EVERYDAY I READ A BOOK




 夏休み明けの放課後の校舎は、午後の陽光の中にあった。
 グラウンドから聞こえる運動部の声は、夏が終わりに近づいていることを受け容れることができない蝉の声にも似て、どこか空虚な響きを伴って、無人の廊下を通り過ぎていった。
 僕は学校帰りに立ち寄ったゲームセンターで数時間を過ごしたあとで、読みかけの本を教室に置き忘れたことに気づいた。そして、そのことに気づいたら取りに戻らずにはいられなかった。
 登下校時には混雑する昇降口にも、今は人影はない。何かの巣箱のように並んだ靴箱は、ほとんどが上履きでうまっていた。
 黙って歩いていると汗ばむ程の陽光の領域から校舎に入ると、その暗さに戸惑う。
 僕は、何度かまばたきをして、周囲の明るさに瞳孔を馴染ませる。そして、もう一度まばたきをしてから階段を登り始めた。
 リノリウムの床が、ギターの弦のようなキュッという音をたてた。


 妙に距離感のない声がグラウンドから途切れ途切れに届く三階の廊下を、自分の教室へと向かって歩いた。
 見事なくらいに人の気配のない廊下。ひとつ上の階にある音楽室からは、ブラスバンド部の練習の音が聞こえた。管楽器が、動物の鳴き声のように長い息を吐く。長い咆哮の後には、何かで机を叩くような音が規則正しいリズムを刻んでいるのが聞こえた。
 
 中庭を囲むようにコの字を描いている廊下を歩き、自分の教室にたどり着く。そのドアに手をかけると、手応えが軽かった。一瞬躊躇した後で、僕は静かにドアを開く。
 窓が東側にあるせいで、この時間にはほとんどが日陰になっている教室。今は、ひっそりと息を詰めて、僕の様子をうかがっているような空気。僕はゆっくりと見回して、無意識のうちに探していたものを見つける。
 窓側の列。一番前の席。机に伏せた夏服の白い背中に、少し明るい色の髪の毛。










「おはよう」
 僕は、彼女に話しかける。
 陽はすっかり傾き、廊下側の窓から入っていた光も、今は濃い闇の気配に負けてしまいそうだった。
 彼女が一拍だけ間をおいて、応える。
「おはよう」
「帰るか」僕はそう言って、彼女を見る。
 彼女は何も言わずに席を立って、大きく伸びをする。僕は、彼女の上着がずれて覗いた、白い肌を見つめる。それは、ひどくつるりとしていて、およそ自分と同じ種類の生き物とは思えなかった。

 クラブ活動の時間も終わって、すっかり静まった廊下を彼女と並んで歩く。一階の職員室だけに明かりが灯っているのが見えた。
「何してたんだ」僕は、隣を歩く彼女を見て訊ねる。どこかぼんやりとした表情のままの彼女が、けれどすぐに僕の問いに答えてくれる。簡潔に。
「寝てた」
「どうして?」
「罰なの」
「罰?」
 訊き返した僕に、表情のない顔で彼女が頷く。
「放課後に、教室で寝るのが罰なのか?」
「そう。放課後に一人きりの教室で寝るのが罰なの」
 それだけ言うと、彼女は僕を追い越して昇降口へと向かった。



 無言のまま、二人で靴を履き替える。靴に手を伸ばそうと屈んだ彼女の背中が、宵の光を拒むように白かった。



「何の罰か訊かないの?」彼女が僕を見ずに言った。
「何の罰なんだ?」
「現国の課題」
「現国の課題?」
「そう、以下にあげる本のいずれかを読み、その内容について感じたことを書きなさい」
「感想文だろ」
 僕の問いに彼女は頷いた。
「読まなかったのか?本」
「ううん、読んだわ。課題になってた本、全部」
「全部?」
「そう、全部。何度も」
「何度も?」
 彼女は頷く。
「つまらなかった?」
 僕の問いに、彼女は頭を横に振る。
「つまらないものもあった。でも、読むのを止めなければいけないほどつまらない本はなかった」
「そうか」


 学校を出てから誰ともすれ違わなかった。夏休みの終わりとともに、すべてのものが、どこかにある本来の自分の場所に戻っていってしまったのかと思うほど、静かな夜だった。虫の声だけが、宵の時間を満たしていた。


「じゃあ、どうして」僕は、彼女がその問いを待っているような気がした。だから、それを口にした。
「書けなかったの。だから、書けない理由を提出したわ」
「理由?」
「うん、理由」
「一方的なコミュニケーションの手段、つまり文章では、これらの本から感じたものを正しく伝える自信が、私にはありません。もし私が感じたことを知りたいと本当に思うのならば、話し合う時間を設定してください。会話というコミュニケーションが完璧だとは思いません。むしろ、流動性という意味では文章よりも脆いかもしれません。それでも、会話が持つ同時性と双方向性の中には、幾ばくかの真実が含まれる可能性があると思います」
 僕は、彼女を見た。彼女は僕の目を真っ直ぐに見返してきた。
「同時性」僕はつぶやいた。
「それと双方向性」彼女が僕の言葉を受けて、言った。
「先生は何て?」僕は現国担当の、白髪の似合う上品な雰囲気を感じさせる教師の姿を思い浮かべて訊ねた。
「何も」
「何も?」
「うん。呼ばれたから放課後に職員室に行った。そこで訊かれたわ。今でも、あなたの感じたことを文章にすることはできませんか?って」
 僕は頷いて、話の続きを待つ。
「だから答えたわ。私がこれらの本を読んで感じたことは、既に色褪せてしまっています。もし、どうしても私の感想が知りたいのなら、三日、時間をくださいって」
「三日?」
「そう、三日間、一日一冊、読んですぐならば私の感想を伝えることができますって」
「書くんじゃなくて」
「うん、もちろん。電話でもいいですけど、可能であれば顔を合わせて話した方がいいと思いますって言った」
「そうか」僕は言った。彼女の頭の中で何が起こっているのかを知りたい、と唐突に僕は思った。あるいは、これは単に課題を提出しなかったことの言い訳なのだろうか、そんなことさえ思った。
「それで?」
 彼女は小さく頭を横に振った。口元には微かな笑みが浮かんでいた。その表情は、自嘲のようにも見えた。
「あなたの考えはよくわかりました。課題は提出しなくて結構です。口頭で感想を伝える必要もありません」先生の口調を真似るように、静かに彼女が言った。
 僕は彼女の言葉に頷いた。なぜか、それを口にしたときの教師の表情がわかるような気がした。




 僕たちは、いつのまにか街の中心にたどり着いていた。さすがにここまで来ると、通勤や通学帰りの人の姿が目立った。ファーストフードの店のガラス越しに、僕たちと同じ制服を着た男と女が、向かい合って座っているのが見えた。
 いつもなら鬱陶しく感じるはずの駅前の人の多さも、今日はなぜか好ましいもののように思えた。




 電車に乗る彼女を見送ろうとして、僕は気づいた。
「先生は怒らなかったんだよな?」
 改札に向かう背中に訊ねた。彼女が振り向いた。秋の空気の匂いがしたような気がした。
「じゃあ、なんで・・・」
「私が、私を罰したかったの」僕の言葉を彼女が遮った。
「・・・そうしないといけないような気がしたの」小さな声で、続けた。
「じゃあ、悪かったかな」
 何がというように、彼女が大きく目を見開いた。
「邪魔しただろ?」
 僕の言葉の意味が波のように彼女に染みていくのがわかった。それに合わせて、彼女の表情が淡い笑顔になっていったから。






END
 
 



HID (2001/09/07)


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