」静かに言う。
こんな沈んだ様子の名雪は初めて見る。
「そう?」
なんと答えていいのかわからずに素っ気なく言ってしまう。
 
パイン材のテーブルには柔らかな湯気を立てたハーブティーがふたつ置かれている。
BGMに流れるピアノが耳につく。ゆっくりとしたメロディー。古いスタンダード。
なんていう曲だったかな?古いディズニー映画でかかってた気がする。
窓の外には低く、低く、雲が垂れこめている。手を伸ばせばとどきそうだ。
昔どこかで聴いた曲にあったな、”空が低い、天使が降りてきそうなほど”って。
あれはなんていう曲だっけ?誰かと一緒に聞いた気がする。想い出が取り留めもなく浮かぶ。
けれど、大事なことは何も思い出せない。その曲の名前さえも。
「天使が降りてきそうな空。」無意識に口をついて出る。
なんて恥ずかしいセリフだろう。普段なら口にできないようなフレーズだ。
でも、この沈んだ雰囲気にはふさわしいような気もする。
「なに、それ?」名雪がいつものようにゆっくりとした口調で言う。
「歌にあったんだ。”空がとても低い 天使が降りてきそうなほど”って。」
私は早口で言ってティーカップを手にする。
 
「雪は嫌なんだ。」名雪がつぶやく、さっきと同じような沈んだ声で。
「雪は嫌なの、今日だけは。」目を伏せる。子供のように頼りなげだ。
私は何も言葉をかけられない。ただうなずくだけだ。
”つめたい。”そう思う。なんて冷たいんだろう。
こんなときやさしい言葉も、気の利いたことも言えない。
”自分のことしか考えられないのね。”
私の中でそう言ったのは誰だったのだろう?
 
「私もね。」固く閉ざしたはずの心から言葉がこぼれる。
「私も白くて冷たい雪に囲まれているのが嫌になることがある。」
白い雪はある女の子を思い出させるから。そして、その冷たさは不吉な予感をよび起こすから。
その柔らかな手触りは、はかない微笑みを思い出させるから。
ふと、名雪を見ると困ったように私を見ている。
瞳には心配そうな色が浮かぶ。
”また名雪を困らせてしまった”
最初の頃、名雪はこんなとき「香里、何かあったの?悲しそうな顔してるよ。」と訊いてくれた。
でも、私は何も言えなかった。すべて話して泣いてしまえばよかったのに。
どう言えば気持ちが伝わるのかわからなかった。
うまく伝わらないことを考えるとこわかった。
だから私は「ううん、別に。」としか言えなかった。
名雪ならきっとわかってくれたと思う。
でもこわかった。それを口にすることで自分が崩れてしまいそうで。
 
私の言葉で名雪が傷ついているのがわかる。
だめだ。もっと強くならなきゃ。もっとしっかり心を閉じこめなきゃ。
誰も傷つけたくないから、もう傷つきたくないから。
 
「いとこの男の子が来るって言ってたよね。」
私はその場の空気を変えたくて訊いてみる。
「うん。」
「同い年?」「そうだよ。」
「一緒に住むんだよね?」「うん。」
それが心配なのかな?
「大丈夫なの?」
「何が?」本当にわからないという顔で聞き返される。
名雪のこういうところは、普通とずれている。
「いや、気にしてないならいいんだけど。」
わざわざ説明するのもバカみたいだしね、と思う。
 
多分、名雪はそのいとこのことを良く知っているんだろう。
だから、心配なのはいとこと一緒に住むことじゃないんだ。
じゃあ何を考えこんでいるんだろう?
「どんな子なの?」名雪みたいな性格なのかな?名雪とお母さんもよく似ているから。
だとしたら、見てみたい気もする。名雪の男の子版。想像がつかないけど。
「うん、変な性格だよ、でも、やさしい、やさしくて強かった。」
意外な言葉に思わず名雪の顔を見つめてしまう。
「強かった」ってどういう意味なんだろう?何で過去形なんだろう?
子供の頃に何かあったのかな?それで今日の名雪は変なのかな?
私の視線に気づいて名雪が言う。
「きっと香里とも仲良くなれると思うよ。」
見当はずれな言葉。でも、嬉しそうな表情だ。
もし、他の人に言われたら、”私のことわかってるつもりにならないで”
と思うセリフも名雪に言われると素直にうなずいてしまう。
「そう?」「うん。」
無邪気な笑顔。
 
重い扉を開けて外に出る。
いつの間にか雪が降り出している。
待ち合わせ場所に向かう名雪と店の前で別れる。
「気をつけてね。」
「香里も気をつけて帰ってね。」中途半端な笑顔で言って、名雪は歩き出す。
私はその背中に何か言葉をかけたいと思った。
でも、うまい言葉は浮かばなかった。
ただ、降り続く雪の中を傘もささずに歩いてゆく名雪を見送っただけだった。
 
 
 
名雪の背中が雪の中に見えなくなるのを待って、私は歩き出す。
肩や髪の毛に積もった雪を払い、傘をさして。
さっきからずっと考えていた。
私は名雪に何を言いたかったんだろう?何を言えば良かったのだろう?
いつもそうだ、言葉を探しているうちにそれを伝える機会は失われている。
いつも本当に伝えたいことを言葉にできない。
 
傘越しに見る、フワフワと降る雪が、まるで真っ白な羽根が落ちてくるように見えて、
私は傘をはずして、空を見上げる。
白いもので埋め尽くされた空。
でも、降りて来るものは羽根ではなくて、私の肌に触れては消えてゆく雪だった。
あたり前だ。いくら雲が低くても、天使が降りて来るわけはないのだから。
 
私はふと思い立って、来た道を引き返す。
そして、商店街の奥まったところにある、CDショップに入る。
曲名もわからないあの歌、さっき名雪と話したあの歌をなぜか探す気になって。
 
CDショップの扉を開ける。狭い店だ、客が7、8人も入れば一杯だろう。
隠れ家のような店の場所と、個性的な品揃えのせいだろうか、今日も客の姿は見えなかった。
レジの向こうに店番の女の人が座っている。
ダンガリーのシャツの下に黒のタートル、色の落ちたジーンズに太いベルト。
肩のあたりで切りそろえた髪、化粧気のない、小柄な、でも瞳の光の強い人だ。
私はその人にさっきの歌のことを聞いてみる気になった。
もし、他の人が店番をしていたら、そのまま帰ったかもしれない。
でも、その人なら何かを教えてくれるような、そんな気がした。
 
「すいません」
「はい?」
「あの、CD探してるんですけど」
「うん、ここCD屋だしね」そう言って、にっこりと笑う。
他の人が言うと嫌味に聞こえるセリフなのに、その人の口から聞くと、なぜか私の心を落ち着かせる。
「で、誰のCD?」
「えーっと」
名雪だけじゃない、今日の私は少し変だ。
自分らしくない。普段ならこんな行き当たりばったりなことはしないのに。
きちんと調べて、よく考えて、要領よく、それが私のやり方のはずなのに。
 
「あの、曲名とかわかんないんですけど...。」
「...”空がとても低い 天使が降りてきそうな程”っていう歌詞があって...」
彼女は黙って、私をまっすぐに見ている。
その黒い瞳が、引き込まれそうなくらいの強い光を湛えている。
なぜか、その瞳は私を落ち着かせる。
 
不意に、にっこりと笑う。
「ああ、わかった、ちょっと待ってね」
彼女は陳列棚のほうに消える。
「これで間違いないと思うけど、聴いてみる?」
すぐに戻ってきて彼女が言う。
そして、答えを待たずにCDをケースから取り出し、デッキにセットする。
ほんの少しの沈黙。
そして、ピアノのメロディーが流れ出す。静かで、少し寂しげな。
そのメロディーが私の記憶のキーを叩く。
よみがえってくるあたたかな記憶。どこかで隠れていて、
でも、私に思い出してもらう日をずっと待ち続けていた記憶。
「この曲でしょ?」間奏に入ったところで彼女が訊く。
私はうなずくことしかできない。
口を開くと涙がこぼれてしまいそうで。
ふたりでその曲を終わりまで聴く。
彼女はその間、何も言わなかった。
 
「よくこんな古い歌知ってたね」
彼女がCDをケースに戻しながら言う。
「わたしもこの歌好きだったんだ、久しぶりに聴けてうれしかったよ」
そう言って笑う、こころにしみるような笑顔。
 
CDショップを出てから、ずっと、わたしは涙を流し続けていた。
人通りがほとんど無かったから人目を気にする必要はなかった。
降り続ける雪、傘をさして、その傘で顔を隠すようにして、人気の無い商店街を歩いてゆく。
涙を流しながら。
小さな偶然、どんな日常にも転がってるような、それぞれはとりとめのない断片にすぎない。
今日の空が記憶を目覚めさせ、羽根の幻がCDショップへ私を導き、強い瞳の女の人が答えを示してくれた。
小さな偶然、でもそれが繋がったときに、大きな力を持つことがある。
 
今でははっきりと思いだした記憶。
それは幼い頃、小さな妹と一緒に聴いた曲。
今日と同じように、羽根のような雪が降る日に、暖かい部屋の中で。
『お姉ちゃん、”てんし”ってなに?』
『天使っていうのはね、背中に羽があって、お空からわたしたちを見てるの』
『そして、いい子でいると、わたしたちのところにやって来て、お願いをかなえてくれるの』
かがやく瞳で私の言葉に聞き入っている小さな妹。
部屋の暖房のせいだろうか、微熱のせいだろうか、頬が少し赤い。
妹は、あまり体が強くなかった。学校も休みがちだった。
だから、冬は特に、家で一人でいることが多かった。
私はできるだけ自分も家にいるようにした。
妹とふたりでいることは、楽しかったから。
そして、何より、私の話を聞くときの、小さな妹のかがやく瞳が大好きだったから。
『ふーん、すごいねえ、うちにも来てくれるかなあ?』
『そうね、栞がいい子にしていればね』
にこにことして私を見ている妹。
『栞は何かお願いがあるの?』
不鮮明な記憶、妹はその時なんと答えたのだろう?
それが思い出せなくて、ただ、幸せそうに柔らかく微笑む幼い妹の顔が浮かぶばかりで。
 
『あなたは次の誕生日まで生きられないのよ』
私が妹に告げた言葉。
けれど、それは他の誰かが口にした不吉な予言のように、私にも重くのしかかる。
私だってそれを望んではいないのに、でも他に方法も知らなくて、
妹を失うことの悲しみから、少しでも遠くに逃げるために、
あらかじめ妹を自分の中から消そうと努力している。
まだ、妹は、栞はそこにいるのに、あたたかな手と、かがやく瞳はまだ失われていないのに。
そんな弱い自分が嫌で。
それでも、私を子供の頃と同じ瞳で見つめる妹が、せつなくて、悲しくて。
私は涙を流し続ける。
 
”ほら、栞、この曲憶えてる?”
あたたかな部屋、窓の外には低く重い雲、羽根のように降る雪、暖房の音。
”うん、憶えてるよ”
”天使が降りてきたら、栞は何をお願いする?”
”わたしはねー....”
”ううん、お姉ちゃんが、先でいいよ、お姉ちゃんは何をお願いする?”
 
私の願い?
私の願いは、悲しみから永遠に逃れること?
ううん、私の本当の願いは、この幻想が現実になること。
妹ともう一度この曲を聴くこと。
ふたりで、あたたかい部屋の中で。
ただ微笑みあいながら。
 
 

 
 
 
【初出】1999/6/14〜18 key SS掲示板
【One Word】
>Forestageを読んでいただいた方はおわかりと思いますが、本SSは”同じ日の香里”
>を書いたものです。
>最初は、同じ日を別視点で描くというアイディアだけではじめたのですが、どのように
>終わらせるのかで悩むことになってしまいました。
>やはり、形からものを書いてはいけないですね。
>結果として、香里をつらい場所に放り出したままになってしまい、悔いが残ります。
>この埋め合わせは何らかの形でしたいと思いますので、これを読んでくださった香里ファンの
>みなさん、少々時間をください。
>そして、何より美坂香里さんに謝りたいと思います。
>『すいません、この埋め合わせは必ずしますので』
>『そんな日があなたに来るといいわね…』
>『そ、それはどういう意味で…』
>『別に、言葉通りよ』
>早くその日が来るといいんですが。
上は、掲示板に書いたあとがきです。その日は来ました。良かったです。
SS中の曲は実在の曲です、掲示板に載せたときは、あえて歌詞を変えてましたが、
今回は、正しく直してあります。
何の曲かわかった方、掲示板に書き込んでください。
わたしの惜しみない愛(不気味)を差し上げます。
 
こうして見てみると、すべての美坂姉妹関係のSSは『Starting over』に
集約するわけですね。
(1999/7/15)

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