『そうねえ、あたしはやっぱり、引っ張っていってくれるような人がいいかなあ』
『へ?あんたを引っ張ってくの?えっと、レッカー車とか?』
『“人”って言ってるでしょ。文句ばっかつけて、あんたはどうなの?』
『わたしは、やっぱり包容力があって……』
『金持ってて、何でも買ってくれて?』
『そうそう、服とかアクセサリーとか?違〜う〜!』
 二人のやり取りを聞いて笑っていた私に、先輩たちが同時に言った。
『はいはい、ツナミ。タダ聞きはなしね。あんたも言うのよ』
『私ですか?』
 二人は同時に頷く。ボーントゥービーダブルスと、本人たち以外が呼ぶのが納得できる同調ぶりで。
『ええっと、私は……』





















  Talking to your Heart
  恋してるとか好きだとか 
















        1.

 はじまりからして、唐突でイレギュラーだった。
 誰だって17年も生きていれば、自分の位置というものが大体わかってしまうものだ。
 それはちょっとカナシイ事だったりもするけれど、ただその現実から目を逸らしたからといって、事態が改善されるような類いの問題でもない。
 いや、問題なんて大げさなものでもなくて、でもやはり、僕たちくらいの年齢の者にとっては大きな問題と言ってもよくて……。
 堂々めぐりは止めよう。言いたいことは簡潔に、要領よくまとめること、とレポートの課題を出すたびに、日本史の教師が言ってることだし。そう言ってる当人が出す課題が、要領よくとはぜんぜん違う地平にあることは、この際置いておいて。
 そう、ポジションの話だ。
 17年も生きていれば、そして、その大半を学校という集団生活の中で過ごしていれば、意識、無意識は別にして自分のポジションってのがわかってしまう。それは、何度も何度も繰り返し新しい集団に放り込まれる僕たちには、半ば必須とも言える能力で。それに欠けた人間が、あるいはそれを打破しようという勇者が、求められているのとは別のポジションを手に入れようとがんばりすぎて周りから敬遠されてしまう、なんて光景、一度くらい見たことあるはずだ。誰だって。
 また話が長くなりそうだから簡潔に言う。
 つまり、僕は話したこともない誰かに興味を持たれたり、陰ながら慕われたりするような類いの人間じゃない。
 なかった。
 ないと思ってた。彼女に会うまでは。




「ねえねえねえねえ」
 5月の連休が終わったあと。絶望的な雰囲気が教室に漂う、月曜日の6時限目。2クラス合同の体育の着替えのために、教室を出ようとした矢先、冬季迷彩パターンのバッグを両手で抱えた、小柄なショートカットの女の子に呼び止められた。
 抱えてるバッグの中には、きっと着替えが入ってるのだろう。ということは、隣のクラスの人間だろうか。少なくとも、うちのクラスではないはずだ。さすがに、同じクラスの女の子くらいはチェック済みだ。僕だって。
「ねえ」
 さっきの四連発とは少し違う調子で言って、彼女が僕の目をまっすぐに見る。
 見上げる視線。大きな目。よく焼けた肌。ちょっと低い鼻。右頬に小さなニキビ。
 僕は左右を見る。周りには教室移動でちょっとした人波ができている。けれど、彼女と話してるように見える人はいない。ということは、彼女は僕に話しかけているのだ。きっと。
「ねえ、聞こえてる?」焦れたような調子で、彼女が言う。僕はちょっと気圧されて、言葉が出ない。小さく頷くのがやっとだった。
「えっとね、今日の放課後はヒマ?」と声をひそめる。
「え?」
「だから、今日の放課後はヒマなの?」彼女が大きな声を出す。周囲の人波が、彼女に注目する。同時に、僕にも。
 頬が紅潮するのを感じる。彼女は、視線など気にならない様子で、僕を見ている。
 僕は頷く。とにかく、この場から開放されたくて。
「そう。じゃ、ホームルームのあと、待ってるね。ここで」
 満面の笑みでそう言って、僕の右腕をバシンと叩いて、彼女は僕の教室に入っていく。
 その背中を見送る。短めの丈の紺のセーラー服。小柄な割にしっかりとした肩。顔とは対照的な白い脚に紺のソックス。
 そうやって少しの間、彼女を見つめていた僕は、視線を感じてあたりを見回す。
 たくさんの女の子の瞳が、僕を咎めるように見ていた。気がつくと、周囲数メートル四方で、男は僕だけになっていた。




 ひと言で言うならばって、よく人は使う。大体、そういう場合に本当にひと言で済むことは稀なんだけど、それでもよく人はそのセリフを口にする。それはつまり、ひと言で言い表せるのではないかと思ってしまうほどに、対象に対してのイメージが固まってるってことなんだと思う。でも、僕は誰かのことをひと言で語れる自信はないし、人に自分のことをひと言で語られたくもない。
 そして、そんな言葉で僕を語る人のことは、きっと信用できないとも思う。
 思ってた。ついこの前までは。


「ひと言で言って、ぬるいヤツだね」
「え?」
 制服のまま入った、駅前のファストフード店。彼女は僕の都合も訊かずに、学校からまっすぐにこの店に向かい、迷うことなく窓側の席に座った。
「ぬるいヤツだねって言ったの」
「何が?」
「君が」そう言って、彼女は顔いっぱいの笑みを作り、手に持ったオレンジジュースのストローに口をつけた。


 彼女は、その言葉どおり、教室の前で僕を待っていた。
 クラスの何人かは僕と彼女のやり取りを知っていて、興味深げな視線をちらちらと、ホームルームの時間に投げかけてきた。幸運だったのは、ホームルームの前が体育だったせいで、僕たちの第一次2−B邂逅(と、のちに名づけられることになる)の詳報がクラスには行き渡っていなかったことだった。
 ホームルームの終わりを告げる、「起立」の号令とともに、僕はみんなの視線を盗むように教室を出た。彼女は満面の笑みで僕を迎えた。そして、僕の戸惑いごと右腕をつかむと、すぐに歩き出した。彼女だけが知っていた目的地、つまりこの店に向かって。


「私はねえ」
 ストローをくわえたまま、くぐもった声で彼女が言った。
「え?」
「私はひと言で言うと、パンダ」
「は?」
「ほら、顔真っ黒で、首とか腕とか、脚とか全部白いでしょ。だから」
 そう言いながら、彼女はセーラー服の襟元を少し開き、頭を傾けた。耳にかかる短い髪の毛がゆれ、首筋がのぞいた。軽くスカートの裾を上げて、形のいい脚を僕の方に伸ばしてみせた。僕は、まっすぐに見ることができなくて、窓の外に目を向けた。
 うーん、食いつき悪いなあとか、笑うところなのになあ、とかつぶやきながら彼女は脚を元の位置に戻した。
 そして、あらたまった口調で言った。
「私はね」
 僕は彼女に向き直った。狭いテーブルの向こう側から、彼女が身を乗りだすようにして言った。
「私はひと言で言うと、熱いヤツ」
「はあ」相づちともつかないため息が、思わずこぼれた。僕は半ば呆れながら、彼女を見ていた。
「たぶん間違ってないと思うんだよね、そんなには」彼女がオレンジジュースのカップのプラスティックのふたを外してテーブルに置いた。
「なんてったって自分のことだし」
 そう言って、今日、何度目かの笑顔を僕に向けた。
 一体何から訊いたらいいんだろう。そんなことを思いながら、僕は自分のコーラのカップに手を伸ばした。
 趣味?好きなもの?得意な科目?
 いやいや、ズレてる。
 そもそも、君は誰?うん、このラインだ。
 部活はやってる?好きな音楽は?
……やっぱりズレてるかもしれない。
 未だに混乱から抜け出せない自分をあらためて認識して、炭酸が抜けかけのコーラを飲む。
 バリボリと気持ちのいい音がして顔を上げると、彼女は、オレンジジュースのカップに残った氷をおいしそうに食べているところだった。











       2.

名前はツナミ。カタカナでツナミ。簡単ですぐに憶えてもらえるから好き。
暑い夏が好き。真っ黒になるけど、ちょっと脱水しちゃうけど、夏にやるテニスは大好き。そのあとに飲む、冷たい麦茶も好き。
冬は寒いから大嫌いだったけど、スキーを始めてから待ちきれないくらい好きになった。一日中滑りまくったあとに、暗くなっていくスキー場を見ながら飲むホットココアはとても好き。
麺類が好き。うどんよりもそばが好き。甘いものは生クリーム以外は好き。
学校は好き。授業は眠くないときには好き。息継ぎのような授業の合間の短い休みも、昼休みの長く息をつくような感じも、休み時間はとにかく好き。
息を詰めるような図書館の雰囲気も好き。でも、そこに座っているのは5分が限界。化学実験室の匂いも好き。不思議と職員室も好き。教室とは全然違う顔で話してる先生がいたりするから。
土砂降りを窓から眺めてるのも好き。覚悟の上なら、土砂降りの中を歩くのも好き。でも、スキー場に降る雨はダメ。雨にうたれて融ける雪は、見ていてなんだか悲しくなるから。
 乗り物は好き。一度も乗り物酔いしたことないのが自慢だけど、一度酔ってみたい気もする。どんな感じなのか、知りたいから。電車もバスも家の車も自転車も好きだけど、バイクに一度乗ってみたい。カーブをすごく傾いて走り抜けていくのを見て、断然乗りたくなった。
 Tシャツが好き。冬ならパーカーが好き。洗い立てのジーンズのピシッとした感じが大好き。今は髪を短くしたからあまり使えないけど、カチューシャが好き。
 弟は最近ちょっと憎らしいけど、でも、たまにかわいいから好き。ジョンは大好き。子犬のときからずっと一緒だから。ジョンをスキー場に連れて行ってあげるのが、今の夢。
 物事をはっきり言う人が好き。ひとつのことをじっくり考える人も好き。自分にはできないことだから。
人の話を聞いてるんだかいないんだか、周りのことが見えてるんだかいないんだかわからないくらい力が抜けてるヤツも割と好き。
そして、何より、学校帰りにファストフードの店によって、こうやって話をするのがとても好き。





 これが、第一次2−B邂逅から数ヶ月の間に、僕が知り得た彼女だった。もちろん、僕はメモを取りながら彼女の話を聞いていたわけではないから、多少の間違いはあるかもしれない。でも、大きな間違いはしていないと思う。彼女はくり返し、それらについて話したから。そして、その話は、とても明確でわかりやすかったから。彼女の話を聞いているとき僕は、この世の中は楽しいことや素敵なもので溢れてるような、そんな錯覚に陥ることがあった。
 そういう意味では、僕は彼女の話を聞くことが嫌いではなかった。
 彼女がその話を僕にする必然性や目的は、まったくわからなかったけれど、それでも、彼女の話を苦痛だと思ったことは、ほとんどなかった。
 だから僕は、彼女に誘われたときに断ったことは一度もなかった。何か他の用事が入っていたら(数少ないとはいえ、僕にも外せない用事はあった)断ったかもしれないけれど、彼女はまるで見透かしたかのように、僕の用事がない日に誘ってきた。
 最初のうちは僕と彼女が待ち合わせる姿を見かけては、第○次2−B邂逅、第○次2−A邂逅と律儀に数えてくれていたクラスメートたちも(ちなみに、2−B邂逅は第十一次まで、2−Aは第三次までカウントされた)、飽きたのかそのうち何も言わなくなってしまった。


 そんな風に僕たちの春の終わりと梅雨は過ぎて、7月が来た。期末テストが始まる直前に、彼女は一週間学校を休んだ。
 僕は彼女が学校を休むことも、その理由も知らされていなかった。
 月曜日に彼女の不在を知った僕が、教えられていた携帯の番号に電話するまでには、四日間に渡る葛藤が必要だった。僕が、生まれて以来初めてじゃないかぐらいの決心とともにかけた電話に出たのは、彼女の母親だった。
 ごめんなさいね、と母親は言った。彼女はほとんどの場合、携帯を家に置き忘れたままで出かけるらしかった。
『誰に似たのかしら、ホントにあの子ったら、おっちょこちょいで……』
『そうそう、そういえば、この前もお風呂に入ってるときにね』
 僕は際限なく続く彼女の母親の話をBGMに聞きながら、DNAのことについてちょっと思った。そして、話の切れ目を見つけて、電話を切った。それを正確に掴み取る技術は、ここ最近、僕が身につけたもののひとつだった。


 一学期最後の日、終業式の日に僕は彼女に誘われた。
 その日、めずらしく待ち合わせ場所を商店街の本屋に指定した彼女は、これも初めてのことだけど、時間に遅刻して来た。
 なんとなくバイク雑誌を眺めていた僕が気づかないうちに、彼女は息がかかる程、そばに来ていた。
「すごく、傾いてるね」と彼女が言った。僕は驚いて振り向いた。その拍子にお互いの顔が触れてしまいそうになった。僕はさらに驚いて、一歩動いた。
「何が?」僕は訊いた。
「バイク」彼女が僕の見ていた雑誌を示した。
「遅くなってごめん」
「あ、うん」
「行こう」そう言うと、くるりと振り向いて歩き出した。
 僕は慌てて雑誌を置くと、彼女を追って本屋を出た。


 もう何度目になるだろうか、僕たちはいつものファストフードの店に入った。ここで、同じ高校の人間に会ったことも一度や二度ではなかった。彼女は高校では部活に入っていなかったが、知り合いが多かった。クラスの女の子が、去年、一昨年と何とかいうスキーの大会で優勝か準優勝かした子だよ、と訊きもしないのに教えてくれた。でも、A組の女子には受けが悪いみたいだけどね。とその子はつけ加えた。
 けれど、僕と一緒のときに彼女に声をかけてくる人間の男女比率は7:3くらいで女の子の方が多かった。
 その日も、僕とツナミがカウンタの前に並んでると、背の高いよく日に焼けた女の子と、ツナミと同じくらいの背の小柄な女の子の二人連れが声をかけてきた。僕は、彼女たちの話を聞くともなしに聞いていた。
「え、なになに、その子があのロバ耳くんなの?」
 その子?
「あー、ナツキ先輩、それ言わないでくださいって言ったじゃないですか」
「うわ、照れてるよ。ね、リエ、照れてるよ、この子」
「あんまり、いじめてると嫉妬してるみたいだよ、ナツキ」
 聞いていると二人はツナミの先輩のようだった、僕はさりげなく彼女たちの方を見た。リエと呼ばれた背の低い方の先輩と目が合った。少しもさりげなくなかった。彼女は僕の視線を受け止めると、いたずらっぽい感じで笑った。そして、まだ何か言ってるナツキと呼ばれた背の高い先輩を押すようにして、出入り口の自動ドアに向かった。自動ドアを出るときに、一度だけ僕の方を振り向いて、左手の親指を立ててみせた。
「先輩?」
 呆気に取られて彼女たちを見送り、思い直してツナミに訊いた。彼女は頷いた。めずらしく、戸惑っているような表情をしていた。
「で、ロバ耳くんって何?」
「あ、私、今日はお腹すいてるからLセットにしようかなって思ってるけど、どうする?えっとね、Lにナゲットもつけよっかなって思ってるんだけどね。ね。で、ソースはバーベキュー。お腹空いてるよね?ね、君もLセットでいいよね?」
 彼女が明らかにごまかそうとして、ひと息で言った。カウンタの向こう側のアルバイトの女の子がくすくすと笑っていた。僕は、収拾がつかなくなっている彼女の代わりに、取りあえずオーダーをした。彼女には先に席を取っておいてくれるように言った。
 品物が揃うのを待って、頭を抱えて彼女が座っている、いつもの窓側の席に向かった。
 カウンタでのやり取りを見ていたのだろうか、中学生らしい女の子の3人連れが僕の方をちらちらと見て、何か話していた。
 僕は、最近周りの人に笑われたり、注目をされたりしても動じなくなっている自分に少し驚きながら、テーブルにトレイを置き、彼女の向かい側の席に座った。


「お待たせ」
「あ、ありがと」彼女が髪の毛をかきあげ、顔を上げて言った。初めて会った頃よりも伸びた前髪が額に一筋落ちた。そして、何か言いたそうに僕の顔を見た。
「お腹すいてるんだろ?食べよう」
「う、うん。そうだね。お腹ペコペコだよ」
 そう言って、山盛りのトレイからオレンジジュースのカップを取り、ストローに口をつけた。オレンジジュースを飲んだあとに、ストローから口を離して落ち着いたような小さなため息をこぼして、口を開く。
「ペコペコって変な言葉だよね。なんか動物みたい」
「動物?」
「うん」
 それだけ言うと、表情を輝かせてナゲットの箱を開いた。ソースのフタをはがして、何か鼻歌をうたいながらナゲットをソースにつけると、口に運ぶ。僕がその様子を見ているのに気づくと、美味しいよと言って、食べかけのナゲットを示してみせた。
 しばらくの間、僕たちは何も言わずにテーブルの上に並んだハンバーガーやらナゲットやらポテトやらアップルパイやらを片づけるのに集中した。この店に彼女と二人で来て、こんなに長い時間話をしなかったのは初めてだった。といっても、それは15分に満たないくらいの間だったけれど。
 あらかた食べ終わって、彼女がいつものように氷を噛み砕く音をたて始めるのを待って、僕はあらためて問いかけた。
「で、ロバ耳くんって何?」
 うわあっという顔をして、彼女が言った。
「やっぱり、そう来るよね」
「そりゃあね」
 うー、と小さく唸り、もう一度カップを傾けて氷を口に流し込むと、ガリガリと噛み砕いた。
「順番を追って話すよ」
 僕は頷いた。自分のコーラのカップを示した。コーラはなくなっていたけど、氷が残っていた。空になったオレンジジュースのカップを名残り惜しそうに揺らしていた彼女が、うれしそうに僕のカップを受け取った。
「まず、最初に」彼女は言った。
「まず、最初に」僕は確かめるように、復唱した。


 聞いてみれば別に大したこともない話だった。
「王様の耳はロバの耳」という寓話。その中に登場する気の毒な村人の唯一の救いである、木のうろ。彼女はずっとそれを探していた。ずっと前から、自分の話を聞いてくれる人がほしいと思っていた。そして、彼女はそれを見つけた。うれしくて中学のときの部活の先輩に話した。『木のうろクン』じゃあ、座りが悪いというので『うろクン』という呼び方に収まりかけた。それじゃあ、かわいくないから『ロバ耳くん』がいいと彼女は主張した。
『ロバ耳くん』じゃあ意味が違うと言って、最初は認めなかった先輩たちも最後には渋々了承した。
 それから、僕はロバ耳くんになった。彼女と彼女の先輩たちの間では。
 全然、順を追っていなかった彼女の話を要約すると、そういうことになる。
 僕は聞き終ったあとで、訊ねた。
「で、中学のときの先輩っていうのが、さっきの二人?」
「そう」
「そうか」
「あ、でもね、二人だけじゃないよ。先輩」
「え?」
「不思議とうちの部から、この高校に来る人って多いんだ」
 僕はちょっとした目まいのようなものを感じながら、訊ねた。
「で、何人いるの?」
「10人」
「10人?」
「そう、ダブルス5チーム分」
「みんな知ってるの?ロバ耳」
「みんな知ってるよ。ロバ耳」


 ひと言で言うなら。
 僕は自分を語るのにふさわしいひと言を持っていなかった。ついさっきまでは。
 ひと言で言うなら、ダブルス5チーム分のロバ耳くん。
 それが僕だ。


「ね、怒ってる?」
 その日、商店街の出口での別れ際に、彼女が言った。
「何を?」
「ロバ耳くん、とか勝手に呼んでたこと」
「別に」
「うろクンのほうがよかった?」彼女がまじめな顔で言った。
「いや、ロバ耳くんでいいよ」僕は笑いながら答えた。
 彼女も笑って、よかったと言った。
 夏の長い陽は落ちかけて、辺りには夜の匂いが満ち始めていた。微かに虫の鳴く声が聞こえた。鮮やかな夕焼けが、これから訪れる真夏の日々の予告をしているようだった。
「ひとつだけ嘘をつくね」と彼女が言った。
 僕は、意味がわからずに問い返した。
「これから君と話す中で、一度だけ、ひとつだけ嘘をつくね」
 彼女は俯いて言った。表情は、残照で見えなかった。
 僕はよくわからずに頷いた。
「だから、それを君は見つけてね」
「俺が?」
「うん、君が」
「嘘を?」
「そう、私のついた嘘を見つけるの」
 小さく笑って、彼女は言った。
「見つけるとどうなる?」
「見つけるとね……」彼女は、また俯いた。笑顔は消えていた。
「見つけてくれると、私がうれしい」小さな声で言った。
「……見つけてくれるかな」
 彼女は俯いたまま、つぶやいた。
「……見つけてくれるといいな」






 夏休みに、僕は一度だけツナミと会った。彼女は相変わらず、元気で、会っている間中、一所懸命にしゃべった。そして、以前にも増して顔の色が濃くなっていた。首まで焼けたんだよと言って、着ている紺色のTシャツの襟元を開いて見せてくれた。焼けていない白い肌まで視界に入って、僕は目を逸らした。
 何で焼けたの?と訊いた僕に、スキーと答えた。合宿でスキーのトレーニングをやっていたらしかった。モーグルそのものをやるわけにはいかないけど、いろいろトレーニングのやりようはあるんだよ、と彼女は言った。
 そして、また合宿に戻るから、次に会えるのは夏休み明けだねと言った。






 二学期の始業式の日、家を出る前に彼女から電話があった。母親がそれを取り次いでくれた。
 君の携帯の番号聞いてなかったから、と彼女は言った。僕は、携帯を持っていないことを告げた。彼女は呆れたような、感心したような微妙な感じで、ふーんと言った。
 僕は持ち歩かないなら、持っていてもいなくても同じだろ、とこの前の彼女の母親の言葉を思い出しながら言った。今日は持って出てるもん、と拗ねるように言ったあとで、彼女は大きな声で笑った。
 そして、いつもの店にいつもの時間に待ってるからねと言って、早々に電話を切った。
 何かを恐れてるような、何かに追いたてられてるような、電話の切り方だった。


 落ち着かない気持ちで、始業式とホームルームをやり過ごして、僕は時間どおりにファストフードの店に行った。学校では彼女の姿を見かけなかった。
 もしかしたら、また遅刻してくるのかなと思いながら店に入ると、彼女はすでにいつもの窓側の席に座っていた。彼女の前には、空になったジュースのカップがあった。
「久しぶり」
「久しぶりだね」夏休みに会ったときよりもさらに深みを増した日焼け顔に笑みを浮かべて、彼女は言った。
「スキーの合宿はどうだった?」
「スキーの合宿は楽しかったよ」
 そう即答して、何か言いたそうに一瞬口ごもった。
 そして、思い直したように息をつくと、合宿で起きたことを話し始めた。
 キャタピラのようなローラをつけてやるグラススキーが、思いのほか面白かったこと。雪の上でやるスキーよりも、怪我をしやすいこと。そのせいで長袖を着なきゃいけなくて、痩せるほど汗をかいたこと。きつい練習のあとで飲む、冷たい麦茶が美味しくて、ついつい飲みすぎてお腹をこわしたこと。合宿の打ち上げの日にやった花火。宿の近くの川で見た蛍。


 気がつくと、いつも僕たちが店を出る時間を過ぎていた。僕は腕時計を見た。窓の向こう側の人波は、買い物に来た人たちから帰宅する人たちへと変わっていた。
 僕たちと同じ高校の制服を着た男とすらりとした髪の長い女の子が、何か話しながらガラス一枚隔てたすぐ向こう側を通り過ぎた。男が何か言って、女の子がそれに答えた。女の子は、口を閉じたあともずっと男の方を見ていた。二人は、すぐに人込みにまぎれて見えなくなった。


 彼女はまだ話しつづけていた。僕はちょっと心配になったけれど、今の僕にさえ話の切れ間を見つけることが困難な勢いで話しつづける彼女を、そのままにしておいた。
 結局、彼女の話は閉店までつづいた。彼女は閉店を告げる音楽を聴くと、夢から醒めたように何度か瞬きをした。そして、さすがに疲れた声で、帰ろうと言った。
 のどが渇いたね、と彼女が言った。僕たちは、すでにシャッターを下ろしているドラッグストアの前にある自動販売機で、飲み物を買った。
「氷入ってないけど」僕は笑いながら、彼女に冷たいウーロン茶の缶を投げた。
「それは残念」そう言って、彼女は缶を受け止めた。
 のどを鳴らしてウーロン茶を飲むと、ふーっと大きく息をついた。
「ねえ、憶えてる?」
「何を?」
 シャッターに寄りかかるようにして並んで立っている僕たちの前を、塾帰りらしい小学生たちが騒ぎながら通り過ぎた。
「うちの弟、あれぐらいだよ」
 問い返した僕には答えずに、彼女が目を細めるようにして、小学生たちを見ながら言った。
「ねえ」彼女は、両手で持ったウーロン茶の缶を見つめていた。
「何?」
「……ううん、何でもない」
 そう答えると、勢いをつけてシャッターから離れた。その反動でシャッターが揺れて、大きな音がアーケードに反響した。けれど、夜の商店街には人影が少なくて、その音もすぐに空間に消えていった。
「帰るね」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ」
 僕は答えた。彼女は僕の顔をじっと見た。僕はその表情を見ているうちに、何か言わないといけないような気がした。何を言えばいいかわからないまま僕が口を開こうとしたときに、彼女は僕に背を向けて歩き出した。
「またね」と彼女は言った。僕は、ああ、と答えた。
 彼女は、片手に僕が渡したウーロン茶を持っていた。他には何も持っていなかった。
 僕は、彼女のセーラー服の白い背中が見えなくなるまで、シャッターに寄りかかって見送った。










       3.

 木曜日に始まった二学期が、最初の土曜日にたどり着く頃には、僕たちのクラスは惨たんたる状況になっていた。夏休みの亡霊は学校全体に重くのしかかり、教師たちは自らそれを認めることを恐れて、代償行為を生徒に求めた。具体的には、夏休みの課題の提出や習熟度を測るための小テストの実施という手段で。土曜日の朝、僕たちには、ただ臥して放課後を待つ力だけが残っているといった有様だった。
 タイミング的にそろそろかな、と思いながら土曜日を過ごした僕を、けれど、教室の外で迎えてくれるツナミの姿はなかった。
 少し残念な気持ちで家に帰った僕に母親が、宅配便が届いてると告げた。
 僕は二階の自分の部屋に入ると、カバンを床に投げ出して、ベッドの上に置いてあった宅配便の茶色い封筒を手に取った。
 伝票の差出人欄には、彼女の名前が書いてあった。彼女の書いた字を、初めて見たことに気づいた。彼女がいったい何を送ってきたのか見当もつかないまま、封筒を開いた。
 中には、僕の名前とそのあとに(私のロバ耳くんへ)と書かれた薄いグリーンの封筒が入っていた。






これを読んでる君は、きっと九月の君だね。九月三日以降の君。
これは確実。だって、それ以前には届かないはずだもんね、この手紙。そうお願いしたから、私が、クロネコさんに。
う。でも、もしかしたら君は十月の君かもしれない。十一月の君かもしれない。いや、一月以降の君かもしれない。それまで、これを開けてくれないかもしれない。
うわ、最悪!
一月の君だったら、私は一月の私で、ってことは山にこもってるよ。
毎日毎日モーグル三昧で、顔なんか紫外線たっぷり浴びて、何塗ってたってかさかさだし、きっと転びまくって、青あざだらけだよ。ホント、きっと見惚れるほどの青あざっぷりだと思うよ。
君にそれを見せられないのが、少し残念。そうそう、青あざっていえば、去年なんかおしりの真ん中に青あざができてね、ずいぶん長い間消えなくてね、赤ちゃんみたいでうれしいやら、おかしいやら、大変だったよ。
違う。おしりの話じゃなくて。
それとも、このまま続けた方がいい?
 
今、笑ってくれてるかな?笑うとこだよ、ここは。
私も笑ってるから、君も笑って。いい?
 
うん、笑ったままで聞いてね。違う、読んでね。
ダメだね。話してても、書いてても、すぐに話が色んなところに行っちゃうよ。
話したいことが、いっぱいあったんだ。知ってほしいことが、たくさんあったんだよ。
本当は、毎日毎日、君と話していたかった。学校でもずっと君の隣に座って、先生に注意されても無視しちゃって、トイレなんかに行く時間も惜しんで、ごはんは誰かに学食から運んでもらって、君と話していたかった。
話しつづけている限り、話は終わらないから。私は、ずっと話しつづけた。ホントに何でも、君に話した。でも、嘘はつかなかったよ。どんなに恥ずかしい話でも、さすがの私でも、これを男の子に話すのはどうだろうっていう話でも、何でも、選んだりしないで、君に全部話したよ。
だからね。
そう、だからね。
ホントは私は、とてもくやしい。
君にちゃんとさよならを言えなかった私が、とってもくやしい。
でもね。
でも、それは君のせいでもあるんだよ。
君は、いつもいつもいつもいつも。
ホントにいつだって、私の話を全部聞いてくれたから。私が一人でしゃべってるのを、ときどきは嫌そうな顔をしたりしながら、でも、聞いてくれたから。
だから私は言えなかった。君が思うとおりの私でいたかった。
君が思う私が、君にどうやってお別れを言うのか、私にはわからなかった。
たくさんたくさん話して、君に私のことをたくさん話して。
それで、私は私がわからなくなった。
だから、私は手紙を書いてる。
たぶん君に話したはずだけど、きっと君は憶えててくれてると思うけど、私は文章を書くのが好き。
この前の夏休みの課題だって、転校するから出さなくていいのに、現国の課題だけは提出したよ。本を読むのはつらかったけど、感想文書くのは楽しかった。とっても。
そうそうそうそう。九月一日に、感想文を出しに行ったんだ、学校に、こっそりと。
現国のコバ爺の机に課題だけ置いて、帰ろうと思ってたんだ。そしたら、コバ爺に見つかっちゃってね。
『あなたの文章が読めなくなるのはさみしいですね』って言われちゃった。コバ爺が淹れてくれたお茶飲みながら、そんな話をしたんだよ。
『あなたの文章には、あなたがそのまま表出していて、たいへん好感が持てます』なんて言われたんだ。
スゴイね。スゴイよね。私、学校に通ってもう10年以上になるけど、体育以外で先生にほめられたのって、初めてだった。
『少々品位に欠けるのが、難点ですが』って言ってたけどね。
品位だもん。今、私、辞書引いて書いたよ。品位。
「見る人が自然に尊敬したくなるような気高さ、おごそかさ。品」だよ。引用しちゃうよ、ありがたくて。

ごめんごめん。ホントにごめん。また、全然違う方向に話が行っちゃったね。
でも、この話してなかったよね。あんなに話したのに、話してない話がいっぱいあるんだね。
うん。
文章の話。というか、手紙の話。
この手紙を書いた理由はね。
君にこれを渡したかった。
私がいっぱい詰まったこの手紙を、きっとこれから、どんどん違う私になっちゃうんだろうけれど、でも、今はここにいる私のことを書いたこの手紙を、君に読んでほしいと思った。
だから、これはこれで終わり。
返事はいらない。電話もいらない。感想もいらない。
ただ、これを読んでくれてればいいな、とそれだけ思う。
君がこの手紙を読んでいてくれればなって、そう思う。

一月の私じゃなくても、一月まで待たなくても、もうあと二ヶ月もすれば私はスキーばっかりやってる私になるよ。
その頃には、君は何をやってるだろう?
やっぱり、誰かの話を聞いてたりするのかな。
私じゃない誰かと、毎日話をしていたりするのかな。
なんだか、そっちにも私がいて、やっぱり君に話をしているような、そんな気がしてる。
今だって、ここで手紙を書いてる私以外の私が、君に話をしてるようなそんな気になる。
だから、君と話すのはその私に任せて、私はスキーのことばっかり考える私になるよ。
スキーばっかりの私になる前に、君にひと言だけ伝えたかった。

私の話を聞いてくれて、ありがとう。
そして、さようなら。







 手紙を読み終わったあと、僕は町に出た。いつものファストフードの店をのぞき、いつか待ち合わせをした本屋をのぞき、まだ店を開けているドラッグストアの前を行ったり来たりした。
 気がついたら僕は学校まで歩いていた。すでに部活動も終わってしまった学校はひどくガランとしていて、いつも僕たちが通っているのとは違う場所のように思えた。
 僕は、自分が制服のままだったことに気づき、そのまま校舎に入った。
 2−Bのドアには鍵がかかっていた。2−Aのドアにも鍵がかかっていた。その場所で彼女に声をかけられたことが、本当にあったことなのか、僕にはわからなくなっていた。


 日曜日、僕は一日考えた。そして、自分が彼女のことをあまりに知らなかったことに気づいた。情報としては、彼女の手紙がほとんど役に立たないことにも。
 転校、と彼女は書いていた。スキーばかりの私になると書いていた。
 夏休みには合宿に行ったと言っていた。
 そして、彼女は何かの大会で優勝だか準優勝をしたことがあった。何度か。
 僕は、自分が木のうろ程にも役に立っていなかったことに、いまさら気づいた。


 月曜日。放課後に、三年の教室が並ぶ四階に行った。
 火曜日、水曜日と四階に行ったけれど、なかなか目当ての人たちに会えなかった。
 彼女の言葉を思い出したのは木曜日だった。同じクラスのテニス部のヤツに訊くと、すぐに探していた人たちのクラスがわかった。
 ナツキ先輩とリエ先輩。どうやら、彼女たちは男女問わずテニス部では有名人らしかった。
 僕は、ホームルームをサボって、3−C、リエ先輩のクラスの前で待った。
 ざわめきとともに、隣の3−Dのホームルームが終わった。そろそろ3−Cも終わるかと緊張しているときに、いきなり、背中をバシンと叩かれた。
「ロバ耳くん、何してるの?こんなところで」
 むせながら振り返ると、そこには背の高い方の先輩、ナツキさんが立っていた。
「え、この子が例の?」「そうそう、ツナミのロバ耳くん」「うそ、思ってたよりイケてるよ」「ツナミにはもったいないかも」
 ナツキさんの周りにいた数人の女の子たちが、口々に言う。僕は、ダブルス5チーム分、という言葉を思い出していた。
「よっ、ナツキ」いつの間にホームルームが終わったのか、背の低い方の先輩、リエさんが僕の隣に立っていた。
「あ、ロバ耳くん」僕に気づいて背中を叩く。ナツキさんと同じくらいの勢いで。
 僕は、どうもとか何とか口の中で言いながら、ツナミの人格形成が必ずしも母親のDNAだけによるものではなかったことに気づいていた。


 酷い目に遭った。それが、僕がその日家に帰ってから最初に感じたことだった。
 思いつきとしては悪くないはずだった。詳しいことを言わずに転校してしまった人のことを、親しそうだった先輩に聞く。
 ただ僕は軽く見すぎていたのかもしれない。ツナミが言った、ダブルス5チーム分という言葉を。その言葉の裏にあったはずの、結束の意味を。
 ツナミとの思い出の場所として、心の殿堂に仕舞いこまれるはずだったあのファストフード店は、僕の記憶の中で、受難の場所として塗り替えられてしまった。
 店の奥、二人がけのテーブルが6つ並んだ一辺を占めて、ちょっと見ただけでは、誰かの誕生会をやってるようなテーブルで、僕の審問会は開かれた。
 僕は、リエさんとナツキさんのリーダーシップで、てきぱきと変更されてゆくテーブルレイアウトを見ながら、彼女たちに相談しようと考えたことを悔いはじめていた。
 それでも、僕は一部始終を話した。いや、僕たちの事情のほとんどすべてを聴取された、と言うべきだろうか。これが誕生会だったなら主役が座るだろう上座の席で、僕は彼女たちの質問にさらされた。
 口火を切ったのは、ナツキさんだった。
 だいたい想像はつくけど、と彼女は言った。
「言うべきことがあったら、最初に全部言っちゃった方がいいよ」
 僕が約5分間の話を終えたとき、僕を取り囲んだのは十の深いため息だった。そのため息は、単に落胆を表すものではないことは、何となくわかった。
 ため息のあと、沈黙があった。僕は、左手の一番僕に近い席に座っている、ナツキさんの顔を見た。ナツキさんは、こめかみに手をあてていた。次に、右手の一番僕に近い席に座っている、リエさんを見た。リエさんは、頬杖をついてテーブルに置かれたジュースのカップを見つめていた。
 そ、それでですね、と僕が沈黙に耐えきれず口を開いたとき、それが合図だったかのように、全員がしゃべりはじめた。
「ぬるい、ぬるいよ。ツナミ!」「いや、ツナミにしてはよくやった方だと思うよ」
「むしろ、ぬるいのはロバ耳くん!!」「確かに」
「ていうか、何でなんにも起きてないわけ、そこまで一緒にいて」
「もしかして、そっち系なの?女の子には興味なし?!ロバ耳くん!!」
「ツナミ、カッコつけすぎ!」「ひと言で言うと、マヌケ。転校先くらい教えていけって」
「いや効果的かも、現にこうやって私たちのところに聞きに来るくらい、ツナミのことを気にしてるわけだし」
「高等戦術?」「いや、天然」「天然にLセット」「乗った!」
「で、問題はロバ耳くん」と、みんなをしずめるようにナツキさんが言った。
「そう、君が問題」リエさんが見事な呼吸で、ナツキさんの言葉を受けて言った。
「俺が問題ですか」
 10人全員が、即頷く光景はちょっとした見ものだった。
「情報はあげる。質問にも答えてあげる。できる限り協力はしてあげる。でも、最後は君次第だよ」
 右手で頬杖をついたままそう言って、口元だけでリエさんが笑った。
 僕は気圧されて、頷いた。
「あんた、何一人でカッコつけてんの」と言って、ナツキさんがリエさんの右手を軽く払った。不意打ちを食らって、勢いよく額をテーブルにぶつけたリエさんが、一呼吸溜めてから、テーブルの下のナツキさんの脛を蹴った。蹴ったらしかった。見えなかったけれど。
 30秒くらい無言で肩を震わせて、痛みをやり過ごしたあとで、ナツキさんがリエさんに食ってかかった。凄まじい言い合いが始まった。
 他の8人はそれをまったく無視して、勝手に話をつづけていた。
「ぬるいよねえ、ツナミ。育て方間違えたかなあ」「でも、自分で見つけてきただけ成長かも」「それにしたって、簡単に手放してるし」「その辺は、あれだね。前向きなんだよ」「若いってこと?」「そう。無限の可能性」
 すっかり力が抜けてしまってただ彼女たちを眺めているだけだった僕に気がついて、リエさんの隣に座っていた肩までの髪の毛の、目の大きな先輩がゆっくりとした口調で言った。
「驚いてる?」
 僕は頷いた。
「ま、驚くよねえ、これじゃあ」
 ナツキさんとリエさんは、内容が聞き取れないくらいの勢いで言い合いをしていた。他の7人は勝手に、僕とツナミのストーリを膨らませつづけていた。
「でも、まあ、さっきの話は嘘じゃないから」
「さっきの話?」
 頷いて、彼女が言った。
「協力はする。でも、あとはロバ耳くん次第」
「だから、君が考えるんだよ。どうしたいのか」














        4.

 初雪のニュースを聞いて喜びまわってから一週間がたって、いつ本格的な雪が降り始めてもおかしくないような空模様が昨日からつづいていた。
 私は、早々に引っ張り出したコタツに入って、ぼんやりとしていた。
 窓の外では、強い風が吹いていた。これなら、山は雪かもねと言って、同室の子はお風呂に行った。
 思い切りスキーができる季節がすぐそこに近づいていると思うと、うれしくて誰かに話したくて仕方がなかった。あの駅前のファストフードを思い出した。窓側の席に、私は座っていた。もう何度目かわからないくらいのリプレイ。私はジュースを飲み干して、いつものように氷を噛んでいた。あいつは、私の勢いをやり過ごそうとするように、ちょっと半身で私に向き合っていた。でも、その私は残念ながらこの私ではなかった。
 大きくため息をついた。お母さんが送ってくれたみかんに手を伸ばした。『信州みかんって書いてあったから、逆輸入ね』と訳のわからない手紙をつけてきたことを思い出して、ちょっと笑った。
 熱心に勧誘してくれたコーチがいた。大会の順位とか、強化選手とかはあまり気にしてなかったけど、スキーがやりたくて仕方なかった。だから、この学校に転校できたことはうれしかった。
 リエさんやナツキさんや、中学のときの部活の先輩後輩たちが開いてくれた送別会では、思いっきり泣いたけど、でも次の日には何でもなくなっていた。
 あいつには手紙を書いた。せっかく見つけた、大切なロバ耳くんだったけど、仕方なかった。けれど、きちんとケリはつけたつもりだった。
 それなのに、ここに来て思い出すのは、なぜかあの店のことばかりだった。あいつのことばかりだった。連絡ひとつもよこさない、あいつのことばかりだった。
 返事はいらないと書いたからって、電話はいらないって書いたからって、何か言ってきたっていいのに。
 それとも、本当にあの手紙を開けてないんだろうか?
 いや、もしかしたら、あいつなんていなかったんだろうか?ずっと探しつづけていたのにぴったりの人を見つけた、と思いこんだ私が作り上げた幻だったのだろうか?
 いやいや、ホントは私につき合わされるのが、すごく嫌だったのかもしれない。ずっとずっと、私の話ばかり聞かされたのが、苦痛だったのかもしれない。だから、今ではせいせいしてて、早くも私のことなんか忘れてしまってるのかもしれない。
 大体、あいつはどっか掴みどころがないヤツだったから、今ごろ私のことなんかすっきり忘れて、他の誰かとあの店に行ってるのかもしれない。


 バカらしいほどに考えが煮詰まったところで、私は外の様子を見ようとコタツを出た。ひとつ大きく伸びをして、窓に手をかけようとしたところで、ガシャンという大きな音が、外から聞こえた。
 急いで窓を開けた。目の前にある寮の自転車置き場に、バイクとそれに乗ってきたらしい人がひっくり返っているのが見えた。








 気がつくと見たことのない天井だった。
 僕は頼りない体の感覚を取り戻すために、手足を動かそうとした。
 両手が動かなかった。足の感覚はあったけど、妙に熱かった。
 そういえば、峠で吹雪かれた辺りから記憶があいまいだった。街に出て、ホッとしたのは憶えている。赤信号を見過ごして、交差点を突っ切ったのは一度だけじゃなかった気がする。信号で止まるたびに、エンジンで暖めてきた指先も、いつのまにかその熱さえ感じることができなくなったのを憶えている。
 もしかしたら、僕は事故を起こしたのだろうか。事故を起こして、病院に運ばれたのだろうか。でも、手が動かないのはなぜだ。足が熱いのはどうしてだ。もしかしたら、僕は……。
 まだバイクに乗ったままのようにふわふわした感覚。一度、きつく目を閉じる。そして、開く。見慣れない天井が見える。相変わらず。振り返って、横たわっている自分が見えたらどうしようと思いながら、思い切って、頭を動かす。ゴンと側頭部に痛みを感じる。
 それはそうだろう、寝転んだまま勢いよく振り返ろうとしたのだから。僕は痛みのせいで涙がにじんだ目を開く。
 目の前には、僕の両手を温めるように抱きしめた、二ヶ月ぶりのツナミの寝顔があった。








 いつのまにか眠ってしまった私が目を覚ますと、私はあいつの両腕の中にいた。
 慌てて脱け出そうとして、あいつの鼻に右ひじを入れてしまったけど、唸っただけで目を覚まさなかった。
 ちょっと落ち着いて、あたりを見回した。寮の私の部屋。ルームメイトは隣に泊まりに行ってくれた。つまり、この部屋には二人きり。
 私は、あれが夢じゃなかったことを確認して、うれしくなる。
 何を考えたのか、この季節に、雪が積もろうかという季節に、バイクで会いに来たあいつ。
 私は、寮の自転車置き場でひっくり返ってるあいつを見つけて、何がなんだかわからなくなって、ちょうどお風呂から戻ってきたルームメイトに訳のわからない言葉を並べ立てた。ルームメイトはすごく驚いた顔で、あいつのバイクとあいつを見て、そしてすぐに窓から靴下のままで外に出た。私もようやく我に帰って、ルームメイトにつづいて、窓を乗り越えた。外にはすごく強くて冷たい風が吹いていた。
 ルームメイトが、ヘルメットの下に手を差し入れていた。すごく長く感じる一瞬が去って、彼女の表情が緩んだ。私は下半身の力が抜けて、その場に座り込みそうになった。
 座り込む前に、運び込んじゃおう、とルームメイトが言った。私は頷いて、両隣の部屋の子たちを呼びに行った。
 窓から苦労してあいつを部屋に押し込んで、ぼんやりと部屋に横たわったあいつを見ていると、涙が出てきた。
 いつのまにか、ルームメイトが枕と目覚ましを持って私の隣に立っていた。
『……これがあの有名な』
『え?』
『これがあの有名なツナミのロバ耳くんなのね』
 私は頷いた。
『ぬるくないじゃない』
 よく聞こえなくて、私は彼女を見た。
『ちっともぬるいヤツじゃないじゃないって言ったの』
 彼女はそう言って笑った。
 私も、泣きながら、涙でぐしゃぐしゃになりながら笑った。
 介抱は任せるわ。でも、変なことはしないこと。するときには痕跡を残さないこと、と言って、ルームメイトは隣の部屋のドアを閉じた。私はまだ止まらない涙を持て余しながら、ありがとうと言って見送った。
 氷のように冷たくなってる皮の手袋を脱がせたら、あいつの手も同じくらい冷たくて、私は慌ててその手をコタツの中に突っ込んだ。そのあとで気づいて足を触ると、同じように冷たくなっていた。
 しばらく考えて足の方をコタツに入れなおし、両手を胸に抱いて毛布を被り、あいつの隣に寄り添うように横になった。
 すごく照れくさかったけれど、だんだん暖かくなるあいつの手と規則正しいあいつの寝息が、私の気持ちを落ち着かせてくれた。
 私はあらためてゆっくりとあいつの顔を見た。こんなに間近で、こんなにゆっくりとあいつの顔を見るのは初めてだったから、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
 そして、私はいつのまにか眠っていた。
 そして、私は目を覚ました。
 私のあいつの腕の中で。












        5.

「先輩たちですよね、焚きつけたの」
 ツナミは、正月の短い休みを利用して実家に帰ってきていた。
 僕たちはいつもの店の、窓側の席にいた。今日は4人で。
「焚きつけたわけじゃないよ」
「そうそう」リエさんとナツキさんが悪びれる様子もなく、声を揃えて言った。
「望んだんだよ、ロバ耳くんが」
「熱いヤツだよね、ロバ耳くん」
「ダメです」ツナミが強い口調で言った。
「え?」
「何が?」
 二人が口々に疑問の声をあげる。
「私のですから」
「だから、何が?」
「私のロバ耳くんですから、私だけがそう呼べるんです」
 ツナミが言った。一瞬の間のあとで、ナツキさんとリエさんは同時に席を立った。
「ということらしいので」
「あとは二人で」
 そう言うと、二人は席を去った。
 二人は、自動ドアのところで立ち止まった。僕たちの方を向いて笑いながら、大きな声で言った。
「じゃあね!!ロバ耳くん」
「ありがとうございました」と僕とツナミは声を揃えて言った。
 リエさんがいつかのように、左手の親指を立てて笑って見せた。ナツキさんが、リエさんの頭を軽く小突いた。二人は何か言い合いをしながら、店を出て行った。
 お正月で混んでいる店の客の視線が、僕たちに集まっていた。
 僕はそれが全然気にならなかった。








 1月2日の午後、僕は彼女を見送りに駅に来ていた。
「明日から練習?」
「明日から練習だよ」
 電車を待つ人影がほとんどない、正月の午後のプラットフォーム。
 高く晴れた空に、ぽつんと浮かんだ白い雲。
「バイク、頼むな」
「バイク、頼まれるよ」彼女が、鼻の上に皺を作って笑う。
「雪が融けたら取りに行くから」
「そしたら、うしろに乗っけてね」
「ああ」
 電車が風を巻き上げて通り過ぎた。その冷たさに、肩を竦めた。
 ツナミはまだ笑いつづけていた。
「笑うなよ」
「笑うよ」
「必死だったんだから」
 何を言い返されるだろう、とツナミを見た。ツナミも僕をまっすぐに見ていた。
 ありがとう、とツナミは言った。
 お礼だよの言葉のあとに、やわらかい感触が僕の唇に触れた。




















 ひとつだけ嘘をついたよ、とツナミが言った。
 でも、君がホントに変えてくれたよ、と彼女はつづけた。







    END


  2002/05/23 5/24改訂 HID-F
 


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