風を待つ日
Waiting for your wind
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ギアをひとつ落とす。その動作に的確に反応して、回転計の針が跳ね上がる。
 両脚の間の4ストローク・ツインが力強い鼓動とともに、太いトルクを絞り出す。
 センターラインを手繰り寄せるようにして、きつい坂を登ってゆく。大きく回り込んだカーブの連続。
 ひとつのコーナーを抜けるたびに、太陽の領域と影の領域が交互に現れる。
 
 日陰を走り抜けるときには、日陰の匂いがした。
 日向を走り抜けるときには、きちんと日向の匂いがした。
 
 風はいろんな匂いを運んできた。
 花の匂い、草の匂い、木の匂い、水の匂い、太陽の匂い。
 たくさんの匂いが、俺たちの間をすり抜けていった。
 
 ひとつひとつのコーナーを丁寧にこなす。コーナーの手前でのブレーキング。カーブの内側に体重を移す。
 車体が傾く。目の前に広がる風景も同じだけ傾く。外側の足に力を込める。
 この傾いた風景を、ほんの瞬間、この世界にとどめるために。
 コーナーの出口をしっかりと見据えて、たったひとつのタイミングを逃さずに、 今度は逆側に体重を移す。
 世界は元の姿を取り戻す。しかし、それも一瞬で、すぐに次のコーナが迫る。
 光と影の領域を繋いでゆく。リズム、タイミング、大切なのはそのふたつだけ。
 俺にほんの少しだけ遅れて、俺の腰に手をまわす人も俺の動きに倣う。
 やがて、そのずれも収まり、心地の良い一体感が生まれてゆく。
 バイクとの、そして、タンデムシートの大切な人との、終わりのないダンスを踊っているような、 頭の中が真っ白になるような、そんな一体感。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――
 
 
 
 
 
 
「薫、今、時間ある?」
 昼食を終えて、食堂から出ていこうとする薫を呼び止める。
「はい、大丈夫ですが」
 やわらかい口調で答えてくれる。
「ん、なら、ちょっと買い物つき合ってくれるか?」
 俺はエプロンを外しながら言う。
 薫は無言で頷いた。
 
 
 四月の下旬の日曜日。
 やわらかな陽射し、街全体がうたた寝しているような、春の午後。
「何を買いに行くんですか?」
 春の空気に満たされたバスの中、車窓から射し込む陽光の中で、薫が言った。
「まあ、行ってからのお楽しみってことで」
 そうですか、とつぶやいて、それ以上問いかけることもなく、窓の外に視線を移す。
 黄色いリボンでまとめた長い髪が、俺の目の前にある。
 すこし甘い匂い。もう憶えてしまった、けれど、いつでも新鮮に思える香り。
 俺の視線に気づいて、振り向いて、ふっと表情を緩める。
「よか天気ですね」
 口元に浮かぶ微かな笑み。やわらかい雰囲気。初めて会ってから一年と少し。
 俺たちがやっとたどり着いた、やさしい時間。
 
 
「ここは?」
 薫が俺の考えを測りかねてるような表情で言う。
「バイク・ショップだよ」
「いや、それは見ればわかりますが…」
「好きなヘルメット選びなよ」
 俺は、いろいろな形、いろんな色のヘルメットが並ぶ棚を示す。
「はい?」訝しげな表情が深まる。
「ノーヘルはダメなんだろ?」
「はあ」
「で、薫はヘルメット持ってないだろ?」
「はい」
「それだと、連休にツーリング行けないだろ?」
「え?」大きな瞳を、もっと大きく見開いて、俺の言葉を頭の中で反芻しているような間。
「いや、忙しいならあきらめるけど」俺はからかうように言う。
「いえ、全然、忙しくなかですよ。部活もないですし、仕事の予定も無いです。全然、暇ですよ」
 大きな声で、大急ぎで薫が言う。
 店の中にいた客が何人か、その勢いに驚いて、俺たちの方を見ている。
 それが恥ずかしいからだろうか、頬を少しだけ朱に染める様子がかわいい。
 
 薫が瞳を輝かせて、いろんなヘルメットを手に取る姿を眺める。
 別にヘルメットが大好きという訳ではないだろう。今、薫の瞳を輝かせているのは、俺との約束。
 二人で出かけようという、俺と薫の間の約束。
 
「耕介さん、耕介さん」ヘルメットを手にして、少し心配そうな様子で話しかけてくる。
「ん?」
「ヘルメットって、高かですね」小声でささやく。
「うち、あまり手持ちが…」
「あ、心配しなくていいよ、ほら」
 俺はポケットから取り出した、浅葱色の封筒を示す。
 封筒には綺麗な字で「お兄ちゃんと薫さんへ」と書かれている。
「それは?」
「うん、みんなからのお祝い」
 
 
「お兄ちゃん、なんか欲しいものとかあるかな?」
 リビングで、相変らずの酒盛りを相変らずの面子でやっている時に、知佳から訊かれた。
 管理人一周年のお祝いに、寮のみんなで何か記念になるような物をくれるという話。
 うーん、とたっぷり五分間くらい悩んでいた俺の頭を思い切りはたいて、真雪さんが言った。
「何も自分のもんじゃなくてもいいだろ」
 疑問符を浮かべて固まる俺に、追い討ちをかけるように、
「ばっか、神咲用のヘルメットでも買ってやりゃあいいだろ」そう言った。
 おおっ、と言ってぽんと手を叩いた俺をもう一度はたいて、
「ったく、気が利かない男だね」そう言って、にやりと笑った。
「これで、いつでも薫さんを後ろに乗せられるね」知佳がにっこりと笑った。
 愛さんは、にこにこと俺たちのやりとりを見ていた。
 
 
「いえ、自分のもんだし、それに、うちも耕介さんの一周年をお祝いしたかですから」
 全額をみんなからのお祝いで払おうとした俺を押し止めて、薫が言う。
「そっか、じゃあ三分の一は薫が払って、お祝いの残りはツーリング資金にするか」
 こうなるとけして引かない薫を知ってる俺はあっさりと折れて、そう言う。
「はいっ」うれしそうに薫が答える。
 
 
 帰りのバスの一番後ろの座席。薫は仔犬でも抱えるように、大事そうに、ヘルメットの
箱を膝の上にのせている。
 春の陽は角度を増して、車内を茜と影の領域に分かっている。
 僅かに残る車内の茜の中で、薫がふふっと笑う。
「こげん小さいことでも、すごくうれしいもんですね」慈しむように、箱を触る。
 すっと顔を上げて俺を見る。
「すごく楽しみです」
「ツーリング」
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 峠の頂点をすこし降りた場所にあるドライブ・イン。
 対向車線を横切り、緩やかなカーヴを描いて、その駐車場に入る。
 ステップから足を外したままで、二速でゆっくりと駐車場の奥まで進む。
 サイドスタンドを蹴り出して、車重をその華奢なスタンドにあずける。
 薫がシートから降りるのを待って、自分もバイクを降りる。少し足元がふらつく気がする。
 地面からほんの少しだけ足が浮いてるような感覚。心地の良い浮遊感。
 ゆっくりと、フルフェイスのヘルメットを取る。微かな耳鳴り。
 体の芯に、4ストローク・ツインの、どこか不規則な鼓動が残っているような感じがする。
 
 薫がフルフェイスのヘルメットを取る。白地にブルーからミッドナイトブルーへと変わるグラデュエーションのライン。
 式服の色合いにも似た、清楚なカラーリング。薫の凛とした雰囲気に良く似合っている。
 ふうっと大きく息をついて、髪の毛を直すように、頭をゆっくりと左右に振る。リボンをしていない長い髪が揺れる。
 その様子が、薫をいつもより、やわらかく、女性らしく見せていた。
 俺の視線に気づいて笑みをこぼす。
「疲れただろ?ロング・ツーリングは初めてだから」
「いえ」頭を横に振って否定する。ふっと、薫の匂いが広がる。
「でも、不思議な感じです。なんかフワフワして」そう言って、笑う。
「うち、何か飲物でも買ってきます」
「うん」
 ドライブ・インの建物の方に歩いてゆく薫の背中を見送りながら、 ゆっくりと地面に座りこむ。
 体を倒してアスファルトに仰向けになる。
 春の陽射しを吸い込んだ駐車場のアスファルトが、Gジャンを着た背中越しにじわりとした温かさをくれる。
 エンジンがキンッという乾いた音を立てる。それは、絶え間ない上下運動から解放された
ピストンの熱が冷めてゆく音。膨張していた金属が元に戻ろうとする音。
 
 見上げると、空は嘘のように青い。日々とともに、深みを増しつつある青。
 冬のどこまでも透き通るような、悲しくさえあるような青とは、明確に異なる春の空。
 すこし靄がかかったような、どこか曖昧な、けれども、見ているだけですべての始まり
を予感させる、不思議な空。
 そして、時折、吹き抜ける風。日向の匂いを運ぶ風。
 俺はそっと眼を閉じる。
 意味の無い幾何学模様が眼前の闇に浮かぶ。微かな耳鳴りが続いている。
 まだ頭の中が不安定だ。
 地面に横たわっているのに、緩やかな波に揺られているような感じ。
 
「耕介さん」俺を呼ぶ声。
 ゆっくりと瞼を開く。両手に一本ずつ缶を持って、薫が笑っている。
「疲れたんじゃなかですか?」
 アスファルトに寝転んだままの俺の隣に、薫が座る。
 風が吹いて、薫の髪が揺れる。今度の風は薫の髪の香りを運んでくれる。
 はい、と缶を一本手渡してくれる。
「サンキュッ」と言って受け取って、缶をそのまま額にあてる。
 その冷たさが心地いい。
 薫を見上げる。こくこく、と喉を鳴らして缶を傾けている。
 俺の視線に気づいて、缶を口から離す。
「耕介さん」
 俺は視線で応える。薫は俺の視線を確認して、駐車場の向こう側に広がる山々に目を移して、口を開く。
「この前、十六夜に言われました、『薫は、最近変わりましたね、なにか、やわらかい、ふわりとした雰囲気がしますよ』って」
「あれに『ふわりとした雰囲気』とか言われるのは、納得いかん気もするんですが」
「でも、何かうれしかったです」
 俺は薫の言葉に短く笑ってこたえる。
 薫の目にはやさしい光が宿っている。薫が十六夜さんをぞんざいに「あれ」と呼ぶとき、
その瞳には、言葉とは裏腹な慈しみの光が必ず浮かぶ。
 十六夜さんの瞳に光があったなら、彼女が薫のことを話すとき、きっとその瞳は、今の薫と同じような表情を見せてくれるのだろうな、と俺は思う。
 
 自分を見つめている俺の視線に気づいて、薫が寝転がったままの俺を見る。
 そして、口元を綻ばす。
「うまく言えんのですが・・・・・・」
「最近は、自分でも不思議なくらい、気持ちが落ち着いてます」
 右手を缶から離して、その手で俺の頬に触れる。冷たい手、つるりとした感触。
「…不思議です。いろんなものの声が聴こえるんです」
「風のささやき、木々のさざめき、海のざわめき、そんなものたちのうたうような声が」
「…不思議です。自分がそんなうたを聴くことができることが」
 俺は頬に触れる薫の手に自分の手を添える。
 また、風が吹く。まるで、薫の言葉に応えるかのような短い風。
 
「ねえ、耕介さん」
「ん?」
「うちは自分のことが嫌いだったのかもしれません。自分の力も、それを持つ“うち”という存在そのものも」
「薫」俺はやさしくその名を呼ぶ。
 俺の言葉に応えて、薫が微笑む。
「でも、気づいたんです。いえ、耕介さんが気づかせてくれた」
「力を使うのはうちだ、っていうことに」
 俺はゆっくりと薫の手を掴む。引き寄せる。薫の顔が俺の顔に近づく。
 薫の長い髪がふたりに降りかかる。その匂いに包まれながら、口づけを交わす。
 
「なあ、薫」
 ゆっくりと離れていこうとする薫の動きを止めるように俺は言う。
「俺は全部、好きだぞ」
「今の薫も、昔の薫も、泣いてる薫も、笑ってる薫も」
「うれしかです」ポツリとつぶやく。
「だから、」
「耕介さんがそう言ってくれるから、うちは、いろんなことに気づけたんだと思います」
「木々のささやきや、風のうたに」
 俺はそっと手を伸ばして、薫の頬に触れる。
 温かい頬の手触りが、俺の深いところに訴えかけてくる。
「どんなうただ?」薫の漆黒の瞳に映る自分に問いかける。
「え?」
「風のうたは、どんなうただ?」
「やさしげなうたですよ」薫が微笑む。
 やさしく、やさしく、薫が微笑む。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 バイクっていうのは、ひどく孤独で不完全な乗り物だと思う。
 たとえ、二人で乗っていても、体を密着させて乗っていても、話ひとつできるわけでもない。
 しかも、冷たい風が吹けば、それは文字通り体を貫き通すし、雨が降れば、それは体の芯まで浸み入る。
 それでも、バイクに乗り続けるのは何故なのかな、と俺は考えることがある。
 
 二つ目の峠を登る道。さっきよりも小さいコーナーの連続。
 今は、日陰の側に入っている道。春とはいえ、この標高で陽が当たらない場所では、 空気は、しんと冷えている。
 コーナーを抜けて、斜度のきつい真っ直ぐな坂を登る。
 坂の頂点へ向かって、アクセルを開く。バイクはそれに応えて、軽々と加速してゆく。
 坂の頂点を越える。さっと、目の前が開ける。
 コツン、とヘルメットを軽く叩く音。振り返ると、薫がずっと先を指さしている。
 ずっと先、その指し示す先には白く霞む海。
 俺は頷いて、ヘルメットの中で微笑む。薫も頷き返しながら笑ってくれる。
 たとえ見えなくても、薫の表情がはっきりとわかる。
 
 そして、ワインディングは下りのエリアにさしかかる。陽光に包まれたエリア。
 体に感じる温度がはっきりと変化する。日陰の冷たい空気に、強張りかけた体を解きほぐすような、温かい風。
 バイクの動きは、朝、走り始めたときよりも確実にスムーズになっている。
 それは、つまり、俺と薫の呼吸が合ってきているということ。
 緩やかで、大きなカーブ。薫がぎゅっと俺の腰に回した手に力を込める。
 薫の体を、背中に感じる。重み、温もり、鼓動。背中のすべてで薫を受け止める。
 幸せな気持ちが背中から伝わる。それは、俺の中をゆっくりと満たしてゆく。
 ゆっくりと満ちて、俺を包んでゆく。
 それは、言葉では伝わらないもの。
 言葉だけでは伝わらない、とても大切なもの。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 髪を揺らす、湿り気を帯びた風。
 潮の香り、波のざわめき。
 人の姿のない夕方の海。
 
「ねえ、耕介さん」
 夕暮れの中、俺の肩に頭を預けて、薫が言う。
「耕介さんのうたも聴こえるんですよ」
「ずっと前から、初めて会ったときからずっと、うちには聴こえてました」
「最初はそれが何かわからなかったけど」
「でも、確かに聴こえてました」
「どんな、うただ?」
「言葉にするのは難しかです」
「きっと、何度も何度も聴かないと言葉にできません」
「ずっと長い間、聴かないとダメだと思います」
 聴かせてくれますか?と薫が問いかける。
 俺は応える代わりに薫の肩に手を回す。そっと、薫を抱き寄せる。
 薫が安心したように、俺の胸に顔を埋める。
 
 
「なあ、薫」
 俺はそのままの姿勢で囁きかける。
 
 
――――俺にも聴かせてくれよな、薫のうたを。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 








   風を待つ日
Waiting for your wind
END

 
【初出】1999/12/12 天國茶房 創作書房
【One Word】
久しぶりの薫SSです。なんだか、電波系の人みたいですね、薫が(汗)
やっと、穏やかな気持ちを持つことができるようになった二人。
それを書いてみたかったんですけどね。
HID 1999/12/12
 

コメントをつける  創作掲示板  ツリー掲示板
 
創作書房 TOPに戻る