”Swingin' Days”
−Lover's step−
『Christmas Time in Blue』
・・・約束さ Mr.サンタクロース 僕はあきらめない・・・
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奇妙に静かな日々が流れていた。
あの日から、お互いの進む方向、それを確認した、あの夜から。
俺の隣には香里がいて、俺が笑うと笑顔を返してくれる。
一見すると平穏な日々。
けれど、そこには微妙な緊張感が潜んでいた。
香里の強さに支えられた日常だった。
十一月の中頃、推薦の試験に合格したという知らせを香里から聞いた。
「香里なら当然だよな」
俺はそう言って笑いかけた。
「ま、一応おめでとう、だな」
「...うん、ありがとう」
香里はそうつぶやいた、下を向いて、小さな声で。
そして、顔を上げて、笑顔をつくった。
言葉と笑顔の間にほんの少しのズレが生じていた。
言葉と笑顔がぴったりと重なり合わない、そんな気がした。
「お祝いしなきゃな」
微妙な違和感を打ち消したくて、もっとあいつの笑顔が見たくて、
俺は言った。
「ううん、いいよ」
首を横に振って、
何かを振り払うようにそうやってから、香里が言った。
「お祝いは、」
いったん言葉を切って、
目をそっと伏せて。
「お祝いは、ふたりが合格してからにしようよ」
もう一度顔を上げて、壊れそうなやわらかい笑顔で、
香里が言った。
微妙なズレ、少しだけ形が変ってしまった缶とその蓋のように、
ぴったりと重ならないふたりの気持ち。
おろし立ての新しい服のように、
どことなく落ち着かない、そんな気持ち。
ただ、それはほんの些細なものだったから、
ふたりが近くにいれば気にならないほどの小さな齟齬だったから、
そのまま放っておけば、いつか消えてしまうと思っていた。
止まない雨がないように、いつか消え去ってゆく種類のものだと思っていた。
そんな、俺たちの行き違いなど気にもかけずに、静かに日々は流れて、季節は確実に変わっていった。
秋はするりと逃げ去って、いつの間にか冬の匂いが街を覆っていた。
雪のちらつく日が多くなっていた。
受験勉強の束縛から早々に解放された香里は、格好の先生役だった。
相沢と、水瀬と、俺と香里。
いろいろなところで、勉強会をした。
四人でいるのは楽しかった。
小さな世界、閉じられたコミュニティ。
そこでは、俺たちは俺たちでいられた。
そこでは、香里もリラックスしてるように見えた。
次第に、ひとりで予備校に通う時間が増えた。
それは、仕方のないことだった。
香里はできる限り時間を作って、俺と一緒にいてくれた。
けれど、俺からそれを求めることはなかった。
なぜなら、俺が決めた進路のために、そのためのスケジュールで香里を縛りたくはなかったから。
そういう風に考えていたから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
十二月に入ってから、俺はほとんど毎日予備校に通っていた。
講義のある日が週に五日ぐらい、残りの日もほとんど自習室に行った。
自習室で過ごすときは、大抵、香里が一緒だった。
予備校で懐かしい顔を見つけることがあった。
中学時代の友達の顔。
長いのか短いのかわからない二年と少しの時間を経て、
変わったのか変わってないのかよくわからない旧友達との再会。
でも、それは確かにうれしいことではあった。
「北川、なんか、感じが変わったな」
と言われることがあった。
隣に香里がいるときには、その言葉を聞いてあいつは笑っていた。
それは、ひどくやさしい微笑みで、
今まで見たどの微笑みにも属さない種類の微笑みで。
俺はそれを初めて見たとき、子供の頃の夏休みを思い出した。
どうしてかはわからない。
それは、もう触れることのできない過去の時間のような微笑みだった。
「いつも一緒にいる綺麗な子は彼女かよ」
と冷やかされることがあった。
香里が隣にいないとき、少しうらやましげな口調で言われることが多かった。
どちらの言葉もうれしかった。
俺が変われたことも、
俺と香里が並んでいるのを他人が見て違和感がないということも。
定期試験が十二月の初旬に終わって、そのすぐ後の土曜日、
街が濃灰色の雲と、そこから舞いおりる雪に覆われてから、三日目の日。
講義の合間に俺は中学時代の友達と昼飯を食っていた。
何かのついでみたいに友達が言った。
「俺、北川は理恵とつきあってるんだと思ってたよ、中学の頃」
懐かしい名前だった。
ずっと同じクラスで、同じ部活で、あの頃いちばん身近に感じていた女の子。
長い時間を重ねるうちに、いつの間にか好きになっていた人の名前。
少し前までは、いつもどこかにその名前が引っかかっていた。
俺の心の奥の方にある部屋。
その部屋はいつも、理恵のために空けてあった気がする。
「あっさりふられたんだよ、俺」
卒業式が近い雪の降りしきる日に告白したことを思い出す。
『なあ、理恵、高校に行っても今までみたいに会いたいんだ』
『俺は、理恵のことがとても好きみたいだから』
『だから、友達じゃなく...』
『ごめんね、潤』
あいつの言葉に遮られた遠い日の告白。
『やっぱり、潤とは友達でいたいんだ』
「そうだったのか、悪かったな」と友達が言う。
その真剣な顔がおかしくて、俺は言う。
「いや、もう昔のことだからな」
気にするなよ、と笑う。
俺の笑顔を見て安心したように、
「お前ら、ホントに仲良かったけどな」
そう友達が言った。
けれど今、理恵のための部屋の扉は堅く閉ざされていた。
いや、部屋自体がもう残っていなかった。
そう、俺が香里に出会った時点で、その部屋は消え去る運命にあった。
「この前、ここで見かけたぜ、理恵のこと」
友達が紙コップのお茶をひと口飲んだ後で言った。
「俺も久しぶりに会ったんだけどな、相変わらずかわいかったぜ」
「お前のこと話したら、『会いたいな、久しぶりに』って言ってたよ」
そうか、と言って俺もお茶を飲んだ。
香里の顔が見たいな、ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。
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その日の夜、家に帰ってから香里に電話をした。
晩飯を食べて、風呂に入った後、勉強に取りかかるその前のインターバルの時間。
窓は白く曇って、部屋の中と外気との温度差を知らせていた。
その曇りを手で拭って、外を見る。
雪は辛抱強く降り続いていた。
自らの色で世界を染め上げることが、自らの犯した罪を償うたったひとつの術であると信じて疑わないかのように。
呆れるくらいの執拗さで、家々を、道を、木々を、自らの色で覆っていた。
トゥルルルルル...。
呼び出し音が鳴り響く。
どこか平面的な、広がりのない音だった。
なぜか、不吉な予感をもたらすような音だった。
「はい、美坂です」
「夜分すいません、北川ですけど」
「あ、北川さん」
声のトーンが一瞬で親密なものに変わる。
それは、不吉な予感を一瞬で消し飛ばしてしまう。
「こんばんは、栞ちゃん、香里いるか?」
「こんばんは」
と言った後で、ほんの少しの沈黙。
「えっと、お姉ちゃん、まだ帰ってないんですよ」
俺は一瞬、周りを見る、周囲を見回して時計を探してしまう。
けれど、家の電話は廊下に置いてあって、
俺の眼に入るのは見慣れた板材の壁だけだった。
「あれ、今何時ぐらいだ?」
「えっと、もう十時回ってますね」
沈黙、不安を呼び覚ます、重い沈黙。
「...お姉ちゃん、北川さんと一緒だと思ってました」
その声の終わりには不安気な色がこめられていた。
「取りあえず電話があったことだけ伝えといてくれるかな」
「はい、わかりました」
「じゃあ」
「はい、じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
受話器からの発信音を確かめてから、それをゆっくりと電話機へと戻す。
ほんの少しの違和感が残る。
俺は軽く頭を振る。
不安を振り払う。
香里の気持ちを思う。
その中にあるだろう、寂しさと不安感を思う。
そして、それを与えている俺自身のことを思う。
けれど、小さなシミのように、不安感は消えなかった。
俺の心の中の一部分に、それははっきりと残っていた。
真っ白なテーブルクロスの上に零されたコーヒーのように、
それは、はっきりと残っていた。
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日曜の午後の自習室は混雑していた。
降り続く雪のせいで、普段よりも部屋の湿度が高い気がした。
雪が人々に染み込んで室内に持ち込まれる、それが、スチームで蒸発させられる。
そのために、湿度が上がる、少しずつ居心地が悪くなる。
そういう感じ、ちょっとした不快感。
昨日の夜、そして、今日の朝、香里からの連絡はなかった。
もともと今日は約束をしていない日だった。
朝から夕方まで、俺は小間切れに講義を取っていたから。
『そっか、じゃあ、行けたら行くね、自習室』
土曜日の教室での香里の言葉を思い出す。
つい昨日のことなのに、もうずいぶん遠くの記憶のような気がする。
『ああ、無理しなくていいぞ』
『うん』
笑顔、少し違和感のある笑顔。
色のついてない、古い写真のような笑顔。
昨日の不在、今の不在、香里の不在。
それが、俺の中に確実に不安感を形づくっていた。
手にしていたシャープ・ペンシルをくるくると指先で回す。
勢いよく回ったシャープ・ペンシルは、俺の指先を離れて、カタンと机に落ちる。
「ね、潤...だよね」
どこかで聞いたような声で呼びかけられる。
俺は落ちたシャープ・ペンシルを取ろうとしていて反応が遅れる。
「北川...くん、だよね」
ゆっくりと振り返る。
小柄な女の子。
肩の辺りで切りそろえられた真っ直ぐの髪、
きりっとした印象を人に与える眉、薄い唇。
よく動く大きな黒い瞳。
「りえ、か」
口をついて出た懐かしい名前。
ずいぶん大人っぽくなっている気がした。
けれど、その表情には俺たちが一緒の時間を過ごした頃の面影が、確かに残っていた。
時間は確かに繋がっているんだな、俺はそんなことを考える。
もう、遠く過ぎ去ってしまった時間。
今とは直接関係ないと思っていた時間。
でも、それは間違いなく繋がっていて、今、ここに俺たちがこうしていることは、
その流れの中のほんのひとつの断面でしかなくて。
彼女の口元がゆっくりと綻んで、見憶えのある微笑みに変わる。
「久しぶりだね、元気だった?」
「ああ、久しぶり、理恵は元気だったか?」
うん、もちろん、と頷いた後で、俺のリュックサックが置いてある隣の席を見て。
「隣、いいかな?」
そう言った。
一瞬、香里のことを考えて、でも、俺は頷く。
「ありがと」
笑顔で言って、手にしていたコートとバッグを椅子の背に掛ける。
さらさらと、髪が揺れる。
隣に座る瞬間に空気の流れが乱れる。
理恵の香りがした。
少し甘い花のような香り。
ずっと昔にどこかで嗅いだことのある匂い。
春の日曜日の草原のような匂いだった。
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「ふーん」
俺の左隣で、右手で頬杖をついて理恵が言う。
俺の顔を見つめながら
「なにが、『ふーん』なんだ」
「今日は、あの綺麗な子、一緒じゃないんだね」
俺の質問には取り合わずに理恵が言う、少し笑いながら。
「えっ?」
不意をつかれたように、俺は問い返す。
「あの子、彼女?」と真剣な声音。
「いや、まあ、そんなもんだ」
頻繁に変わる話題。
くるくると変わる表情。
そう、こいつは昔からこういうヤツだった。
いつでも、誰と話すのでも、自分のペース。
自分のペースにいつの間にか人を引き込む、そういう女の子だった。
「へえ〜、また、何で潤なんかと...」
俺を見て、口元を綻ばせて、
「ねえ」
そう言って笑った。
「あ、そろそろ時間だ」
30分ほどが経ったとき、細い手首に巻いた無骨なダイバーズ・ウォッチを見て理恵が言った。
自分の言いたいことは言ってしまったのか、
その後の理恵は静かだった。
俺は隣が気になって、あまり勉強に身が入らなかった。
ちらちらと横目で見た限りでは、理恵は真面目に勉強をしているようだった。
「じゃ、潤、今日は話せてうれしかったよ」
そう言って、手を小さく振って、
くるりと後ろを向いて、理恵が自習室を出ていった。
風が起こった。
小さな風。
少し甘い花の匂いの風。
遠い記憶を喚び起こすような風だった。
午後、二コマの講義。
その間中、俺は香里のことを考えていた。
最近の香里の姿を思い起こしてみた。
言葉と笑顔のズレのことを思った。
香里の不在のことを思った。
どうしてだろう?
連絡が取れないと言うだけで、不安感がつのる。
消えていなくなってしまったわけでもないのに。
手を伸ばせば届くところに、香里はいるはずなのに。
それでも、不安感は拭い去れなかった。
相変わらず、教室の中の空気は淀んでいた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
混み合った予備校のロビーを抜けて、自動ドアを出る。
ふと、空を見上げると、雪は止んでいた。
けれど、重い雲は相変わらず街を覆っていた。
ひとつ小さいため息をついて、歩き出そうとしたとき、後ろから呼び止められた。
「潤っ」
俺は期待を込めて振り向いた。
やはり、会いに来てくれたのか、と。
どうしてだろう?
なぜすぐにわからなかったのだろう?
あいつの声ではないことが。
そこには、遠い昔にも見た笑顔があった。
「ため息なんかついて、年寄りくさいよ」
屈託なく笑う。
「ね、一緒に帰ろう」
そう言って、とても自然に俺の腕を取る。
街をすっかり覆い尽くした雪。
その白さが街に明るさをもたらす。
陽の光でも、月の光でもない、第三の光。
街中のいろんな光を集めて、やさしく反射する雪の灯り。
「ね、潤、すっかり雪が積もったね」
大きな笑顔を俺に向けてくる。
たくさんの時間を越えてきた笑顔。
「なあ、理恵、お前、何やってるんだよ、こんな時間まで」
さっき、別れ際に、次の一コマで今日の講義は終わり、と言っていたのを思い出して、
俺は言う。
「うん、潤のこと待ってた」
もう一度、大きな笑顔を見せる。
雪明かりにぼんやりと照らされた笑顔。
心のやわらかい部分に触れてくるような笑顔だった。
俺の右手に絡めた左手。
そこから微かに伝わる、理恵の鼓動。
少しだけ、早くなっている、理恵の鼓動。
月のない夜。
街灯の下で、理恵が立ち止まる。
ゆっくりと、左手を俺の右手から外して、
ゆっくりと、俺に向き直る。
そして、ゆっくり口を開く。
「ねえ、潤」
「ずっと、忘れられなかった、って言ったら信じる?」
【初出】Key SS掲示板 1999/9/7
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