"Swingin' Days"
  − interlude
 
  Best year of my life
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「お姉ちゃん、ホントに行かないの?」
ネイビー・ブルーのハーフ丈のコートを着た栞が、リビングの扉を開けて訊いてくる。
正月の一日のお昼前。藤井君たちと初詣に行くらしい。
「うん、いい。外は寒いしね」
私は、あらためてこたつの中に潜り込みながら答える。
「お姉ちゃんが年寄りくさいよー」
栞がふざけた調子で言う。
「栞」
リビングの扉を閉めようとする気配に言う。
「私の分もお礼を言ってきてね」
気配が一瞬止まる。
「お姉ちゃん、なにか感謝するようなことがあったの?」
「うん、いろいろとね」
「そうなんだ」
「そうだよ」
何か言葉を捜してるような、沈黙が流れる。
「じゃあ、行ってくるね」
 結局、言葉を捜すのをあきらめたのだろうか、栞が言う。
「いってらっしゃい」
 
 
扉を閉じる音がしない。
私は訝しく思いながら、体を起こして、扉の方を見る。
扉は開いたままで、栞はまだそこに居た。コートのポケットに両手を入れて。
私が起き上がるのを待っていたように栞が言う。
「いい年だったよね」
 静かでやさしい声。初めてだった、栞の言葉に大人の女の人を感じたのは。
「そうだね」
 扉がカチャリと音をたてて閉る。
 栞のやわらかな笑顔が、部屋に残る。
 
 
 
 
 
 
「それでね、祐一ってひどいんだよ」
 満員に近いような電車。けれど、その雰囲気はどこか穏やかで。
 それは、きっと、ほとんどの人が、初詣に向かってることに関係してるんだろう。
 栞に知られたら怒られそうだったけれど、私は名雪と初詣に来ていた。
栞が出かけてしばらくして、名雪から誘いの電話があった。
勉強はいいの?と問う私に、『お正月はお休みしないといけないんだよ』と、名雪は答えた。
彼女が初詣に行こうと言ってきた神社は、この辺では一番人出の多いことで知られるところだった。
 しかも、私たちの街からでは電車で30分近くかかる場所にある。
近所の神社にしようよ、と言う私に、『お礼を言いに行かないといけないから』と、名雪は言った。
 去年の初詣でその神社に行ったときのお願い。それが、かなったから。
そう言われてしまっては、彼女につきあわざるを得なかった。
 
「わたしが何回も誘ったのに『受験生に大晦日も正月も関係ない』とか言って、予備校に行っちゃったんだよ」
 二人並んで吊革に掴まって。電車の穏やかな揺れに軽く身をまかせながら。
「でも、相沢君の言ってることの方が正論だと思うけど」
「う、香里までそんなこと言うの」
 名雪が、本気で泣きそうな声で言う。
「ま、正論がいつも正しいとは限らないけどね」
「やっぱり、香里だよ〜」
 今度はうれし泣きでもしそうな勢いだった。
 私たちの前に座ってる、お年寄りの夫婦が、やさしい笑顔を浮かべて私たちを見ていた。
 私と名雪のやりとりを聞いていたのだろう、その笑顔はとてもやわらかくて、暖かだった。
 私は精一杯の笑顔を二人に向けた。
 
 駅から神社へと続く参道は人で埋まっていた。参道沿いにはいろんな店が軒を連ねていた。
きちんとした店構えのおみやげ屋から、屋台のたこ焼き屋やたいやき屋まで。
人の多いのはあまり好きではなかったけれど、お祭りのような華やいだ雰囲気は楽しかった。
何より、隣に本当にうれしそうな顔で歩く名雪がいるのが、私の心を色づけてくれた。
 受験生、ということを忘れさせるような晴れやかな表情が、他人事ながら、少し不安ではあったのだけれど。
 
 
「ねえ、名雪、何をお願いしたの?」
 たくさんの人達の間を縫って、何とか参拝を済ませた私たちは、駅に向かっていた。
 名雪は、ずいぶん長い間、手を合わせて、目を瞑っていた。
 きっと、すごく丁寧にお礼を言ってるんだろうな、と思うとなんだかおかしかった。
 そして、今度のお願い事はどんな内容なんだろうな、と思った。
「えっ、秘密だよ」
「あ、冷たいね」
「だって、人に言うとお願い事がかなわなくなっちゃうから」
ちょっと困ったような顔で、名雪が言った。
 
 子供連れの家族が、楽しそうにおみくじの話をしていた。
「ねえねえ、お父さん、わたし、大吉だったんだよ」
 小学生くらいの女の子が、父親の手にぶら下がるようにしながら、得意気に話していた。
 
「香里は、なにお願いしたの?」
 名雪が、私の方を見て訊いてくる。
自分で、願懸けは人に言うとかなわないって言っといて、それはないんじゃない?と思う。
「うん、潤ともっともっと仲良くなれますように、って」
「わ」名雪が文字どおり目を丸くして驚く。
「うん?」
「なんか香里が恥ずかしいこと言ってるよ」
「そう?私らしくないかな?」
「う〜んと...」
 
なんだか考え込んじゃっている名雪。人の波が途切れる辺り。大きな鳥居を並んでくぐる。
冷たい風が参道に溢れた人達の間を通りぬけて、私たちの背中を押す。
私はちょっと振り返って、風の吹いてきた方角を見る。参道の真ん中で人の流れが縦に区切られている。
右側には、お参りを終えて帰る人達のどこか晴れやかな顔。
左側には、お参りに向かう人達の何となくうきうきとした背中。
「ううん、香里らしくないなんてことないよ。だって、香里は香里だもんね」
名雪が言う。私は彼女の顔に視線を移す。
「名雪、今、なんだか恥ずかしいこと言わなかった?」
 そうかな?と言って、ふふっと彼女が笑う。
「なんだかうれしいよっ」
「そう?でも、私の願いかなわないかも」
「どうして?」
「だって、名雪に話しちゃったから」
彼女が困ったような表情で、少しの間考え込む。
「大丈夫だよ。わたしも一緒にお願いするから」
大きな笑顔。
 
 
 
 
 
 
受験生に正月はない、なんて言うけれど、そんなことはないと思う。
そこまでして、自分を追い込むことはないのにな、とも思う。
ただ、そんな自分の思想を実行してみせるために、予備校のスケジュールを無視して正月休みを取る余裕は、
残念ながら、俺にはなかった。
いつもより人が少ないような気がする予備校のロビー。俺は聞き慣れた声に呼びとめられる。
「あけまして、おめでとう、潤。今年もよろしく」
理恵が笑っていた。理恵に会うのは、クリスマス前以来だった。隣には背の高い女の子が立っていた。
その子の俺を見る視線に、普通以上の興味の色を感じたのは、気のせいだったろうか。
「ああ、今年もよろしくな」
「あ、このでっかいのは夏紀。一応、わたしの友達らしいよ」
理恵が女の子を示して言う。夏紀と言われた女の子は、理恵に二、三言抗議をした後で、俺に向きなおる。
「どうも、真田夏紀です。よろしく」
「あ、どうも、北川です。よろしく」
「人の紹介も満足にできないような奴でごめんなさい」理恵を見て、笑顔を浮かべながら、彼女が言う。
「あ、北川くんの方が、つきあい長いのか」
そうつけくわえて、屈託のない笑顔を俺に向ける。
「もう講義の時間だよ、行こう、夏紀」
旗色が悪いと感じたのだろうか、理恵が腕時計を見ながら、急かす。
「じゃあ、また」彼女が言う。
「あ、また」
俺は何となくその場でふたりを見送る。
「ね、潤」
理恵が振り返って言う。
「受験、落ちたら承知しないからね」
そして、笑顔を残して、立ち去る。
夏紀と呼ばれた子が、理恵に何か言っていた。その言葉に、理恵が笑いながら答えていた。
どうやら、俺の受験は、知らぬうちに俺だけのものではなくなってきてるようだった。
頭の中で数えあげてみる。
香里、栞ちゃん、そして、理恵。
少なくとも三人から同じ言葉を言われたことを確認する。
大変なことになってきたな、と他人事のように思う。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
 
 
「君、君、にやけてる場合じゃないだろ」
誰かの言葉に振り返る。
相沢が、面白そうな表情で俺を見ていた。
「お、相沢」
「お、相沢じゃないだろ。北川、お前、今、間違いなくNO.1だったぞ」
「NO.1?」
「おう、この予備校の中で、気が緩んでる者NO.1だ」
「ばか、緩急が必要なんだよ」
相沢を促して階段を登りながら、俺は言う。
「緩んでばっかじゃないのか?」
 相沢がすかさず答える。
「いや、お前に言われたくない」
俺たちは並んで、講義室に入る。
 
 
「気が緩んでると言えばな、」
講義と講義の合間の空き時間、やはりいつもより空席の多い自習室で、相沢が思い出したように言う。
「やっぱり、NO.1は名雪だな」
「水瀬が?」
「ああ、『祐一、お正月は初詣だよ〜』と言って、俺を初詣に連れていこうとして、きかなかった」
「お前、それを振り切って、予備校に来たのか」
俺の責めるような口調を感じ取ったのだろうか、少し慌てたような様子で相沢が答える。
「俺、転校してるからな、リスクは少しでも減らしたかったんだよ。名雪をこれ以上悲しませない...」
途中で我に帰った様子で、言葉を切る。
「ほおー」
「そ、それでな、結局、美坂と初詣に行くことにしたらしいぞ」
相沢が誤魔化すように早口で言う。
「何か会話が聞こえてきそうだな」
 俺は相沢の努力に免じて、話題の転換に乗ってやることにする。
「ね、香里、なに、お願いしたの?」相沢が水瀬の口調を真似る。
「秘密ね。名雪は?」俺も香里の口調を真似て答える。
 
 
「ねえ、気持ち悪いんだけど、潤」
突然の言葉に、俺と相沢は揃って、声の主を見る。
理恵と、真田さんが笑顔を浮かべて立っている。
「り、理恵か」
「ね、何やってたの?」
 こういう時の理恵の容赦の無さを知ってる俺は、一縷の願いを込めて話題転換を図る。
「あ、相沢、こちらが、冬野理恵さんだ」
「あ、相沢です。よろしく」良くわからないながらも、俺の意志を汲み取ったのか、神妙なあいさつをする相沢。
「で、その友達の真田さんだ」
 顔にぎこちない笑顔を貼り付けたままで、相沢が真田さんにも会釈をする。
まあ、いいかという調子で、「あ、冬野です。潤とは同じ中学だったんですよ、よろしく、相沢くん」よそいきの笑顔で理恵が言う。
 真田さんもそれに倣う。

「潤、ここいい?」
今度は、相沢の視線が興味の色に満ちるのに気づいたが、俺には抗う術がなかった。
俺は、力なく頷く。理恵と真田さんがそれぞれの椅子に座る。
俺の隣に理恵。相沢の隣に真田さん。俺の向かい側が相沢だ。
何となく不思議な感じだった。この場に香里や、水瀬がいないことが。
 
 
そして、案の定、俺は相沢や真田さんからの質問の荒波(それは荒波と呼ぶのがまさにふさわしかった)に翻弄されることになる。
唯一、味方になるべき理恵も、面白そうに相沢達の質問に答えては、上手にその鉾先を俺に向けさせていた。
新年早々これはないよなと、俺は思った。
 
 
 
 
 
 
「さすがに元旦のこの時間だと人が少ないね」
理恵が、少しはしゃいだ様子で言う。
「大晦日の夜の混雑は、周りのやつらに殺意を感じる程だもんねえ」
真田さんがさらりと怖いことを言う。さっきからの彼女の言動を見ていると、さっぱりとしていて、頭の回転の早い人のようだった。
そして、厳しいつっこみを武器にしているらしかった。
そういう意味では、理恵と気が合いそうだな、と思った。
このふたりを同時に敵に回すことだけはしたくないな、とも思った。
 
 
「そんなに人出が多いのか、この神社?」相沢が誰にともなく訊く。
「それはもう」三人で声をあわせて答える。そして、顔を見合わせて笑う。
「あ、なんか今、疎外感、感じたぞ」相沢が不満そうに言う。
「まあまあ、わたしも転校組だから」理恵がなだめるように言う。
「お、どこから?」
転校の話しで盛り上がる相沢と理恵を横目に見ながら、気がつくと俺は真田さんと並ぶように歩いていた。
彼女は、どこかやさしげな視線をふたりに向けていた。
予備校が終った後に初詣に行こう、という話しが出たのは、休憩時間の自習室でだった。
四人とも冬期講習を取っていたから、夕方まで講義があった。
講義が終ったときにはすっかり暗くなっていたけど、せっかく初詣に行くなら、ということで、この辺りでは一番大きな神社に向かった。
電車を降りて、いつもは人で賑わう参道に出たときには、もう、夜と言って差し支えのないような時間になっていた。
さすがに元旦の夜は店も参拝客も早仕舞いらしかった。
人影のまばらな参道に、ちらほらと明かりを灯した店があることが余計に、祭のあとのような寂しい雰囲気を増長していた。
 
 
「なんかわかった気がするな」真田さんがぽつりと言った。
「え?」
「うん、理恵が言ってたことがわかった気がする。北川くんに会って」
「なんか言ってたのか?」
「うん、言ってた。何を言ってたかは秘密だけどね」
彼女が楽しそうに笑った。
 
 
「やっぱり、みんなでお願いを訊きあうのが定番だよね」
理恵が華やいだ声で言う。途中の店で飲んだ、あたたかい甘酒のせいだろうか、それとも、寒さのせいだろうか、頬がほんのりと紅く染まっている。
理恵の声が、夜の広々とした境内に響く。
「じゃあ、言い出したやつからだな」相沢が言う。
「はい、冬野理恵、願い事を発表します」
「あれ、酔ってないか?」俺は、笑いながら理恵を見ている真田さんに話しかける。
「めちゃめちゃ、アルコールに弱いからねえ、理恵は」
 さらに大きく表情を崩して、彼女が言う。
「ほら、そこ、ちゃんと聞く」
「はいはい、聞いてますよ」理恵の鋭い声に真田さんが答える。
「で、冬野理恵の願い事は何だ?」相沢が続けて言う。
「はい、はい、わたし、冬野理恵の願い事は...」
「願い事は?」三人で声をあわせる。
「“倒れるときは前のめり”です」
三人で顔を見合わせる。一斉に笑い出す。
「なーに、笑ってるんだよお」不満そうにみんなを見回す理恵。
「って、それ願い事じゃないだろ?」
「誰がモットーを言えって言ったのよ」
 相沢と真田さんが厳しいつっこみを入れる。
 そして、二人が申し合わせたように俺の方を見る。
「何だ?」
「ああ、もう、ここで鋭いつっこみを入れなくてどこで入れるって言うの?」
「悪い、俺の教育が足りないせいだ」
 相沢と真田さんは二人だけでわかりあえてるらしい。
 
「わかってないなあ」理恵が大げさなため息をついてみせる。
 俺たちは理恵に注目する。
 
「いろいろ無茶なことするかもしれませんけど、いろいろ落ち込むこともあるだろうけど、
今年も、いつでも、どんなときでも、前向きでいれるようにしてくださいっていう、崇高な願いがわかんないのかなあ...」
「や、だから...」相沢が困ったような調子で言う。
「ん、まあ理恵らしくていいじゃない」真田さんが笑う。
「そうだな、“わたしの前に素敵な人が現れますように”、とか言い出したらどうしようかと思ったぞ」俺も笑いながら言う。
「ご心配はありがたいですけどね、」
 理恵が俺に向かって言う。
「わたしは、そういうことでは他力本願なんてしません」
 舌を出して、顔をしかめて見せた。
 
 
 
 
 
 
「なんか楽しそうねえ」
「ああ、面白かったなあ」
ラインの向こう側の声が本当に楽しそうで、私はちょっと意地悪をしたくなる。
「私には誘いの言葉もなかったのに、ひどいよね、勝手に初詣行っちゃうなんて」
「や、あれはその場のノリでだな...」
形通りに慌ててくれる彼がうれしくて、意地悪をしてしまう自分が少しだけ嫌で、
でも、それ以上に、そんなことを言っても赦されるふたりの関係が何よりも大切で。
「嘘だよ。良かったね。楽しい初詣に行けて」
私は明るい声で、その思いを伝える。
「なあ、香里、本当に怒ってないか?」まだ不安そうな声で潤が言う。
「怒ってないよ。私だって名雪と初詣に行って楽しかったし」 私は本当に不安そうな潤の声に、少し苦笑しながら言う。
「そうか」ほっとした声。
 
 
「ねえ、潤」
 廊下に置いた電話。
しんと静かで冷たい廊下の空気が、こたつに馴染んだ体に心地いい。
「うん?」
「去年はどんな年だった?」
「いい年だったさ」
すぐに答えてくれるのがうれしい。
「香里は?」
「うん、私もいい年だったよ。でもね...」
「でも?」
 
ひとつ息を吸う。透き通った空気が、体の中を通りぬけてゆく。
ちょうど、夏の夜の涼しい風のように。
 
「今年はもっといい年にしようと思う」
一呼吸分の静謐がラインを伝わってくる。
「ああ、俺もそう思うよ」
笑顔と一緒にそう言ってくれた。
ラインを通して、笑顔まで届けてくれた。
 
 
 
    -end-

 【初出】2000/1/20  天國茶房 創作書房/創作掲示板
 

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