『Forgiven, Not Forgotten』
 
 
 
夢を見る
最近よくあの夢を見る。
白い靄のようなものに包まれた世界。
何もなくて、 誰もいなくて、時間でさえ流れているのかどうかも不確かな世界。
 
私には馴染みのある世界
もうずっと前、 でも、時間にしてみればまだ3年か4年ぐらい前、その頃まで私が住んでいた世界。
自分の体の中に馴染めなかった、 自分が生きているということに馴染めなかった、私の心が住んでいた世界。
 
そこではいつも男の子の泣き声が聞こえる
心を削られるような、かなしい声
今日も泣いているのね
その世界で何を求めればいいのかをわからずに、 その世界で何も与えられないことを嘆いて、今日も泣いているのね。
 
今でもあなたは泣き続けているのね
 
 
 
「祐一さん、お待たせしました」
「おっ、めずらしいな佐祐理さんが遅刻するなんて」
「すいません、少し寝坊してしまいました」
「さらにめずらしいな、佐祐理さんが寝坊するなんて」
「祐一さんは佐祐理のこと買いかぶりすぎですよ...」
”佐祐理はちょっと頭の悪いただの女の子ですから”
そう続けようとして、 でも、その言葉が口から出なかった
 
言葉の途中で口をつぐんでしまった私を、 祐一くんが不思議そうに見つめる。
けれど、何も訊かずにこう言ってくれる
「まあ、いいさ、行こうぜ佐祐理さん」
彼のやさしさがうれしくて、 それがちょっと心に痛くて、私は中途半端な笑顔で答える。
「はい、行きましょう」
 
私と舞が高校を卒業してから一ヶ月が過ぎた
私たちはアパートを借りて一緒に住むことにした
舞には私が、そして、私には舞が必要だったから
傷ついた獣が寄り添いあうようにして、 私たちは暮らした。
二人の生活は楽しかった互いに相手を思いやることができたから、私たちには光をもたらしてくれる人がいたから、
それが、今、目の前にいる祐一くんだった。
 
「今日、舞は?」
「今日は学校ですよー」
「そうか、あいつ鋭いからな、俺と佐祐理さんが内緒で会おうとしても、絶対勘づかれるよな」
「あははー、なんか、それじゃ、舞が凄く怖い人みたいですよ」
「俺は、ときどき怖いぞ」
そう言って笑ってくれる
私に屈託のない笑顔をくれる。
 
その笑顔がうれしかったはずなのに。
 
遅い春の訪れた街
春の始まりの胎動の季節。
あたたかな太陽、うららかな空気。
何も心を曇らせる要素は無いはずなのに
 
 
どうしてだろう、また、泣き声が聞こえる
 
 
「なにがいいかな、舞の喜びそうなもの」
私たちの生活が始まって一ヶ月の記念
今日はそれを買いに来た
祐一くんが舞を驚かせたいって言うから、 舞には内緒でふたりきり
「佐祐理さん、どう思う?」
商店街を並んで歩きながら、 立ち並ぶ店のショーウィンドウを覗きながら祐一くんが私に訊ねる。
「なあ、佐祐理さん」
「なあって、」
「佐祐理さん?」
「はい?」
彼が私に話しかけているのはわかるのに、 どうしてだろう、心がうまく反応してくれない。
「佐祐理さん、どっか具合でも悪いのか?」
心からの気遣い、 それが表情に出ている。
やさしい瞳、 私にはつらい瞳。
「佐祐理さん?」
 
「すいません、祐一さん、佐祐理、今日は帰りますね」
やっとそれだけ言って、その場から逃げるように去る
 
 
 
結局、その日は舞とも話をできなかった
 
 
 
 
私はまた夢の中にいる。
ここは夢の中の世界
それはどこにあるのだろう?
本当はここは夢の中ではなく、 もうひとつの世界なのではないだろうか
私がずっと抱いていた疑問、 ここは現実ではないもうひとつの世界。
 
私が失くしてしまった、たったひとりの弟の住む世界
 
泣き声が聞こえる。
いつもの泣き声?
違う、これは女の子の泣き声聞き覚えのある泣き声
 
そう言えば、最後に私が泣いたのはいつだったろう?
 
泣いているのは私、 子供の頃の私。
”なぜ泣いているの”
私は問いかける
女の子は私の方を見てもくれない。
ただ、泣き続けている
”もう泣かないで”
私はその子の髪の毛に触れようとする
けれど、どうしてもその手はとどかなくて、 いくら手をのばしても、その子に手がとどくことはなくて。
 
泣き声は響き続ける
空虚な世界、白い靄の世界の中に
 
何かが私の頬に触れている
その感触が伝わってくる
やさしい感触
白い靄が薄れてゆく気がする。
泣き声が遠のく気がする
 
男の子がいる
今日は泣いていない。
やさしい瞳どこかで見たことのある瞳。
 
そして、男の子はにっこりと笑って、笑顔だけを残して...消えた。
 
 
私は眼を開く、 常夜灯の黄色い灯り。
そのやさしい光に包まれた女の人
 
深い緑色の落ち着いた瞳
つるりとした、気持ちのいい感触の手。
その手が私の頬に触れている
 
「ま、い?」
眼を開いた私を覗き込むようにするやさしい瞳。
「...佐祐理、泣いてたから、」
「佐祐理が泣くと私も悲しいから、」
私は横になったまま、頬に触れている舞の手を自分の手で包む。
「...泣き声が聞こえたから、」
「佐祐理が、泣いているのが聞こえたから、」
私は現実の涙が頬を濡らすのを感じる
 
ああ、涙はあたたかいんだな、 あたり前のことを、はじめて気づいたように感じる。
 
そういえば、現実の涙を流すのは、本当に久しぶりだった
 
 
 
 
 
懐かしい場所。
ほんの一ヶ月前までは私たちの場所でもあったところ
でも、今日は中に入らずに校門の前に立つ
今日もあたたかくて、花の開く音まで聞こえてきそうな陽気。
 
「舞、懐かしいね」
「...佐祐理、おなか空いた」
「ははっ、もう少し待っててね」
ふたりでひとつずつのバスケットを提げてお弁当の詰まったバスケットを提げて、あの人を待つ。
 
そう、もう少しだから待っててね
もう少しであの人が姿を見せるはずだから
そうしたらきっとこう言うはずだよ
”ようっ、佐祐理さん、舞、いい天気だなっ”って
そう言って、屈託のない顔で笑うはずだよ
 
そしたら私はこう答えるんだ
”祐一くん、今日は河原でお弁当食べよう”って
 
私は心の枷をはずしてあげるつもり
それをはずしてもいいよって、一弥は言ってくれたから
ずっと前から許してくれていたから
私はやっとそれに気づいたから
 
こわかったのは私の方、 一弥を忘れるのがこわかった。
自分だけ幸せになるのがこわかった
 
本当にバカだったね
一弥ありがとう、 いつまでも心配かけて、だめなお姉ちゃんだね
 
私の中ではとっくに”祐一くん”になってたのにね
みんなにわがままを言ってたんだね
 
 
何があっても、 どんなに変ってしまっても、私が一弥を忘れるはずがないのにね
 
 
春の強い風が吹いて、 それが合図のように昇降口から生徒達が出てくる
見慣れた制服、 でも、もう手の届かない時間の象徴
 
そして、待ち望む人の姿が見えて、 私と舞の心に灯りがともる
ふたりですこし顔を見合わせる
 
彼が私たちに気づいて、 右手を挙げながらやさしい声で言ってくれる。
「ようっ、佐祐理さん、舞、いい天気だな」
 
 
 
次は私の台詞だね
はじめて口にする台詞だね
 
 
 
 
 

 
【初出】1999/7/20 Key SS掲示板   【修正】 2000/4/27  
【One Word】
ああ、佐祐理さんですねえ。
お姉ちゃん属性なのかなあ、俺。
香里と佐祐理さんの姿がだぶります。
なぜか、佐祐理さんだけは呼び捨てに出来ない、心の壁かな?



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