Strawberry Fields Forever






 もう何日目になるだろう、空の青さを忘れてしまうのではないかと思える程、天気の悪い日が続いていた。
 わたしは、右手で頬杖をついて、教室の窓から外を見上げる。もう夏が近いというのに、それを感じさせない重く暗い雲。大きなため息をひとつ吐く。
 ため息は天気のせい?
……そうだね。そうだったらいいのにね。




「どうしたの?いつもよりもさらにボーっとしてない?」山に登る人が着るような、あざやかなブルーのアノラック。ウェーブのかかった髪の毛を後ろで結んだ香里が、陰のない笑顔で言った。ほっそりとした手には、男の人が持つような大きなモスグリーンの傘。
「ううん、いつもと同じだよ」わたしは答える。笑顔を作りながら。
「ふーん」香里が疑い深げな声であいづちを打つ。わたしの顔をじっと見つめて。
 わたしは強ばった笑顔の理由を見透かされそうな気がして、すっと目を逸らす。そんなことをしても、無駄なこととは知りながら。
「ま、いいか。で、久しぶりのお誘いだけど、どうしたの?」
 同じ大学に進んだとはいえ、学部も学科も違う彼女とは、高校生の頃のように毎日会うことはなくなっていた。そして、その新しい距離は、確実に二人で過ごす時間の長さに影響していた。
「ど、どうもしないよ。たまには香里とお茶でも飲みに行きたいなって」
「お茶?」
「そう、お茶」わたしは必要以上に強く頷く。
 そんなわたしを見て、香里が笑みをこぼしている。その笑みを見ると、共有する時間の長さなんて、わたしと香里にとっては取るに足らないことの様に思える。
 わたしは、彼女の笑顔に気がつかない振りをして、降り出した雨の中に歩き出す。手に持った赤い傘を開きながら。




 本当に些細なこと。
 いつものように、わたしがわたしの好きなものをオーダーして、いつものように、あいつがわたしをからかって。
 じゃあ、何で、今の二人はいつもの二人じゃないんだろう?
 どうして、わたしは長い間あいつと口をきいてないんだろう?




「で、今日は本当にお茶を飲むのね」
 わたしたちのオーダーを取ってくれた、顔なじみの店員さんが去ったあとで、香里が口を開いた。そう訊ねられるのは嫌だった。けれど、いつものこの店に来ることを選んだ時点で、予想していた問いではあった。
「うん、たまにはね」
 たまにはねえ、と同じ言葉を繰り返して、香里は頬杖をついた。そして、カウンタの中で、わたしたちがオーダーしたものを作っている店の人をじっと見つめた。




『ご注文はお決まりですか?』
『んっと、わたしはねえ』
『考えるまでもないだろうが』
『え?』
『俺はこの店で、あれ以外のものを頼むお前を想像できない』
『どうして決めつけるの?』
『決めつけるとか,決めつけないとかじゃないだろ。俺は単に事実を言ってるだけだ』
『オーボーだよ。祐一』
『何、からんでるんだよ』
『からんでないよ』
『からんでるだろ』
 そこまで言って、祐一が店員さんの存在を思い出したように口をつぐんだ。
 わたしは恥ずかしくて、店員さんがどんな表情をしているのか見ることができなかった。わけもなく腹が立って、情けなくて、そのとき何を頼んだのかも覚えていない。
 どうしてだろう?何でわたしたちは、あのとき、言い争いをしてしまったのだろう。
 傘の下から、部屋の窓から、そして、教室の窓越しに、先を争って落ちていく雨粒たちを見ながら、わたしは何度も考えた。
 そして、考えるごとに、祐一に声をかけられなくなっていった。




「ふーん」
 香里がもらした小さな声が、わたしを現実に引き戻す。木の匂いがする、いつものお店。この季節には、お客さんたちが持ち込んだ雨の匂いがそれに混ざり合う。季節によって、日によって、時間によって、いつも少しずつ変わっていくけれど、いつでもわたしを落ち着かせてくれるこの店の匂い。もう何度も嗅いだ匂い。この場所で。香里と一緒に。他の友だちと一緒に。そして、祐一と一緒に。
「な、なに?」わたしは真直ぐに見つめてくる香里の視線を、避けるように目を伏せる。
「どうしたの?いつもよりも更にボーっとしてるよ?」香里が訊ねる。
「ううん、いつもと同じだよ」わたしは答える。
 わたしは、気がついて香里と視線を合わせる。
「…二度目」わたしたちは声を合わせて言って、小さく笑う。
 わたしは、気づかないうちに運ばれてきていた熱いお茶を口に運ぶ。すこしだけ雨の匂いを含んだやさしい紅茶の香り。口にすると、クリアに聞こえてくる雨の音。
「あ、この曲…」
 紅茶を口にするまで、店に流れている音楽にさえ気づかなかった。
 呟いたわたしに、香里がどうしたの、と視線で問いかける。
 祐一にもらった目覚ましの曲だ、と言おうとして、言葉を飲みこむ。祐一の名前を口にするのが、なぜか恥ずかしかった。
「い、いい曲だよね」
 そうかしら、という表情を香里がつくる。
「いい曲だよ、絶対」
「何ていう曲か知ってる?」香里が、イタズラを企む子供のような表情で言う。
 わたしは首を振る。曲名を訊いたときに、祐一も同じような顔で笑ったことを思い出す。
「じゃ、なんでこの曲知ってるの?」
「え、えっと、ひ、人にもらった、め、目覚ましの…」必要以上につかえてしまった自分が嫌で、言葉が最後まで続かない。
「そう。人にねえ…」意味ありげに香里が言う。笑いながら。
「香里は知ってる?曲名」
 香里の笑顔がすっと消える。一度目を閉じてから、わたしを見る。ちょっと考えごとをしているような表情が、その瞳をよぎる。そして、ゆっくりと口を開く。
「曲名はね…」




 講義の終わりを告げるベルが、降り続く雨に吸いこまれるように消えてゆく。
 わたしは、強ばりがちな頬を右手でゆっくりとほぐす。左手には、赤い大振りな傘。
『曲名はね…、名雪にぴったりよ』
 百花屋での香里の言葉。彼女は続けて、こう言った。
『でも、贈り主に訊くべきだと思うわ』
 だから、わたしは仕方なく、ここにいる。
 本当に仕方なくここにいる。
……仕方なく?ううん、わかってる。
 だって、祐一と話さない一週間は全然楽しくなかったもん。何を見ても、何を食べても、雨に濡れた花々を見ても、雨上がりの涼しい風に吹かれても、全然楽しくなかったもん。
 だから、わたしは感謝してる。
 予報どおりに降り出した、この雨に。今日、傘を持って出なかった祐一のうかつさに。そして、話しかけるきっかけをくれた、あの友だちに。

 教室の扉が開いて、数人ずつ連れ立った学生たちが、どこかぼんやりとした表情で廊下に出てくる。
 わたしは、ひとつ深呼吸をする。もう一度、右手で頬をほぐす。
 彼の姿が視界に入る。片手には透明なプラスティックのキャリングケース。もう片方の手はわたしのために空いてるね。
 左手に持った傘の柄を持ちなおす。一週間分の笑顔で、わたしは彼の名前を呼ぶ。






Strawberry Fields Forever
END
 
 

 久しぶりのKanonのSS。このSSはずいぶん前に本用に書いたのですが、途中で重大なミスに気づいて、陽の目を見なかったのでした。
 いや、タイトルの曲と"We can work it out"という曲が混ざってて、後者の歌詞を文中に使ってた僕は困ってしまったというだけですが。
 今回、この原稿を発見して、完成させるにあたって、再度同じ間違いをしたことは内緒です(サーチエンジンで調べていて、デジャヴュめいたモノを感じた)
 おそらくは、「僕」がバイト先で知り合ったという、中国人の女の子の言うとおりなのでしょう。
 『人の間違いには傾向があって、それは、人の願望の現れである』
 というわけで、2002年第一弾のSSでした。ビートルズの曲絡みのタイトルが多いですね。これも傾向か?
 それほど熱心なファンというわけではないんだけれど。
 読んでくださって、ありがとう。よかったら、感想を聞かせてください。

 HID (2002/04/09)


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