雪降る夜に、願って
 
 
 
 
 
 朝から雪が降っていた。
 テレビの天気予報が告げていた通り、この町でもめずらしいほどの、 激しい降りだった。
 いや、“激しい降り”というのはあまり適切な表現ではないだろう。
 窓から見る外の景色は、雪の欠片に埋め尽くされていて、激しく雪が降ってきているというよりは、一種の静止画のようだった。
 白い欠片が、無数の白い欠片が、空間を埋め尽くしている、そんな静止画。
 
 
 これだけ雪が降ると、いくら雪に慣れているこの街でも、いつもどおりの機能を果たすことはできない。
 そして、それと同じように、ここに住むわたしたちも、いつもと同じような生活を送ることはできなかった。
 実際のところ、この雪はそれほど大きいダメージをわたしたちの街にもたらしたわけではない。
 幸い、今日は日曜日だったから。
 家でゆっくりと過ごせる口実が与えられたことを、天の配剤とばかりに喜んだ人も多かったかもしれない。
 わたしが受けた影響も、それほど深刻なものではないはずだった。
 久しぶりのデートが流れただけ。お互いの都合で、最近、会うことができなかった祐一さんとのデートが流れてしまっただけ。
 今まで数え切れないほど重ねたデートの、そして、これからも何度も繰り返されるであろうデートの、ほんの一回が流れただけ。
 それだけのこと。
 
 
 午前中、デートの中止を伝えるための祐一さんの電話を受けてから、わたしは何をするでもなく時間を過ごしていた。
 気がつけば、時計の針は午後の領域にかなり入りこんでいた。
 雪は、相変わらず、空間を埋め尽くしていた。
“どれほどの雪が降るんだろう?”
 ぼんやりと外を見ながらわたしは思った。
 雪は世界の在り様を変えることができる。その白いヴェールで、すべてを覆うことができる。
 けれど、必ずそのヴェールは消え去る。その痕跡さえ残さずに。
 それならば...。
 それならば、わたしにできることは何だろう?
 わたしたちは、そんな頼りないものたちと、どうやって対峙すればいいんだろう。
 
 
 ふと、我に返って、雪を見る。自分が、大して意味もないことを真剣に考えていたことに気づいて苦笑する。
 そういえば、あの頃は、いつもこんなことばかり考えていた。
 終わりだけが決められた自由時間。この現実の世界から、やわらかく拒絶されて、ただ自分の中に留まるしかなかった、わたし。
 不自由だ、不自由だと嘆くだけで、どうして不自由なのかを考えようともしなかった。
 もし、あなたがいなかったら。
 わたしは、ときどき怖くなることがあるよ。
 もし、あなたがいなかったら、わたしは、今どこでどうしているだろう?
 この雪をどこかで見ることができたのだろうか?
 そういえば、最近は、そんなことを考える時間も減っていた。
 毎日が楽しくて、毎日が忙しくて。
 朝、起きて、学校に行って、友達と笑って、少し勉強をして、部活に行って、ときどき生徒会の仕事をして...。
 毎日は、当然のようにそこにあったから。
 あなたと会えない時間にさえ、慣れてしまっている、わたしがいた。
 
 
 コンコンッと小さな音でドアがノックされる。
「栞、入るわよ」聞き慣れた声が聞こえて、ドアがカチャリと開く。
 きれいなブルーの、厚手のコットンのパーカーに色の落ちたブルージーンズ。
 髪を後ろでまとめたお姉ちゃんが、部屋に入ってくる。そして、訝しげな顔で、机に向かってぼーっと座っているわたしを見つめる。
「何やってるの?」
「別に、何もしてないよ」
「そう?」
「うん」
 
 開かれたドアから、廊下の冷たい空気が流れ込む。それは、暖房の効いた部屋に慣れた肌には、心地よかった。
 
「暇なの?」
「ううん、忙しいよ」
「そう」
「うん」わたしは悪戯っぽく笑う。
「じゃあ、相沢君にもそう言っておくわ」お姉ちゃんが、わたしと同じような表情で笑う。
「え、来てるの?」声が弾けるのがわかる。
 そうか、やっぱり、わたしは祐一さんに会いたかったんだな。そう思う。
「いくら、相沢君でも、この雪の中を外に出るほど無謀じゃないでしょ。電話よ、電話」
 もう、早く言ってよ、と言って部屋を出るわたしを、お姉ちゃんが笑顔のまま見ている。
 それは、どこか満足そうな、やさしい笑顔だった。
 
 
「もし、もし」
 はやる心を抑えるように、静かな声で電話に出る。
――あ、俺だ、別に用事があったわけじゃないんだけどな。
 ああ、やっぱりうれしいよ。わたしは、やっぱりあなたの声が大好き。
「ふふ、わたしのことが恋しくなっちゃいましたか?」
――ばか。何、言ってるんだよ。俺は栞が寂しがってると思ってだな。
「そういうことにしといてあげます」
 わたしの言葉を聞いて、ひとしきり笑って、彼が言う。
――しかし、美坂家の女っていうのは、どうして、そう憎らしいんだ。
 そして、大学で会ったときのお姉ちゃんとの会話を、面白そうに話してくれる。
「仕方ないですよ、そういう修行をしてるんですから」
――信じるぞ。
 彼が笑いながら言う。
「ええ、信じてください」わたしも笑う。
 
 
 午後の長い電話。雪に降りこめられて会うことのできない二人には、これ以上ない幸せな時間。
 いろいろな話をする。高校の話、大学の話、バイト先での話。
 ずいぶん久しぶりにそういう話をした気がする。
 彼に話をしているうちに、自分の日常生活が、きっちりとした輪郭を持ってくる。
 自分が立っている場所、周りの人との関係、そして、その中で自分が感じていること。
 そういったことが、きちんとした形を持って、わたしの中に定着していく。
 
 
――そういえば、来週は誕生日だよな。
「わ、憶えててくれたんですね」
――大事な人の大事な日を俺が忘れるわけがないだろ。
 彼が、わざと真面目な声音で言う。
 わたしは彼の言葉を味わう。彼の声で、そんなセリフを言ってもらったこと、それだけで何も要らないような気になる。
 わたしたちを繋いだラインに、しばしの沈黙が流れる。
 そして、彼が言う。
――なあ、栞、つっこんでくれないと恥ずかしいんだがな。
 彼が照れてる表情まで見える気がする。
 
「ねえ、祐一さん」
――ん?
「ありがとう」
 ちょっとだけ何かを考えるような間があって、彼が言った。
「どういたしまして」
 
 
 そうなんだね。こんな小さな言葉が、こんな何でもない会話が、わたしが何処にいて、何をしているのかを教えてくれる。
 でも、それは、あなたがそれを口にするからだよ。
 だから、わたしにはあなたが特別なんだ。
 
 
「ね、祐一さん、わたし、欲しいものがあるんです」
――お、誕生日プレゼントか?よし、お兄さんに言ってみなさい。
 彼がふざけた調子で言う。
「わたし、長いコートがほしいです。長くて、大きなコート」
――コート?
「うん、コート。それも男物がいいです」
――男物?
 彼が怪訝な声で言う。もう、忘れてしまったかな、わたしは思う。
 短い沈黙のあとで、彼が言う。
――栞、お前、俺のこといじめようとしてないか?
 ああ、思い出してくれた。ほっとしながら、でも、わたしはとぼけてみせる。
「え、何のことですか?わたしは、祐一さんの願いを叶えてあげようって思っただけですよ」
 
 
 去年の春。彼の卒業式の後で、彼が言った。
『寒い冬が来たら、ひとつのコートにくるまって歩こうな』
 わたしは恥ずかしかった、きっと、彼も言ってしまって恥ずかしかったんだと思う。
 でも、それは素敵なことのような気がした。その光景を思い浮かべると、気恥ずかしさと、それ以上の憧れを感じた。
 一度、わたしはその光景を絵に描いてみようとした。もっとも、恥ずかしくなって、すぐに止めてしまったけれど。
 どうしてかな?
 そんなに楽しみだったことも、ついさっきまで忘れていたよ。
 きっと、今日、雪が降らなければ、思い出せなかったね。あなたが電話をくれなければ、忘れたままだったかもしれないね。
 だから、うれしいよ。思い出せたことが、とても、うれしい。
 
 
俺、今度の冬には大きな長いコートを買おうと思うんだ
 わたしは言葉を切って、ゆっくりと言う。
 今はもう、すっかり思い出した、あのときの彼のセリフを。
 彼はどんな顔をしてるだろう?
「そして、そのコートで暖めてやろうと思うんだ」
「寒がりで小さな女の子を」
 短い沈黙が流れる。怒っちゃったかな、と不安になる。
――悪魔。
 彼がつぶやく。そして、笑ってくれる。
「あ、そんなこと言ったからには、ぜったいに、実現してもらいますからね」
――いやだ。恥ずかしい。
「あ、そういうこと言うと、お姉ちゃんに言いつけますよ」
 わたしは笑いながら言い返す。
 彼が絶句する。そして、言う。
――わ、わかった。検討する。
「それでいいんです。でも、そんなにお姉ちゃんが怖いんですか?」
――ああ、栞が悪魔だったら、美坂は悪魔王だな。
「祐一さん、今、すごいこと言いましたね」
 しまった、と思ってるんだろう。沈黙が返ってくる。
――し、栞。
 彼が、情けない声で、わたしの名を呼ぶ。
「大丈夫、内緒にしてあげますから」
――しおりぃ、やさしいなぁ。
 うれしそうな声。
「でも、コートの約束が果たされないままに春が来たら…」
――やっぱり、悪魔だな。
 そして、二人で声を合わせて笑った。
 


 
 夜には、雪も小降りになっていた。
 昼間の情景が嘘のようだった。
 街は、雪たちの我慢強い作業の結果として、すっかり白に沈んでいた。
 灰色の空に、街の灯りと白い雪の明かりが反射して、夜はほのかに明るかった。
 
「雪、あがったね」
 リビングの窓から外を見ているわたしのうしろに、マグカップを持ったお姉ちゃんが立っている。
 ガラス窓に映ったお姉ちゃんが、手のマグカップを口に運ぶ。
「うん、昼間の降りが嘘みたいだね」
「残念だったわね、約束が流れて」
「え?」
「デートだったんでしょ?相沢くんと」
「ううん、デートが流れて良かったよ」
 わたしは、ガラス窓のお姉ちゃんに笑いかける。
「何、もう愛は冷めてしまったの?」
 お姉ちゃんが、わざとそんなセリフを口にする。
「ううん、深まる一方だよ。底がわからなくて、怖いくらい」
「そう?」
「うん」
 お姉ちゃんの笑顔が映りこむ。わたしの笑顔を見てくれてるかな、そんなことを思う。
 
 
「ねえ、お姉ちゃん」
「なあに?」
「雪にお願いごとすると叶うんだよ、知ってた?」
「知らなかった。そうなの?」
「うん、そうだよ。だって、わたしがそう決めたから」
 
 
 
 
 
 
    雪降る夜に、願って
     − END − 

 【初出】2000/1/26 天國茶房 創作書房/創作掲示板
 【One Word】
  栞、誕生日おめでとう。早いけど(笑)
  HID(2000/1/26)
 

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