Swingin Days
Lover's step

『Say "Merry Christmas" to me』  

       〜3〜

 
 
 
 
 
 
 
 
雪が降っていた。
 
 
物心ついてから何度の冬をこの街で過ごしただろう。
何度こんな風景を見ただろう。
 
 
雪が激しく降っていた。
空間を埋め尽くすように降る、乾いた、軽い雪だった。
 
 
俺はその中をただ急いでいた。
自然にあの場所を目指していた。
噴水のある公園。
きっと、今頃は雪に閉ざされ、訪れる人もいないはずの場所。
 
そこにひとりで佇む香里の姿が見えた気がした。
 
 
早く香里を見たかった。
早く香里に触れたかった。
根元的な欲求。
ただ、香里がそこに存在しているということを感じたかった。
物理的に。
形而下的に。
 
 
どうしてだろう?
不思議だった。
こんなに強く他人を求めていることが。
こんなに強く香里を求めていることが。
 
 
どうしてだろう?
不思議だった。
こんなに強く求めているはずの人を、置き去りにする決断をした自分が。
香里を置き去りにすることを選択できた自分自身が。
 
 
 
 
噴水の公園の入り口に着く。
入り口の両脇に立つ常夜灯の明かりが、寂しさを増幅している。
常夜灯の人工的な光の中に、雪がいよいよ白く浮かびあがっている。
 
 
俺は、息を整えながら、公園に入る。
目を凝らす。
さがし求める。
 
目を凝らす程に眼前を舞う雪に視界を遮られる。
 
 
どこにも誰もいないような気がした。
あるいは、どこにでも誰かがいるような気がした。
 
 
でも、俺が求めてるのはたったひとりだった。
美坂香里。
その人、ただひとりだけだった。
 
 
 
 
噴水を見下ろす場所、東屋の下、人影が見えた気がした。
けれど、それは幻のようにも思えた。
 
 
 
 
ゆっくりと近づいた。
喉が渇いていた。
『冷たい水を飲みたい』
そう思った。
強く思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「北川さん」
 
 
何度も聞いた声だった。
電話で聞くと香里によく似ている声。
『直接聞くとあまり似てないな』
頭の中をそんなどうでもいい考えがよぎる。
 
 
人影が動いて、ゆっくりと光の領域に入ってくる。
 
 
「何やってるんだ?こんなところで」
 
 
目の前に立つ少女に問いかける。
色を失った唇が、少女がこの場所にいた時間の長さを教えていた。
 
 
 
 
「お姉ちゃんが」
 
 
「家にいなかったんです」
 
 
「きっと、ここだと思ってさがしに来たんです」
 
 
小さな声だった。
けれど、はっきりと俺の胸に届く声だった。
 
 
「そうか」
 
 
「栞ちゃん」
 
 
目の前に立つ、途方に暮れた表情の少女に呼びかける。
 
 
「俺がさがすよ」
 
 
「香里は俺がさがす」
 
 
「それは俺の役目だから」
 
 
「だから、栞ちゃんは家で待っててくれよ」
 
 
傘もささずに立つ少女を自分の傘の中に入れるために近寄る。
少し顎をあげて、俺の瞳をじっと見つめてくる。
一瞬、瞳が揺らぐ。
 
 
「約束...してくれますか?」
 
 
「お姉ちゃんのこと、必ず見つけてくれるって、」
 
 
「お姉ちゃんを必ず連れて帰ってくれるって、」
 
 
「約束、」
 
 
「してくれますか?」
 
 
ひとつの傘の中で、吐息がかかりそうな距離で、
俺の大切な人と同じ色の瞳の少女が言う。
 
 
「ああ、約束するよ」
 
 
「それだけは、俺がしなきゃいけないことだから」
 
 
「それをしないと、俺がここにいる意味が無くなってしまうから」
 
 
「だから、」
 
 
「約束する」
 
 
ふっと、糸の切れた操り人形のように、俺を見上げていた顔を伏せる。
ゆっくりと目を閉じる。
 
 
「...わたしもそう思います」
 
 
「北川さんが見つけてくれないと意味がない」
 
 
「そう思います」
 
 
かなしそうな声だった。
雪がすべての音を吸い尽くすように降っていた。
時間を、空間を、そして、音さえも、白い雪が覆い尽くそうとしていた。
 
 
「じゃあ、行くよ」
 
 
さっきまでの渇望が甦る。
一刻も早く香里を見たい、
そう思う。
 
 
「学校」
 
 
栞ちゃんがつぶやく。
 
 
「学校だと思います、制服がなかったから」
 
 
「ここにいなければ、たぶん」
 
 
もう一度、目の前の少女を見る。
俺を映す同じ色の瞳を覗き込む。
ずいぶん遠くに来たな、ふと、そんな気持ちになる。
あの日から、
この少女とはじめて校庭で会ったあの冬から。
 
 
栞ちゃんの右手に傘を渡す。
何か言おうとするのを目で制する。
 
 
そして、もう一度、言葉を投げる。
 
 
「約束、だな」
 
 
ふっと、微笑みをもらしてくれる。
姉に似た微笑み。
強くて、はかなくて、泣きだす一歩手前のぎりぎりの微笑み。
 
 
「約束...です」
 
 
俺は、走り出す。
学校に向かって。
間違いなく、そこに香里がいる気がした。
 
 
雪がいよいよ強く降っていた。
乾いた軽い雪だった。
俺の頬に、額に、張り付いては、すぐに溶けていった。
 
 
渇望。
 
どこかで感じた渇望。
 
それは既視感?
 
埋もれた記憶?
 
 
 
 
 
 
荒い呼吸の中で、唐突に思い出した。
あのときと同じだ。
あの冬の日。
栞ちゃんがICUに入った日。
香里が、自らと戦い続けていたあの日。
 
 
あのとき教室の扉を閉じたときの香里の表情を思い出す。
声にはならなかった言葉を思い出す。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『信じているわ』
 
 
香里は確かにそう言った。
俺には、確かにそう聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彼を残して、喫茶店の階段を降りたとき、
私の中は無力感で満たされていた。
 
 
頭ではわかっていた。
私は選ばなければいけなかったから、
そして、その答えは揺るがし難いものだったから。
だから、彼とやり直すことはできなかった。
時間を巻き戻すことができないように、
一度、こぼしてしまった涙を戻すことができないように。
 
 
そして、何より、私は気づいてしまったから。
私が心を奪われていたものの正体に。
 
 
それは、記憶という名の堅牢な城塞。
けして、見つかることのない隠れ家。
私が求めていたのは、彼のあたたかい手ではなく、
彼のあたたかい手の記憶だった。
 
 
私は彼に会ってはいけなかったのかもしれない。
彼をただ拒絶するためだけの再会。
この再会にそれ以上の意味があったのだろうか?
そんな思いに囚われそうになる。
自分の弱さが嫌になる。
自分の身勝手さが嫌になる。
 
 
でも、それでも、彼は笑ってくれたから。
私の言葉を聞いて、すごくやさしい笑顔をくれたから。
だから、やっぱり私も前に進まなくては。
この弱さを、この汚れた心を抱えて、
それでも、歩いていかなければ。
 
 
何より、大切な人に会うために。
誰よりも大切な人との時間を進めるために。
 
 
『会いたいよ、潤』
『また身勝手な思いだね』
 
思わず浮かんだ言葉を自虐の念が追いかけてくる。
 
 
でも、
それでも、やっぱり会いたかった。
潤の顔を見たかった。
潤の声を聞きたかった。
強く、強く、そう思った。
 
 
 
 
気がつくと雪が降り出していた。
雲が、その身を空に留め置くために、
その重みを減らすために、
自らをちぎって落としてきているようだった。
 
 
 
 
私は傘を開いた。
そして、ゆっくりと歩き出す。
 
 
 
 
答えを見つけることができればいいな、
そんなことを考えながら。
 
 
潤に話しかける言葉が見つかればいいな、
そんなことを考えながら。
 
 
重い心を、重い体を、なんとか前へと運んでゆく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
学校に着いたときには、陽はすっかり落ちきっていた。
校舎の中は薄暗かった。
もう部活のざわめきは聞こえてこなかった。
 
 
しんとした廊下を通って教室にたどり着いた。
静かに扉を開けて、人影のない教室に入った。
自分の席に座る。
机の中のものを取り出す。
バッグに詰め込む。
窓の外を見る。
高い位置から見下ろすと、空間が雪に埋められている様がよく見えた。
 
 
 
 
頬杖をついて、窓の外を見る。
 
 
頬杖をついて、窓の外を見つづける。
 
 
 
 
 
 
 
 
潤。
 
 
会いたいよ、潤。
 
 
 
 
 
 
でも、会って何を話そう。
 
 
会って、何をすればいいんだろう?
 
 
 
 
 
 
私が彼の隣にいる意味、
それは何だったろう?
 
 
 
 
 
 
私は、なぜ、彼の隣にいるんだったっけ?
 
 
 
 
 
 
あれ、
 
おかしいな。
 
 
 
 
何もわからない。
 
 
 
 
ちゃんと考えたはずなのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
潤。
 
 
 
 
 
 
早く来て。
 
 
 
 
 
 
再び扉が閉じる前に。
 
 
 
 
 
 
 
 
早く私のこの手を掴んで。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
学校に着く。
裏手の通用門に回る。
教職員用の出入り口から、校舎に入る。
一度、校舎の中に入ってから、自分の有様を見て、
苦笑しながら、もう一度外に出る。
職員用の出入り口の小さな灯りの下で、
コートや頭に積もった雪を落とす。
 
 
空を見上げる、
ダークグレイの雲から、白い欠片が飽くことなく落ちてくる。
 
 
一瞬、目を閉じる。
少しだけ、気持ちが落ち着いてゆく。
香里はここにいる、
なぜか、それを確信している自分を少し笑う。
 
 
不意に理恵の姿が甦る。
理恵の言葉が甦る。
 
 
『もう、行って、お願いだから』 
涙をこらえていた、小さな肩。
 
 
『ごめんな』
もう無意味だと知っていても、
心の中で謝ってしまう。
でも、今日を何度やり直しても、
やはり、俺は、理恵の思いには応えられなかっただろう。
俺は、もう遠いところまで来てしまっているから。
あの日のあの雪の風景から、
ずっと遠くへと、曲がりくねった長い道を歩いてきてしまったから。
 
 
 
 
別のイメージが浮かぶ。
まだ見たことのない香里の表情。
拒絶の表情。
俺を拒絶する香里の表情。
熱く火照った体、
香里に会いたいと願う思い。
それらを一瞬で冷めさせてしまう不吉なイメージ。
 
 
逃げ出してしまいたいような気持ちになる。
逃げ出せれば楽かもしれない。
けれど、それは理恵を裏切ることになるから、
栞ちゃんとの約束を破ることになるから、
なにより、俺と香里が積み上げてきたものを裏切ることになるから。
 
 
強く頭を振る。
イメージを追い払う。
そして、歩き出す。
最初はゆっくりと、やがて、駆けるように。
 
 
 
 
雪明かりで照らされた廊下を抜ける。
非常口を示す緑色灯、非常ベルの赤い灯り。
夜の校舎は思いの外、明るい。
職員室にはまだ明かりが灯っていた。
 
 
踊り場からのわずかな明かりを頼りに階段を上がる。
窓の少ない階段は闇の領域だった。
 
 
闇の中にひとりで佇む香里のイメージが浮かぶ。
それは、心を掻きむしられるような、
喉がちりちりと痛むような、
激しい焦燥感を再び喚び起こす。
 
 
俺は走り出す。
暗い階段を駆け上り、
できる限りのスピードで、教室に向かう。
 
 
 
 
 
 
もう少し、もう少しで会えるはず。
もう少しで、香里を見ることができる。
香里に触れることができる。
 
 
 
 
この手で、
俺のこの両手で。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どれくらいの時間が流れただろう。
私が誰もいないこの寒い場所にたどり着いてから。
 
 
私はなぜここにいるのだったろう?
−−学校に置いてあったものを取りに来たんでしょ。
じゃあ、もう帰らなきゃ。
−−一番大事なものをまだ、手にしてないでしょ。
自問と自答を繰り返す。
体が冷たくなってくる。
思考まで硬直していくような気がする。
 
 
なんで、こんなところで待っているんだろう?
そんな当然の疑念が湧く。
普通じゃない。
けれど、なぜかこの場所でなければいけないという気がした。
私たちが、私と潤が答えを出すのはこの場所以外にはない、そんな気がした。
 
 
 
 
 
 
頬杖をついたまま目を閉じる。
 
もう一度自分に問いかける。
 
どうして、私は再び扉を閉ざそうとしたのか。
 
どうして、同じ過ちを繰り返そうとしたのか。
 
何に背を向け、何から逃げ出そうとしていたのか。
 
ずっと遠くに淡い光が見える。
 
やわらかくて、あたたかそうな白い光。
 
 
私を照らす白い光。
 
 
手を伸ばす。
その光に触れるために手を伸ばす。
 
 
 
 
 
 
ガラッ、
大きな音を立てて教室の扉が開く。
その音に反応して、席を立つ。
入り口の方を振り返る。
 
 
 
 
入り口に人影がある。
肩が大きく動いている。
荒い呼吸。
 
 
 
 
「香里」
迷いのない声が私の名前を呼ぶ。
 
 
私のことが見えるのだろうか。
そこから私が見えるのだろうか。
 
 
「香里」
返事がないのを確かめる時間が流れたあとで、もう一度、私の名前が呼ばれる。
 
 
 
 
ゆっくりと近づいてくる人影。
窓からの明かりが照らし出す、淡い光の領域に人影がさしかかる。
 
 
浮かび上がったのは、私の待ち望んだ人の姿。
まだ、少し荒い息づかい。
紅潮した頬。
少し濡れた髪の毛。
 
 
「北川君」
 
 
私は彼の名前を呼ぶ。
昔の呼び方で彼を呼ぶ。
 
 
「何やってるんだ、こんなところで」
 
 
彼が私の前で立ち止まる。
 
 
「うん、人を待ってた」
 
 
目を伏せたまま私は答える。
 
 
「来たのか?そいつは」
 
 
「うん、ずいぶん待ったけど、来たみたい」
 
 
「香里」
 
 
「ねえ、北川君」
 
 
目を上げて彼を見る。
瞳に戸惑いが浮かんでいる。
 
 
「私のこと香里って呼んでいいのは、特別な人だけだよ」
 
 
「知ってた?」
 
 
彼が無言でひとつ頷く。
 
 
「私の特別な人になると大変だよ」
 
「私は泣き虫だから、」
 
「私は弱いから、」
 
「だから、私の特別な人はその度に私を支えなきゃいけないんだよ」
 
 
 
 
いやな物言いだった。
でも、どうしても彼の気持ちを確かめたかった。
どうしても、私のことをわかってほしかった。
つくりものじゃない私の、真ん中にある弱さを、
私の脆さを彼に知っておいてほしかった。
 
 
 
 
「ねえ、それでも...」
 
 
「香里」
 
 
彼が私の腕を掴む。
強い力で引っ張られる。
抱きしめられる。
厚いコート越しにも鼓動を感じる。
 
 
「...それでも香里って呼んでくれるの?」
 
 
「ああ、それでも、香里って呼ぶよ」
 
 
「俺は、やっぱり香里が好きだから」
 
 
「香里以外に俺の好きな子はいないから」
 
 
 
耳元で声が聞こえる。
とてもクリアに、ダイレクトに、
私の中心に響いてくる。
 
 
心地よい声。
私の内側から聞こえる、記憶の中の声ではなく、
今、私に呼びかけてくれる、
今の私を呼んでくれる、
心地よい声だった。
 
 
 
「北川君」
 
 
最後にもう一度だけ彼を呼ぶ。
昔の呼び方で彼を呼ぶ。
ごめんね、心の中で彼に謝りながら。
これが最後だから。
これは、私の迷いへの別れの言葉だから。
だから、最後にもう一度だけ、
この呼び方であなたを呼ぶよ。
 
 
 
 
「香里」
 
 
 
「だから、俺のことも名前で呼んでくれ」
 
 
「頼りなくて、鈍くて、どうしようもないかもしれないけど、」
 
 
「それでも、俺は香里から逃げ出すことはしないから」
 
 
「それだけは間違いないことだから」
 
 
「だから、そんなかなしい呼び方はもうするな」
 
 
 
腰に回された手に力がこめられる。
顔のすぐ横に吐息を感じる。
硬直した思考が溶けていく。
体の芯に巣喰っていた寒気が消えていく。
 
 
 
「潤」
 
 
 
小さく名前を呼ぶ。
 
 
背中に回した腕に力を込める。
もっと、温もりを感じるために。
もっと、鼓動を感じるために。
もっと、吐息を感じるために。
 
 
 
 
目を閉じる。
さっき見えた光がすぐそこにある。
手を伸ばす。
今度は、たやすく手が届く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ああ、そうだったのか。
私はやっと思い至る。
しみひとつない真っ白なシーツのように、
光りだけに満たされた世界。
そんなものは私の中にはないのか。
そんなものを手に入れることはできないのか。
 
 
それが当然だったんだ。
 
 
私は人間だから、
私は天使ではないから。
 
 
 
 
 
 
けれど、私は光を見つけることができる。
私を照らす光を見つけることはできる。
闇を知らないものに光は見えない。
私はあの日々を知っていたから、あなたの光を見つけられたんだね。
 
 
 
 
 
 
そうか。
だから、私はあなたがいいんだ。
 
 
 
 
 
 
闇に囚われない強さ。
もしかしたら、他人はそれを「鈍さ」と呼ぶかもしれない。
でも、誰がなんと呼んでも構わないよ。
それは、私にとっては、眩しいほどの光源だから。
あなたの光で照らされていれば、私の心が闇に染まることは、
漆黒の闇に沈むことはないはずだから。
 
 
たとえどんなに離れていても、
私がそれを望むかぎり、
あなたが私を思っていてくれるかぎり、
その光は必ず私にとどくはず。
 
 
 
 
 
 
だから、今、この冷たい空気の中、はっきりと感じられるあなたの温もりのように、
あなたの光さえ手に取れる気がするよ。
 
 
 
 
私は今、はじめて感謝できるよ。
あの日々をくぐりぬけてきたことに、
闇に心を閉ざしてしまったことに、
大好きな妹さえ消し去ってしまう、そんな暗闇を歩いたことに。
 
 
 
 
私は本当に感謝している。
今ならば、言える。
 
 
 
 
あの頃の私がいるから、今の私がいるんだって。
 
 
 
 
あの頃の私も笑っているのが見えるよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
それも、すべて、潤がいるから....。
 
 
 
 
あなたが私を照らしているから....。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
腕の中に香里がいた。
何度目だろう?香里を抱きしめるのは。
やさしい髪の毛の匂い、腕の中の確かな質感、
コート越しの鼓動、肩の辺りにかかる吐息。
 
 
できることなら、このまま時間を止めてしまいたかった。
いつまでも、ここでふたり、抱き合えたままでいれるならいい。
そんなことを思った。
 
 
「香里」
 
 
安心したような瞳で俺を見上げる。
 
 
「もう、行こう」
 
 
「ここは寒すぎる」
 
 
黙ったまま頷く。
俺の腕の中からするりと抜け出す。
机の上に置いてあったバッグを手に取る。
窓から射し込むやわらかい雪明かりが、
その横顔を照らす。
 
 
 
「なあ、香里」
 
 
「うん?」
 
 
「約束するよ」
 
 
「どうしたの、突然」
 
 
「約束したくなった」
 
 
やわらかく微笑む。
 
 
「何を?」
 
 
「俺、必ず受かるよ、大学」
 
 
「一年も、一時も無駄にしたくないから」
 
 
「そして、」
 
 
「香里を支えられる男になるよ」
 
 
「だから、少しだけ、」
 
 
「いや、少しじゃないかもしれないけど」
 
 
「待っててくれないか」
 
 
「俺のことを」
 
 
 
俺の言葉を聞いて表情を綻ばす。
やわらかな微笑み。
やさしい声。
香里が言った。
 
 
 
「今でも十分支えてくれてるよ」
 
 
「ただ、私が気がつかなかっただけ」
 
 
「でもね、」
 
 
「潤、」
 
 
「ありがとう、」
 
 
「うれしいよ」
 
 
微笑みながら、瞳には涙が溢れる。
 
 
そっと右手を伸ばす。
冷たい頬を伝う涙を拭う。
そっと左手を伸ばす。
背中に手を回して引き寄せる。
もう一度抱きしめる。
 
 
大切な人の温もりを確かめるために。
 
 
お互いが大切な人であり続けるために何をするべきかを、
もう一度確かめるために。
 
 
強く、強く。
けして、この感触を忘れてしまうことのないように。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ねえ、どうして傘がないの?」
 
 
校舎を出るときに香里に訊かれた。
 
 
「来る途中、かわいい女の子にあげた」
 
 
俺はわざと真剣な声で答える。
 
 
「ふーん」
 
 
訝しげな表情の後で。
 
 
「ありがとう、お兄ちゃん」
 
 
笑いながら俺に傘を差し出す。
俺も笑いながら傘を受け取る。
 
 
「なんだ、ばれてるか」
 
「当たり前でしょ、潤にからかわれる私じゃないわよ」
 
 
大きな笑顔だった。
久しぶりに見た気がする。
香里の笑顔。
自然に作られた、大切な表情。
 
 
「帰ったら栞に謝らなきゃ」
 
 
そんな言葉をふともらす。
 
 
「ずいぶん心配かけちゃったから」
 
 
そう言った後で、口元に笑みを浮かべて俺を見る。
 
 
「なんか、プレゼントでも贈るか、クリスマスに」
 
 
「俺たち、ずいぶん心配かけたからな、栞ちゃんに」
 
 
 
 
香里が、ちょっと不思議そうな顔で俺を見て、
そして、ゆっくりと笑顔になる。
笑顔のままでこう言った。
 
 
「うん、めずらしくいい考えね、潤にしては」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雪は静かに降りそそぐ。
人通りの少なくなった道はすっかり白いヴェールで覆われている。
さっき訪れた噴水の公園の前を通り過ぎる。
入り口に立った常夜灯が白い明かりで、周囲を照らしている。
雪のヴェールの上にやさしい光のエリアをつくっている。
 
 
空気が冷たい。
頬が痛い。
でも、右側にはこの上ない温もりとやわらかい体を感じる。
こんなに温もりを明確に感じ取れるのなら、寒い冬も悪くないな。
そんなことを考える。
 
 
 
 
 
 
 
 
「ねえ、潤」
 
 
香里が俺を見て言う。
 
 
「私、やっぱり怖かったよ」
 
 
「ふたりが離れてしまうこと」
 
 
「潤が遠くに行ってしまうこと」
 
 
「それが怖くて、逃げ出したんだよ」
 
 
 
「香里」
 
 
 
俺の声にひとつ頷いて。
 
 
 
「私は本当に弱かった」
 
 
「失うのが怖かった」
 
 
「でもね」
 
 
「やっとわかったよ」
 
 
「私がなんで潤を好きなのか」
 
 
「それが、はっきりわかったんだよ」
 
 
 
笑顔で言葉を続ける。
 
 
「だからね、」
 
 
「今はあまり怖くない」
 
 
「潤が遠くに行ってしまっても」
 
 
「その気持ちを見失わない自信があるよ」
 
 
 
 
俺はポケットの中でつないだ手に力をこめる。
香里がそれに気づいて、もう一度笑ってくれる。
 
 
 
「で、それが何かを訊いたら教えてくれるのか?」
 
 
「知りたい?」
 
 
「できれば」
 
 
うーん、と言って、目線を逸らせる。
 
 
「そうだ、じゃあ、こうしようか」
 
 
とても素敵なことを思いついた、とでも言うように、
瞳を輝かせて、俺を見る。
 
 
 
「来年のクリスマス」
 
 
「もし、その日に一緒に過ごせたら、」
 
 
「そしたら、必ず、教えるよ」
 
 
「潤を好きな理由を全部教えてあげる」
 
 
 
どう?子供のような表情で俺に問いかける。
本当はもうどうでもよかった。
今の俺の中に『何か』を見つけてくれて、
それを大事に思ってくれるだけで、
本当は、もう十分だった。
でも、香里があまりに楽しそうだったから、
そして、俺も約束がほしかったから。
 
 
だから、香里の提案を受け容れる。
 
 
 
 
「ああ、クリスマスだな」
 
 
「そう、クリスマス」
 
 
「イブでも、次の日でもダメだからね」
 
 
「クリスマス当日に、私に“メリークリスマス”って、言って」
 
 
「そしたら、全部、教えてあげる」
 
 
 
潤の知りたいこと全部教えてあげるよ....、
うれしそうに続ける香里の唇をゆっくりと塞ぐ。
 
 
長く、甘いキス。
 
約束のキス。
 
 
頭の芯まで届きそうなやわらかい感触。
俺の中の渇きを癒してくれるたったひとつの唇。
 
 
 
 
そして、近づいたときと同じように、ゆっくりと離れる。
 
 
香里がそっと目を開ける。
そして、そっと口を開く。
 
 
「いきなり、だね」
つぶやくように言う。
 
 
「約束をする時にはキスをするらしいぞ」
俺は少し笑いながらそう答える。
 
 
「そう、なの?」
 
 
「ああ、そうらしいぞ」
 
 
ふーん、知らなかったなあ、と言って、
ぐい、といきなり俺の袖を引っ張る。
 
 
俺は、不意をつかれて、バランスを崩す。
やわらかい体で受け止められる。
傘が落ちる音がする。
低くなった俺の唇をやさしい感触が塞いでゆく。
 
 
 
 
 
 
 
 
顔に降りかかる雪が冷たい。
その冷たさが心地いい。
触れた唇から香里の気持ちが伝わってくる。
あたたかい気持ちが俺を満たす。
 
 
 
 
 
 
 
 
そっと、顔を遠ざけて、
微笑みながら香里が言う。
 
 
 
 
 
 
「約束、したよ」
 
 
 
 
 
 
俺も微笑みながら答える。
 
 
 
 
 
 
「ああ、約束、したな」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Say "Merry Christmas" to me in every Christmas day in the future.
 

 
 
【初出】1999/9/26 Key SS掲示板 



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