『雨を見たかい』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雨を見たかい?
 
 
 
雨を見たかい?
 
 
 
音もなく降る見えない雨を
 
 
あのとき君は
 
 
確かに見たかい?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
それは繰り返し俺をおそう。
 
きっと許されることのない行為、
 
消えることのない罪悪感。
 
コマ落しのようにゆっくりと、
 
冬の空気を舞う、白いうさぎ。
 
不格好な白い体、誰かが流した血のような瞳、
 
それを差し出した、小さな手を、
 
俺は知らぬ間に払いのけて。
 
 
ゆっくりと地面へと向かううさぎ、
 
それをなす術もなく見守った後、
 
はっと見上げた少女の顔には、
 
俺の予想する表情は浮かんでなくて、
 
そこにあったのは、
 
涙ではなく、小さな笑みで....。
 
その口をついて出たのは、
 
責める言葉ではなく、謝りの言葉で....。
 
 
 
 
俺はいいのだろうか?
 
ここにいてもいいのだろうか?
 
ゆるされたつもりで、
 
償ったつもりで、
 
名雪のそばで幸せでいて、
 
俺はそれでいいのだろうか?
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
どうして、わたしはこんなに女々しい。
 
幾度となく繰り返される光景。
 
わたしの頭から消えてくれない、あの瞬間。
 
グレイに染まったストップモーション。
 
一面の灰色の中で、うさぎの瞳だけが真っ赤な色で、
 
何かの象徴のように、真っ赤な色で。
 
わたしはもうゆるしているのに、
 
わたしはもうさみしくないのに、
 
あのとき、とどかなかった温もり、
 
それを今、祐一が与えてくれるのに。
 
それでも、忘れた頃に、その光景は甦る。
 
夢と夢の狭間にするりと滑り込んでくる。
 
 
 
 
もしかして、それは、
 
あのとき閉じ込めた涙の復讐。
 
流されるべき涙が、笑みにとって代わられた、
 
そのことへの、彼らの復讐。
 
 
 
 
ううん、ちがうね、
 
ほんとうは、わたしが、泣きたかったんだ。
 
 
 
 
ほんとうは、わたしが、悔いてるんだ。
 
泣くべきときに泣けなかったことを。
 
今でもわたしは悔いているんだ。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
その日は、あたたかくて、街を覆った暗灰色の雲からは、静かな雨が降り注いでいた。
 
街を白く覆った雪にしみ込む細い雨。
 
何も変ったように見えなくても、彼らは確実に雪を溶かしていた。
 
驚くほどの忍耐強さで、数ミリづつ、厚い雪のヴェールを浸食していた。
 
どことなく気分を重くさせる雨だった。
 
なぜか過去の罪を悔いたくなるような日だった。
 
俺は、ぼんやりと眺めていた参考書を机の上に放り出す。
 
椅子の背もたれに体をあずけ、天井を見上げる。
 
白い天井も窓からの灰色の光に染められていた。
 
言い表しようのない不安感。
 
喪失への謂れのない怖れ。
 
俺は身を縮めるようにして、急に襲ってきたそれらをやり過ごす。
 
 
『今日の夢のせいか』
 
 
そんなことを心でごちて、
 
ゆっくりと立って、ドアを開ける。
 
とりあえず、誰か他人の顔が見たかった。
 
 
 
 
いや、違うな、
 
一刻も早く名雪の顔が見たかった。
 
あいつのそばにいきたかった。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
その日は朝から雨が降っていた。
 
ここではめずらしい、冬の雨。
 
冬の雨はキライだった。
 
静かに降って、すべてを濡らすから。
 
わたしの体の中にまで、しみ込んでくるような気がするから。
 
わたしの中の流されなかった涙、
 
それと溶け合って、わたしの心を濡らすから。
 
 
 
 
わたしが目覚めたときには、祐一は、朝ご飯を終えて部屋に戻っていた。
 
ちょうど、お母さんが仕事に出かけるところだった。
 
「名雪、お昼は適当に食べてね」
 
玄関で靴を履きながらお母さんが言った。
 
「うん、わかったよ」
 
ふと、わたしの顔を見て、
 
何かを確めるようにわたしの顔を見て、
 
「具合でも悪いの?」
 
少し心配そうな声で、そう言った。
 
「ううん、全然、平気だよ」
 
わたしは笑顔をつくってみせた。
 
「そう、じゃあ、行ってくるわね」
 
納得のいかない表情で、それでも、お母さんが扉を開ける。
 
「行ってらっしゃい」
 
お母さんが雨の中に出て行く。
 
手にした赤い傘が静かに濡れる。
 
なぜだか、わたしは泣きたいような気持ちになる。
 
この世界にたったひとりで取り残されたような、
 
そんな茫漠とした気持ちが、わたしの中を満たしてゆく。
 
胸の奥で音が聞こえた。
 
静かに降る雨の音だった。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
コンコンと軽くノックをする。
 
返事がないのを確めてから、静かに扉を開く。
 
午前中だというのに、部屋の中は灰色で満たされていた。
 
部屋の主の姿はなく、ベッドの上に残された緑色のぬいぐるみが、
口元に微かな笑みを浮かべて、虚ろな瞳を俺に向けていた。
 
俺はひとつ小さなため息を吐いて、扉を閉める。
 
階段を降りて、リビングへ向かう。
 
カチャリと扉を開ける音が、不思議な響き方で、空間に広がる。
 
そして、俺はその原因に気づく。
 
 
『一人でいるには、この家は広すぎる』
 
 
リビングにも人の姿はなく、しんと静まり返っていた。
 
いつも親密な顔を見せてくれる食卓も、どこかよそよそしい表情で、知らん振りをしている。
 
俺は、食卓に手をついて、もう一度ため息を吐く。
 
 
 
 
漠然とした不安感。
 
たった一人で取り残された感覚。
 
レースのカーテン越しに外を見る。
 
降り続いてるはずの雨は見えない。
 
もう一度視線を食卓に戻す。
 
メモが残されているのが目に入る。
 
買い物に行くという用件とそれを書いた時間だけの簡単なメモ。
 
そして、最後に大切な名前。
 
俺の大切な女の子の名前。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雨を見たかい?
 
 
雨を見たかい?
 
 
目には見えない雨を見たかい
 
 
 
 
彼女の胸の内側の
 
形にならない涙を見たかい?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
ぼんやりとしていた。
 
積もった雪が雨音を吸収している。
 
サイレント映画のような、音の無い世界。
 
街を行き交う人も、降りしきる雨に音を吸い取られたようで、
 
奇妙な非現実感を伴って歩いていた。
 
街に出れば気分が変るかと思った。
 
なんとなく、祐一と顔を合わせたくなかった。
 
その両方ともが一人で買い物に出た理由。
 
けれど、思惑は裏切られて、
 
店に入れば、買う物も決まらず、
 
一人で歩けば、祐一の温もりを追い求めている。
 
 
『何をやってるんだろう、わたしは』
 
 
そんな思いを抱えて、ベンチに座る。
 
駅前の広場が見渡せる場所。
 
屋根に覆われた新しいベンチ。
 
そこから、あのベンチが見える。
 
 
 
 
祐一がわたしを拒絶した場所。
 
そして、祐一がわたしを待っていてくれた場所。
 
わたしの冷たい氷を祐一が溶かし去ってくれた場所。
 
 
 
 
わたしとベンチの間の空間を雨が埋め尽くして、
 
その雨のせいで、わたしはそこへはたどりつけない。
 
一人になりたかったはずなのに、一人はいやで、
 
気分を変えるはずだったのに、気分は変らなくて、
 
そして、空は泣きつづける。
 
静かな涙を流しつづける。
 
 
 
 
そして、わたしは待ち続ける。
 
涙の色に染まったままで、
 
わたしは誰かを待ち続ける。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
俺が我慢できたのは、ほんの五分ほどの間だけだった。
 
時計を確めて、意味も無く窓の外を見て、そして、俺はコートを羽織って外に出た。
 
相変わらず静かな雨が降っていた。
 
それは俺に誰かの涙を連想させた。
 
誰かが泣いているような雨だった。
 
本来泣くべきときに泣くことができずに、それを悔いて、一人きりで泣いているような、
 
そんなカナシイ雨だった。
 
 
 
 
商店街を歩く。
 
ただひとつの人影だけを探して、人々を縫って歩く。
 
行き交う人々の表情が気に入らなかった。
 
どこか無気力で、何かの影のように力が感じられなかった。
 
俺は苛立っていた。
 
ファーストフードの店から流れる間抜けな音楽が気に入らなかった。
 
ゲームセンターから聞こえる、無機質な電子音が気に入らなかった。
 
そして、なにより、たった一人の大切な人さえ見つけ出すことのできない、自分自身が気に入らなかった。
 
 
「相沢君」
 
 
突然、呼び止められる。
 
俺は、はっと後ろを振り向く。
 
モスグリーンの傘をさして、やわらかく笑ってる少女がいる。
 
「なにやってるの、こんなところで?」
 
屈託のない笑みを浮かべたままで、問い掛けの言葉を俺に投げる。
 
「あ、美坂か」
 
「名雪に逃げられでもしたの?」
 
からかうような光が瞳に浮かぶ。
 
「な、そんなことあるわけないだろ」
 
俺は無様なくらいに慌ててしまう。
 
「そう、ならいいけど」
 
そんな俺の様子には触れずに美坂が言う。
 
「美坂はどうしたんだ、こんなところで」
 
美坂のやさしい無視のおかげで、体勢を立て直した俺は言う。
 
「ん、私は予備校に行くところよ」
 
左手の手袋を少しめくって、腕時計を見る。
 
「じゃ、もう行くね」
 
そう言って、俺の言葉を待たずに背を向ける。
 
二、三歩行って、振り返って、にっこり笑って、こう言った。
 
 
「相沢君、
 
 
そんな怖い顔してたら、
 
 
ほんとに名雪に逃げられちゃうよ」
 
 
驚く俺の顔を確認するように、もう一度笑って、ゆっくりと前を向く。
 
そして、ゆっくりと歩いていった。
 
美坂の傘のモスグリーンだけが、この色の無い世界で輝いていた。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
わたしはどうしたいんだろう。
 
わたしはどこに行きたいんだろう。
 
わたしは誰を待っているんだろう。
 
ずっと、ここに座っていると、すべてがわからなくなってくる。
 
もう、どこにも行きたくないようなそんな気分になってくる。
 
もう、何もしたくないようなそんな気分になってくる。
 
 
 
 
背中に寒気が走る。
 
わたしは自分を抱えるように腕を組む。
 
気温が下がっていた。
 
雨も、手に取れそうなくらいに形を成しはじめていた。
 
 
 
 
ぽんっと、頭に手が置かれる。
 
わたしはゆっくり、振り返る。
 
どこか所在なさそうな微笑み。
 
ばつの悪そうな顔で祐一が立っていた。
 
 
「おはよう」
 
 
祐一がそんなことを言う。
 
 
「おはよ」
 
 
わたしも言葉を返す。
 
 
「元気か?」
 
 
ふざけているのか、真面目なのかわからない口調。
 
 
「あまり、元気じゃないよ」
 
 
わたしは、言葉が詰まりそうになる。
 
 
「隣、いいか?」
 
 
祐一が顎で、わたしの隣を示す。
 
 
「うん、いいよ」
 
 
祐一がそっと、隣に座る。
 
 
「誰かと待ち合わせか?」
 
 
さっきと変らない口調。
 
 
「ううん、一人きりだよ」
 
 
「そうか、じゃあ、俺とつきあうか?」
 
 
「やさしくしてくれる?」
 
 
言葉に少し鳴咽が混じる。
 
 
「やさしい男が好きか?」
 
 
わたしは黙って、首を横に振る。
 
 
待ち望んだ胸に顔を埋める。
 
 
そして、くぐもった声で言う。
 
 
 
 
「わたしは、祐一が、好き」
 
 
 
 
 
 
 
 
ごめんね、
 
 
ごめんね、
 
 
わたしは謝る。
 
 
あのときのわたしに、わたしは謝る。
 
 
あのとき、泣けなくて、ごめんね。
 
 
あのとき、無理させて、ごめんね。
 
 
だから、きっと、こんな風に、わたしはわたしのために泣くんだね。
 
 
だけど、きっと、この人が、ここにいなければ泣けなかったね。
 
 
 
 
ずっと、
 
 
ずっと、
 
 
きっと、誰にも気づいてもらえなかったね。
 
 
人知れず降る雨のように、
 
 
雪に染み込んでいくだけだったね。
 
 
わたしのとても大切な、遠い涙が溢れてくるよ。
 
 
遠い涙が、シャツを濡らすよ。
 
 
大切な人のシャツを濡らすよ。
 
 
 
 
 
 
―――――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
名雪はひとしきり俺の胸の中で泣いていた。
 
 
色の無い世界は少しずつ色を取り戻していた。
 
 
街を行き交う人々は、少しずつ影を取り戻していた。
 
 
静かに降る雨でさえ、形を持とうとしているようだった。
 
 
名雪の涙で、俺の厚手のダンガリーシャツが湿った。
 
 
ふと、目を上げると、ベンチが目に入った。
 
 
『この場所とは、つくづく縁があるらしいな』
 
 
そんな思いとともに苦笑をもらす。
 
 
雪が積もり、雨に濡れたベンチに、あのときの幼い二人が見えた。
 
 
そんな気がした。
 
 
あのとき、流せなかった涙、
 
 
それが名雪を苦しめるなら、
 
 
俺は、その涙を受け止めよう。
 
 
それを受け止めることができる、
 
 
自分のことを大切にしよう。
 
 
そして、それ以上に、俺は名雪を誇りに思おう。
 
 
けして、人を責めることをせず、やさしい自分を責めてしまう、
 
 
この女の子を誇りにしよう。
 
 
 
 
名雪がふと顔を上げる。
 
 
「ね、祐一」
 
 
甘い声で、俺を呼ぶ。
 
 
「安心したら、おなか空いちゃったよ」
 
 
ゆっくりと笑う。
 
 
俺は、そっと近づいて、つめたい唇にそっと触れる。
 
 
「わっ」
 
 
驚く名雪に俺は言う。
 
 
「少しの間、それで我慢できるか?」
 
 
ちょっと驚いた顔、その顔が笑いを纏う。
 
 
「いつまででも我慢できるよ」
 
 
そう言って、ことんと、頭を俺にあずけた。
 
 
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雨を見たかい?
 
 
雨を見たかい?
 
 
 
彼女が流す涙を見たかい
 
 
 
 
 
君の心を静かに潤す、彼女の涙を、君は見たかい?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−Have you ever seen the rain? −
 
 
 
END 

【初出】1999 9/14 Key SS掲示板
【One Word】
同名の曲がありまして、非常に好きなタイトルだったので、SS書いてみたくなりまして、
で、こういう風になりました。
実際、雪が積もっているところに降る雨っていうのは、なぜか、もの悲しさを誘います。
 
HID
1999/9/20
 

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