Swingin' Days
Lover's step

 
 
 
 
Say "Merry Christmas" to me
       〜1〜
  
 
 
 
 
 
――― 愛がすべてを 変えてくれたら 迷わずにいれたのに ―――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さっきから体の震えが止まらない。
暖房の効いた部屋、あたたかいベッド。
その中に潜り込んで、胎児のように体を丸めて、私は震え続けている。
 
 
堅く閉じた瞼、その裏に幻のように情景が浮かぶ。
雪で閉ざされた公園、絶え間なく水を吹き上げる噴水。
一度止まってしまったら、凍りついてしまって、二度と元には戻れない、
そんな自分の運命を知っているかのように、噴水は水を吹き上げ続ける。
無機質で誰もいない風景、けれど、そこに安らぎを見いだしてしまう今の私の心。
 
 
食事の時の彼の言葉に満足な返事もできないまま、駅前で別れたあと、私は公園にいた。
 
 
雪が舞っていた。
闇の中に、常夜灯の明かりの中に、白い欠片が舞っていた。
それは、雲から落ちてきたものではなく、強い風が、街を覆った白いヴェールの表面から
剥ぎ取ったものだった。
 
 
私の思考は、目の前で舞う欠片のように細断されてそれぞれが上手く繋がらなかった。
頭の中をいろんな情景の断片がよぎった。
 
冬、栞の潤んだ瞳の中に映った私がいた。
 
春、お花見に行ったときのみんなの笑顔があった。
 
夏、潤の驚いた顔と、花火に照らされた横顔があった。
 
そして、秋の終わり。
中空に浮かぶ半分の月を見た。
冷たい空気の中で、白く宙に浮かんだ言葉を見た。
私と潤との間にあった言葉。
その言葉の意味、私がつくった笑顔。
 
 
私は笑えるはずだった。
笑って潤を見送るはずだった。
 
 
 
 
けれど、今では、そのどの情景も自分の記憶ではないようだった。
どこかで、間違って私の中にインプットされた、知らない誰かの記憶のようだった。
 
 
何もかもが現実感を伴っていなかった。
体が感じる風の冷たさ、これは現実?
徐々に無くなる両手の指の感覚、これは現実?
闇の中にきらきらと光る、結晶のような水しぶき、これは現実?
 
 
ねえ、私はどこにいるの?
 
 
 
 
ねえ、『あなた』はどこに....。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『お姉ちゃん』
 
 
私がかつて、封印した言葉、
その言葉が、私がかつて否定した人によって紡がれる。
 
 
『何やってるの? こんな時間に、こんなところで』
 
 
私はゆっくりと、声の方に向き直る。
 
 
紺のピーコート、厚手のマフラー、ダークブラウンのウール地のパンツ。
喜びとも、かなしみともつかない複雑な表情を浮かべて、栞が立っていた。
 
 
栞、しおり、シオリ...、
思考が変な風に反響する。
 
 
何だろう?
何かが頭のどこかに引っかかっている。
栞の姿が、今は泣き出しそうな顔で私を見ているその姿が、
私の中の何かを引き出そうとする。
 
 
手を伸ばす、それを掴まえようと、手を伸ばす。
もう少し、もう少しなのに...。
けれど、その背中はするりと消え去って、私はあっさりと後を追うのをあきらめる。
 
 
 
 
『手袋もしないで...』
そう言って、自分も手袋を外して、すっと栞が私の手を取る。
私の手に触れた瞬間に、驚いたような表情が浮かぶ。
けれど、それも一瞬で、沈痛な表情に戻った栞が言う。
 
『ねえ、変だよ、お姉ちゃん』
 
『こんな所で何やってるの?』
 
『何を見てたの?』
 
『何を迷ってるの?』
 
 
 
 
『ねえ、なんで、なんで何も言ってくれないの....』
 
 
語尾は、嗚咽に淡く溶けて。
 
でも、私には返す言葉がなかった。
 
 
栞の言葉は深い闇へと吸い込まれていった。
私の中の漆黒。
古井戸のような深い竪穴。
この穴に底はあるのかな?
私はそんなことを考える。
 
 
 
 
 
 
何も言わないわたしを、濡れたままの瞳で「きっ」と見て、
そして、手の甲で涙を拭って、私の手を引いて歩き出す。
 
 
冷たい私の手が栞の手の温もりで溶けてゆく。
温かい栞の手が私の手の冷たさで冷えてゆく。
 
 
 
 
 
 
また、誰かの背中が見えた。
 
 
ひどく遠く、闇の向こうに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私は一層体を丸める。
これ以上、何も失わないように。
体温さえも、吐く息でさえも、私の中から失われるものの、すべてが惜しかった。
 
 
 
 
このままでは、私の中には何も残らない、
そんな気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
僕は本当は何を求めているんだろう?
 
 
僕の心の一方からは、『それは思い出の欠片に過ぎない』という声がする。
けれど、もう一方では、度し難いほどの身勝手さで彼女を求めている。
 
 
静かに降る雪の中、たったひとりで傘をさして立っていた彼女。
この出会いはふたりのために用意されていたのではないか、とさえ思えた。
そして、振り返ったときの表情。
何かに縋るような、頼りない表情。
そこによぎった微かな陰。
その陰が、目の前の女性が、あの少女に違いないことを確信させてくれた。
 
 
 
 
「少女」というには大人びた陰をもつ子だった。
あの頃、彼女の陰に気づきながら、僕はそれに触れようとはしなかった。
扉を開くのが怖かった。その中にあるものを受け止める自信がなかった。
だから、僕は笑うしかなかった。
人当たりのよい笑顔を浮かべて、彼女の話を聞くことしかできなかった。
 
 
そう、僕はまるで、昔話に出てくる「木のうろ」のようだった。
秘密の重さに耐えかねた、正直で、気の毒な村人が、それを吹き込むための、
ただ、空っぽな木のうろ。
 
 
『いつか、いつかこの子のすべてを受け止めることができるようになりたい』
そう思っていた。
 
 
 
 
でも、僕は、その『いつか』を信じていたのだろうか?
 
 
 
 
今がそのときで、僕は彼女のすべてを受け止めることができるのだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
土曜日の夜、北川さんの電話を切った後で、わたしは家を出た。
 
妙に胸騒ぎがした、嫌な予感が止まらなかった。
 
傘を持って家を出て、もう雪がやんでいることに気づいて、傘を置きに家に戻った。
 
すべてを凍りつかせるような冷たい風が、あたたかい空気に慣れた頬に、斬りつけてくるように感じられた。
 
 
街灯の明かりの中で、風花が舞っていた。
 
足は自然とあの場所に向いた。
 
確信めいた予感、それがわたしの中にはあった。
 
噴水の前に呆然と立ちつくしているお姉ちゃんの姿を見つけたとき、
涙が溢れそうになった。
 
あんなに寂しそうで、あんなにかなしそうなお姉ちゃんを見たのは、二度目だった。
 
最初に見たとき、
去年のクリスマスの日、
あのときには、もう二度とあんな姿を見ることはないと思ったのに。
 
わたしの声に気づいて、振り返ったお姉ちゃんの表情の変化は緩慢で、
それが、わたしの中の不安を、一層駆り立てた。
 
握った手は冷たくて、わたしの心をぎゅっと捉えて、離さなかった。
 
不吉な予感、不吉な冷たさ。
 
どんな言葉もお姉ちゃんの心に届かず、
わたしは諦めて、冷たい手を引いて、家路をたどった。
 
左手で握ったお姉ちゃんの右手の、銀のリングが冷えきっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『とびらをひらいて』
 
 
 
 
 
たやすく閉じてしまう、あなたの扉、
冷たく暗い部屋に自分を閉じこめてしまう、あなたの脆さ。
人に縋ることをせず、すべてに背を向けてしまう、あなたのやさしさ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『はやく とびらを ひらいてあげて』
 
 
 
 
 
 
 
 
わたしはずっと呼びかけた。
 
 
 
 
 
 
 
それをするに能うたったひとりの人を頭に思い浮かべて。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
風花が激しく舞っていた。
 
繋いだふたりの手が、均質に冷たくなっていった。
 
ふたりとも何も話さなかった。
 
わたしたちが一度通り抜けたはずの暗い迷路。
 
気がつくと、またそこに迷いこんでしまったようだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「お姉ちゃん、今日は寝ちゃったんですよ」
 
ライン越しに聞こえる声が沈んでいる。
昨日聞いた声と違う、その色合いが、俺を不安にさせる。
 
「昨日、寒い中、長い時間外にいたみたいで、調子がよくないそうです」
 
「そうか」
 
昨日、土曜日の昼に香里と別れてから、まだ一日半、たったそれだけの時間で、
何かが決定的に変わってしまった気がした。
それが何かはわからないけれど、不安は募った。
俺の気のせいであってほしいと願った。
 
 
「じゃ、仕方ないな」
 
「また明日な、栞ちゃん」
 
 
俺の言葉への返事が遅れた。
 
 
 
 
「...北川さん、」
 
 
逡巡の沈黙。
 
 
「お休みなさい」
 
 
栞ちゃんは言葉を紡がない方を選択して、そして、ラインは程なく切れた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
机に向かってみる。
参考書を開く。
目はそこに書かれた文字の上を滑るだけで、内容は頭にひとつも入ってこなかった。
 
 
香里の顔を思い浮かべてみる。
 
大きく、理知的な光を湛えた瞳を思い浮かべる。
 
すっと通った鼻筋を思い浮かべる。
 
少し厚めのやわらかい唇を思い浮かべる。
 
綺麗な曲線を描く、華奢な顎を思い浮かべる。
 
もう目に焼き付けられたそれぞれのパーツ。
けれど、それらの部品がつくる表情は、
俺が今まで見たことのある、どの表情とも違っていて、
すべてを拒絶しているような、
俺のすべてを拒絶しているような、そんな表情で。
 
 
いつかそれが現実になるのではないか、という不吉な予感が俺を苛む。
 
 
俺は、頭を二、三度振って、それを追い払う。
 
 
 
 
 
 
香里の表情が別の女の子に変わってゆく。
 
 
今日の帰り際に見た理恵の表情。
 
 
そして、理恵が言葉を紡ぐ。
 
 
 
『ずっと、忘れられなかった』
 
 
 
流れた時間が凝縮されたかのように、
理恵の口から出た言葉は、白く固まって、闇に浮かんだ。
 
 
その言葉の重み、
それがわからない俺じゃなかったけど、
けれど、
言葉以上に気になったのは、理恵の表情だった。
 
 
それは、とても不安そうな表情で、放っておくと、すべての感情を吸いこんで、その心の
扉を閉じてしまうんじゃないかと思えるくらいの茫漠とした表情で。
 
 
俺は、そんな表情をかつて、どこかで目にしたことがある気がした。
 
 
そう遠くない昔に、
誰か他の人の顔に浮かんだのを、
見たことがある気がした。
 
 
あるいは、それは既視感だったのだろうか?
 
それとも、消してしまいたかった記憶の欠片?
 
 
 
 
 
 
いずれにしても、すべては明日だ。
明日になれば、香里に会えるから。
会ってみれば、すべては俺の思い過ごしで、香里はやさしく笑うかもしれない。
俺のばかばかしい不安感を、やさしい笑顔で吹き飛ばしてくれるかもしれない。
 
 
きっと、そのはずだ。
 
 
すべては明日だ、明日、香里に会えば、すべては解決するはずだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なんでだろう?
 
 
あんなこと言うつもりはなかった。
ただ、一緒に笑って、ちょっとからかって、そして、また気軽に話せるようになりたかっただけ、
あの頃のように。
そして、潤の隣にいる、あの綺麗な子と少し話をしてみたかっただけ。
 
 
それがわたしの望みだったはず。
 
 
 
 
本当にそう?
 
 
うん、半分は本当。
潤とあの子は、くやしいけど「様になってる」から。
だから、あの子に訊いてみたかった。
 
 
 
 
  潤がどんなにやさしくしてくれるか
 
 (わたしにしてくれたのと同じなの?)
 
  潤がどうやって笑いかけるのか
 
 (わたしの知ってる笑顔と違う?)
 
  そして、潤がどうやってあなたを求めたのか
 
 (..............)
 
 
 
 
昔、わたしは逃げだした。
ううん、そうしようと思ってしたわけじゃない。
本当はあのとき、手を握りたかった。
おずおずと、でも、確かにわたしの目の前に差し出された手。
ずっと近くにいて、他の誰よりも、わたしのことを知っていたはずの人の手。
それをしっかりと握りたかった。
 
 
 
 
でも、怖かった。
とても、とても怖かった。
 
 
 
 
ふたりの間の漸減する時間、それに反比例するように漸増する距離、
それらを越えてまで、潤がわたしを好きでいてくれるのか、
わたしが潤を好きでいられるのか、確信なんて持てなかったから。
 
 
だから、ゆっくりとした喪失よりも、始めないことを選んだ。
潤とわたし、ふたりで積み重ねた時間に背を向けた。
あのときなら、大丈夫なはずだったから。
あのときは、その時間の重さを知らなかったから。
 
 
 
 
だから、潤に言った言葉の半分は本当。
 
 
  潤のこと...、
 
  忘れたことなんてなかったよ。
 
  もう一度、会いたいって、
 
  ずっと、ずっと思ってたよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  でもね、
 
 
  でも......。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
月曜日の朝、俺の期待はあっさりと裏切られた。
いつもの曲がり角で俺が見つけたのは、ひとつの背中だけだった。
 
 
「おはよう、栞ちゃん」
 
 
ゆっくりと振り返るその瞳に、一瞬のうちにたくさんの表情が現れて、そして去っていった。
 
 
「おはようございます、北川さん」
 
 
静かな声だった。
感情を押さえつけているような、不自然な声だった。
 
 
「香里は?」
 
 
努めて、明るい声で、俺は訊いた。
 
 
「まだ調子が悪いらしくて、でも、終業式には出るって言ってました」
 
 
3年生は今日が終業式だった。
受験に備えて、1、2年生より一週間早く休みに入る。
 
 
「そうか」
 
 
それを最後にふたりの間に沈黙が流れた。
居心地の悪い沈黙、お互いがお互いの内側に潜むものに思いを囚われているような、
隣に誰かがいることを忘れてしまっているような、愚かな沈黙。
 
 
「北川さん」
 
 
学校に近づいて、生徒達の姿が目立ちはじめた頃、栞ちゃんが口を開いた。
 
 
「お姉ちゃん、何か迷ってるみたいです」
 
 
「だから、話をしてください」
 
 
「ちゃんとお姉ちゃんを見てあげてください」
 
 
 
 
その言葉には少しの怒気とそれ以上の不安の色が含まれていて、
俺は、あらためて、自分の愚かさと向き合わされる。
 
 
ふたりの間の微妙なズレ、それが原因で香里が苦しんでいるとしたら、
そんなズレは、きっと時間が解決すると決めてしまっていた、俺の過信のせい。
 
 
 
 
「じゃあ、また」
「ああ、またな」
 
 
校門に入って、そう言って別れるまで、俺はひと言も話せなかった。
 
 
 
 
ふたりで積み重ねた時間という名の砂の山。
それが崩れ出したような気がした。
両の手の十本の指の間から、ぼろぼろと零れ落ちる、時の砂が見えたような気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「香里、どうしたんだろうねえ」
水瀬が、心配そうな顔でつぶやく。
終業式後の教室、ホームルームを待つ時間。
俺の斜め前の席、水瀬の前の席は空いたままだった。
 
 
「何も聞いてないのか?北川」
相沢が、俺の方を振り向いて、言う。
 
「体調悪いらしい、ってのは聞いてるけどな」
 
そう答える俺の表情をじっと見て、
 
「なあ、お前、美坂とちゃんと話してるか?」
 
真顔でそう言った。
 
 
 
 
俺が、返す言葉を探しているうちに担任が入ってきた。
そして、二学期最後のホームルームが始まった。
香里のいないホームルームだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トゥルルルル...。
呼び出し音が鳴り続ける。
講義と講義の合間、時計の短針は二と三の間を示している。
予備校のロビーの片隅にある公衆電話。
ロビーには相変わらずたくさんの人が行き交い、ざわめきが空間に満ちている。
けれど、その中に俺の探し求める人の姿はなくて。
 
 
トゥルルルル...。
10回目の呼び出し音を聞いてから、ゆっくりと受話器を戻す。
小さなため息とともに。
 
 
 
 
「また、ため息ついてる」
 
からかうような口調とともに、理恵が現れる。
 
「暗いよ、潤」
 
明るい笑顔、
昨日の夜の不安げな表情が嘘のような。
 
「これから講義?」
 
畳みかけるように問いかけてくる。
 
「ああ、夕方までずっとな」
 
ひとつ小さく頷いて。
 
「じゃあ、一緒に帰ろうね、講義終わったら、ここで待ってるから」
 
そう言って、俺の返事を待たずに、ひらひらと手を振って、去って行った。
 
 
俺はしばらくの間、理恵の勢いに気圧されたように立ちつくしてしまう。
そして、ひとつの苦笑と、ひとつのため息をもらす。
 
 
そして、ゆっくりと教室に向かう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ようやくベッドから出たときには、11時を過ぎていた。
パジャマが汗でぐっしょりと湿っていた。
まとわりつくような不快感。
体の芯に染み込んだ寒気は取れていなかった。
 
 
家の中はしんとしていた、みんなそれぞれの場所に行ってしまったのだろう。
父と母は職場へ、そして、栞は学校へ。
 
 
ベッドに腰かけて、頭を軽く振る。
少し、頭が重い。
 
 
 
 
 『お姉ちゃん、時間だよ』
 
 
 今日の朝の栞の声が甦る。
 
 
 『お姉ちゃん』
 
 
 そっとドアを開けて部屋に入り、ベッドの中の私を見つめる。
 ベッドの開いているところに座って、右手を私の額に当てる。
 冷たい手が心地いい。
 熱はないみたいだけど、と、つぶやくように言った後で、
 『学校、行かないの?』
 表情のない声で問いかける。
 
 
 私はそっと目を開けて、栞を見つめる。
 
 
 『どうして、そんな瞳をしてるの』
 
 
 独り言のような小さな声で栞が言う。
 
 
 しばらく私の瞳を真っ直ぐに見つめて、
 『学校、行かないの?』
 もう一度、同じ問いを繰り返す。
 
 
 『うん、先に行って、終業式には間に合うように行くから』
 
 
 私の力無い声での返答に、黙ったまま、ひとつ頷いて、すっとベッドから立ち上がる。
 少し伸びた髪がさらさらと揺れる。
 やわらかい、カモミールのような匂いがした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『お姉ちゃん』
 
 
 
 
 
 ドアのところで立ち止まっているのだろう、
 その姿はベッドの中からは見えなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 『ちゃんと自分のことを見てね』
 
 
 
 
 
 
 『今のお姉ちゃんは....、』
 
 
 
 
 
 
 重たい静謐が部屋を満たす。
 
 
 
 
 
 
 
 『....わたしがもう見ることがないと思ってた瞳をしてるよ』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 何かをこらえるように声が震えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『そんなお姉ちゃんは、』
 
 
 
 
 
 
 
 
 『....好きじゃないよ』
 
 
 
 
 
 
 
 
 カチャリ、と扉の閉まる音がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
もう一度、頭を振る。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
ふらつく足元に注意しながら、手すりにしがみつくようにして、階段を降りる。
無力感に抗いながら、バスルームの扉を開ける。
シャワーを浴びたかった。
熱いシャワーですべてを洗い流したかった。
 
 
湿ったパジャマを脱ぎ捨て、バスルームに入る。
蛇口をひねり、シャワーを頭から浴びる。
熱いお湯で、意識の欠片が目を覚ます。
欠片を拾い集めてみる。
どうやら、私が私であることは間違いないようだ。
 
 
 
もう一度、朝の栞の言葉を思い出す。
 
『ちゃんと自分のことを見てね』
 
と、栞は言った。
 
『私は私がわからないよ』
 
心の中で栞に答える。
 
 
 
どうして?という問いが浮かぶ。
でも、それが何に向けられた問いかけなのかがわからない。
ほんの二、三歩前を歩く背中、その人が答えを知っているはずなのに、
私の伸ばした手はその人に届かない。
はっきりとしない頭で、眠りの中で見たその背中のことを思う。
 
 
妙に懐かしい、けれど、自分では直接目にしたことのない後ろ姿。
ウェーブのかかったやわらかそうな髪、
自分のことを抱きしめるように背中に回された腕。
 
 
頭から浴びるシャワーの水音が雨音のようだった。
嵐の中、雨に打たれているようだった。
そっと、目を開けてみる。
雨の向こうに誰かが見えたような気がした。
こんな雨の中で、誰かを見つけたことがある、そんな気がした。
 
 
乾いたタオルで髪の毛を乱暴に拭う。
洗面台の鏡に映った顔を見る。
光のない瞳、
意志の力の感じられない表情。
 
 
こんな顔をいつか見たことがある。
こんな私をいつか見たことがある。
 
 
 
 
 
 
『今も、僕は、香里が好きだよ』
彼のやさしい声が聞こえた気がする。
洗面台に両手をついて、目を閉じる。
もはや過去の時間でさえ私の安息の地ではなくなっていることに、
唐突に気づく。
 
 
彼が、時間を動かしてしまったから。
彼が、私に選択を迫っているから。
 
私は、また、選ばなければいけないから。
 
 
 
 
再び誰かの背中が頭をよぎる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ああ、そうか、
私は突然、思い到る。
 
 
また、私はあそこに向かっているのか。
 
 
あの暗い道をたどって、心の果ての地、
こころ安らぐ辺土へと。
 
 
 
 
 
 
....アノ背中ハ、ワタシダッタノカ....。
 
 
 
 
 
 
光に照らされるほどに際立つ闇。
 
 
どうして、その魅力は抗い難いのだろう。
 
 
どうして、私はそれに囚われてしまうのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『とびらをひらいて』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小さな声が聞こえた気がした。
 
 
 
 
 
わずかな光が射した気がした。
 
 
 
 
 
私が背を向けようとしている、あたたかい白い光が見えた。
 
 
 
 
そんな気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
目を開いて、顔を上げる。
 
 
 
 
しばらく鏡の中の顔を見つめる。
 
 
 
 
泣き出しそうな、笑い出しそうな、
どちらともつかない情けない顔をした人が、鏡の向こうで、私を見ている。
その人を見据える。
 
 
 
 
そして、静かに話しかける。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ちゃんと考えるんだ、」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「美坂香里」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(Continue to 〜2〜)
The first sentence was quoted from "LONELY BUTTERFLY" REBECCA.
 

【初出】1999/9/20 Key SS掲示板

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