“Swingin' Days” (Boy's side)
わかってもらえるさ



(Step 2)      






 
  今日は陽射しも強くて、真夏を予感させる朝。








 俺は、いつもの時間に家を出る。いつからだろうな、俺がこの時間に家を出るようになったのは。前は、母親に起こされてもなかなかベッドから出なかった俺が、起こされもせずにこの時間に学校に行くようになったのは。
 
 いつもの歩調で歩いて、角を曲がる、次の横断歩道を渡れば、すぐにあの場所だ。
 俺の大好きな曲がり角。そこを曲がれば、今日もあの後ろ姿が視界に入るはずだ。
 すこし走るようにして、角を曲がる。
 思い描いていた背中が目に入る。
 あれ、今日は一人か。
 ウェーブのかかった長い髪、光の具合で茶色く見えたり、黒く見えたりする、柔らかそうな髪。いつもはその横に並ぶはずの、肩を少し越える、ストレートの髪の少女の姿が、今日はなかった。

 俺は、少しだけ暗い想像を駆り立てられる。
 そう、それが当たり前に思えていたけれど、二人が並んで登校するようになって、まだ三ヶ月も経っていないんだよな。あいつに妹がいるのを知ってから、まだ半年も経っていないんだよな。それ以前の二人は俺たちの知らないところで、暗い場所で、ずっと苦しんでいたんだよな。

 俺は暗い想像を振り払うように、声をかける。
「よう、美坂、おはよう」
 振り返る表情を少しだけ息を詰めて見つめる。
「あ、北川君、おはよう」
 いつもの笑顔。俺は内心ほっとする。
「あれ、栞ちゃんはどうしたんだ?」
 俺ははじめて気づいたような調子で訊ねる。
「栞は今日は定期検査なの」
 平日に検査があるのは初めてだけどね、と付け加える。
「そうか、それで休みか」
「うん」口元で少しだけ微笑んでくれる。
「でも、めずらしいな、美坂、ついて行きそうじゃないか、検査とかなら」
「うん、私も言ったのよ、一緒に行こうかって」
「そしたら、もう、お姉ちゃん、いつまでもわたしのことばっかり構ってちゃだめだよーって怒られたわ」
 栞ちゃんの口調を真似る美坂の表情が新鮮で、俺は少し笑う。
「ま、親の心、子知らずってやつだな」
「北川君、それ本気で言ってる?」
 美坂が睨む。
「美坂、眼が怖いぞ」
 そう言った俺に、美坂が表情を崩して見せて、俺たちは声を合わせて笑う。
「それにしても、いい天気ね」
 そう言って、太陽を仰ぎ見る美坂の横顔。その額から鼻にかけてのラインが俺はとても好きだった。そして、不意に二人並んで歩いてることが意識されて、俺は少しだけ落着かない気持ちになる。
「来週の試験が終われば、すぐに夏休みね」
「お、おうっ、そうだな」
「何?どうして慌てるの?」
 そう言って、俺の顔を見る美坂の視線を、正面から受け止めて、俺はさらに慌ててしまう。
 夏休み、補習があるとはいっても、今までのようには会えなくなる。
 俺はそれに耐えられるだろうか?
 その気持ちが俺を焦らせる。
「あ、あのさ、美坂、試験終わったら」俺はそこでまた詰まってしまう。
 あいつが俺の眼を見つめたままだったから。
 じっと見つめたままだったから。
 ちょっと詰まった俺の言葉を、終わったら?と引き取って、にっこりと微笑んでくれる。「ど、どっか遊びに行くか?」
 どうしようかしらね〜、と歌うように言って。
「よし、特別に、つきあってあげよう」
 北川君泣きそうだもんね、断ったら、そう言って、笑う。
 俺はほっとして、それを悟られたくなくて。
「おお、もし断ったら、今日一日泣き通してやるぞ」
 そんな事を言う。
「それもいいわね」真顔で言う、美坂。
「いや、勘弁してくれって」
 そして、笑いながら二人並んで校門をくぐる。












 俺には何があるだろう。
 あいつにふさわしいものを俺は持っているだろうか。
 何度も何度も繰り返される疑問。
 
 その答えは俺の中にはなくて、たぶん、あいつの笑顔の中に、俺に向けてくれる笑顔の中に隠されているようなそんな気がする。
 テスト、3年生の1学期の期末。そろそろ受験組の眼の色が変わってくる時期。
 俺は考えたんだ。俺なりにな。あいつにふさわしい俺になるには、やっぱり、何かを始めなくちゃな。何かを見つけて行かなくちゃな。
 だから、俺は取りあえずテストをがんばってみた。


 成果?
 まあ、それなりにあがったさ。
 まあ、今までがひど過ぎたんだけどな。
 
 
 テストの最終日。テスト期間中ほとんど寝ていなかった俺の意識は朦朧としていた。
 最後の時間を告げるチャイムが鳴って、美坂が振り向いて言った。
「北川君、やっと終わったわね」
「ああ、やっとな」
「明日だよね」
「ああ、明日だな」
「じゃあ、楽しみにしてるわね」
 そう言って微笑んで、水瀬と何か話しながら、教室を出ていった。
 
 楽しみにしてるわね、か、その言葉の余韻に浸っている俺に、「北川ー」そう言って、相沢が何か言いたげな顔を向けてくる。
「なんだ、相沢」
「いや、俺もがんばった甲斐があったよ、あの美坂がお前に“楽しみにしてるわね”なんて言葉をかけてくれるとはな」
「で、お前は何をがんばったんだ?」
「バカだなあ、お前らのことが心配で、名雪にいろいろ…」
「いろいろ、なんだ?」
 一瞬の沈黙。
「まあ、がんばれよ、明日が肝心だぞ」
 相沢はそう言って、背中を思い切り叩いて教室を出ていった。
――― だから、相沢、水瀬に何をいろいろさせてたんだ?
 そんな疑問を俺に残して。






 その日の夜、俺はなかなか寝つけなかった。体はぐったりと疲れているのに、頭だけが冴えていた。窓の外では強い風が吹いていた。





 寝不足の頭を抱えて眼を覚ますと、空は厚い雲に覆われていた。
 俺は取りあえず傘を手にとって、待ち合わせ場所に向かった。
 すこしの緊張と、たくさんの期待を抱えて。


 待ち合わせ場所には、ほぼ時間通りに着いた。美坂の姿は、まだ見えなかった。
 あいつなら時間より早く来てそうだけどな、俺は寝不足の頭でそんなことを考えた。
 やがて、強い風に乗って、大粒の雨が降り始めた。


 待ち合わせの時間から30分が過ぎた。昼間だというのに街はすっかり暗くなって、
人影もまばらになった。俺はあいつが現れたら、どんな言葉で謝るだろうか、と考えていた。強い雨と風が吹き付けた。傘をさしていても、濡れてしまうほど。


 1時間を過ぎた頃、俺は公衆電話の受話器を手に取り美坂の家に電話を入れようとした。 そして、電話番号を知らないのに気づいた。仕方無しに自分の家に電話をする。
 美坂から何か連絡が入っていないか、と。しかし、電話は呼び出し音を鳴らし続けるだけだった。


 さらに30分が過ぎて、雨と風はさらに強くなった。道を歩く人はほとんどいなかった。 待ち合わせ場所、間違いない。
 待ち合わせ時間、間違いない。
 ならば、美坂の方にここに来ることができない理由ができたんだ。
 俺はひとつの可能性に突き当たって、すぐにそれをかき消そうとする。
 その不吉な可能性を否定しようとする。


 時計の針が待ち合わせの時間から2つ先の数字を示した頃、俺はもう一度受話器を手に取る。うろ覚えの電話番号を回す。発信音が鳴る。
「はい水瀬です」
 聞き覚えのある、女の子の声。
「あ、北川ですけど」
「え、北川君?どうしたのー?」
 電話を通して聞くとさらに間延びして聞こえる話し方。
「あれ、香里は一緒じゃないの?」
 水瀬の家にも連絡が行っていないのか。
 俺は安堵とも焦燥ともつかない不思議な気持ちに包まれる。
「悪い、水瀬、美坂の家の電話番号わかるか?」
「うん、わかるけど、えっ、北川君一緒じゃないの?」
「ああ、待ってるんだけどな」なんだか自分が惨めになるような台詞。
 水瀬が電話番号を教えてくれて、待ってるって、どこで?そう問いかけてくる。
 俺は待ち合わせの場所を告げる。そして、受話器をフックに戻す。
 少しでも早く、美坂の声が聞きたかった。
 フックに戻す前に受話器からはまだ声が聞こえていた。
「えっ、この台風の中を外で…」


 夏だっていうのに、指がかじかんだように動かない。さっきから寒気もする。
 濡れた服が体に貼りついて気持ちが悪い。焦る気持ちを抑えて、電話番号を押す。
 すぐに回線の繋がる音がして、呼び出し音が鳴り始める。
 呼び出し音が鳴り続ける。
 吹き付ける風、殴りつけるように降る雨。俺はただ呼び出し音の鳴る受話器を握りしめる。その手が白くなってしまうほどの力で。
 
「北川君」
 困惑したような、泣きそうな声が俺を呼ぶ。
 俺は声の方を振り向く。
 そこには、髪を後ろで結んで、傘をさして、雨で色の変わってしまったダンガリーのシャツを着たあいつがいた。
 
 ああ、こういう格好も似合うんだな、俺はそんなことを考えながら、受話器をフックに戻そうとして……。

「北川君、北川君」

 何かあたたかいものに抱き止められる感触。
――― それを最後に感じた。












 凄い音がする。
 何かが爆ぜるような音。
 たくさんの小石をぶちまけたような音。
 ゆっくりと意識が戻ってくる。
 
 見慣れた天井。
 あの音は雨の音だったのか、そんな考えが時間差のように浮かんでくる。
 
 雨、俺は雨の中にいたはずなのに。
 
「おっ、目が覚めたか?」
 ベッドの横から声がかかる。
「相沢?」
「おうっ、まったく、お前、台風の日に何やってるんだ」
 濡れた髪の毛、首にはタオルをかけて、言葉とは裏腹に静かな口調で相沢が言う。
「台風?」
「ああ、十年に一度とか言ってたぞ、テレビで」
 記憶がゆっくりと甦ってくる。
 最後の瞬間に見たあいつの泣き顔が甦る。
 
「美坂は?」
 起きあがろうとする俺を目で制して、相沢が言う。
「ああ、下で名雪と一緒に濡れた服を乾かしてるよ」
「そうか」
 全身の力が抜けていくのを感じる。妙に頭が重い。体の芯から寒気がする。
「なあ、相沢」
 俺は返事を待たずに続ける。
「俺、バカみたいだな」
「ああ」
「俺、みっともないな」
「ああ」
 自分のしていたことが、本当にバカらしく思えて。情けなくて、惨めで、なんだか泣きたいような無力感。
「なあ、相沢」
「北川」
 さらに続けようとした言葉を遮られる。
「美坂が電話してきたんだ」
「うちに泣きながら電話してきたんだぞ」
「俺は…」
「…俺は、あんな必死な美坂を見たのはあの時以来だぞ」
 胸が詰まる。あたたかいものが、頬を伝うのを感じる。
――― なにやってるんだろうな、俺たち。そんな思いがぼんやりと浮かぶ。
 相沢が立ち上がる気配がする。
「相沢」
「もう、病人は寝とけ」
「ありがとうな」
「バカ、これぐらいで礼なんて言うなよ」
 ドアを開く音がする。
「相沢」
 もう一度呼びかける。
「なんだ?」
「美坂と水瀬にも礼を言っといてくれ」
 ほんの少しの沈黙。
「おお、名雪の方は言っとくよ」
 ドアの閉まる音。
 その音が終わる直前に、「美坂の方はお前が言え」そう聞こえた。


 そして、俺は深い眠りに落ちた。











 次の日、嘘のように晴れ渡った空が広がっていた。
 俺はまだ熱が下がらずに朦朧とした頭でベッドの中にいた。
 遠くで蝉の鳴く声が聞こえた。プール帰りだろうか、子供達の騒ぐ声が聞こえた。
 何か夢を見たような気がした。どんな夢かは憶えていなかった。

 ぼんやりと考え事をしてるうちに、俺はまた眠ってしまったらしかった。

 冷たい感触で目が覚めた。
 額に気持ちのいい冷たいものがのせられている感触。
 俺はゆっくりと眼を開けた。額にのせられているものに手で触れてみる。
 つるりとした感触の肌、誰かの手。
 顔を横に向ける。
 少し傾いた太陽が作った部屋の陰の中で、初めてみる弱々しい表情で、俺の大好きな声が紡ぐ。
「起こした?」
「いや」
「ごめんね」
「いや、気持ちのいい手だなあ、と思って」
「ごめん」
「謝らなくてもいいよ」
 美坂が二、三度、首を横に振る。
「ごめん」
 俺はその理由がわからなくて訊ねる。
「何が?」
「待ち合わせ」
 ああ、そうだったな。すっかり忘れていた。
 今日の太陽の下では、昨日起きたすべてが幻の出来事のように感じられたから。
「ねえ、ごめんね、昨日、栞が突然具合悪くなって」
「栞ちゃん、大丈夫なのか」
「うん、大丈夫、まだ体力が戻ってないのにテストとかでちょっと無理してたから…」
「…それで、疲れが出たんだと思う」
「そうか、良かった」

 あいつの手が額から引かれる。
 もう少し、こうしていてほしかったのにな、そんなことを考える。
「私、北川君とこうしている資格、無いね」
 俺は驚いて、美坂の顔を見る。
「栞のことになると、頭が真っ白になるの、心配で、他のこと全て投げ捨ててでも、栞のことを優先してしまうの」
「それで、北川君を雨の中で待たせて、こんな熱まで出させて…」
「これじゃあ、迷惑かけてばっかりだね」
 半分涙の混じった声で言う、あいつ。俺はそんなあいつの言葉を聞きながら、はじめてのようにあいつのことを近くに感じた。
「なあ、美坂」
 俺はそう言って、その眼を見る。
 涙に濡れた瞳。子供のように無防備な表情。
「昨日、雨の中でお前を見たとき、俺が何を考えたと思う?」
 ただ、小さく首を横に振る。
「ああ、美坂はこういう格好も似合うなあって」
「…バカ」そう言って、小さく、本当に小さく微笑む。
「ああ、美坂に会えて良かったなあって」
 小さく頷く。
「ああ、美坂のこと、俺は美坂のことが本当に好きなんだなあって」

 また、美坂の瞳から涙が溢れる。

「私、また、北川君に迷惑かけるかもしれないよ」
 俺はそっと手を伸ばす。
「また、栞のことで北川君を放ったらかしにするかもしれないよ」
 そっと、美坂の手に触れる。水のような、冷たい水のような心地の良い感触。
「私、わたし」
「弱くて、どうしようもなく弱くて、怖がりで、泣いてばかりいるかもしれないよ」
「それでもいいの?」
 美坂の手を取って、自分の額にのせる。心地の良い感触、心が小さく震える。
「ああ」
「それでも、俺は、美坂がいいよ」




 夢の中のように、ぼんやりとした、頭に、涙の混じった声が聞こえる。




「わたしも きたがわくんが いいわ」











 夏休み前の残りの授業、俺は結局3日間、学校を休んだ。
 けれど、何の心配も要らなかったな。
 俺には素敵な先生がいたから。
 あいつが毎日来てくれたから。




 4日目、やっと、熱の下がった俺は、すこし体を軽く感じながら学校に行った。
 朝、いつもの場所でふたりに会った。栞ちゃんが俺に謝ってくれた。
 あいつは横でそれを聞いてて、こう言った。
「栞、あんまり気にしなくていいわよ、台風の中で待ってる方が悪いんだから」
 俺はちょっとあいつを見つめて、瞳の中の悪戯っぽい光を見つけて、いつもと変わらないあいつに、少し安心しながらこう言った。
「栞ちゃん、ここだけの話、お姉ちゃんは泣いて謝ってたんだよ。かわいかったよー」
 あいつが少し頬を染めて、それを否定する言葉を言って。
 俺たちふたり、いつもの雰囲気に戻って。
 三人で笑いながら学校に向かった。






 十年に一度の台風。
 それが俺にくれたもの。
 
 3日間の病欠。
 39度の熱。
 少し遅れた勉強。
 
 そして、素敵な手の感触。











――― こうして、俺たちははじまったんだ。







 

【初出】 1999/7/22 Key SS掲示板
【One Word】
 "Swingin' Days"のBoy's/Girl's sideシリーズはこれで終わりです。
 ですが、話自体は、friends stageに続きます。
 それぞれの副題ですが、「わかってもらえるさ」は某有名ロックバンド(まあ、RCです、はい)の曲名から。「Can you hear my Heart Beat?」は佐野元春の「ハートビート」という曲の歌詞から連想してつけました。
 どちらも名曲です。機会があったら聞いてみてください。
 (1999/7/25)
【追記】
 雨の中のシーンは、「STREET OF FIRE」という映画の土砂降りの中のキス
シーンに影響されています。
 何と言っても、わたしの中のキスシーン、ベスト3に入りますね。そのシーン。
 最近では、マトリックスのキスシーンがよかったですね。
 
 HID(1999/10/11)
 改訂(2000/12/14)


To Interlude 「夏服」

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