"Swingin' Days"    
  -Last Step

  




 
 
 
 旧式の到着案内板が、パタパタという音をたてて彼の便の到着時刻を示す。
 私は、左腕の時計に眼を落とす。
 案内板のパネルが示した時刻まで一時間半。思ったよりもずっと空いていた空港までの道のりをぼんやりと思い出す。車の姿が見えなかった対向二車線の道路のイメージと、発着便の少ないこの空港では、ずいぶん先の到着便まで表示されるんだな、という考えが交錯するように浮かんで、僅かのうちに消えてゆく。

 エア・コンディショナーの作り出す、冷たい空気に満たされた空港のターミナル。
 夏休みに入って間もないからだろうか、この地方空港でも大きな荷物を持った人々の姿が目立つ。
 サングラスをかけた背の高い男の人と、その肩くらいまでの背のショートカットの女の人が、手を繋いで通り過ぎる。二人とも大きなバッグを肩から提げている。歩み去る二人は、どことなく雰囲気が似ていた。よく日焼けして、すっと背を伸ばして、進む先をしっかりと見据えたような確かな足取りで。
 十分、大人といえる年齢の二人が手を繋いで歩く姿は、私に違和感をもたらす。いや、彼らに限ったことではない。私は、街で手を繋いで歩く人たちを見かけるときに、ふと考えてしまうことがある。どうして、人は手を繋ぐのかな、と。
 小さな子供、お年寄り、そういった人たちを扶助するために手を繋ぐ。それは自然なことだろう。けれど、いい大人が手を繋いで歩く理由はどこにあるんだろう?
 世の中にはそんなにも方向音痴な人が多いのだろうか、あるいは、『私たちは恋人同士です』と周りに知らしめたいのだろうか。
 それとも、片時も相手のぬくもりを離したくないのだろうか。
 軽く頭を振って、取りとめのない思考を振り払う。
 そういえば――。
 そういえば、私はあまり彼と手を繋いで歩いたりしなかったな。
 彼は私と手を繋いで歩きたかったのかな…。


 大きなエンジン音を響かせて、スマートな飛行機が目の前をゆっくりと過る。
 私は、振り払ったはずのつまらない思考に再び捕らえられようとしている自分に気づいて小さく笑う。
 こじんまりとしたターミナルビルの、壁いっぱいに取られたガラス窓に余るくらいの巨大な機体が、離陸のための滑走を始めるポイントへと向かってゆく。
 間近に見る飛行機の大きさは、いつでも新鮮な驚きを私にもたらした。白いボディに絡みつくような、七色のライン。派手な色合いが毒々しくて、どことなく海ヘビを連想させる。
 さらに大きくなった飛行機の音がそんな一切の思いを遮ろうとする。
 周りの空気を全て吸い込もうとするかのような、悲愴な叫び声。人々の注目を集めるようにひときわ高くなるエンジン音。
 やがて、大きな音を推力に換えて白い機体が加速してゆく。
 機首を上げた姿勢から、あるポイントを超えると、その機体は軽々と大気に浮かび、見えない糸に引き寄せられるかのように滑らかに上空に向かう。
 短い夏の訪れを告げる積乱雲が、どこか遠慮がちに浮かぶ青い空。大きな窓で区切られた、つくりものめいたホリゾント。それでも確かに夏の強さで降り注ぐ太陽の光を、飛行機の銀色の翼がきらりと反射した。


 私は、舞い上がった飛行機が、小さな点になり、やがて消えてしまうまで、じっと見つめていた。
 長時間の凝視に、視神経が疲労を訴えてくる。一度目を瞑り、ゆっくりと開く。
 腕時計を見る。月の位相を象った文字盤の上で、長針と短針が重なろうとしている。
 彼の便の到着まで、あと一時間二十分。
 冷たいコーヒーを飲むのもいいな、デッキに出て夏の風に吹かれるのも気持ちいいだろうな、そんなことを思う。
 小さな欠伸をひとつ。そういえば、昨日の夜は遅くまで寝つけなかった。それが、けして夏の夜の寝苦しさのためではなかったことに、私は気づいていた。
 まとまらない思考に、自分が浮き足だっていることを改めて思い知らされて、私はひとりで少し笑う。


 もう一度空を見る。もう飛行機の姿は見えなかった。
 夏の日射しが、私の気持ちに気づく風もなく、一心に地上に降り注いでいた。










  "Swingin' Days"  -Last step

  It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)






1.


「デュース・アゲイン」
 私の声と、理恵の声が重なった。
 夏の訪れを予感させる6月の陽射しが、私たち4人の影を短く、色濃く、地面に焼きつけている。
「ファイトだよ、香里」後衛の位置でラケットを構えた名雪が、彼女にはめずらしいきびきびとした口調で言う。
 私は振り返って、頷いてみせる。
「夏紀、決めるよ」ネットの向こう側、私の斜め向かいの位置でラケットを構えている理恵が、ベースラインに立つ背の高い女の子を振り返って言う。
 夏紀と呼ばれた女の子が、一回、二回と黄色いボールを地面に軽く叩きつける。
 長い手がすっと伸びて、トスが優雅な曲線を描いて上がる。彼女の体が柔らかくしなり、ラケットが中空のボールを捕らえる。
 私は、両手で持ったラケットのグリップを握りなおす。
 彼女のラケットに弾かれたボールは、今までにないスピードで私たちのコートに突き刺ささった。




「うう、くやしいよ。もう少しだったのに…」
 名雪が、赤くなった額をさすりながら言った。前髪を上げて額を出した姿は妙に子供っぽくて、私は思わず微笑みをもらす。
「うん、もう少し練習すれば、敵じゃないわね」
「…なんてこと言ってますけど」余裕の表情なのだろうか、憎らしくさえ思える笑顔を浮かべて、テーブルの向こう側の理恵が、隣に座った夏紀に言う。
「これだから、素人さんは怖いよね」夏紀が、良く陽に焼けた肌に似合う白い歯を覗かせて応えた。
「その素人にデュースまで追いつめられたくせに」名雪が、まだ額を気にしたままでぽつりと言う。こういう事になると負けず嫌いになる彼女が面白かった。
「少なくともラスト二本のサーヴは全力だったでしょ?」私は夏紀に笑いながら話しかける。
「あ、ばれてた?」
「ん、名雪のおでこがそれを証明してるもの」
「ごめん、ごめん」夏紀が笑いながら名雪の額に手を伸ばす。「ああ、まだ赤くなってるねえ」
「うう、結構、痛いんだよ」
 名雪の情けない声と表情に、みんなで声を合わせて笑った。開け放たれた窓から入ってきた6月の乾いた風が、4人を包むように吹き抜けた。




 予備校で不思議な知り合い方をした、理恵。彼女とは結局、同じ大学、同じ学部の同じ学科に通うことになった。クラスは違ったけれど、学科の必修科目では彼女と顔を合わせることが多かった。いつか感じた共感が錯覚でなかったことを証明するように、私と彼女は自然と一緒にいる時間が増えていった。何と言えばいいのだろうか、彼女は私の今までの知り合いにはいないタイプの人だった。
 気が向くといつまでも一人で話している。かと思うと、こちらがいくら話を向けても、口が重くて、全く乗ってこないこともあった。
 最初は、怒っているのかとさえ思った。私の何かが気に食わなくて、口をきかないのかと思うこともあった。
 けれど、段々わかってきた。それが彼女の行き方なのだと。
 わがままとか、自分勝手とか、そんなことを言われそうな性格だったけれど、そして実際、昔からの友達は彼女に向かってことある毎にそう言っていたけれど、言いつつも彼女たちは理恵のそんなところをあまり気にしてはいないようだった。
 不思議に思って訊ねた私に、中学からの知り合いだという女の子はこう答えた。
『まあ、理恵って昔っからああだしね』
 私は納得のいかない表情をしていたのだろうか、彼女が言葉を継いだ。
『ああじゃなきゃ、理恵じゃないって気もするし』


 名雪も相沢くんも学部は違うけれど、同じ大学。相沢くんと会うことは、高校時代に比べると、さすがに少なくなったけれど、名雪とは、互いがキャンパスに行く日には、時間を調整して会うようにしていた。成り行きとして、名雪と理恵も知り合いになった。そして、大学は違うけれど、理恵の高校の頃からの一番の友だちだという真田夏紀を交えて、四人で遊びに行くことが多くなった。
 買い物に行ったり、免許取りたての理恵の運転でドライヴに行ったり、そして、今日のようにテニスをしたり。
 それは、さらさらと流れて行くような毎日だった。
 新しいキャンパス、新しい教室、新しいテキスト、そして、友だちとの新しい距離。
 息をつく暇もないほどの日常の中で、私は少しずつ変わってゆく自分を、心地よく感じていた。




「名雪って、負けず嫌いだよねえ」夏紀がマグカップから口を離して言った。
「わたしのサーヴを二本続けておでこで受けた勇者は、名雪が初めてだよ」
「夏紀、ひょっとしてひどいこと言ってる?」
 名雪の懐かしい口癖を久しぶりに聞いて、私は思わず笑みをこぼす。横顔に視線を感じて、それを辿る。
 小さな手に大振りなカフェオレボウルを持った理恵が、真剣な表情で私を見ていた。
「何?」
 彼女は静かに首を横に振る。そして、一瞬の間を置いて、口を開いた。
「やさしい、笑い顔だね、香里」
 その声にはすこしだけ険が含まれてるような気がして、私は理恵の表情を探った。
 彼女は私の視線に気づき、口許だけで小さく笑ってみせた。








――私は冷たいのだろうか。


 今日の昼の会話を思い出しながら、ぼんやりと考える。
『潤…は、元気なの?』
 小さく笑った口許はそのままに、でも、その表情に釣り合わない声の硬さで理恵が言った。
『さあ、元気だと思うけど』
『思う?』
『うん、最近電話も来ないしね』
『かけない?』
『かけるわよ、たまに』
『そう』
 聞き取れないような声で理恵が言ってすっと視線をそらせた。
 私はその横顔をしばらく見ていた。微かに開いた口元から、今にも言葉がこぼれ落ちそうだった。長いまつ毛が少し震えた。


――それとも、これが距離の力?


『ほ、ほら、便りが無いのは良い便りって言うじゃない』
 夏紀が慌てたように口を挟んだ。
『そ、そうだよ。待てば海路の日よりあり、だよ』名雪が言った。
『難しい言葉、知ってるわね』微笑みながら、私は名雪に言った。
 夏紀が、心配と笑いを堪えているのが混ざったような複雑な表情で、私と名雪の顔を交互に見た。
『でも、用法が全然違うわよ』
 私は心の中で二人にありがとうと言いながら、夏紀と声をあわせて笑った。
 名雪は、ちょっと頬をふくらませて拗ねた表情を作ってみせた。
 理恵は頬杖をついて、どこか別の場所を見ていた。


――本当は、私はあの時泣くべきだったのだろうか。
 この街を離れる彼を目の前にして、泣いて約束をせがめばよかったのだろうか。
 それが何の役にも立たないとわかっていても、それでも、やはり泣くべきだったのだろうか。
――ばかばかしい。
 私は顎を支えていた両手に顔を埋める。
 何度も訪れるその問いに、意味なんてないことはわかっていた。答えは出してしまったこともわかっていた。
 それでも、ふとした拍子に、同じ問いを繰り返している自分がいた。


 机の上には開かれたままの英語のテキスト。読解の課題。
 名作と言われる文学作品とか、文献とかを題材としてその解釈をすることよりも、いわゆる語法や文法の方に自分が興味を抱いてることに、私は大学に入ってから気づいた。それなりの期待を持っていた「英文学講読1」の講義を何度か受けた後では、その思いはますます強くなった。
 それは一年生の必修専門科目だからかもしれないけれど、ただ教授の解釈を聞くだけのつまらない講義だった。毎回出される和訳の課題も、彼の文脈の上で考え、解釈をしたものでなければいけなかった。そこには、自分の感性など入る余地もない、いや、もしかしたら、課題となる作品を書いた作者の感性でさえ入る余地がないのかもしれない。
 私は、課題を機械的に訳しながら、いつか潤が言った言葉を思い出した。


『俺、読解だけは得意なんだよ』
 高校の頃、定期テストの勉強をしていたとき。
『単語がわからなくてもさ、何度も何度も読んでるうちに意味がわかってくる気がするんだよな』


「人類が始まって以来の歴史の中で…」
 私は、小さい声で、教授が講義の冒頭で言った言葉を真似てみる。顔を机についた両手に埋めて、目を閉じて。
「…人によって書かれたもので、およそ、人に理解されなかったものはない」


――それは本当だろうか?








「お姉ちゃん、どうかしたの?」
 私は栞の声で現実に引き戻された。さっきの独り言を聞かれただろうか。そんな思いが影響して、私は少し慌ててしまう。
「う、ううん、どうもしないわ。全然元気よ」
「そう」
 私の反応に訝しげな顔で、栞が応えた。
「し、栞こそどうしたの、遅いじゃない」
 見ると栞は、まだ制服のままだった。時計の針はすでに8時を回っていた。
「うん、部活。ちょっと遅くまでやったから」
「それだけ?」私は、ふと思い当たって、小さく笑いながら訊いてみた。
「そ、そのあと、ちょっと寄り道したけど」栞が妙に早口で、それでも正直に答える。
「ふーん」
「ぶ、部活の友達とだよ」
「私は何も訊いてないわよ」
 栞の頬が少し紅くなってるのがわかる。いつまでも、変わらない表情。ときおり憎らしく思うことはあるけれど、こんなときは、昔のままの小さな妹の表情。
「ご、ご飯食べてこよっと」栞が不自然に明るい声でそう言って、私の部屋を出て行った。
 私は、夏服を着たその背中を、笑いながら見送った。






 それは、さらさらと流れてゆくような毎日だった。
 そのまま流されてしまうのも悪くないと思えるほど、緩やかで穏やかな日々だった。










2.


 雨が降っていた。
 視界を遮るほどの強い雨。すべての音をかき消してしまうほどの、激しさ。私は窓際に立って、外を見ていた。
 それは、私の部屋ではなかった。栞の部屋でも、リビングでも、通い慣れたあの高校の教室でもなかった。
 そこは、私が意識の底に沈めたはずの場所だった。私たちが望まないうちに慣れてしまった、あの漂白された壁に囲まれた部屋だった。
 栞がベッドで眠っていた。私の経験は、朱のさしたその頬の色から悪い連想を引き出す。私は苛立ちとどうしようもない無力感を抱えて、ただ、窓から外を見ていた。
 頭の片隅に鈍い痛みがあった。何か大切なことを忘れている。そんな気がした。
 私が始めるはずだった何か、私が手放してはいけなかった何か。
 そんなものがあったような気がした。

 私はそれを思い出そうとした。
 頭がひどく痛んだ。
 雨の音が、頭の中から聞こえてくるような、そんな気がした。


 そして、まもなく、夢から醒めた。









 7月の激しく降る雨を、私は教室の窓から眺めていた。
 まるであの夢が呼び寄せたように、雨の日が続いていた。7月とは思えない、冷たい雨だった。薄いグレーの膜が世界そのものを覆っているようだった。いや、もしかしたら、覆われていたのは私自身だったのかもしれない。
 窓ガラスがまるでホースの水で洗われているようだった。雨の勢いは余りに強すぎて、それぞれの雨滴が形を残す暇(いとま)も与えないほどだった。
 私は右手のシャープペンシルをくるりと回した。意識して、優雅な曲線を描くように。勢いのついたシャープペンシルが、私の手から離れた。私は左手を伸ばすこともできずに、ただそれを目で追いかけた。
 カツンという乾いた音をたてて、シャープペンシルが床に落ちる。
 それを拾おうとしたときに、試験の時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「あー、やっと終ったー」理恵がそう言いながら、私の方に歩いてくる。
 試験の日程の最終日に組まれていたこの課目が、最後の試験という人が多いのだろうか、教室の中は、安堵と解放感に包まれていた。
 私は、チャイムのせいで拾いそびれてしまったシャープペンシルに、再び手を伸ばす。
「ね、香里久しぶりに百花屋でも行かない?」
 理恵の声が頭の上から聞こえた。私は手を伸ばした姿勢のまま、彼女を見上げた。シャープペンシルに触れるはずの手は、ただ空を掴んだ。私は視線を戻してその姿を探した。目の届く範囲には、それはなかった。
「香里?」
 理恵が訝しげな声で、再び私を呼んだ。
 私は顔を上げて探す範囲を広げた。それでも、その姿は見つからなかった。
「香里ってば」
 理恵の大きな声に驚いたように、周囲に残っていた人たちがこっちに視線を向けた。私はシャープペンシルを探すのをあきらめて、彼女を見た。
「ねえ、聞こえてる?」理恵が言った。
 私は小さく頷いた。
「なら、いい。行こう」
「どこに?」
 私の問いに驚いた顔をした後で、少し悲しそうな表情で、理恵が一瞬目を伏せた。そして、二、三回小さく頭を振ると思い直したような笑顔で言った。
「百花屋」








 雨の勢いは衰えることなく、私の持つ傘を叩き続けていた。
 気がつくと私は、懐かしい、でも、あの春以来、訪れることを避けていた場所にたどり着いていた。
 雨のカーテンの向こう側に、5階建ての建物が見えた。何度かの建て増しのせいで、複雑に入り組んだ形。けれど、迷路のようなその廊下を、私は迷うことなく目的地に行くことができる。
 その建物は記憶の中の姿よりも、ずっと小さいような気がした。私は、道路を挟んだ病院の向かい側の歩道で、足を止めた。屋上の給水塔の赤十字が、しっとりと濡れていた。
 頭に響くサイレンの音をたてて救急車が一台、目の前で右折して、病院の敷地に入って行った。サイレンの音は、雨の音にかき消されて、すぐに聞こえなくなった。






『で、調子はどう?』
 テーブルの向こう側から、理恵が問いかけてきた。
 雨のせいだろうか、百花屋は空いていた。私たちは、窓際の席に向かい合って座った。理恵の前には、冷たい紅茶の入った華奢なグラスが置かれていた。私の前のカップからは、柔らかな湯気が上がっていた。
『何の?』
『いろいろ。テストとか、教習所とか』
 理恵が一度、言葉を切って私を見た。
『あと、遠距離恋愛だとか』
 私はゆっくりとカップを口に運んだ。コーヒーの苦味が、私の頭に軽いキックを入れ、そこにあるぼんやりとした薄い膜を、少しだけ払ってくれたような気がした。

――遠距離恋愛。

 その言葉を口の中で転がしてみる。そして、その中身の無さに、私は思わず笑ってしまう。
『な、何?一人でにやにやしないでよ』
 理恵が、少し気味悪そうな顔で私の表情を見た。
 私は、今度ははっきりとした微笑みを浮かべて、理恵を見た。理恵は、ゆっくりと頭を振ると言った。
『答えはもういいや。訊かなくても良かったみたい』
『そう?』
『うん』
 理恵が、グラスをすっと持ち上げて、ストローに口をつけた。ゆっくりとグラスを戻すと、窓の外に視線を向ける。目にかかった前髪をゆっくりと払った。去年の冬に比べて長くなった髪の毛が、少し揺れた。
『ねえ香里』
 理恵が窓の外を見たままで言った。
『寝不足、なの?』
 私は理恵の口許を見ながら、彼女の目に映っているはずの、雨の風景を思い浮かべた。




 激しい雨の中には、人の姿は見えなかった。誰もこんな雨の日に出かけようなんて思わない。どんな大切な約束でも、こんな日には予定を変更せざるをえない。
 それは、簡単なことだ。彼女に電話すればいい。
 そして、こう言えばいい。「こんな天気じゃ、仕方ないよな」と。
 簡単なことだ。その申し出は受け容れられて、予定は延期されるだろう。約束はきっと果たされるはずだ。いつか、別の日に。
 必ず訪れるはずの、今日じゃない、いつかに。




『香里』
 理恵が私を呼んでいた。理恵の口許が、私の名前の形に動いた。私は、それを見ていた。
『香里』
 理恵が私に向き直って、もう一度言った。私は彼女の視線をしっかりと受け止めた。
『寝不足なの?』
 理恵が言った。
『どうして?』
 私は答えた。
 理恵が一度、窓の外を見た。それから、私を見て言った。
『この雨の向こう側にいる人と話してるみたいな感じだから』






 雨の中を歩くのは、悪い気分じゃなかった。
 少しだけ手が冷たくなったけれど、そして、履いているテニスシューズの色は、水が染み込んで変わってしまったけれど、そんなことはあまり気にもならなかった。
 人の姿をあまり見かけなかった。雨が世界を強烈に叩き、不要な音を遮断してくれた。私は、私の内側だけを見つめて、私の街を歩き続けることができた。
 噴水の公園にも、人影はなかった。入口のところにぼんやりと立って、雨の中で、まるでそれに抗うように水を噴き上げ続ける噴水を見た。
 こんな雨の中でも、噴水を止めないのには、何か理由があるのだろうか?
――― あるのだろう。きっとそこには、私の思いも及ばないような、立派な理由があるんだろう。
 私は、公園の景色に軽い違和感を感じて、そんな思考を打ち切った。もう一度、注意してその景色を見る。ひとつひとつの構造物と配置を頭の中でチェックするように。
 そして、私は気づく。
 公園を入ってすぐの場所にあった電話ボックスが無くなっていることに。






『ね、香里』
 グラスの底に残る氷をストローでかき混ぜながら、理恵が言った。夕方前の百花屋は、徐々に混雑しはじめていた。私の席から見えるテーブルで、私の良く知っている制服を着た、見たこともない男の子と女の子が、顔を寄せるようにして話をしていた。
 話の内容は聞き取れなかった。二人はときどき、静かに笑った。他の誰にも、その笑顔の欠片さえ渡すまいとするかのように、お互いのためだけに、とても静かに笑った。
『高校のときの知り合いにさ、香里を紹介してくれって頼まれてるんだ』
 私は理恵を見た。
『見た目はまあ、中の上か上の下くらいだけどさ、でも、わたしが言うのもなんだけど、結構いいヤツなんだ』
 理恵が明るい声で続けた。
『でさ、わたしと一緒のときに香里を見かけたらしいんだけど、笑っちゃうよね、一目惚れなんだって』
『だから、だからさ…』
 理恵が私から目を逸らせて、グラスの中の氷を見た。私も理恵の視線を追って、氷を見た。それはほとんど融けてしまって、グラスの底で薄い茶色の液体に変わっていた。
『…一度、会ってみなよ…』
 理恵の声が小さくなって、語尾が消えた。






 駅前の広場では、会社帰りや買い物帰りの人たちが、雨など全く気にもかけていないような早い足取りで行き交っていた。
 私は広場の片隅にある電話ボックスの横に立って、行き交う人々をじっと見ていた。
 買い物帰りらしい親子、女の人と小さな女の子が、駅の改札が見える場所に立っていた。お母さんらしい女の人は、重そうなスーパーマーケットの白いビニール袋を提げていた。女の子は、黄色い傘を差して、黄色い長靴を履いていた。
 雨に洗われた黄色が、とても鮮やかに見えた。女の子がときどき、女の人を見上げて、何かを言った。女の人は、それにやさしく笑って答えた。その度に、女の子もうれしそうに笑って頷いた。
 私が二人に気がついてから、15分くらい経った頃、改札を見ていた女の子の表情が輝くような笑顔に変わった。女の人も、女の子と同じ方を見て、微笑んだ。
 暗い色の軽そうなコートを着て、眼鏡をかけた男の人が、満面の笑みを浮かべて二人に近づいて、すっと女の子を抱き上げた。女の人は、微笑んだままそれを見ていた。
 男の人が女の人を見て、何も言わずに笑った。彼女の手の荷物を受け取ると、空いてる方の手で、女の子の手を取った。女の人は手に持った大きな傘を二人にさしかけると、もう一方の手で同じように女の子の手を取った。三人は駅からの雑踏に紛れて、見えなくなった。

 私は、自分が小さく震えているのに気がついた。
 両手で自分を抱きしめた。唐突にいくつもの感触が甦った。
 それは、雨の中で彼を受け止めたときの感触。
 それは、冷たくて暗い教室で私を受け止めてくれた時の感触。
 それは、私を暗いところから連れ出してくれた、唯一の温もり。










3.


 雨が降っていた。
 静かに、降っているのかいないのかわからないほど静かに、雨が降っていた。
 私は、静かに眠る妹の手をそっと離した。
 その手は冷たかった。私を拒絶するような、絶望的な冷たさだった。
 私は離した手を、すっとその頬に添えた。頬からも温もりは感じられなかった。
 椅子から立ちあがって、手を頬に添えたままで、窓の外を見た。
 約束を思い出した。
 ほんの少しだけ迷った後で、私は再び腰を下ろした。
 妹の表情を覗き込んだ。

 もう、約束の時間はとうに過ぎていた。

 もう、約束は意味を失っていた。








「お姉ちゃん、電話」
 栞の大きな声が、私を夢から醒ました。
 私は閉じたままの目に、強烈な明るさを感じた。目を開くと、忘れかけていた陽射しが、強く降り注いでいた。もう、雨は降っていなかった。
「お姉ちゃん、電話だって」
 ドアを開けて、栞が繰り返した。
「あ、うん。誰?」
 私のゆっくりとした反応を、腰に手を当てて見ていた栞の少し怒ったような表情が、一瞬で崩れた。
「あなたの、スウィート・ダーリン」
 そう言うと、私の反応を待たずに受話器を置いて、部屋を出ていった。私は、しばらくの間呆気に取られて、栞の出ていったドアを見つめていた。ドアがガチャリと開いて、再び栞が顔を出して言った。
「お姉ちゃん、寝惚けてる?早く出なよ」
 私は頷くと、受話器を取った。

 よお、久しぶり、と距離も時間も無関係なような声が、私の耳に届いた。










4.


 道路の両側に植えられた白樺の木の鮮やかな緑が、軽やかなスピードで後ろへと流れて行く。私は、真っ直ぐに伸びた道路の消失点を見つめて、車を走らせる。
 地平線には大きな積乱雲。小さく開けた窓からは、草の匂いを運ぶ夏の風。
 久しぶりに会う彼は、どんな顔で私を見るだろうか。
 私は彼に、どんな表情を見せればいいのだろうか。何と言って話しかければいいのだろうか。
 私は落着かない気持ちを抑えるために、手にしたステアリングに意識を集中しようとする。

『ああ、もう散々心配して損した』
 けれど、それは叶わず、彼が帰ってくることを告げたときの、理恵との電話が、思考の表面に浮かび上がってくる。
『そんなに明るい声出されたら、まるっきり、自分がバカみたいな気がしてくるよ』
 そう言って彼女は、大きなため息をついた。
『結局のところ』
 彼女はおかしそうに笑って言った。
『すべてはあいつのせいだったってことね』
『何が?』
『ん、気づいてないなら、いいよ』
 理恵の電話の向こう側から、街の雑踏が聞こえた。私は、いつか見た三人の親子を思い出した。
『ね、理恵』
『なに?』
『何て話しかければいいと思う?』
『はぁ?』
 私の問いかけに、気の抜けたような声で理恵が応えた。
『久しぶりに会って、何て話しかければいいんだろう?』
 しばらくの沈黙の後で、ため息のような声で理恵が言った。
『何でも、香里のしたいように話かければいい』
『そうかな?名雪にもそう言われたんだけど』
『何、みんなに聞いて回ってるの?』
『みんなにってわけじゃないけど』
『簡単だよ。“アイ・ミス・ユー”って言って、抱きつけばいいんだよ』
 からかうような口調で彼女が言った。
『そんなのできないわよ。私らしくない』
『そう?』
『そう』




 空港の駐車場に車を入れるときには、慌てて二つの駐車スペースの真ん中に止めてしまうところだった。
 駐車場の係の人に指摘されて、車を止め直してるときに時計を見ると、まだ、彼の飛行機の到着予定時刻までには、たっぷりと時間があった。
 私は、親切に誘導してくれた係の人に笑顔でお礼を言うと、空港のターミナルに向かった。初夏の陽射しを体全体で受け止めた。体の奥の方から、強い力が湧きあがってくるような気がして、私は、自然にターミナルに向かって駆けだしていた。




 彼の便の到着予定時刻が近づいて来ると、私の鼓動は段々早くなっていった。
 名雪か理恵を誘えば良かったな、そう思った。一人でいるのが、とても不安だった。でも、こんなにそわそわとした自分を彼女たちには見せられないな、と思い直した。そして、今日、何回目かわからない鏡を見るために、化粧室に向かった。
 そういえば、髪を肩のところで切ってからは、彼に会っていない。鏡の中の自分を見て、ふと気づいた。
 彼は、この髪型を見て、何と言うだろう?
『似合わない』とは言わないだろうけれど、彼が私を見て表情を変えただけで、自分が泣き出してしまいそうな気がした。
 冷たい水で手を洗う。そして、鏡に映った女の人を見る。
 彼女はすごく真剣な表情をしていた。
 その表情が、なぜかおかしくて、そして、わけもなくうれしくて、私は彼女に微笑みかける。鏡の中の彼女も、私に微笑みを返してくれた。

 彼女の微笑みのおかげで少し落着いた私は、ロビーに戻ると、もう一度到着案内板を見た。
 彼の便名の後の表示が「到着」に変わっていた。
 ガラス張りの扉の向こう側には、乗客たちが姿を現し始めている。荷物を流すためのベルトの前で、立ち止まって待っている家族連れの姿。いち早くロビーへの自動ドアを出て、迎えを探す私と同じくらいの年の女の人。
 私は、早くなる鼓動を体全体で感じた。彼を待っているだけでこれなのに、その姿を見たら、どうなってしまうんだろう。そんな考えが頭を過ぎる。
 大きく深呼吸をした。シャツのポケットのサングラスを意味もなく取り出した。
 自動ドアを見た。ちょうど彼が、大きなカバンを肩に提げて、出てくるところだった。
 彼が、私に気づく。ロビーのざわめきが、すっと遠のいていく。
 私に微笑みかけてくれた鏡の中の彼女も、小さな笑みを残して消えてしまう。
 私が刻むビートだけが、私の中を満たしてゆく。

 彼が大きく笑って、右手を挙げる。私は彼の元に駆け寄る。
 彼がカバンをフロアに下ろして、両手を広げる。
 私は、彼の腕に飛び込む。

 彼の匂いがした。彼の感触がした。彼の鼓動が聞こえた。
 私は彼を見上げた。彼は照れたような表情をした後で、言った。

「ただいま」

 私の口は自然に動いた。特別な準備なんて必要なかった。

「おかえりなさい」

 そう言って、私はもう一度、彼の胸に顔を埋めた。
 何も関係無かった。
 ここがどこなのかも、周りの人たちのことも、そして、私らしさでさえも。
 私は自分の腕に力を込めた。それに応えるように、彼が私を抱いた手に力を込めてくれた。
 私を満たした鼓動が、もう一つの鼓動と溶け合ってゆくような、そんな気がした。











































――― ねえ、私の鼓動が聞こえてる?













"Swingin' Days"   -Last step
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END







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(2000/12/12)


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