『輝ける星』
すうすうと穏やかな寝息をたてる少女。
俺は、その髪の毛に指を埋める。
そっと、梳いてみる。
起こさないように、夢から醒ますことのないように
。
さらっと、やわらかい感触。
心にふれるような髪の毛の手触り。
何かを思い出させるような、薄暗い部屋。
しんとした空気。
午後と夕方の狭間の中途半端な時間。
時間、というのは残酷なもので、
いろいろなものを遠くへと運び去ってしまう。
この街で過ごした濃密な時間。
子供の頃の大切なはずの思い出。
それが俺の中からはごっそりと抜け落ちてしまっていて。
あの冬から、それまで、毎年訪れていたはずのこの街の風景を心に思い描くことはなかった。
再びこの地を訪れるまでは。
俺は抜け殻だったんだろうか?
あの街で暮らしていた俺には、意味なんてなかったんだろうか?
七年という時間。
この街に来なくなってから過ごした、あの街での時間。
それは、さらさらと指の間からこぼれてゆく砂の粒のようなものだったのだろうか?
『祐一って、ときどき何考えてるのかわからないときがあるよね』
『ねえ、祐一、私のことちゃんと見えてる?』
俺は彼女を傷つけた?
『今は別れた方がいいんだよ、私たち』
『祐一のことは好きだよ』
『たぶん、祐一も私のこと好きなんだろうね』
『でもね、』
『祐一は全部で私を好きじゃないよね』
『私は祐一の全部でなきゃいやだよ』
『だから、』
『探し物を見つけてから、また会おうね』
『その時にまた会えたらいいね』
泣いていたな。
あのとき、彼女は泣いていた。
俺の心は真綿のようで、
ただ、その涙を静かに吸い込むだけだった。
心の奥底へと、
忘却の深淵へと、
涙は吸い込まれていった。
その穴には底はあるんだろうか?
その穴に潜れば、深く深く潜れば、
俺は、俺を取り戻せるのだろうか?
彼女の涙を見つめながら、俺はそんなことを思っていた。
冷たい人間だ。
そう思った。
人を本当に好きになることはできないのかもしれない。
そうも思った。
でも、俺は彼女にかける言葉を持たなかった。
彼女の言うことは本当だったから。
俺はどこかに「手つかずの自分」を仕舞ってあったから。
そう、それは、たぶん、七年前までの記憶とともに。
そう、それは、たぶん、七年前までの記憶のために。
俺の腕を枕にした、少女が寝返りを打つ。
ひとつ小さな声をもらす。
少女の匂いが俺を包む。
そんな匂いがあることさえ知らなかったような種類の、
俺の心にやすらぎをくれる匂い。
『でも、わたし、祐一さんを困らせることばかりしていました』
『それなのに、最後の最後まで、迷惑をかけていますよね』
小さな声で淡々と紡がれた言葉。
自分の境遇を嘆くことなく、
自分の運命を責めることなく、
ただ、はかなげに笑う少女。
悲しい瞳で、でも、笑ってみせる少女。
あのときの言葉は、けれど、
俺には叫びに聞こえた。
どんな大きな声よりも、俺の奥底へと響いた。
『起こらないから奇跡って言うんですよ』
少女はその言葉だけを残して、
俺とのささやかな思い出を抱いて、
こんな俺への恋慕の情だけを抱いて、
静かに暗闇と向かい合うことを選んだ。
俺は自分の無力を責めた。
何でもいいから少女のためにできることはないかと考えた。
俺にできることはたったひとつだった。
ただ、願うこと。
少女に再び会いたいと願うこと。
その手に触れたいと願うこと。
その声を聞きたいと願うこと。
その体を抱きたいと願うこと。
その唇に触れたいと願うこと。
その全てを知りたいと願うこと。
俺の全てを知ってほしいと願うこと。
『彼女』とその少女とは何が違ったんだろう?
俺は、ただ、目の前で消えていこうとしている少女を離したくなかっただけなのだろうか?
理由はわからない。
けれど、俺は俺の全部で願った。
「手つかずの俺」は失われてしまった。
けれど、
そんなものの何倍も、
少女の方が大事だったから。
現在は、まだ、手で触れることができる存在を、けして、失いたくはなかったから。
どういう力が作用したのかはわからない。
俺の願いが役に立ったのかもわからない。
けれど、願いが叶うことは格別で。
『こんな時は、泣いていいんですよね?』
顔をくしゃくしゃにして、はじめての涙をこぼす少女。
場所は、ばかばかしいほどの寒さの中で逢瀬を重ねた中庭。
けれど、そこにはその頃の面影はなく。
まるで他人のような表情で俺たちを見守る春の中庭。
『泣いてくれないと俺が困る』
そして、ふたり、学校の中庭で恥ずかしいくらいに泣いて。
幸せなくらいに泣けて。
春の風が吹いて。
土の匂いがして。
髪の毛が揺れて。
抱きしめた体からは、たしかに鼓動が感じられて。
これが現実じゃないなら、
何が現実だろう?
そんなことを考えて。
俺は気づいていた。
「どこかで俺を見ていた自分」がいなくなっていることに。
『なあ、栞』
遅い春、
満開の桜の下、ふたり並んで歩く。
『あゆ、憶えてるよな?』
『ええ、もちろん憶えてますよ』
『あいつ、いつも言ってた、”ボク探してるものがあるんだ”って』
あたたかい風が頬を撫でる。
冬の冷たい風の存在を、このあたたかい風の中で、
本当に信じることができるかい?
『もう長いこと会ってないけど、』
『最後に会ったとき、”探し物が見つかった”って言ってた』
『寂しそうな顔で、そう言ってた』
どうして、春の風は土の匂いがするのだろう。
どうして、春の風は生命の匂いを運ぶのだろう。
『俺にもあった気がするんだよ』
『探し物が』
『ずっと、何かを探してた気がする』
『でも、俺はあいつほど一途じゃなかったから』
『あいつほど、それを求められなかったから』
『だから、全部失くしてしまった』
『そんな気がしてる』
子供達が、大きな声を上げて、俺たちを追い抜いてゆく。
走り去ってゆく背中はすぐに遠ざかる。
『えっと、祐一さん』
栞が立ち止まる。
俺の方に向き直る。
そして、言う。
『そんなこと言う祐一さんは嫌いですよ』
にっこりと笑う。
『本当に祐一さんに探し物があるなら、』
『諦めずに探しましょうよ』
『もしよければ、』
『わたしがお手伝いしますから』
一瞬の静謐。
もう一度吹き抜ける風。
風に舞う花びら。
『いやだって言っても、ずっとつき合いますよ』
『だって、知りたいじゃないですか』
『大好きな人が、』
『誰より大切な人が、』
『何を探しているのか』
『だって、見たいじゃないですか』
『探し物を見つけたときの笑顔』
『とびきりの笑顔を』
『絶対、見てみたいですよ』
そう言った、栞の顔には、
今、自分が言ったのと同じ表情が浮かんでいた。
そして、俺は悟る。
俺が探していたのは、俺の欠片。
時間が流していった、俺の欠片。
栞がゆっくりと瞼を開く。
現実に帰ってくるまでに少し時間がかかる。
俺の存在を認識して、俺を映した瞳がゆっくりと笑う。
「祐一さん」
小さな声でささやく。
「夢を見てました」
「どんな夢だ?」
「えっと、細かいところは憶えてないんですけど、」
「とっても、素敵な夢でした」
小さく笑ってみせる。
「じゃあ、もう少し、寝てたかったか?」
笑顔のままで、首を横に振る。
「ううん、」
「起きてる方がいいです」
そっと小さな手を俺の頬にそえる。
あたたかい手。
やわらかい手。
「こうやって、祐一さんに触れることができるから」
俺の深淵はまだそこにあって、
たぶん、埋まるということはないのだろう。
たぶん、俺は探しつづけて行くんだろう。
見つからない答えを。
たぶん、俺は追いつづけて行くんだろう。
忘却の彼方へと去った、記憶の背中を。
でも、今は怖くはないよ。
見つからないことを怖れてはいない。
だって、俺にはお前がいるから。
お前が今もここにいるのは、
俺に笑顔をくれるため。
お前が今もここにいるのは、
俺と一緒に笑うため。
お前が今もここにいるのは、
俺と一緒に探すため。
俺たちが、今、こうしている理由を、
俺と一緒に探すため。
俺と一緒に探しつづけよう。
見果てぬ夢を見つづけよう。
「ね、祐一さん」
「ん?」
「わたし聞いてないですよね?」
「何をだ?」
「祐一さんが、わたしのことを好きになってくれた理由」
「知りたいか?」
「うん、知りたいです」
「それはな...」
'Cause you are my Shinin' star that lead
me to sunny place.
END
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【初出】Key SS掲示板 1999/10/10
【One Word】
ええっと、栞ですよね(笑)
S.Oとは違う、ゲームの延長線上の栞のつもりで書いてみました。
祐一は、「North bound flight」という、わたしのSSと
イメージがかぶってるかな?
タイトルは、小松未歩の1stに入ってる曲からです。
HID
1999/10/10
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