Swingin' Days
Lover's step

 Say "Merry Christmas" to me
        〜2〜
 
 
 
 
 
たとえば、ここに球をかたどった銀色の塊があるとする。
 
 
 
暗闇の中に銀色の球が浮いている様子を想像してほしい。
 
 
 
もちろん、あなたの目にはそれは見えないだろう。
 
 
 
なにしろ、自分の指先も見えない程の暗闇の中だから。
 
 
 
白い光で球を照らす。
 
 
 
光源に近い側はその光に照らされ、白銀色に輝くだろう。
 
 
 
では、もう一方は?
 
 
 
何も変わらずに闇に沈んでいるに違いない。
 
 
 
自分の半身が明るい光で輝いていることなど知るはずもなく。
 
 
 
鈍色の黄昏の中で、沈黙を守り続けるに違いない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
十分遅れで講義が終わって、三階の教室から降りてきたときには、
ロビーの人影はまばらになっていた。
普段の混雑との落差のせいで、余計に寂しく見えるロビーの片隅、
そこに置かれた椅子に理恵がひとりで座っていた。
その姿は、ひどく頼りなくて、
遠くてよく見えない表情は、けれど、なぜかさみしげな印象を俺に与えた。
 
 
 
 
「遅いよ、潤」
 
 
俺に気づいた途端に表情を笑顔に変えて、言ってくる。
 
 
「待っててくれ、なんて言ってないだろ」
 
「約束したじゃない、一緒に帰ろうって」
 
 
語気は強くて、でも、表情はやさしくて、
こういった他愛ないやりとりに、俺は、ずっと前、
この子が俺の一番近くにいた頃のことを、ふと思い出す。
 
 
それは、どこかくすぐったいような甘い後悔と、
そして、ずっと大切に仕舞っておきたいようなはかない郷愁に彩られた記憶。
おそらく、二度と色を取り戻さないだろう、モノトーンの思い出。
 
 
 
 
「ま、いいや、帰ろうよ」
理恵がにっこりと笑って、不毛な言い合いに唐突にピリオドを打つ。
 
 
 
 
自動扉を出ると、また雪が降り出していた。
湿り気の少ない、乾いた雪だった。
濃紺の空に白い雪が浮かび上がるようで、その様子にはなぜか心惹かれるものがあった。
何度もこんな光景を目にしてきたはず、
けれど、何度見ても、前見たものと同じものはなくて、
まばたきをする一瞬にさえ、雪がかたちづくる模様は変化する。
 
しばらくの間、ふたりして、無言で空を見上げた。
そして、傘を開いて屋根の外に出た。
 
 
季節が違えば、まだまだ明るい時間。
けれど、今、ふたりを包む宵闇を見ていると、
そんな季節があることさえ信じられないような気持ちになってくる。
 
 
 
 
「なあ、理恵」
「えっとね、潤」
 
 
隣を歩く理恵に話しかけようとして、言葉がぶつかった。
 
 
 
 
しばらく顔を見合わせて、
「ん、いいよ、潤、先に言って」
理恵がそう言った。
 
 
「ああ、今日、俺、寄るところがあるからさ」
「だから、わるいけど、途中までしか一緒に帰れないって、そういう話だ」
 
 
うん、うん、と二度、頷いて。
 
 
「それって、彼女関係?」
傘を傾けて、ちょっと上目づかいの視線で問いかける。
 
 
「なんで、そう思うんだ?」
少し驚いて、俺は言う。
 
 
「いや、潤が、沈んでて、悩んでるみたいだからさ、原因考えると、
簡単にそこに行きつくでしょ?」
からかうような口調、からかうような表情。
 
 
俺は理恵の真意を測ろうと、じっとその顔を見つめてしまう。
 
 
その表情が、ふっと消えて。
 
 
 
「名前なんていうんだっけ?」
 
「えっ」
 
「あの子の名前」
 
「ああ、香里、だ」
 
どういう字?と、つづけて訊いてくる
 
 
 
俺は説明しながら、理恵の顔を見る。
不思議な表情をしていた、
やさしい、
でも、少し何かが変わると、泣き顔になってしまうような、
とても不思議な表情だった。
 
 
 
 
 
 
「ホントに好きなんだね、あの子のこと」
 
 
 
 
 
ポツリとつぶやく。
 
 
 
 
理恵の表情が見えなかった。
街灯と街灯の合間、
光と光との狭間。
淡い闇に表情は沈んで、その輪郭だけしか見えなかった。
 
 
 
 
 
 
「理恵」
俺は、昨日の理恵の寂しげな表情と、さっきの頼りなげな姿を思い出して、
名前を呼ぶ。
 
 
 
 
また、ふたりは、街灯がつくりだす光の領域にさしかかる。
 
 
 
 
「うん」
 
何かを断ち切るように、元気よく言って、俺に笑顔を見せる。
 
「ちゃんと、成長してたんだね、潤も」
 
 
 
「何がだ?」
 
 
 
「ちゃんと、『大切なもの』が見えてるってこと」
 
疑問符を浮かべている俺の表情を、傘を傾けて確認して、
理恵が言葉を続ける。
 
 
 
「わたしの知ってる潤だったら、目の前にいるかわいい女の子に惑わされて、
流されちゃってると思うな」
 
笑顔のままで自分を指さして、そして、また、口を開く。
 
 
 
「きっと、その子のこと『傷つけちゃダメだ』って、思って、
そのためだけに自分の気持ちを抑えちゃうと思う」
 
 
「それが、本当に正しいことなのかよりも、目先のやさしさを優先しちゃってたと思う」
 
 
下を向いて言葉を続ける。
 
 
「ごめんね、変なこと言って、昨日」
 
 
「あれ、半分は嘘だよ」
 
 
 
「理恵」
 
 
俺は名前を呼ぶことしかできなかった。
今、目の前の小さな女の子の中で本当はどんな感情が動いているのか、
俺にはいったい何ができるのか、
何ひとつわからなかった。
そして、俺は、目の前の理恵の向こう側に別の人の面影を見た。
 
 
 
 
理恵は下を向いたままで、小さな声で笑った。
でも、その表情は見えなかった。
本当はどんな表情をしているのかわからなかった。
 
 
 
「久しぶりに潤に会えて、うれしかったから」
 
 
「わたし、ずっと後悔してたから」
 
 
「あのとき、潤を失うのが、ふたりの思い出を壊すのが怖くて逃げ出したことを、
ずっと、ずっと、悔やんでたから...」
 
 
「だから、つい、あんなこと言っちゃったんだ」
 
 
 
 
 
気がつくと雪の降りはさっきより激しくなっていて、
まるで、あの日のようだった。
俺と理恵が終わってしまったあの日の雪のようだった。
 
 
 
 
「わかってたんだよ、もう取り戻せないってことは」
 
 
「思い出は思い出でしかないって」
 
 
「頭ではわかってた」
 
 
「でもね...」
 
 
「でも」
 
 
 
 
 
何かに堪えているような沈黙。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ごめん、もう行ってくれるかな?」
 
 
 
 
「理恵?」
 
 
 
 
「もう、行って、お願いだから」
 
 
微かに声が震えていた。
 
 
 
 
しばらく逡巡して、俺はやはりここを去ることを選ぶ。
さっきよりも、激しく香里に会いたいと思っている自分に気づく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「わるい、じゃあ、行くよ」
 
 
 
 
「うん、またね」
 
 
 
 
 
気丈に返してくれた言葉。
そして、理恵の言葉が教えてくれたこと。
それらを激しい焦燥感とともに胸に抱いて、俺は香里の元に急ぐ。
 
 
早く香里を見たかった、早く香里に会いたかった、早く香里に触れたかった。
それは、本当に激しい欲求だった。
焼けつくような、渇きのような。
いつか、これと同じ渇きを感じたことがある、
そんな気がした。
 
 
 
 
 
 
 
少し離れて、一度振り返ったとき、逆の方向に歩いてゆく、理恵の傘が小さく見えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
涙が止まらない。
涸れ果ててしまった井戸のような想いだと思ってた。
もしどこかで再び出会っても、それが再び潤うことなんてないと思ってた。
 
 
けれど、久しぶりに会った君は眩しいくらいで、
わたしの想像していたよりも、ずっとずっと先を歩いていて、
隣にいるあの子に見せる笑顔が本当にやさしくて、
だから、わたしは最初のうち、話しかけられなかった。
 
 
本当は秋から知ってたよ、
話に聞いて知っていた、
君が同じ予備校にいること。
そして、綺麗な子が隣にいることも。
最初はただ懐かしいだけだった。
見かけたら簡単に声をかけられると思ってた。
また話せるのが楽しみだった。
 
 
でも、君がわたしに残した影は大きくて、
わたしの後悔は思ったよりもずっと深くて。
会わなかった時間の君を想像して、思いは膨らんで、
君を見つけたときには、失った時間を取り戻すことだけで頭が一杯になってしまった。
 
 
泣いて頼めば良かったかな、
『わたしを見て』って、泣き叫べば良かったのかな?
 
でも、わたしにはわかってたから、本当は君が誰を見ているかわかってたから。
だからあんな言葉を口にしてしまった。
君の背中を押すようなことを言ってしまった。
 
 
  『いや、潤が、沈んでて、悩んでるみたいだからさ、原因考えると、
   簡単にそこに行きつくでしょ?』
 
 
わたしはまた逃げたのかな。
本当は泣いてしまいたかったよ。
君の前で泣ければ良かった。
 
でも、少しだけ、ほんの少しだけは期待していたんだよ。
 
 
  『いや、俺が悩んでたのは理恵の昨日の言葉のことだ』
 
 
 
そう言ってくれないかと思っていたよ。
 
 
 
 
 
涙が止まらない。
あのとき、
わたしが、君を拒絶したとき、
君はどれくらい泣いたかな?
あのときもわたしは泣いた、自分の弱さのために泣いた。
君のためには泣かなかった。
 
だからかな、だから今また、わたしは泣くのかな。
 
 
 
 
 
でも、今日の涙は少し違う。
半分、ううん、三分の一はうれし涙だよ。
君が、わたしの背中を押してくれたから、
わたしの時計のネジを巻いてくれたから、
それは、君にしかできないことだったから。
 
 
 
 
だから、「ふられて悲しい」涙が三分の二、
そして、三分の一は、「また歩き出せてうれしい」涙。
 
 
 
 
わたしの言葉、どこまで信じてくれたかな?
相変わらず、そういうことには鈍いみたいだから、
全部信じてしまったかな?
 
 
それは、ちょっとさみしいな。
 
 
ちょっとぐらいは気にかけてほしいよ。
 
 
 
 
また、話しかけてきてほしい....、
また、話しかけてもいいかな。
 
 
 
 
また君と話して、笑って、そして、すこしからかってやりたいな。
 
 
あの子の前で君のことを、思いきり、からかってやりたいよ。
 
 
 
 
だから、だから、何を悩んでるのか知らないけど、
何を沈んでるのか知らないけど、
絶対にあの子を離しちゃダメだからね。
 
 
 
 
 
 
「今の潤なら大丈夫」、そんな言葉をあげたかったけど、
そこまで、わたしは強くなかったね。
潤の前で泣かないことが、わたしの精一杯だったね。
 
 
 
 
それを言えないほど、潤のこと好きだったんだね...。
 
 
 
 
雪がたくさん降ってくる。
暗い空から落ちてくるよ。
それだけ見てると、まるであの日にいるみたいだね。
 
 
 
 
でも、もう大丈夫、
 
 
 
 
もう、あの日に焦がれて泣いたりしない。
 
 
 
 
 
 
やっと、本当にやっと、
わたしは歩き出せたんだね。
わたしはあの日に置き去りにした、自分を取り戻すことができたんだね。
 
 
また君に会って、
そして、心が痛んだとしても、
それは、すっかり乾いた痛み。
少しだけかなしくて、
少しだけせつなくて、
少しだけうれしい、過去への痛み。
 
だから、もうそのことでは泣かないよ。
きっと、涙は出ないと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なんだか、ちょっとくやしいけど、
でも、やっぱり、君にこう言いたいよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ありがとう、潤」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あのときも、
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、今も。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャワーを浴びて、洗い立ての服に着替えると、
気分はいくらか、ましになった。
少しずつ、本当に少しずつ、
自分の中に力が戻ってくる気がした。
 
 
リビングの扉を開けたときに電話が鳴った。
私は一瞬ためらって、そして、受話器を取った。
 
 
 
 
「はい、美坂です」
 
 
ジーッというノイズが聞こえた。
 
 
「香里か?僕だけど」
 
 
「うん」
 
 
さっき頭の中で聞いた声だった。
私の記憶の扉の鍵であったはずの声だった。
でも、もうその魔法は解けている気がした。
 
 
「今から出られる?」
 
 
「うん」
私は躊躇うことなく答える。
彼がそれを望むのなら、今がきっとその時なのだろう。
 
 
待ち合わせ場所を要領よく説明してくれる彼の言葉を、簡単にメモして、
そして、程なくラインは切れた。
手の中の受話器をしばらく見つめていた。
もう切れてしまった電話の前では、それはなんの意味も持たなかった。
そのことに気づいて、そっと、受話器を電話機に戻した。
彼のいるべき場所は私の手の中ではなく、そこだったから。
 
 
 
 
 
 
部屋に戻って、クローゼットを開く、
一瞬、このまま何もかも投げ捨てて、ベッドに中に潜り込みたいような気分になる。
ひとつ頭を振って、その気持ちを追い払う。
 
 
少し迷って、結局、制服を着ていくことにする。
学校に置いてあるものを取りに行きたかったから。
 
 
姿見の前で髪を整える。
まだ、鏡の中の人との間に距離を感じる。
「何度繰り返せば、いいのかな」
私は心の中でつぶやく。
なぜ、私はたやすく自分を閉じてしまうのだろう。
なぜ、私はたやすく現実を手放してしまうのだろう。
もちろん、答えは出なかった。
鏡の中の人が何か言いたそうにしていた。
けれど、惜しむらくは、彼女は声を持たなかった。
 
 
 
 
玄関で靴を履いているときに、もう一度、電話のベルが鳴った。
私は呆然とそれを聞いた。
ベルはしばらく鳴り続けて、ふっと消えた。
ベルが鳴り止んだ後では、沈黙の深さが増したようだった。
 
 
私はベルが鳴り止んだのを確認してから、ドアを開けた。
潤からの電話に違いない。
そう思った。
 
潤、
すごく遠くに感じる名前だった。
違う、違うね、また私は自分を偽ろうとしている。
『すごく遠くに閉じこめようとした名前』だった。
 
 
 
 
『もう少し、時間をちょうだいね』
 
 
 
 
心の中で彼に話しかける。
今は、まだ潤と話せない、
何を話していいかわからない。
 
でも、もう少し、もう少しで、彼に伝えるべき言葉が見つかる。
いや、見つけなければいけない、
そう思った。
 
 
ドアを開けて、冷たい外の空気に触れたとき、不意に潤のぬくもりが体に甦った。
あたたかい唇の感触までが甦ってきた。
 
 
少しの間、目を閉じて、その記憶が通り過ぎるのを待った。
そして、ゆっくりと歩き出した。
 
 
重い灰色の雲が地上まで降りてきそうだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
狭い階段を登って黒く塗られたスチールの扉を開ける。
細長い店内の、窓際に置かれたテーブル席にひとりで座って、
文庫本を真剣な表情で読んでいる彼を見つけた。
 
 
本に没頭していたのだろうか、彼の反応が少し遅れた。
私がテーブルのそばまで来たときに、彼が本から顔を上げて、
やわらかく笑った。
 
 
「早かったね、香里」
やさしい声だった。
 
 
コートを脱いで、彼の向かいに座る。
店の中は香ばしいコーヒーの匂いで満たされていた。
スピーカーからは小さな音で、サキソフォンが奏でるメロディーが流れていた。
それは、まるで人の声のようだった。
私の知らない言葉で紡がれる、私の知らない秘密に関する歌のように聴こえた。
 
 
綺麗にカットされたグラスを、トレーに載せて運んできてくれた店の人に、
カフェオレを注文する。
彼はその様子を静かに見ている。
 
 
私は彼の視線に気づいて、そして、ふっと窓の外に視線を移す。
いつ雪が降り出してもおかしくないほど、灰色の雲は質感を増していた。
 
 
そう広くない店内、カウンタに2、3人の人が座って、
静かにそれぞれの時間を過ごしていた。
私の方から見える、店のいちばん奥のテーブル席に、
男の人がふたり向かい合わせで座っていた。
彼らはなにかを静かに話していた。
けれど、その声は全く聞こえなかった。
 
 
静かだった。
自分の中の居心地の良い部屋にいるような、
甘美な静寂だった。
 
 
 
 
 
「香里」
 
店の人が、私のカフェオレを置いて去った後に彼が口を開いた。
 
 
「一昨日のことだけど」
 
 
やさしい声で話を続ける。
 
 
 
私は大ぶりのカフェオレ・カップにそっと両手をそえて、
その中の薄い茶色の液体を見つめていた。
 
 
 
「実は、ちょっと後悔している」
 
 
「香里を混乱させてしまったんじゃないか、と思って、」
 
 
「僕はちょっとあせりすぎていたのかもしれない」
 
 
彼が言葉をきる。
私は静かに彼を見る。
細い銀の縁の眼鏡、
その奥の瞳はやさしい色をしている。
黒と茶色が程よく混ざった色。
 
 
 
「もちろん、あのときの言葉は僕の本当の気持ちだよ」
 
 
 
「けれど、もし香里が迷惑だと思うのなら...」
 
 
 
ほんの少しの逡巡。
 
 
 
「はっきり、そう言ってほしい」
私の視線を真っ直ぐに受け止めて、彼が言った。
 
 
 
 
 
 
 
 『今も、僕は、香里が好きだよ』
 
一昨日の彼の言葉。
それは、甘い響きを持って私のある部分に作用する。
でも、私はもうあの場所にはいないから、
もう、あの場所に戻ることはしない、と決めたはずだから。
 
 
だから、私は橋を焼かなければいけない。
甘い、やさしい思い出に戻るための橋に自分の手で火をかけなければいけない。
それをしないと、また私は、一歩も前に進めなくなるから。
 
 
 
 
 
 
 
「迷惑じゃないよ」
私は重い口を開く。
 
 
「でも、もう遅すぎたよ」
 
 
「私は先生のことが好きだった」
 
 
「先生だけが私の支えだった」
 
 
 
彼は静かに私の言葉を待つ。
 
 
 
「それは、本当のこと」
 
 
「だけど、私は先生を見てたのかな?」
 
 
 
 
 
私の中で波が立つ。
私の奥底でおこった静かな波が、次第に大きくなって、
心の中に押し寄せる。
 
 
 
 
 
「いつも自分のことばかり話してた」
 
 
「先生の話したことを憶えてないよ」
 
 
「だから、ずっと謝りたかった」
 
 
「”先生のこともっと知りたかったよ”って、伝えたかった」
 
 
 
視線を外して、手元を見る。
心の中の波が鎮まるのを待つ。
カフェオレから立ち上る湯気は消えてしまっていた。
 
 
 
「でも、もうそこには戻れない」
 
 
 
「香里」
彼が私の名前を呼ぶ。
静かな声。
 
 
 
「戻らないと決めたから」
 
 
 
  あの悲しい冬の日に。
 
 
 
「戻ったら、私は私ではなくなってしまうから」
 
 
 
  とても大切なものを失いかけたあの冬に。
 
 
 
 
 
「ごめんなさい」
目を上げて彼を見る。
 
 
 
彼の顔にはやさしい微笑みが浮かんでいる。
胸の奥で、なにかがざわめく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「それから、」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ありがとう」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私は彼に微笑みかける。
本当の気持ちを込めて。
あの頃、私が伝えるべきだったふたつの言葉とともに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 
 
 
 
 
 
 
 
向かいの席に残されたカフェオレ・カップ。
白いボウル状のカップからはもう湯気が立っていない。
 
 
その意味するところは時間の経過。
 
 
目の前の空席に彼女が座ることは二度とないだろう。
 
 
もちろん、それは仕方のないこと。
 
 
僕はあのとき逃げ出したのだから。
 
 
あのとき終わったことが、また終わっただけ。
 
 
 
 
...バカだな。
本当に俺はバカだ。
 
 
あの頃、彼女の話だけを聞いていたのは、自分のことを彼女に伝える自信がなかったから。
本当の自分を晒して、否定されるのが怖かったから。
 
だから、それは君の罪であると同時に、僕の罪でもあったんだよ。
 
そんなことさえ言えない俺は、
 
やっぱり、本当に弱くて。
 
 
 
 
 
 
...でもな、香里。
 
やっぱり、僕は君に会えてよかった。
 
また君に会えて、本当によかった。
 
 
君が、あの頃の僕に『ありがとう』と言ってくれたから。
 
 
香里がそう言ってくれるのならば、
僕にも幾ばくかの救いはあるよ。
 
 
僕はその言葉を誇りに思って、
胸に抱いて歩き出すよ。
 
 
君の陰、
君の暗闇、
それを受け止めるにはあまりに弱すぎた僕。
それでも、君が僕を支えだったと言ってくれたから、
だから、僕は自分をゆるせるかもしれない。
 
 
罪をしっかりと見据えて、
二度と同じことを繰り返さぬように。
 
君の笑顔と君の言葉を抱いて、
二度と自分から逃げ出さないように。
 
 
 
 
 
 
大切にするよ。
 
 
最後にくれた、君の言葉、
 
 
そして、最後の君の微笑み。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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【初出】1999/9/23 Key SS掲示板


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