“Starting over”

 
 
 
Chapter seven
Her confession and Tuesday silence.  −告白と火曜日の静寂 
 
 
 
 
「私には妹がいるわ。ふたりはこの前会ったから知っているわね。
 これまで妹のことを話さなかったのには理由があるの、妹は重い病気で、16歳の誕生日を越えられないだろうと医者に言われたわ。もう一年以上前の冬の日、医者の言葉を聞いたときに私の世界は閉ざされたように感じた。
 何も望めなくなった、何も信じられなくなった、そして、自分の弱さから逃げるために、妹を拒絶した。私には妹なんていないと思いこもうとした。
 そうすれば、悲しまなくて済むから、そうすれば、失うことに怯えないで済むから」
 
 
「私はもう少しで取り返しのつかない間違いを犯すところだった。だけど気づくことができたの、名雪や、北川君や、相沢君達のおかげで。 
 間違いを正すことができたの、予言の日が訪れる前に」
 
 
「その予言の日は、昨日だった。栞はその日を越えることができた。
 今は入院しているけれど、少なくともその日を越えることはできたわ。
 人は、それを『奇跡』と呼ぶかもしれない。 
 でも、私には、私たち姉妹にはそんな言葉は何の価値もないの」
 
 
 それは唐突な告白だった。
 昼休み、冷たく閉ざされた、中庭。この季節にはめったに足を踏み入れない場所に呼び出された。
 水瀬と俺のふたり、本来そこにいるべきはずの、もう一人の男は今日も学校を休んでいた。
 明るい笑顔と時折よぎる暗い翳、そして、時には声をかけるのがためらわれるほどの張り詰めた表情。俺の触れられない、気持ち。俺の越えられない壁。
 俺は美坂にそういうものを感じていた。
 何かがあることは気づいていた。
 けれど、まさかこんなに重いものとは思いもしなかった。
 これでは…。
 これでは、俺はお前に手を差しのべることもできない。
 ついこの前、紹介された美坂の妹、少し線の細い、けれど明るく笑う少女。その笑顔を思い浮かべる。
 俺は、どうして、という無意味な問いかけの言葉を飲みこむのが精一杯だった。
 
 
 
 わたしは、耳を疑った。
 目の前で感情を押し殺したように淡々と話す女の人が、わたしの知らない人のように思えた。
 突然、妹を紹介してもらってから、まだ数日しか経っていない。今日はそのことを聞けるかなあ、と思っていた。
 ゆっくり話を聞けばいい、と思っていた。
 香里がわたしに話せなかったのは、きっと、理由があるはずだもんね。
 そう思わないと、自分が悲しすぎた。
 仲がいいと思っていた従兄弟は、部屋に閉じこもって何も話してくれない。
 あんなに、何でも話せたのに。
 親友だと思っていた女の子は、突然、妹を紹介してくれた。
 今まで、何も話してくれなかったのに。
 わたしは、ふたりにとって、そんなに価値の無い人間だったのかな。そんな考えが頭に浮かんだ。必死にそれを振り払った。
 いつものように笑おうと努めた。
 悲しいときには、それに負けないように笑うんだ。わたしは、そういう風にしてきたから。
 
 香里の告白はあまりに突然で、わたしはかけるべき言葉を持たなかった。
 見れば北川君はつらそうな瞳で、地面を見つめていた。
 香里の瞳は、強い輝きを放っていた。
 少し前に見たことのある瞳、わたしの従兄弟と同じ光。
 わたしは少し怖かった。この瞳を持った人はどこか遠くに行ってしまうような気がしたから。
 遠くに行ってしまって、戻ってこないような気がしたから。
 わたしの従兄弟、祐一が、遠い世界に引きこもってしまったように。
 
 
「ふたりにお願いがあるの」
「図々しいお願いだっていうのはわかってる」
「私にはこんなこと頼む資格はないのかもしれない」
「あなたたちにさえ……私のことを本当に考えてくれる、あなたたちにさえ心を開けなかった私は、こんなことを頼んじゃいけないのかもしれない」
 香里の表情は、今まで見たこともないほど真剣で、わたしは、香里の必死の思いを感じる。
「だけど、力を貸してほしいの、願ってほしいの、私と妹が、もう一度学校に来れることを、私たちが並んで歩く、その姿を、再び学校で見れることを。そして、この前のように、ふたりとあいさつを交わせることを…」
「…ふたりに願ってほしいの」
「その願いが、妹を、栞を、この世界に繋ぎ止めてくれるかもしれないから…、
 …絶望に負けそうになる私を支えてくれるから」
 そう言って、香里は泣いていた。声も立てず、涙も流さずに、だけど、確かに泣いていた。わたしには、香里が心の中で泣いているのがわかった。
   
 とても静かだった。世界中から音が消えてしまったようだった。
 
 
 
 昼休みの終わりを告げる予鈴を合図に、俺達は校舎に戻った。授業に出ることに意味は見出せなかったが、それ以外に何をしたらいいのかはわからなかった。
 初めて感じる焦燥感だった。救いたい人、俺が本当に救いたい人が目の前にいるのに、何をすればいいのかがわからない。灼けつくような、喉がチリチリとするような、渇きに似た焦燥感。並んで廊下を歩く美坂を、横目で見る。その顔は少し青ざめて、けれど凄みさえ感じる光を瞳に宿していた。
 
 5時間目の授業も半ばを過ぎた頃、担任の石橋が突然教室の扉を開いた。嫌な予感がした。そして、あらかじめ決められていたかのように、石橋が美坂の名を呼んだ。美坂は黙って石橋の所まで行って、その言葉を聞いて、何も言わずに一度机に戻った。鞄を取ると、足早に教室の扉に向かった。美坂の開く扉の音が呼吸さえ忘れたように静まりかえった教室に響いた。扉が閉じる瞬間に、美坂の視線が俺を捕らえた。
 その視線が、こう言ってるように思えたのは俺の錯覚だったのだろうか。
「信じているわ」と。
 
 
 
 
 香里が扉を閉じて行ってしまうと、教室の中は、妙な雰囲気で満たされた。現実感が欠如していた。すべてが白い靄で覆われているように、少し遠く感じられた。気がつくと、チャイムが鳴って、あちこちからいつもの休憩時間と同じように、ざわめきが起きる。
 いくつかに分かれたグループの中から、美坂、という言葉が聞こえるたびに、わたしは耳を塞いで逃げ出したくなった。
 どうしてこんな時に祐一がいないんだろう、そう思った。いつも、くだらないことばかり言ってて、でも、こういう時には、とても頼りになるわたしの従兄弟。
 祐一、そうだ、祐一にも伝えなきゃ。不意にそう思いつく。
 この前の朝、栞ちゃんが言っていた『今日、祐一さんは』、という言葉。あのときは、場違いな緊迫感に驚いたけれど、今ならその理由がわかる。
 あの娘もまた、祐一を求めているんだ。
 それならば、わたしは祐一に伝えなけきゃ。
 たぶん、それがわたしにできること。
 声も立てず、涙さえ流さずに、心の中で泣いていた親友のために、わたしに助けを求めてくれた、かけがえの無い友達のために。
 
「水瀬、病院に行くぞ」
 突然、話しかけられる。驚いて振り向くと、北川君が真剣な表情で立っていた。
 病院、香里がいる病院、栞ちゃんの入院しているところ。たぶん、わたしたちは香里のそばにいた方がいい。
 そして、祐一も…。
「祐一も一緒に連れて行きたい」
 わたしは、強い口調で言う。
「そうだな、じゃあ水瀬、相沢を連れてきてくれるか」
「俺は、石橋に病院の場所を聞いてから、追いかける」
「じゃあ、わたしの家で待ちあわせしよう」
「わかった、家の場所を教えてくれ」
 わたしは簡単な地図と住所を書いて北川君に渡す。
 
 
 
 
 わたしは走る。
 どんなに遅刻ギリギリの朝でも出したことのないようなスピードで。今以外に急がなきゃいけないときはないんだ。これに遅れてしまったら一生後悔する、そんな思いが頭の中で渦巻く。
 冷たい空気を引き裂いて、わたしは走る。
 
 
 
 廊下で水瀬と別れて、俺は職員室へと急ぐ。踊り場の窓から中庭が見える、そして、その景色が、俺の記憶を呼び覚ます。
 雪の中に立ちつくしていた少女。幻のように佇む少女。その面影がゆっくりと重なる。美坂の妹、栞という名の美坂の妹に。
『おい相沢、あの娘、あんな所で何しているんだろうな?』
 少し前の自分の言葉を思い出す。そして、その少女の姿を見て、急いで教室を出ていったあいつの背中を思い出す。
 やはり、相沢も連れて行かなくては、俺は思う。かならずあいつも連れていかなければ。
 
 俺の勢いに驚いた様子の石橋から病院を聞き出し、「北川と水瀬は早退します。」の言葉をたたきつけるように言って、職員室を飛び出す。
 走る、全力で走る。
 早く病院に行きたかった。
 美坂のそばに行きたかった。
 
 
 
 
 
 
Chapter eight
Do you realize what you can do?  −何ができるか、わかってる?
 
 
 
 
 学校から病院までの道のりをたどる間、不思議と焦りは感じなかった。現実感もなかった。心にいつも抱いていた暗い予感。繰り返し夢で見た場面。
 それが現実になろうとしていた。冷たく暗い鎌首を持ち上げようとしていた。けれど奇妙に現実感が欠落していた。
 ただ、担任の言葉が頭の中で木霊のように繰り返していた。
『美坂、親御さんから電話があったぞ。妹さんが集中治療室に入ったそうだ』
 
 
 
「香里」
 母は栞の病室にいた。
「母さん、父さんは?」
「急な手術が入ったらしいの、終わり次第こっちに来るって」
「そう」たぶん、父は父にしかできないことをしているのだろう。それを責めることは、今の私にはできなかった。
「栞は?」母に訊ねる。
「…危険な状態らしいわ」
「…持ち直したら……奇跡、だって」
 母は泣かなかった。もはや、彼女の涙は涸れてしまっているのだろうか。
 
 私は、病室を出て、エレベーターホールに向かう。そして、公衆電話の受話器を取り、かけなれた電話番号を押す。呼び出し音が鳴る。底無しの井戸に小石を投げ入れるように、何度も何度も呼び出し音が鳴り続ける。
 どれだけの呼び出し音が無へと吸い込まれていっただろうか、「はい、水瀬ですが」という男の人の声が聞こえたとき、私には一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
 
「もしもし、相沢君でしょ?」
 返事がない。
「美坂、です」
「みさか…」頼りない声、なにかを思い出そうとしているような。
「相沢君、お願いがあるの」
 心がはやった、何とか自分の気持ちを伝えようと。
「栞が、栞が入院しているの」
「だから、病院に来てほしいの」
 耳に聞こえるのは、ジーッという電話回線のノイズだけだった。無力感が広がる、私の言葉が相沢君に響いていないのが受話器を通して伝わってくる。さっきと同じだ。底無しの井戸に小石を投げ入れるよう。
「とても、とても危険な状態なの」
「相沢君…」
 重たい沈黙。
「美坂、俺には誰かの願い事をかなえるなんてできないんだよ…」
 そして、井戸の蓋は閉ざされる。
 
 手の中の受話器からは、発信音だけが流れる。
 
 
 
 
 
 
★    ★    ★
 
 
 
 
 
 もうどれくらいの時が経ったのだろう。あのときから、俺が大切なぬくもりを失ってしまった、あの夕方から。途切れない悲しみの中に俺は沈んでいた。
『もっと君と一緒にいたいよ』最後の言葉、最後の笑顔。すべてが7年前に終わってしまっているという事実が、俺を深い無力感の中に沈めた。
 時間を遡ってまで、俺はあゆの願いをかなえることができるのだろうか?
 今になって、以前に聞いた美坂の言葉が重くのしかかる。
『奇跡って、そんなに簡単には起きないのよ』
 
 部屋の中は薄暗かった。夜なのか昼なのか、それとも朝なのかさえ俺にはわからなかった。平板な時間が流れていた。閉ざされた俺の意識の中になにかが入り込んできた。それを電話のベルだと認識するまでにずいぶん時間がかかった。
 俺はそれをやり過ごそうとしたが、いつまで経ってもベルは鳴り止まなかった。仕方なく部屋を出て、受話器を取った。
 久しぶりに他人の声を聞いた気がした。誰かが俺に願い事をしていた。
 どこかで聞いた声、“みさか”と言っていた。“しおりが”という言葉があった。
“しおり”、懐かしい名前だ。表情の良く変わる、はかなげな印象の少女。だけど、電話の声はその少女のものではない。ふと脳裏に腕を組んで歩く女の人の姿が浮かぶ。時折見せる寂しい瞳が印象に残っている。名雪の親友、美坂香里。
―― だけど、どうして美坂が栞のことを話す?
 頭が混乱していた。
 お願いがある、と言う。俺になにを望むんだろう、俺にこれ以上なにをさせようというのだろう。もう嫌だった、なにかを求めて、それを失うことは。
『悪いな、俺は誰かの願いをかなえる事なんてできないんだよ。たったひとりの大切な人の願いさえかなえられない俺には、誰かの願いを聞く資格なんて無いんだよ』
 そんな自嘲の言葉が心に浮かぶ。また無力感が俺を苛む。
「美坂、俺には誰かの願い事をかなえるなんてできないんだよ…」
 そう言うと、俺は、静かに受話器を置いた。
 
 居間で立ちつくしていると、玄関の方で音がした。
 名雪が扉を勢いよく開けて入ってくる。
 久しぶりに見る、従姉妹の女の子の姿。胸の奥でなにかが疼く。
「祐一…」
 俺の顔を見て絶句している。俺は今どんな顔をしているんだろう?そんな疑問が心に浮かぶ。
「祐一、病院に行こう、」気を取り直したように、名雪が話し出す。
「栞ちゃんが、香里の妹の栞ちゃんが大変なの」
 
――栞、香里の妹?
 
「香里がね、香里がわたしたちに助けてって言ってるの」
「わたしたちに力を貸してほしいって言ってるの」
「とても悲しそうなの、とてもつらそうなの」
「だから、祐一、助けてあげて」
 
 だんだん、自分の思考が動き出すのがわかる。名雪の言葉は香里の電話での言葉と繋がる。栞、香里の妹、何度も話したことのある、少女。
 
「ねえ、だから祐一、一緒に病院に行こう」
「お願いだから」
 
 俺は栞と話をするのが好きだった。そのよく変わる表情を見るのが好きだった。
 彼女と一緒にいる時間は大切な時間だった、失いたくない人のはずだった。
 けれど……。
 
「名雪」俺は重い口を開く。俺の口から出る声は、まるで違う誰かの声のようだった。抑揚に欠けた陰鬱な声だった。
「俺は行けない」
「俺には誰かのためにできることなんてないんだよ」
「祐一…」名雪が絶句する。
 
 その時、玄関のチャイムが鳴った。
 
 
 
 
 
 どれぐらいの時間が経ったのだろう。
 美坂が教室の扉を閉じてから、俺の視界から消えてしまってから。焦燥感が俺を煽る。 学校から病院までの途中に水瀬の家があるのは幸いだった。俺はただ走った。肺が潰れそうなくらい苦しかった。それでも走ることは止めなかった。
 何とか迷わずに水瀬の家にたどり着き、チャイムを鳴らす。
「北川君…」
 ドアを開けてそう言った水瀬の表情はひどく沈んでいた。俺は初めて水瀬のそんな顔を見た。
「祐一が、行けないって言うんだよ」水瀬の声が震えている。
「病院には行けないって、俺にはなにもできないって言うんだよ」
「祐一が、祐一が…」
「違う人になっちゃったみたいだよ」
 そう言った水瀬の目には涙が光っていた。
 
 
 
 
 
 居間の扉を開けて北川が入ってくる。
 俺はもう疲れていた。疲れ果てて、ひとりになりたかった。
 北川に続いて居間に入ってきた名雪の目には涙が光っていた。その涙に、少し心が震えた。
「相沢」北川が俺の手を掴む、
 強い力だ。
「お前、栞ちゃんを知っているよな?」
 俺は力無く頷く。
 こいつも俺になにかを求めるのだろうか?
「お前、栞ちゃんと中庭で会ってたよな」
 もう一度頷く。
「もう二度と会えなくなってもいいのか?」
「お前が今逃げ出したら、二度と会えなくなるかもしれないけどいいのか?」
 
――二度と会えなくなる。
 
 その言葉が心にしみわたっていく。微かな痛みを伴って。
「あとから嘆くことになってもいいのか?」
「今なら、まだ間に合うかもしれないんだ」
 北川の手に力が籠もるのが伝わる。俺は心を直接掴まれているような錯覚に陥る。
 心を覆っていたもの、無力感、悲しみ、そういったものが少しずつ剥がれ落ちていくような気がする。
「祐一、お願いだよ」
 強く訴えかける名雪の瞳、北川の腕の力、香里の電話の声、そして栞の面影。
 それらが俺の心の奥底に、まだ残っていたものを呼び覚ます。
 静かに、ゆっくりと。
 それは、願い。
 願い続けることの重さ、困難さ、つらさ、俺はそれを知っていたはずなのに。あゆが俺にそれを教えてくれたはずなのに。後悔が溢れ出す。
 
 もつれた糸がほぐれるように、思考が収束を始める。
 
 俺は顔を上げる。
 
「美坂のところに行こう」
 
 俺にできることがまだあるのなら、俺はそれをしなければいけない。
 自分のために、俺の周りにいる人達、俺の好きな人達のために、そして、失われてしまった大切な人のために。
 
 俺は前に進もうと決心する。
 揺れる心を抱えて、傷ついた心を抱えて、拭い去ることのできない無力感に何とか抗いながら、それでも一歩を踏み出す。
 
 
 
 
 
 
 
 

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