“Starting over”
Chapter elevenGood morning in Wednesday. −おはよう、お姉ちゃん静かだった。誰も口を開かなかった。少しだけ開けられた窓から入ってくる風が、部屋の中の空気を微かに動かしていた。それがなければ、時間が止まってしまったのかと思ってしまうほど静かだった。時計の針は、もうすぐ頂上で重なろうとしていた。もう間もなく、また、新しい一日が始まる。それはどんな一日だろう?「美坂」相沢君が口を開く。私は彼の方を見る。まっすぐにこちらを見つめる視線。「ありがとう」それだけを言って、また視線を落とす。違う、お礼を言わなければいけないのは私の方。もし、あなたが栞に手を差し伸べてくれなかったら、あなたが、私の助けを求めなかったら、きっと私たちの心は闇の中に置き去りにされたままだった。想像するだけで、身震いするような、そんな絶望的な闇の中に。北川君がなにも言わずに私を見つめている。私は彼に少し頼りない印象を持っていた。けれど、今の表情からはそれを感じない。とても、あたたかい、包んでくれる感じ、父の大きな背中のような、そんな感じ。私は彼の視線にそういったものを感じていた。名雪は、ずっと私の手を握っていてくれた。いつもはぼーっとしているのに、大事なときには、かならず私のそばにいてくれる。私の足りない部分を補ってくれる。名雪は、私にはとても大切な友達だった。時計の針がまさに重なろうとしたとき、ノックの音が聞こえた。コンコン、と。母が扉を開ける。疲れた様子で、それでも、どこか高揚した表情を浮かべた医者が入ってくる。そして、医者の口が言葉を形づくる。私が否定していた言葉。私の大嫌いな言葉。けれど、私たちが辿ってきた道を表すにはいちばん適当な言葉。その形に医者の口が動く。涙が溢れて、声も出なくて、私はただ、夢のような時間の中にいた。真っ白になってしまった心を抱えて。新しい一日。また、新しい一日が始まる。この場所で、私と栞が姉妹でいることができる、新しい一日、その一日がまた始まる。あたたかな光に包まれて。★ ★ ★再び眼を覚ましたとき、目の前には見慣れない天井が広がっていた。わたしの部屋じゃない。けれど、どこかで見たことのある天井だった。体を起こそうとしたら、腕に痛みが走った。痛みを感じたところを見ると、針が刺しこまれていた。その先のチューブは、ガラスでできた器具へと繋がっている。その痛みで、少しずつ意識がはっきりとしてくる。病院。また病院にいるのか、わたしは。記憶が錯綜していた。時間の観念が無くなっていた。今はいつで、わたしはどのくらいここにいるのだろう。わたしはお姉ちゃんと誕生日を祝うはずじゃなかったろうか。いや、どこか冷たい場所で、誰かを待っていたような、そんな気もする。軽い混乱。ふと気づくと、針の刺さっていない方の腕の傍らに、眠っている人の姿が見えた。椅子に座り、ベッドに突っ伏すようにして。わたしはその人の髪に触れることができる位置へと少しだけ体をずらした。その、少しウェーブのかかった髪にゆっくりと触れる。柔らかな感触、指から伝わってくるのは幸せな感触だった。――お姉ちゃん…。また、心配かけちゃったんだね。わたしの病気のせいで…。ゆっくりと、何度も何度も、お姉ちゃんの髪を指で梳く。薄暗い部屋の中。今は夕方なのだろうか、それとも夜なのだろうか。『でも、きっと大丈夫』『あなたは光を見失わなかったから』誰かの声を聞いた気がする。そして、記憶がゆっくりと甦ってくる。とても、苦しかった記憶。ベッドに寝たままどこかに運ばれた記憶、そして、とても長い間見ていた夢の記憶。これは夢の続きなのだろうか。それとも、わたしは醒めているのだろうか。…これは現実の世界なのだろうか。でも、ここにお姉ちゃんがいて、わたしがお姉ちゃんの髪の毛に触れることができるということは……。頬にあたたかいものが零れる。たぶん、今はこれを我慢することはないんだろう。今は好きなだけ泣いてもいいんだろう。だって、わたしは……まだこの世界にいるのだから。いつのまにか、あたたかな光が窓から射し込んでくるのに気がつく。部屋の四分の一程が、その光で満たされている。陽が射し込み始めたということは、もうすぐ夜明けなのだろう。今はもう少しこのままお姉ちゃんの髪に触れていたい。そう思った。けれど、もう少し時間が経って、窓からの光が部屋の中を満たすようになったら、わたしはこう呼びかけよう。やすらかな寝息をたてているお姉ちゃんに、こう呼びかけよう。「朝だよ、お姉ちゃん」と。★ ★ ★私は夢を見ていた。夢の中で、私は泣いていた。なにか大切なものを失くして泣いていた。それがなにかわからなかった。ただ、それを失ったという事実だけがあって、それで、私は泣いていた。もう涙の世界から抜け出すことはできないと思っていた。ずっと泣きながら生きていくのだと思っていた。私は男の子を見た。涙を流しながら、それでも歯を食いしばって、なにかを探し続ける男の子を。自分の心を傷つけながら、なにかを求め続ける男の子を。その姿は私にこう問いかけてきた。本当にそれは失われたのか?と。自分が見ようとしない限り、大切なものは見つからないよ、と。そうして、私は気づく。逃げていた自分、涙を流すだけで、なにも見ようとしなかった自分に。大切なものはすぐそこにあって、それは私を求めていたのに。でも、私の伸ばした手はそれに届かず、それは永遠に失われてしまう。夢。そんな悲しい夢を見ていた。気持ちのいい感触。誰かが私の髪を梳いてくれる感触、やさしく、やわらかく。「お姉ちゃん、朝だよ」私を呼ぶ声。「お姉ちゃん」私をそう呼ぶことができるのは、この世界でたったひとりだけ。「お姉ちゃん、朝だよ」栞、私の妹。かけがえのない、ただひとりの妹。私はゆっくりと体を起こす。ベッドに横たわってやさしく微笑む少女を見る。「栞」「お姉ちゃん」栞の手が伸びて、私の頬に触れる。「お姉ちゃん、泣いてたの?」「えっ?」「ほっぺに涙のあとがあるよ」「そう?」「うん」私も手を伸ばして、栞の頬に触れる。あたたかく、柔らかい頬。「どうして泣いてたの?」栞が問いかける。「そうね、きっと嬉しかったからだわ」「また、栞に起こしてもらうことができて」そうなの?と言って、また微笑む。「これからは何度でも起こしてあげられるよ。そんな気がする」「そう?」「ずっと、ずっと、毎日でも起こしてあげるよ」「約束、する?」そう言って微笑んだ栞の目には涙が浮かんでいて。「そうね、約束しよう」私はこぼれ落ちる栞の涙を指で拭いながら答える。朝の光で満たされた病室の中で、再び流れ出した時間の中で。Chapter twenteen(Just like) Starting over. −始まりは春栞の病気はゆっくりと快方に向かっていた。『春からは、新学期には、学校に行けるでしょう』医者はそう言った。『あとは、しばらく通院すれば、全快するでしょう』そう続けた医者の顔は、とても嬉しそうだった。名雪や北川君、そして相沢君は暇を見つけてはお見舞いに来てくれた。私たちは四人で栞に誕生日プレゼントを贈った。少し遅めの誕生日プレゼント。一生かかっても使い切れないほどの色鉛筆、パステル、そして、スケッチブック。栞は、目を大きく開けて驚いて、そして、涙を流した。『うれしい涙は何度流してもいいのよ』私はそう言って、栞の頭を撫でた。『香里、お母さんみたいだね』と言って、名雪が笑った。『美坂はそういうのが似合うなあ』と相沢君が言った。北川君が笑顔で頷いていた、やさしさに満ちた笑顔で。『そんなこと言ったらだめですよ、祐一さん、お姉ちゃん気にしているんですから』栞が目に涙を浮かべて、でも笑いながら、言った。『“大人っぽいっていうのは可愛い気がないと同義語だわ、全然誉め言葉じゃないわよ”って、いつも怒ってるんですから』みんなで、声を合わせて笑った。栞からみんなへのお礼は、似顔絵だった。みんな絵を手にして、言葉を失ってしまった。名雪だけが、『良く描けてるよねえ、うれしいよ〜』と言って本当に喜んでいた。『まあ、時間はあるからな、何回も何回も描いてくれよ』相沢君がそう言うと、『そんなこと言う人、嫌いですよー』と言いながら、でも栞はとても幸せそうだった。三月の終わり頃、もうすぐ退院っていう頃に、相沢君がひとりの女の子を連れてきた。栗色の髪、紅の瞳、少し小柄な、子供のような印象の女の子だった。相沢君の顔は、とてもうれしそうで、 私にはその人が、あゆっていう人だと、すぐにわかった。相沢君の、願いは、思いは、届いたんだ。私たちの願いと同じように。私は本当にうれしかった。彼のあれ程の思いが報われないのなら、願いの意味などないものね。私は少し心配したけれど、栞は心からの笑顔でふたりと話していた。これからどうなるのかはわからないけれど、きっと栞は大丈夫だな。そう感じさせる雰囲気がそこには流れていた。栞の退院はほんの少し遅れて、学校には、四月の中旬から登校することになった。二回目の一年生。そして、私たちは、ふたつめの約束を、今、果たしている最中。毎日、一緒に学校に行くという、約束を。