"Swingin' Days"
− interlude −
Best year of my life
☆
「お姉ちゃん、ホントに行かないの?」
ネイビー・ブルーのハーフ丈のコートを着た栞が、リビングの扉を開けて訊いてくる。
正月の一日のお昼前。藤井君たちと初詣に行くらしい。
「うん、いい。外は寒いしね」
私は、あらためてこたつの中に潜り込みながら答える。
「お姉ちゃんが年寄りくさいよー」
栞がふざけた調子で言う。
「栞」
リビングの扉を閉めようとする気配に言う。
「私の分もお礼を言ってきてね」
気配が一瞬止まる。
「お姉ちゃん、なにか感謝するようなことがあったの?」
「うん、いろいろとね」
「そうなんだ」
「そうだよ」
何か言葉を捜してるような、沈黙が流れる。
「じゃあ、行ってくるね」
結局、言葉を捜すのをあきらめたのだろうか、栞が言う。
「いってらっしゃい」
扉を閉じる音がしない。
私は訝しく思いながら、体を起こして、扉の方を見る。
扉は開いたままで、栞はまだそこに居た。コートのポケットに両手を入れて。
私が起き上がるのを待っていたように栞が言う。
「いい年だったよね」
静かでやさしい声。初めてだった、栞の言葉に大人の女の人を感じたのは。
「そうだね」
扉がカチャリと音をたてて閉る。
栞のやわらかな笑顔が、部屋に残る。
☆
「それでね、祐一ってひどいんだよ」
満員に近いような電車。けれど、その雰囲気はどこか穏やかで。
それは、きっと、ほとんどの人が、初詣に向かってることに関係してるんだろう。
栞に知られたら怒られそうだったけれど、私は名雪と初詣に来ていた。
栞が出かけてしばらくして、名雪から誘いの電話があった。
勉強はいいの?と問う私に、『お正月はお休みしないといけないんだよ』と、名雪は答えた。
彼女が初詣に行こうと言ってきた神社は、この辺では一番人出の多いことで知られるところだった。
しかも、私たちの街からでは電車で30分近くかかる場所にある。
近所の神社にしようよ、と言う私に、『お礼を言いに行かないといけないから』と、名雪は言った。
去年の初詣でその神社に行ったときのお願い。それが、かなったから。
そう言われてしまっては、彼女につきあわざるを得なかった。
「わたしが何回も誘ったのに『受験生に大晦日も正月も関係ない』とか言って、予備校に行っちゃったんだよ」
二人並んで吊革に掴まって。電車の穏やかな揺れに軽く身をまかせながら。
「でも、相沢君の言ってることの方が正論だと思うけど」
「う、香里までそんなこと言うの」
名雪が、本気で泣きそうな声で言う。
「ま、正論がいつも正しいとは限らないけどね」
「やっぱり、香里だよ〜」
今度はうれし泣きでもしそうな勢いだった。
私たちの前に座ってる、お年寄りの夫婦が、やさしい笑顔を浮かべて私たちを見ていた。
私と名雪のやりとりを聞いていたのだろう、その笑顔はとてもやわらかくて、暖かだった。
私は精一杯の笑顔を二人に向けた。
駅から神社へと続く参道は人で埋まっていた。参道沿いにはいろんな店が軒を連ねていた。
きちんとした店構えのおみやげ屋から、屋台のたこ焼き屋やたいやき屋まで。
人の多いのはあまり好きではなかったけれど、お祭りのような華やいだ雰囲気は楽しかった。
何より、隣に本当にうれしそうな顔で歩く名雪がいるのが、私の心を色づけてくれた。
受験生、ということを忘れさせるような晴れやかな表情が、他人事ながら、少し不安ではあったのだけれど。
「ねえ、名雪、何をお願いしたの?」
たくさんの人達の間を縫って、何とか参拝を済ませた私たちは、駅に向かっていた。
名雪は、ずいぶん長い間、手を合わせて、目を瞑っていた。
きっと、すごく丁寧にお礼を言ってるんだろうな、と思うとなんだかおかしかった。
そして、今度のお願い事はどんな内容なんだろうな、と思った。
「えっ、秘密だよ」
「あ、冷たいね」
「だって、人に言うとお願い事がかなわなくなっちゃうから」
ちょっと困ったような顔で、名雪が言った。
子供連れの家族が、楽しそうにおみくじの話をしていた。
「ねえねえ、お父さん、わたし、大吉だったんだよ」
小学生くらいの女の子が、父親の手にぶら下がるようにしながら、得意気に話していた。
「香里は、なにお願いしたの?」
名雪が、私の方を見て訊いてくる。
自分で、願懸けは人に言うとかなわないって言っといて、それはないんじゃない?と思う。
「うん、潤ともっともっと仲良くなれますように、って」
「わ」名雪が文字どおり目を丸くして驚く。
「うん?」
「なんか香里が恥ずかしいこと言ってるよ」
「そう?私らしくないかな?」
「う〜んと...」
なんだか考え込んじゃっている名雪。人の波が途切れる辺り。大きな鳥居を並んでくぐる。
冷たい風が参道に溢れた人達の間を通りぬけて、私たちの背中を押す。
私はちょっと振り返って、風の吹いてきた方角を見る。参道の真ん中で人の流れが縦に区切られている。
右側には、お参りを終えて帰る人達のどこか晴れやかな顔。
左側には、お参りに向かう人達の何となくうきうきとした背中。
「ううん、香里らしくないなんてことないよ。だって、香里は香里だもんね」
名雪が言う。私は彼女の顔に視線を移す。
「名雪、今、なんだか恥ずかしいこと言わなかった?」
そうかな?と言って、ふふっと彼女が笑う。
「なんだかうれしいよっ」
「そう?でも、私の願いかなわないかも」
「どうして?」
「だって、名雪に話しちゃったから」
彼女が困ったような表情で、少しの間考え込む。
「大丈夫だよ。わたしも一緒にお願いするから」
大きな笑顔。
☆
受験生に正月はない、なんて言うけれど、そんなことはないと思う。
そこまでして、自分を追い込むことはないのにな、とも思う。
ただ、そんな自分の思想を実行してみせるために、予備校のスケジュールを無視して正月休みを取る余裕は、
残念ながら、俺にはなかった。
いつもより人が少ないような気がする予備校のロビー。俺は聞き慣れた声に呼びとめられる。
「あけまして、おめでとう、潤。今年もよろしく」
理恵が笑っていた。理恵に会うのは、クリスマス前以来だった。隣には背の高い女の子が立っていた。
その子の俺を見る視線に、普通以上の興味の色を感じたのは、気のせいだったろうか。
「ああ、今年もよろしくな」
「あ、このでっかいのは夏紀。一応、わたしの友達らしいよ」
理恵が女の子を示して言う。夏紀と言われた女の子は、理恵に二、三言抗議をした後で、俺に向きなおる。
「どうも、真田夏紀です。よろしく」
「あ、どうも、北川です。よろしく」
「人の紹介も満足にできないような奴でごめんなさい」理恵を見て、笑顔を浮かべながら、彼女が言う。
「あ、北川くんの方が、つきあい長いのか」
そうつけくわえて、屈託のない笑顔を俺に向ける。
「もう講義の時間だよ、行こう、夏紀」
旗色が悪いと感じたのだろうか、理恵が腕時計を見ながら、急かす。
「じゃあ、また」彼女が言う。
「あ、また」
俺は何となくその場でふたりを見送る。
「ね、潤」
理恵が振り返って言う。
「受験、落ちたら承知しないからね」
そして、笑顔を残して、立ち去る。
夏紀と呼ばれた子が、理恵に何か言っていた。その言葉に、理恵が笑いながら答えていた。
どうやら、俺の受験は、知らぬうちに俺だけのものではなくなってきてるようだった。
頭の中で数えあげてみる。
香里、栞ちゃん、そして、理恵。
少なくとも三人から同じ言葉を言われたことを確認する。
大変なことになってきたな、と他人事のように思う。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「君、君、にやけてる場合じゃないだろ」
誰かの言葉に振り返る。
相沢が、面白そうな表情で俺を見ていた。
「お、相沢」
「お、相沢じゃないだろ。北川、お前、今、間違いなくNO.1だったぞ」
「NO.1?」
「おう、この予備校の中で、気が緩んでる者NO.1だ」
「ばか、緩急が必要なんだよ」
相沢を促して階段を登りながら、俺は言う。
「緩んでばっかじゃないのか?」
相沢がすかさず答える。
「いや、お前に言われたくない」
俺たちは並んで、講義室に入る。
「気が緩んでると言えばな、」
講義と講義の合間の空き時間、やはりいつもより空席の多い自習室で、相沢が思い出したように言う。
「やっぱり、NO.1は名雪だな」
「水瀬が?」
「ああ、『祐一、お正月は初詣だよ〜』と言って、俺を初詣に連れていこうとして、きかなかった」
「お前、それを振り切って、予備校に来たのか」
俺の責めるような口調を感じ取ったのだろうか、少し慌てたような様子で相沢が答える。
「俺、転校してるからな、リスクは少しでも減らしたかったんだよ。名雪をこれ以上悲しませない...」
途中で我に帰った様子で、言葉を切る。
「ほおー」
「そ、それでな、結局、美坂と初詣に行くことにしたらしいぞ」
相沢が誤魔化すように早口で言う。
「何か会話が聞こえてきそうだな」
俺は相沢の努力に免じて、話題の転換に乗ってやることにする。
「ね、香里、なに、お願いしたの?」相沢が水瀬の口調を真似る。
「秘密ね。名雪は?」俺も香里の口調を真似て答える。
「ねえ、気持ち悪いんだけど、潤」
突然の言葉に、俺と相沢は揃って、声の主を見る。
理恵と、真田さんが笑顔を浮かべて立っている。
「り、理恵か」
「ね、何やってたの?」
こういう時の理恵の容赦の無さを知ってる俺は、一縷の願いを込めて話題転換を図る。
「あ、相沢、こちらが、冬野理恵さんだ」
「あ、相沢です。よろしく」良くわからないながらも、俺の意志を汲み取ったのか、神妙なあいさつをする相沢。
「で、その友達の真田さんだ」
顔にぎこちない笑顔を貼り付けたままで、相沢が真田さんにも会釈をする。
まあ、いいかという調子で、「あ、冬野です。潤とは同じ中学だったんですよ、よろしく、相沢くん」よそいきの笑顔で理恵が言う。
真田さんもそれに倣う。
「潤、ここいい?」
今度は、相沢の視線が興味の色に満ちるのに気づいたが、俺には抗う術がなかった。
俺は、力なく頷く。理恵と真田さんがそれぞれの椅子に座る。
俺の隣に理恵。相沢の隣に真田さん。俺の向かい側が相沢だ。
何となく不思議な感じだった。この場に香里や、水瀬がいないことが。
そして、案の定、俺は相沢や真田さんからの質問の荒波(それは荒波と呼ぶのがまさにふさわしかった)に翻弄されることになる。
唯一、味方になるべき理恵も、面白そうに相沢達の質問に答えては、上手にその鉾先を俺に向けさせていた。
新年早々これはないよなと、俺は思った。
☆
「さすがに元旦のこの時間だと人が少ないね」
理恵が、少しはしゃいだ様子で言う。
「大晦日の夜の混雑は、周りのやつらに殺意を感じる程だもんねえ」
真田さんがさらりと怖いことを言う。さっきからの彼女の言動を見ていると、さっぱりとしていて、頭の回転の早い人のようだった。
そして、厳しいつっこみを武器にしているらしかった。
そういう意味では、理恵と気が合いそうだな、と思った。
このふたりを同時に敵に回すことだけはしたくないな、とも思った。
「そんなに人出が多いのか、この神社?」相沢が誰にともなく訊く。
「それはもう」三人で声をあわせて答える。そして、顔を見合わせて笑う。
「あ、なんか今、疎外感、感じたぞ」相沢が不満そうに言う。
「まあまあ、わたしも転校組だから」理恵がなだめるように言う。
「お、どこから?」
転校の話しで盛り上がる相沢と理恵を横目に見ながら、気がつくと俺は真田さんと並ぶように歩いていた。
彼女は、どこかやさしげな視線をふたりに向けていた。
予備校が終った後に初詣に行こう、という話しが出たのは、休憩時間の自習室でだった。
四人とも冬期講習を取っていたから、夕方まで講義があった。
講義が終ったときにはすっかり暗くなっていたけど、せっかく初詣に行くなら、ということで、この辺りでは一番大きな神社に向かった。
電車を降りて、いつもは人で賑わう参道に出たときには、もう、夜と言って差し支えのないような時間になっていた。
さすがに元旦の夜は店も参拝客も早仕舞いらしかった。
人影のまばらな参道に、ちらほらと明かりを灯した店があることが余計に、祭のあとのような寂しい雰囲気を増長していた。
「なんかわかった気がするな」真田さんがぽつりと言った。
「え?」
「うん、理恵が言ってたことがわかった気がする。北川くんに会って」
「なんか言ってたのか?」
「うん、言ってた。何を言ってたかは秘密だけどね」
彼女が楽しそうに笑った。
「やっぱり、みんなでお願いを訊きあうのが定番だよね」
理恵が華やいだ声で言う。途中の店で飲んだ、あたたかい甘酒のせいだろうか、それとも、寒さのせいだろうか、頬がほんのりと紅く染まっている。
理恵の声が、夜の広々とした境内に響く。
「じゃあ、言い出したやつからだな」相沢が言う。
「はい、冬野理恵、願い事を発表します」
「あれ、酔ってないか?」俺は、笑いながら理恵を見ている真田さんに話しかける。
「めちゃめちゃ、アルコールに弱いからねえ、理恵は」
さらに大きく表情を崩して、彼女が言う。
「ほら、そこ、ちゃんと聞く」
「はいはい、聞いてますよ」理恵の鋭い声に真田さんが答える。
「で、冬野理恵の願い事は何だ?」相沢が続けて言う。
「はい、はい、わたし、冬野理恵の願い事は...」
「願い事は?」三人で声をあわせる。
「“倒れるときは前のめり”です」
三人で顔を見合わせる。一斉に笑い出す。
「なーに、笑ってるんだよお」不満そうにみんなを見回す理恵。
「って、それ願い事じゃないだろ?」
「誰がモットーを言えって言ったのよ」
相沢と真田さんが厳しいつっこみを入れる。
そして、二人が申し合わせたように俺の方を見る。
「何だ?」
「ああ、もう、ここで鋭いつっこみを入れなくてどこで入れるって言うの?」
「悪い、俺の教育が足りないせいだ」
相沢と真田さんは二人だけでわかりあえてるらしい。
「わかってないなあ」理恵が大げさなため息をついてみせる。
俺たちは理恵に注目する。
「いろいろ無茶なことするかもしれませんけど、いろいろ落ち込むこともあるだろうけど、
今年も、いつでも、どんなときでも、前向きでいれるようにしてくださいっていう、崇高な願いがわかんないのかなあ...」
「や、だから...」相沢が困ったような調子で言う。
「ん、まあ理恵らしくていいじゃない」真田さんが笑う。
「そうだな、“わたしの前に素敵な人が現れますように”、とか言い出したらどうしようかと思ったぞ」俺も笑いながら言う。
「ご心配はありがたいですけどね、」
理恵が俺に向かって言う。
「わたしは、そういうことでは他力本願なんてしません」
舌を出して、顔をしかめて見せた。
☆
「なんか楽しそうねえ」
「ああ、面白かったなあ」
ラインの向こう側の声が本当に楽しそうで、私はちょっと意地悪をしたくなる。
「私には誘いの言葉もなかったのに、ひどいよね、勝手に初詣行っちゃうなんて」
「や、あれはその場のノリでだな...」
形通りに慌ててくれる彼がうれしくて、意地悪をしてしまう自分が少しだけ嫌で、
でも、それ以上に、そんなことを言っても赦されるふたりの関係が何よりも大切で。
「嘘だよ。良かったね。楽しい初詣に行けて」
私は明るい声で、その思いを伝える。
「なあ、香里、本当に怒ってないか?」まだ不安そうな声で潤が言う。
「怒ってないよ。私だって名雪と初詣に行って楽しかったし」 私は本当に不安そうな潤の声に、少し苦笑しながら言う。
「そうか」ほっとした声。
「ねえ、潤」
廊下に置いた電話。
しんと静かで冷たい廊下の空気が、こたつに馴染んだ体に心地いい。
「うん?」
「去年はどんな年だった?」
「いい年だったさ」
すぐに答えてくれるのがうれしい。
「香里は?」
「うん、私もいい年だったよ。でもね...」
「でも?」
ひとつ息を吸う。透き通った空気が、体の中を通りぬけてゆく。
ちょうど、夏の夜の涼しい風のように。
「今年はもっといい年にしようと思う」
一呼吸分の静謐がラインを伝わってくる。
「ああ、俺もそう思うよ」
笑顔と一緒にそう言ってくれた。
ラインを通して、笑顔まで届けてくれた。
-end-
【初出】2000/1/20 天國茶房 創作書房/創作掲示板
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