スカイ、ブルースカイ真っ白な胴体に赤い帯を巻きつけた四発の旅客機が、静かにランディングを始める。
尾翼の部分にはどこか間抜けな白抜きのカンガルーの図柄。僕は、横たわっていたシートから体を起こして窓の外を見る。がらがらの機内は、寝不足のせいでぼんやりと霞んで見えた。 曇り空、しっとりと濡れたアスファルト。『おいおい』僕は思う。『本当にここがあの楽園なのかよ』と。『羊飼いになりたい』それは、高校時代の僕が好んで口にした言葉だった。その言葉には実体なんてなく、ただ、スタイルを仮託していただけ。そう、本当は僕は何にもなりたくなかったんだと思う。大学にも行ってまでやりたいこともなかったし、特にあの街を出たいわけでもなかった。けれど、そのまま高校生でいていいよ、と言われても首を横に振っただろう。うまくいかない恋とか、言い出せない気持ちを距離のせいにするのは簡単だった。そして、街を出る理由や、僥倖のような大学合格さえ、彼女は僕にくれたんだ。『何になりたいの?』と彼女が言った。もちろん、彼女が口にしたのは方言だったから、書いたままではなかったけれど、そういう意味のことを言った。いつだったろう?最後に会った喫茶店だったろうか?とても寒い日に入ったミスドの中だったろうか。『羊飼い』僕は答えた。冗談だと思ったのだろう、彼女は笑った。彼女が笑うと、口許から小さな八重歯が覗く。僕はその笑顔も好きだった。僕も笑った。彼女が笑ってくれているのならば、僕の気持ちなど、どうでもいい。気持ちいい風の吹く緑なす高原。高く抜けるような空。四方に見える地平線。そして、のんびりと草を食む羊たち。僕は羊飼いになりたかった。羊飼いになりたいヤツというイメージをまとっていたかった。ガイド本にしたがって、空港からバスに乗り込み、鉄道駅前のターミナルで降りる。腕時計を見る。まだ7時前だ。いくらなんでもホテルにチェックインするには早すぎるだろう。重い荷物を地面に下ろして、僕は周囲を見渡す。建物の色や雰囲気は確かに日本とは違う。けれど、特別素晴らしいものとも思えない。いや、有り体に言えば、どこかの地方都市のような野暮ったい感じさえする。町の中心はもっと別の場所なのだろうか。青い海はどこなのだろう。彼方まで続く平原はこの町を出ないと見れないのだろうか。航空券とセットになっていた一泊目のホテルは、中途半端なホテルだった。寂れかけた観光地で目にするようなホテル。汚くもない、古くもない、けれど、けして泊まる人を豊かな気持ちにはしてくれない。ツインの部屋からは港が見えた。特長のある橋とオペラハウスも目に入る。僕は、この旅が誰かと一緒の旅だったらな、とふと考える。そして、誰かと一緒だったら旅になんて出なかっただろう、と思い直して声を出さずに笑う。二日目、中途半端な値段と中途半端な設備のホテルをチェックアウトした僕は、正しい学生旅行者の一人として、ガイド本に載っている安宿に移った。本に書いてある通りの手続きで部屋を確保した僕は、ほっと息をついて、部屋を見回す。備え付けのシングルベッド、薄汚れた毛布と擦り切れたシーツ。引き出しが上手く開かない小さな机。そして、小学校の教室にあった掃除用具入れを思い起させるクローゼット。歩いてひと回りできてしまうくらいの小さな町。オペラハウスやハーバーブリッジは確かにあるけれど、ここは本当に僕が来たかった国なのだろうか。僕はベッドに腰掛けてぼんやりと窓の外を眺める。ときおり行き過ぎる車。どことなくくすんだ色合いの街並み。小さな溜息をついて、ガイド本のページを繰る。今日は、どこかのビーチにでも行ってみよう。そこには、きっとそこには、見たこともないような青い海と、どこまでも白い砂浜が広がっているはずだ。『山に静かに降る雨や、夏の朝の気持ちのいい風、それと同じぐらいお前が好きだ』僕は言った。大学に入って二年目。徹夜でサークルの連中と騒いだ後、ひとつ後輩の彼女を始発で寮まで送ってきた早朝。駅から寮までの道には人影もなくて、すべてが新しくできたてのようで、徹夜明けの頭は妙に冴えていて、そして、何より、どうしようもなく彼女のことが好きで。彼女は困ったように笑った。僕は彼女の返事を待つことができなかった。『じゃあ、おやすみ』僕はそう言って右手を上げると、その場所を去った。後ろを振り返ることもできずに。それから少し経ったとき、寮の前で彼女に泣かれた。『でさ、どうだろう?』サークルのパーティーの帰り。締め慣れないネクタイが鬱陶しかったのを憶えている。何が?という顔で僕を見た後で、彼女はその質問の意味に思い当たって、目を伏せた。寮の門の前で向かい合って立ち止まる。門限に間に合うように他の女の子を送ってきた奴等と顔を合わせないように、二人、少し俯き気味になる。『ごめん…、ごめんね』彼女がつぶやく。普段聞くことのないような弱々しい声。着飾った服に涙が落ちていた。僕は、誰かが目の前で泣いているという事実が上手く飲み込めなかった。いつもそうだ。どうして、そんなに泣けるのだろう。女の人が泣くのを見るたびに、そう思ってしまう。何が悲しいのだろう。それとも、泣くのには悲しさ以外の理由があるのだろうか。その原因は何なのだろう。やはり、僕のせいなのだろうか。いずれにしても、目の前で女の人に泣かれた場合、僕ができることはそう多くない。それきり彼女は何も言わなかった。僕は、仕方なく言った。『しょうがないよ。もし、気が変ったら言ってくれ』彼女が小さく頷く。僕は彼女を促す。彼女が寮の中に消える。僕はその背中に『おやすみ』と言った。バカだ。今はそう思う。どうしようもなく、馬鹿だ。けれど、もし今僕が同じ状況に遇ったとしても、やはり同じようにする。そんな気もする。共同で使うことになっているシャワールームは、古びてはいたが、それほど汚くはなかった。僕は、一日中ビーチにいて潮でべとつく肌と髪の毛をぬるいお湯で洗い流す。盛夏を過ぎたビーチには泳ぐ人の姿はひとつもなかった。けれど、僕は不思議と満足していた。その海の色は確かに僕が今まで見たことのない色だったから。空には、どこかで見たような、けれど、それとはどこかが決定的に違う雲が浮んでいたから。明日は列車に乗って遠出をしてみようか、そんなことを考えながら、僕は髪の毛を洗う。シャワールームから部屋に戻るとき、ロビー(と言って良いのかどうかわからない程の広さだが)にぽつんとゲーム機が置いてあるのが、目に入った。画面を覗き込むと、日本のゲームセンターでは見ることもなくなった、古いゲームだった。そしてそれは、僕がいや僕とあの頃の多くの友だちが、たくさんの時間と限りある小遣いをつぎ込んだゲームだった。僕はトップエースではなかったけれど、エースグループの端っこ位には位置していた。身を削るようにして、叩き出したハイスコアは僕らの誇りだった。ゲームが終わって、それが自分のスコアであることを示すアルファベット3文字を入力するときには、言い知れない気持ちがした。しばらくその画面を見つめて、でも、ここまで来てわざわざゲームもないよな、と思い直して、僕は部屋に戻った。
その日の夕方、南国のような激しい夕立が降った。
僕は、この国が日本より遥か南にある国であることを忘れつつあった。
次の日、鉄道駅まで行った僕は、結局列車に乗るのをあきらめて、駅前からバスに乗った。何となく、この町を離れるのが億劫になった。それが、列車に乗るのを止めた理由だった。ほんの二、三日の間に、ささやかだけれど確実に、僕はこの町に馴染んでしまったようだった。バスは昨日とは違うビーチに向かった。そこはビーチという名はついていたけれど、それから連想される、白い砂浜はどこにも無かった。切り立った真白な断崖がどこまでも続いていた。はじめて見るその白さは、妙に生々しかった。誰かの大きなナイフによって切り落とされた大地の断面。白く、脆そうなその切り口を荒い波が洗っていた。バスに乗ったときには晴れていた空を、暗く重い雲が覆いはじめていた。風が吹くと、半袖では肌寒かった。また、夕立ちが来るのかな、ベンチに座ってバスを待ちながら、ぼんやりとそんなことを考える。そして、僕はホテルのロビーにあったあのゲームを、無性にやりたいと感じている自分に気づいた。ホテルに戻り、シャワーを浴びた。ベッドに座って、髪の毛を拭いていると、夕立が降 り出した。昨日と同じ様な、すべてを容赦なく打ち据える南国の雨だった。僕はジーンズのポケットを探って何枚かのコインを取り出した。着替えた短パンのポケットにそれを入れて、部屋を出る。ロビーには人影が無かった。狭いスペースの片隅で、僕たちのあのゲームが、デモ画面を繰り返していた。僕は無造作にコインを投入して、ゲームを始める。一体何年ぶりだろう。少なくとも七年は経っているはずだ。三面のボーナスステージ。どうやら、難易度は低めに設定されてるらしい。ゆっくりと、あの頃の感覚が甦ってくる。僕たちが、エースだった頃。狭い店内で、ゲーム機の回りに幾重にも立って、息を詰めて友だちのプレイを見ていたあの頃。スティックの反応が悪く、避けられたはずの弾が、自機に命中する。いや、それはスティックのせいではないのかもしれない。次の機が登場するまでの短い時間。ふと画面から顔を上げると、一人の子供がゲーム画面を熱心に覗き込んでいるのが目に入る。白人の子供。Tシャツに半ズボン。少しくたびれたスニーカー。いくつくらいだろう?まだ小学校に上がる前くらいだろうか。音楽に促されて、僕はゲームに戻る。彼は熱心に画面を見詰め、ときおり感心したように短い言葉を小さな声でつぶやく。古のエースのプライドにかけて、僕はハイスコアを叩き出し、その古びた機械に自分のイニシアルを刻み付けた。結局、僕のプレイを最後まで見ていた彼の眼差しに自尊心を満たされながら、部屋に戻る。ベッドに寝転がって実感する。本当に僕は、遠いところにいるんだな、と。次の日、僕は列車に乗って小さな町へ行き、小さな(けれど小奇麗で朝食もついている)宿に泊まった。朝食のとき、それほど広くない食堂に、日本人の女の子が二人いた。彼女たちは、懐かしい方言で話していた。僕はずいぶん迷ったけれど、結局、彼女たちに声をかけなかった。町に戻ってから、僕はまたあのゲームのある安ホテルに部屋を取った。その日から、日本に帰るまで、そのホテルに泊まった。そして、毎日、ハイスコアを更新した。あの子供とは、もう二度と会わなかった。僕はあの国で、地平線を見た。草原で草を食む羊たちを見た。町から列車で二時間も離れた田舎町に泊まって、原色の鳥が飛ぶ森を歩き、テレビで放映されていた日本映画を見た。そして、真っ黒に日焼けをした。あれから時間が経って、あの短い一人旅のこともほとんど忘れてしまった今でも、僕は考えることがある。彼は――あの子供は――、どこから来てあそこに泊まっていたのだろうか?特別粗末な身なりをしていたとは思わなかったけれど、家族連れであの安ホテルに泊まるのは、どういった種類の人たちなのだろうか。そして、そんな家庭に生まれた彼はどのように成長しているのだろうか。僕は何度かそんなことを考えてみた。もちろん、答えが出るはずも無かった。笑うと八重歯が覗く彼女からは、今でも年賀状が届く。僕が泣かせてしまった彼女は、大学を出て実家に戻り、就職をした。それから、どうしているのか、今は知らない。あの日、僕のプレイを見ていた彼は、今どこで何をしているのだろう?彼の目には、押し黙ってゲームをプレイする東洋人はどのように映っていたのだろうか?彼は、あのゲームがずっと昔に日本で作られたものだと知っていただろうか。僕はずっと考えている。僕は、彼のヒーローになれたのだろうか。彼はそれを、その国で一番の都会の安ホテルの、打ち捨てられたようなゲーム機の中に見た世界を、誰かに話しただろうか。僕は思う。もしそうであったなら、もし、彼がそれを誰かに話していてくれたなら、僕の夢の半分は叶っていたのかもしれない、と。『羊飼いになりたい』それがどんな仕事なのかも知らずに、どうすればそうなれるのかを知ろうともせずに僕がまき散らしてきた言葉。スタイルだけの中身のない言葉。僕は、羊飼いになれたのだろうか。END
HID (2000/08/14)