こぼれた思い、受け止めて
“Time after Time”
 

 
 
 
 
 
 
「じゃ、先に帰るよ」
 少しむせるようなオイルの匂い。真剣な表情でキャンバスに向かっている後輩に声をかける。
 やや間があって、「あ、部長、お疲れ様です」
 さまざまな色で汚れた白衣を、制服の上に着た後輩の女の子が、たった今夢から醒めたかのような、覚束ない調子であいさつをくれる。
 
 コートを着る私をペインティングナイフを持った手を止めて、じっと見つめている。
 まるで自分で切り揃えたかのような、ふぞろいで中途半端な長さの髪の毛。けれど、不思議とその雰囲気が彼女には似合っている。
 はっきりとした眉の下の瞳が、徐々に現実の光を取り戻してゆく。
 
「どうかした?」私はコートのボタンに手をかけながら、何か言いたげな彼女をうながす。
 放課後の時間のほとんどを、このオイルと絵の具の匂いに満ちた部屋で過ごすようになって、もう一年半以上。
 『待ち人未だ来らずね』何度も頭の中で繰り返した言葉。
 そして、気がつけば、私一人だけが違う場所に立っている。
 人数が多くない部だから、部長を押し付けられるのは仕方ないことなのかもしれない。
 けれど....。
 『けして、望んだわけではないのにね』
 悪いクセだ、また心の中で誰かに話しかけている。
 
「部長はアブラ、書かないんですね」
「えっ」
 自分で問いかけたのを忘れるくらいの間があいた後で、彼女が言う。
「私、入学してから、美坂先輩がアブラ描いてるの見たことないです」
 私の反応に何かしらの刺を感じたのだろうか、小さな声で彼女が言い直す。
「そうね、もともとそんなに好きでもないのよ、絵、描くの」
「得意でもないしね」そう言って、彼女に微笑みかける。
 
 真剣な顔のままで、彼女が私を見つめている。その瞳の色は何を表してるのだろうか?
 
「じゃあ、どうして、この部に入ったんですか?」
「何となく、かな」
 早すぎる間で私は答えを返す。彼女は、私の口元をじっと見つめている。そこに、私の本当の気持ちが書いてある、とでもいうかのように。
 
「じゃ、お先に」彼女の視線から逃れるように私は扉を開く。
「お疲れです」彼女の言葉を背中で聞いた。
 
 
 
 
 
 
――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 冬の陽は、暮れるのが早い。
 まだ、それ程遅くない時間なのに、廊下はすっかり薄暮に沈んでいる。
 サキソフォンの音が聞こえる、ひどく遠くから誰かを呼ぶかのように。グラウンドからは、太陽の一筋の光さえ逃すまいとするかのような、さまざまな掛け声。
 やがて、その声もむなしく消えて、夜は必ずやってくるだろう。
 ぼんやりと廊下を歩く。目の前に浮かぶ微かな塵さえも、冬の清冽な空気の中で紅に染まっている。
『こんな絵を描けるのなら....』
『....私も、もう少し絵を好きになれるのかもしれないな』そんな思いが浮かぶ。
 でも、私にはわかっている。私がしたいことは、瞬間を定着させることではない。
私が手に入れたいのは、終わらない物語。いくども繰り返すはてのないストーリ。
 
 何かが、突然頭の中のキーを叩く。私は、昇降口の扉から手を離して、階段へ引き返す。
 一階よりもさらに静かな二階の廊下を歩いて、自分の教室に向かう。がらりと、教室の扉を開ける。
『また、鍵、閉め忘れね』それに救われた自分のことは棚にあげて、今日の日直を心の中で責める。
 
 窓際の席にぼんやりと人影のようなものが見える。こっちを振り返っているような気がする。
 
「香里」影が聞き慣れた声を発する。
 
「名雪?」私は影に歩み寄りながら話しかける。
「うん、どうしたの?香里」
 手で目元を拭うような仕草。
「忘れ物、取りにきた」
「そう、そっか」必要以上に大きく頷いているような気がする。
「で、名雪はどうしたの?部活は?」
 見ると、名雪は制服のままで、机の上には鞄が載せられている。
「わたしは、自主休部だよ」空っぽな笑顔を私に向ける。
 
 
 他人とは距離を取りたい、いつもそう思っていた。
 たぶん、それは私に余裕がないから。これ以上、誰かのことを考えることなんて、できやしないから。
 でも、この人だけは違っていた。私の不完全な心にするりと入ってきて、そして、ばらばらになりそうな欠片を繋ぎとめてくれる。
 そんな人がいるなんて、考えもしなかった、この人に会うまでは。
 そんな大事な友達が、滅多に見せることのない、かなしい笑顔を私に向けている。
 
 
 私は、名雪の前の席に後ろを向いて座る。
 椅子を引くガタリという音が、黄昏の教室に響く。机の上で腕を組む。その腕に顎をのせて、名雪を見上げる。
「新部長が自主休部?ふーん」
 できるだけ、明るい声で言う。何事にも気づいてないと思わせるような声で。
 名雪の頬に微かな涙の名残。それとも、それは、黄昏の見せる幻?
 
 私の言葉にただ力なく笑うだけの名雪。そして、視線を窓の外に移す。
「ね、香里、人にふられるのって、つらいよね?」
 顔につくり笑顔をはりつけたままで、でも、声は沈んでいる。
「たぶん、つらいでしょうね」そう答えて、「私はふられたことないけどね」と、つづける。
 わざと明るく。私にできる限りの軽さで。
 
 
 また、あなたは他人のつらさを引き受けようとしているんだね。
 もう何度目になるんだろう。私が知ってる限りでも、片手の指で足りないくらい。
 一度だけ、私もその場面に居合わせたことがある。
 同じ学年の違うクラス、顔も良く知らない人。
「水瀬さん、わるい、ちょっといいかな?」
 その言葉に、曖昧な笑顔のままでついて行く名雪。
 見るとも無しに彼の背中越しに、名雪の表情を見ていた。
 彼が何か名雪に言う。名雪の笑顔が静かに凍りついて、そして、氷を無理矢理裂くような微笑み。
 誰よりも、笑う本人が一番傷つくような、そんな種類の笑みがあることを、私ははじめて知った。
 その人は人気がある人だったようで、しばらく後に、北川君が言っていた。
「あいつ、割といい奴なんだぜ、軽そうだけど」
 彼が言うのならば、おそらく本当なのだろう。そう軽々しくは他人のことを褒めたりしない人だから。
 何かのときに、クラスの女の子が名雪に訊いた。
「ね、名雪、どうして断っちゃったの?」
 それは、本当は私がしなければいけない質問だったのかもしれない。
 名雪は答えた。あのときと同じ種類の笑顔を浮かべて。

「何でだろうね?わたしにもわからないよ」
―――でもね
「イエスっていう答えはわたしの中にはなかったんだよ」
 
 
 ねえ、どうして、みんな、そっとしておいてくれないんだろう。
 私たちはただ、毎日を過ごしたいだけなのにね。
 変わり映えのしない毎日を、いつまでもたどっていきたいだけなのに。
 誰かに悲しい思いをさせたり、誰かのために悲しくなったりしたくはないのに。
 本当に、そうなのに....。
 
 
 
 
 
 
――――――――――――
 
 
 
 
 
 
「女の子がいるんだよ」
名雪がポツリとこぼした言葉で、私は我に返る。
「そして、男の子がいるの」
膝の上に置いた手をじっと見つめたまま。その手に話しかけるような小さな声。
「ふたりは幼なじみだったんだよ。すごく仲が良かった」
 
 そして、顔を上げる。聞いているということを確認するように、私の顔を見る。
 私は、体を起こして右手で頬杖をつく。
 
「毎年、毎年、冬にしか会えなかったんだけど、ふたりはとても仲が良かった」
 
「いつまでも、そんな時間が過ぎていくんだと思ってた」
 
「そして、雪のように気持ちも積もっていくんだと思ってた」
 
「けどね、」
 
「それも、やっぱり錯覚だったんだよ」
 
 名雪の声が黄昏の教室を静寂に沈める。音があることで強調される静けさもある。
 
「あるときから、男の子は姿を見せなくなって、」
 
「そのときから、女の子はわからなくなったんだよ」
 
「名雪」
 どうしてだろう、遮らずにはいられなかった。それ程の切実さを名雪の言葉は持っていた。
 名雪が何かに気がついたように、私の顔を見つめる。
 しばらくの静寂。
 
「香里、そんなに真剣な顔しないで」
 いつもと違う口調で名雪が微笑みながら言う。
「ただの例え話だよ」
 
 すっと、微笑みが黄昏に取って代わられる。名雪が口を開く。
「女の子は思ったんだよ」
 
「自分が急ぎ過ぎたのかな、って」
 
「ひとりで先に行き過ぎたのかな、って」
 
「だから、何回も手紙を書いた」
 
「何度も何度も、」
 
「何のために手紙を書いているのかも忘れてしまうくらいの、長い間」
 
「そしてね」
 
「女の子はわからなくなったんだよ」
 
「自分が本当は何を欲しかったのか」
 
 また名雪が笑う。私はその笑顔を壊したいと思う。
 そんな、かなしい笑顔でなく、本当の笑顔だけで名雪には十分なのに、と思う。けれど、私はその術を持たない。
 
 
「ね、ふられるのってつらいよね?」名雪が言う。
「そうね、でも、ふるのもつらいわね」私は応える。
 
 
 
 
 
 
――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 西の空に明るい星が輝いている。
 気の早い月は、薄暮の中にその姿を晒している。
 冴えた空気。夜と、明日の朝の寒さを予告するような空気。
 人気のない校庭を名雪と歩く。ゆっくりと、肩を並べて。
 名雪の藍色の瞳が不思議な色合いに染まっている。夕暮れと夜との合間の色。
 
「ねえ、名雪」私は静かに話しかける。何か話をしなければいけないような、そんな気がして。

「思い出っていうのは、手で掬った水みたいなものだよね」


「えっ?」 

「だって、簡単に、指の間からこぼれ落ちてしまうでしょ?」
 
「でもね、きっと、それは蒸発してしまうわけではないと思う」
 
「それは、きっと、しみこんでゆくものだと思う」
 
 そう、静かに地面を濡らす雨のように。
 あなたの中に、そして、その男の子にも。
 
「そしてね、ふとした拍子に顔を覗かせる」
 
 たとえば、あなたとその人が再び会ったときに。
 
「だから、無理して捨てなくていいはずよ」
 
 名雪がじっと私の瞳を見つめる。その瞳は、透明な藍色に紅の混ざった色。昼と夜とが混ざり合った色。
 そして、ふっと笑う。
 私が彼女に似合うと信じる顔で笑ってくれる。
 
 
 
 
「ね、香里」
「何?」
「ん、何でもないよ、呼んでみただけ」
「変なの」
「変でもいいんだよ、呼んでみたかったんだから」
 
 
 
 
 校門のところで、私たちは別れる。
 名雪がひとつ伸びをする。ふーっと、大きな息をつく。句読点のようなため息。
 
「よし、明日から部活がんばろっと」名雪が言う。
「部長だものね」私は笑顔で言う。
「香里もね」さっきと同じ笑顔だった。
 
 
 
 
 
 
――――――――――――
 
 
 
 
 
 
「香里、大ニュースだよ」
 
「いきなりね、名雪」
 
 冬休みの終わる前日の名雪からの電話。
 
「明日ね」
 
 ライン越しの声が弾んでいる。
 
 
 
 
 
 
―――――明日、いとこが来るんだよ
 
 
 
 
 
 
――――――――――――
 
 
 
 
 
   もし、あなたの手からこぼれ落ちてしまうのなら

   私は、かならずそれを受け止めるわ

   何度でも、何度でも

   繰り返し、繰り返し
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 










“Time after Time”
−END−

【初出】1999/12/1 天國茶房 創作書房 
【One Word】
 香里と名雪です。今、何かのCMでかかっている、「Time After Time」という曲、ご存知でしょうか?
元々、80年代にシンディ・ローパーが歌ってヒットした曲なのですが、これが、名雪にぴったりなんですね。
で、こいつで、名雪SSを書こうと。
なぜか香里視点ですけどね(笑)
 香里が美術部というのは、実は、結構昔から考えていたんですよ。
 ちょっと、センティメンタルに過ぎる気もしますが。ま、いいでしょう。
 
*上の曲の歌詞、ホントに名雪にぴったりです。
 
HID

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