「ねえ、どうしていつも下を向いて歩くの?」「だって、わたし、すぐ転んじゃうから」ちょっとだけ寂しそうに笑って、彼女は私の問いにそう答えた。そして、また歩き出す。私より少し低い背丈。白いリボンのついた、小さな麦わら帽子。頭の後ろでふたつにまとめた髪の毛。その間からのぞく白い首筋。高いところから音が聞こえた。見上げると、青い夏の空に小さく見える飛行機の姿。二筋の長い飛行機雲を引いて、飛んでゆく姿をじっと見つめる。前を歩く彼女に目を戻す。彼女は思ったよりもずっと先を歩いている。青い空に気づく風もなく。白い飛行機雲に目をとめることもなく。彼女が歩くたびに、ピンク色のゴムで結ばれた髪の毛が揺れる。私は、手を伸ばす。いつも、私は手を伸ばす。制約理論 −Theory of Constraints −「お姉ちゃん、いい加減起きなさい、ってお母さんが言ってるよ」夏の朝。部屋の中はすでに白い光で一杯になっていた。私は妹の声で起こされるまで、ぐっすりと眠っていて、彼女がドアを開けたのにすら気がつかなかった。「ん…。あれ、母さん休みなの?」目元をこすりながら、声の方向に問いかける。「休みだよ」ようやく開かれた世界は私には眩しすぎて、ドアのところで私を呼ぶ妹の姿をはっきりと捕らえることができなかった。「とにかく、起こしたからね。じゃあ」どこか急いでるような様子で、彼女が部屋から出ようとする。「栞は学校?」呆れたように振り返って、彼女が答える。「とっくに夏休み。お姉ちゃん、大学生になって、惚けたんじゃない」そう言って、ドアを開け放したままで彼女は私の部屋を出ていった。白いTシャツの背中に、少し伸びた髪の毛が軽やかに揺れていた。「香里、さっさと朝ご飯食べちゃってね」ダイニングに入ってきた私の姿を見て、母が言う。そして、こう続けた。「あなた、大学に入って気が抜けてるんじゃない?」「さっき、栞にも言われたわ」自分ではそんなつもりもないんだけどな、そう思いながら答える。母は何も言わずに私の顔を見ていた。私は、口に持っていきかけたお椀を持つ手を止めて、母の顔を見る。そこには、やわらかい笑顔が浮かんでいた。「どうかしたの?」「ううん、何でもないわ」私の問いに母が首を振って答える。そして、食べ終わったら片づけしといてね、と言い残してダイニングを出て行く。「あ、母さん」その背中にわたしは呼びかける。「何?」「栞、どっか行くって言ってた?」「ええ、絵が何とかって言ってたわよ」大学は7月の半ばを過ぎると早々に夏休みに入ってしまい、特にクラブ活動やサークル活動をしていない私にはやるべきことがなくなってしまった。友だちと遊んだり、買い物に行ったり、興味のある科目のテキストを開いてみることがあっても、それで消化できないくらいの時間が私には与えられていた。考えてみれば、こんな経験は初めてだった。今までは、いつも何かに追われていた。家のこと、学校のこと、そして、妹のこと。どこかで、何かが私の行動に制限を加えていた。私は、ある意味、その制限に沿って自分の行動を決定していたのかもしれない。ちょっとぬるくなってしまった麦茶を口に運ぶ。香ばしい味が口に広がる。それは、子供の頃の夏を呼び覚ますような味だった。「夏休みだっていうのに、昼間っからしみじみ麦茶を飲む以外にすることはないの?」突然の声に振り返ると、母が大きな麦わら帽子を手にして立っていた。「これでも、大事なこと考えてたんだけど」私は不満げな声で応える。私の言葉にちょっと笑って、手に持った帽子を示して彼女が言う。「香里、ちょっとこれ持ってってあげて」「誰に?」「栞に決まってるでしょ。玄関に置き忘れてあったのよ」「暑いから嫌」「あら、じゃあ香里は栞が日射病になってもいいのね」母が笑って、さらりと言う。その笑顔には暗い影がなくて、私はうれしくなる。「母さんが持っていけばいいのに」「嫌よ。暑いもの」にっこりと笑って彼女が答える。その笑顔は、いつもどこかで目にしている誰かの笑顔に良く似ていた。今がどの季節かを強烈に主張するような太陽が、街を照らしていた。午前中とは思えない、濃い空気。私は手にした帽子を日傘のようにかざしながら、人通りの少ない道を歩く。『で、私はこれをどこに持っていけばいいの?』当然の私の問いに、母はまったく悪びれる様子もなく答えた。『そんなの、知らないわ。妹の行くところだもの、見当くらいつくでしょ?』私は彼女の強引さに苦笑を浮かべる。ちょうど通りかかった赤ちゃんを抱いた若い母親が、怪訝な顔で通り過ぎる。私は慌てて表情を引き締める。それにしても…。それにしても、これでは、栞より自分の日射病の心配をした方がいいかもしれない。そんなことを思いながら、心当たりの場所へと向かう。栞は、公園にいた。適当に歩いてるうちに着いてしまった公園。ここに向かったのは、公園の真ん中にある池が涼しげだったな、くらいの理由でしかなかった。私は遠くからその後ろ姿を見つけて、母の言ったこともあながち適当なことではなかったのかな、と思った。そう思ってしまったあとで、頭を軽く振って、その気持ちを振り払う。何だか、彼女の思惑にはまってしまっているようで口惜しかったから。栞は木陰に座り一心にキャンバスに向かっていた。彼女の向かう方向には、それ程大きくない池が広がっていて、いくつかの手こぎのボートが浮かんでいるのが見えた。池の中央にある噴水が、時折思い出したように水を噴き上げる。池を渡ってくる微かな風は、少しだけ他の風よりも冷たいような気がする。栞の、両側でまとめた髪の毛の間から、良く日に焼けた首筋が見えた。子供のような髪型をしていても、その首筋が女性らしさを主張しているのに気づいて、私は彼女に近づくことを少し躊躇してしまう。手の中の麦わら帽子はもう彼女に相応しくないような気がして。遠いところから微かな音が届く。私は音を追って、空を見上げる。濃い青空に、くっきりとした一筋の飛行機雲。私は栞を見つめる。私にも、そして、高い空を飛ぶ飛行機にも気がつく様子もなく、絵筆を動かしている栞。私はゆっくりと、彼女に近づく。気づかれないように、足音を忍ばせて。邪魔な麦わら帽子を、ちょっとだけ考えて、自分の頭にかぶせる。池からの風に揺れる栞の結んだ髪の毛。それをゆっくりと掴んで引っ張ったら、彼女はひどく驚くだろうか。驚いたあとで、きっと怒るだろう。でも、もしかしたら、彼女は気づいてくれるかもしれない。青く、高い空に、流れるようにつづく一筋の雲に。きっと、栞は気づいてくれる。だって、もう私たちは、足許ばかり気にして歩く必要なんてないんだから。END
読んでくださってありがとうございます。暑中お見舞い代わりということで。2000/08/06 HID