“Starting over”
Chapter nineDid you find your wishes? −ちゃんと見つけることはできた?エア・コンディショナーの音だけが耳についた。 相変わらず、この部屋の空気は淀んでいる。窓から見える街の風景は、灰色に染まって、妙に現実感が欠落していた。私と母は一言も話さずに、それぞれの思いの中に沈んでいた。長い時間が流れた気がした。街を覆う灰色が少しその色を深めていた。やがて、灰色は黒に変わって、今日もこの街に夜は来るのだろうか。相沢君の言葉が頭の中で響く。『美坂、俺には誰かの願い事をかなえるなんてできないんだよ…』深い悲しみで満たされた声。彼はなにを失ったんだろう。私は考える。なにを失くしてあんなに心を閉ざしているのだろう。あの日、もうずいぶん遠くに感じるけれど、まだこの前の金曜日の事だ。彼に頼まれて大事な天使の人形を探した。私の背中を押してくれたあの出来事。そのときの相沢君の表情が甦る。あれほどの思いでも通じないのだろうか。あれほど切実に願っても通じないのだろうか。それならば、願うことにはどんな意味があるというのだろうか。私たちの願いには意味などないのだろうか。かなわない願いには意味などないのだろうか。また心は揺れ動く。コンコン、という乾いたノックの音で、思考が遮られる。母が、はい、と言って立ち上がる。私は息をのむ、運命の時がやってきたのか、と。しかし、扉の向こうには見慣れた人たちの顔。私は自分が確かに現実に繋がっていることを感じる。この人たちは私を現実に繋ぎ止めてくれる。まだ、大丈夫だ。なぜか、そう思う。心の揺れが収まる気がする。「名雪、北川君」私は彼らの名前を呼ぶ。そして、もう一人、栞が焦がれるように会いたがっていた人。ずっと待ち続けていた人、その名前を呼ぶ。「相沢君」「来て…くれたのね」「…ありがとう」「…美坂」そう力無く言う彼の顔はとても疲れていて、先週の金曜日とは別人のようだった。その瞳からは力が失われていた。なにも映さない瞳、心を閉ざそうとする人の瞳、私には見覚えがある。だって、それは私自身だったから、先週の金曜日までの自分によく似ていたから。それでも、ここに来てくれたのなら…。母に三人を紹介する。母はただ、本当にありがとうございます、と言っただけだった。名雪が私の隣に座る。今は空っぽのベッドを挟んで、向かい側に相沢君と北川君が並んで座る。母はお茶の用意をしている。「美坂…」相沢君がさっきと同じ力の無い声で私を呼ぶ。外はすっかり暗くなり、日常であれば夕食のテーブルについているような時間。「栞は、栞は助かるのか?」何かにすがりつくような口調、相変わらず瞳に力が無い。私が何と答えようかと迷っていると、「医者には、もし助かったら奇跡だ、と言われています」母がそう答える。「奇跡…ですか…」相沢君がそうつぶやく。すべてを諦めたような表情で、奇跡など起きないものだと決めつけるように。私はその表情がどうしても許せなかった。あるいは、その表情の中に見える、もうひとりの自分、どうしようもなく弱い自分が許せなかったのかもしれない。「相沢君」「お願いだからそんな諦めたような顔をしないで」「相沢君ならわかっていると思っていた。私の間違いに気づかせてくれた相沢君なら」声が大きくなるのがわかる。感情が昂ぶる、止めることができない。「私たちが願うのは奇跡なの?」「そんな意味のない言葉なの?」「私が願うのはそんな言葉じゃない」「私はただ、栞にここにいてほしいだけ、もっと長く、栞の顔を見ていたいだけ、栞の声を聞いていたいだけ、栞に私の妹でいてほしいだけ」「その願いを誰が何と呼ぼうと構わない。だけど、それに奇跡という名前をつけて諦めたりしない。そんな言葉に逃げて願うことを止めたりしない」「それを教えてくれたのは…」「…相沢君なんだよ」名雪も、北川君も、母も、そして、相沢君も私をじっと見つめている。私は続ける、心から直接絞り出すような声で。「だから、もう一度」「もし、もう一度、栞と会いたいと思うなら、それを願って」「奇跡なんて起こしてくれなくていい。ただ、栞ともう一度会いたいと、それだけを願って」「お願いだから、そんなに悲しい瞳をしないで」「お願いだから、諦めないで」気がつくと、私は涙を流していた。歪んだ視界の中に相沢君がいた。その瞳に少しずつ光が戻っている気がした。しばらくの沈黙のあとに、相沢君が口を開く。「美坂」さっきとは別人のような声、力の籠もった声。「そうだな、俺は俺にできることをしなければいけないんだな」「願うことができるうちは、願い続けなければいけないんだな」「失っても、傷ついても、それでも、俺がここにいるうちは、なにかを求め続けなければいけないんだな」私はただ頷くことしかできなかった。けれど、うれしかった。そして、もう一度願うことができると思った。この人達がいれば、願い続けることができると思った。名雪が私の手を握って微笑んでくれた。北川君が静かに頷いてくれた。そして、母は目の端に涙を浮かべて私を見ていた。その瞳はさっきまでとは違う光をたたえていた。そして、時間が流れていった。ただ静かに時間が流れていった。Chapter tenI can't give you anything but wish. −たったひとつの贈りものわたしは白い世界にいた。上も下もない。暑さも寒さもない。光も闇もない。ただ真っ白い靄に包まれたような世界。自分が自分であることはわかった。けれど、自分の体を認識することができなかった。大切なもの。とても大切なものがあった気がする。誰かの気持ちのいい手の感触、それが、ふと、心の中に蘇ってきて、なにか大切なものが形を成しそうに思えた。しかしそれはすぐに潰えてしまった。ここに時間はあるのだろうか?ふとそんな疑問が浮かぶ。広がっていく意識。自分の意識が拡散して白い靄と同化してしまいそうな不思議な感じ。『これは夢だろうか』、そんな疑問が浮かぶ。『正確には夢じゃないわね』、誰かの声がわたしの疑問に答える。それは、声ではなく心に直接響いてきた感じ、拡散していく意識が、別の意識に触れた感じ。『そう、もう少し力を抜いてみて、深呼吸をするように、緊張をほぐして』声に従って、わたしは深呼吸をする、心の中で。白い靄の中に形を持ったものが現れる。栗色の長い髪、紅の瞳、小さな体の女の子。『この子どこかで…』『そう、私たちは出会っていたわね、ずっと前に…』また、心に響く言葉。『憶えているかしら? あなたは私に話しかけてくれた初めての“人”なのよ』わたしは憶えていた。とても不思議な出来事で、自分が本当にその女の子を見たのか、それとも高い熱の見せる夢の中での出来事だったのか、その境界が曖昧になっていたけれど。わたしは憶えていた。そのときの女の子の姿を、無防備に泣きじゃくる様子を、たどたどしく紡いだ言葉を。おかあさん、とつぶやいて再び泣き出したことを。『知らない世界、寒い世界にひとりきりで心細かった。だから私は泣いていたの』『それまで一緒にいたひと、あたたかく包んでくれていたひとがいなくなったこと、それが悲しくて、私は泣いていたの』『あなたがそのあたたかいひとを何と呼ぶのか教えてくれた。おかあさん、という言葉を、教えてくれたわね』『うれしかったわ。手を差し伸べてくれる人がいることが、そんなやさしい心を持つ人がいてくれたことが』気がつくと、小さな女の子の姿は消えて、そこには少しだけ寂しさの色を瞳に加えた女の人が立っていた。ずいぶん印象が違っていたけれど、その姿には見覚えがあった。つい、この間、初めて会った人。祐一さんの隣で笑っていた人。“ゆういちさん”わたしの意識の中に浮かんだ名前、それがなぜかはっきりとはわからないけれど、とても大切な人の名前のような気がする。わたしはその理由をぼんやりと考える。『私には時間が来てしまったの、ここを去るべき時が』彼女の意識は悲しみを、寂しさを伴って、わたしの心に響く。『私は、ここで、たくさんの人に、たくさんの大事なことを教えてもらった』『…そして、とても大切な人にも出会えた』“ゆういちさん”再び私の意識にその名前が浮かぶ。『そう、祐一くん、私は彼に会うためにここに来たの、今ならわかるわ。彼に出会って、大切なことを教えてもらうためにここに来たの』彼女の瞳の中の寂しさの色が深まる。『でも、ここに留まるわけにはいかないの。それは、彼を過去に縛りつけることになるから。彼から自由を奪うことになるから』ふと気がつくと、わたしは自分の体を認識していた。白い靄の中で紅の瞳の女の人と向かい合う自分。『あなたは、求められているわ。とても、強い気持ち、それがあなたを求めている。そして、あなたもそれに応えようとしている』気高さとやさしさの融合した、微笑み。あたたかく心を満たしてゆく、微笑み。『こわかったでしょう?ひとりで闇に墜ちてゆくのは。つらかったでしょう?自分の命がすり減ってゆくのを数えるのは』『でも、きっと大丈夫』『あなたは光を見失わなかったから』『あなたの周りは光で満ちているから』『だから、安心して眠っていいのよ』『今はゆっくりと眠っていいの』また、わたしの体が消えてゆく。意識が再び拡散を始める。『……あなたはなにを望むかしら』わたしに問いかける意識に、『また、会えますよね。あゆさん…』薄れてゆく意識の中でそう答えようとした。もう一度あたたかいものを感じた。あの気高い微笑みを浮かべたあゆさんの顔を見たような気がした。意識は、拡散していった。これは、眠りなのだろうか…。それとも……。