Bye! good-bye our pastels badges.
   But it means some kind of happy birthday.











 
 
 
 
 午後のおだやかな光が窓から射しこみ、部屋の中に、暖かな日溜まりを作っている。
 わたしは、手を止めて、窓の外を眺める。誰かに呼ばれたような、そんな気がして。
 けれど、それはただの錯覚に過ぎず、外からは春の訪れを待ち望んでいた、気の早い鳥たちの囀りが聞こえるだけ。
『本当の春はまだ先だよ、この街ではね』わたしは鳥たちに、心の中で話しかける。
 部屋の中に目を移す。ベッドといわず、フロアといわず、足の踏み場もないほどに散らかった部屋。
――春は、区切りの季節だから。めずらしく、そんなことを考えて部屋の片づけを始めたのはいいけど、一向に作業は進まず、部屋の中は、余計に散らかるばかりだった。
 大掃除のつもりで押入れの中のものを引っ張り出したはいいが、どういった経緯でそれらが押入れの中に安息の地を見つけたのかを辿っているうちに、つまりは、思い出に耽っているうちに、すでに片づけを始めてから、三日が経っていた。
 どうしてだろう?最近のわたしは、昔のことを思い返す時間が長くなっている気がする。
 あるいはそれは、今の時期の自分にとっては必要なことなのだろうか。
 もうすぐ高校の卒業式。そして、その後に待っているのは、新しい環境での新しい生活。
 




 
 
 
Good-bye our pastels badges
さようなら、僕らのパステルズ・バッヂ





 
 
 
 
「はい、冬野ですが」午後の穏やかな静寂は、母親の声で破られた。
 換気のために開け放したドア、階下で電話を取る母親の声が二階のわたしの部屋まで、はっきりと届く。
『あれ、電話のベル、気がつかなかったな』わたしはぼんやりと考えながら、母親の声を聞くとも無しに聞く。
「あら、久しぶりね。元気だった?」
 親しげなその口調からすると、彼女の知り合いのようだった。わたしは、意識を母親の声から、自分の目の前に広がる荒れ果てた風景に引き戻す。
 荒涼とした部屋。雑誌や、プリント用紙や、どこかのお店のカラフルなビニール袋や、 そんな雑多なものの中に混じって、その中に埋もれてしまわずにわたしの目を引くものがある。
 それは古びた銀色のペン・ケース。中学生のときに使っていた、ふたにイルカが描かれた金属製のペン・ケース。
 今日の午前中、押し入れの奥から、わたしはそれを見つけた。一度は手に取ったけれど、ふたを開かずに、フロアに放り出した。銀色のふたがわずかに歪んでいるせいで、イルカの表情がまるで笑っているように見える。
 気を逸らそうとしても、どうしても目がペン・ケースに引きつけられる。
 わかっていた。それを開かずにはいられないことは。けれど、そのタイミングを掴むことができなかった。そのきっかけがなかった。
「そうなの、東京の学校にねえ」
 ちょっと驚いたような母親の声が、逡巡しているわたしの頭に入りこんでくる。
「とにかく、おめでとう、潤くん」
 
 
 
 
 買ったばかりの携帯電話を手に取り、まだ慣れない操作でメモリから目当ての番号を見つけ出す。
 発信の緑色のボタンを押す。一瞬、全てが止まってしまったような沈黙のあとで、銀色の電話は呼び出しのコールを始める。
 無意識のうちに、その回数を数える。
…1回、…2回、…3回。プツッという音と共に電話が繋がる。
「もしもし」
「あ、もし、もし」
「おっ、理恵?久しぶりだね」
 いつも通りの声で、夏紀が言う。
 街中にいるのだろうか、スピーカー越しにざわざわとした雰囲気が伝わってくる。
「今、大丈夫?」
「うん、平気、あ、ちょっと待って」
 夏紀が誰かに何かを言ってるのが、遠くに聞こえる。けれど、その内容まではわからなかった。
「と、ごめん。久しぶりだね、理恵」
 再び電話の向こう側に戻ってきた夏紀が、さっきと同じ言葉を繰返す。
「ううん、一昨日も会ったよ」
 わたしは、夏紀の声を聞いて、どこかで安堵の気持ちを感じながら応える。
 大学受験の時期に入ってからは、志望校がひとつも重なっていない夏紀とは、二週間ほど会わない日が続いた。
 けれど互いの最後の入学試験も、もう10日ほど前に終わり、それからは三日とあけずにどこかに出かけていた。 ときには夏紀とふたりで、ときには高校の元クラス・メイトたちと大勢で。
「電話で話すのは久しぶりだねってことだよ」
 夏紀の低い声が、耳に心地いい。わたしはぼんやりとその声に聞き入ってしまう。
「理恵」
「...理恵?」
「あ、ごめん、何?」
「どうしたの?電話かけてきといて黙り込まないでよ」
「あ、ああ、えっと、今日は夏紀、暇かな〜、と思ってさ」
「変だよ、理恵」間髪入れずに夏紀が言う。
「え、何が?」
「普段のあんたなら、絶対に言わないよ、暇かな〜とか」
「え?」
「“今日、何時に、どこで、じゃ”って、人の都合お構いなしじゃない」
 ちょっと笑いながら、夏紀が言う。
「それじゃあ、わたしがすごいわがままみたいじゃない」
「違うの?」
 おかしそうに、笑う。
「今から映画なんだ。そのあと、うーん、夕方なら大丈夫だけど」
 ひとしきり笑った後で、夏紀が言う。
「じゃ、いつもの店でいい?」
「ん、あの公園の向かい側のところだね?」
「うん」
「じゃあ、映画終わったら電話する」
「うん」
 ふっ、と会話が途切れる。『じゃあね』の言葉がすぐに出てこなかった。
 夏紀の携帯電話の向こう側の街の気配が、伝わってくる。
「理恵」
 夏紀の声に、街中で急に誰かに呼びとめられたような、そんな錯覚を感じる。
「切るよ」
「あ、うん、じゃあ、また後で」
 ぷつん、と電話が切れる。携帯電話が切れるときの感じは、普通の電話よりも唐突な気がする。
 あるいはそれは、有線と無線の違いなのだろうか。わたしは、その感じが、あまり好きではなかった。
 
 しばらくの間、手の中の銀色の電話を見つめる。そして、窓の外の午後の風景を見つめる。
 何を見ていても、思い浮かぶのはさっきの電話のことだった。
 夏紀に電話をする前、ほんの数分で終わってしまった電話。
 母親が取ってくれた、潤からの電話。
 
 
 
 
 
 
 
 
 太陽の光の温もりは、残念ながら十分ではなく、わたしは、早くも自転車で家を出たことを後悔していた。
 春には遠い、とさっき鳥たちに語りかけたにもかかわらず、部屋の中で感じる陽光の暖かさにいつしか自分も騙されていたことに気づいて、笑ってしまいそうになる。
 まだ、夏紀と約束した夕方までは間があった。けれど、どうしても部屋でじっとしていられなかった。だから、わたしは着替えをして、自転車に乗って街に出た。
 
――どうしてだろう?どうして、部屋にいたくなかったのだろう。
 わたしは考える。
 本当はわかっていた。わかっていて、でも、それを認めたくなかった。
 部屋にいると潤のことを考えてしまうから、あの日、クリスマスを待つ街で終わったはずの思いが、また甦ってしまうから。
 自分の中では整理がついているはずだった。『思い出』というラベルを貼って、きちんと引き出しに仕舞ったはずだった。
 けれど、何でもないときに、引き出しに入りきれなかったものがたくさんあることを思い知らされる。
 たとえば、部屋の片づけをしていて、彼と机を並べていた時代に使っていたペン・ケースを見つけたときに。
 たとえば、母親が彼と親しい口調で話すのを聞いたときに。
 そして、今のように自転車で街を流しているときにも。
 この道は部活の練習の帰りに並んで歩いた道。あのファスト・フードの店は、飽きることもなく何時間も話しつづけた店。あの角の向こうの踏み切りは、ふたり並んで列車が通りすぎるのを待った踏み切り。遅刻しないために、遮断機がちゃんと上がるのも待たずに駆け出したことが何度あっただろう。
 学校帰りには、並んだふたつの影が長く延びて、走り過ぎる列車に映りこんでいたのを思い出す。
 
 過ぎ去ったわたしの時間は、確かに彼に繋がっていて、それを完全に仕舞い込むことなんてできない。
 では、わたしはことある毎に彼を思い出さなくてはいけないのだろうか。
 潤の姿を思い浮かべて、現在の場所に、消えてしまった彼の姿を重ねて、自分の愚かな選択を悔やみ続けなければいけないのだろうか。
 びゅっと、強い風が吹く。耳が冷たくて、わたしは手をハンドルから放して、耳に当てる。
 思わず、ふふっと笑ってしまう。耳に当てた手に、金属のひやりとした冷たさを感じて。
――そうか。そうだね。
 わたしは、まだこのリングをしたままだった。
 君にもらったこのリングを、ずっとはめたままだったよ。
 
 
 
 
 今日一日の晴天を締めくくるのにふさわしい夕焼けが、目に入る限りの世界をオレンジ色に染めていた。
 わたしは、ぼんやりと公園のベンチに座っていた。公園には不思議と人気がなかった。
 もっとも、砂場や滑り台、ブランコにも、まだうっすらと雪が残るこの時期は、公園で 遊ぶのには早すぎるのかもしれなかった。
 柵で区切られた植えこみの中には、シャーベット状になった汚れた雪が残っていた。
 それでも確かに時は流れていて、やがて、気づいたときには、この公園も子供たちやその親たちの姿で賑わうのだろう。
 そして、その時になって、きっとわたしは思うはずだ。
 誰もいなかった公園の姿が、まるで嘘みたいだな、と。
 そのときのわたしは、同じ思いを抱えているだろうか。
 それとも、新しい生活の中で、君のことなんて忘れてしまっているのだろうか。
 気がつくと、わたしはリングを指から外して、親指と人差し指の間でくるくると回していた。
 
 
『ね、理恵、それ止めたほうがいいよ』
 わたしは高校の頃の友だちの言葉を思い出す。
『えっ?』
『指輪回す、クセ』
『なんで?』
『それじゃあ、“ねえ、この指輪のこと訊いて、訊いて”って言ってるようなもんだよ』
 セリフのところを甘い声で思い入れたっぷりに言ってみせて、友だちが笑う。
『そうかな』
『そうだよ。それじゃ、せっかくのチャンスも逃げちゃうよ』
『チャンス?』
 大きく頷いて、友だちが笑う。
『言ってたじゃない、理恵。“高校では恋に生きるんだ”って』
『そういえば、そうだったねえ』
『すっかり、忘れてたよ』
 友だちが、一瞬、わたしのことを呆れたように見て、それから、ふたりで声を合わせて笑った。
 
 
 気がつくと、わたしの前に、小さな女の子が立っていた。たぶん、まだ小学校にも上がってないくらいだろう。ベンチに座っているわたしよりも低い視線。じっと、わたしの指先を見ている。
「ん、なに?」わたしは問いかける。
「いるか……」女の子がつぶやく。
「うん、イルカだよ」
 わたしは、指で挟んだリングを彼女のほうに差し出す。
 わたしの声が耳に入っていないかのように、女の子はリングに見入っている。
「ね、君、イルカは好き?」
「キミ、じゃないよ、あたしはミキ」
 一瞬、女の子が何を言ってるのかわからなかった。けれど、ゆっくりとその意味がわたしにしみ渡って、自然に口元が緩んでいく。
「あ、そうか、ミキ…なんだね」
 女の子が初めてわたしの顔を見て頷く。細くて、強く触ると壊れてしまいそうな顎の線。
 やわらかそうな頬。少し潤んで見える、大きな黒い瞳。
「ん、じゃあ、ミキはイルカが好き?」
 ミキが首を横に振る。
「え、じゃあ、どうしてじっとこれを見てたの?」
 わたしはちょっと困惑して、イルカのリングをミキの目の前に持っていきながら問い返す。
「おっきなイルカは嫌いなの。でも、このイルカは好き」
「ちっちゃいから?」
 ミキが大きく頷く。とても嬉しそうに。
 
 わたしは、自然に笑顔になっている自分に気がつく。子供の脈略のない思考は本当に楽しい、そう思う。ううん、違うな。脈略がないわけじゃないはず。ただ、それがわたしにはわからないだけなんだ。
「おっきなイルカは何で嫌いなの?」
 うれしそうな表情が一瞬で消えて、ミキは下を向いて黙りこんでしまう。
 そして、そのままの姿勢で呟く。
「…食べられちゃうから」
「えっ?」
「おっきなイルカには、注意しないといけないんだよ」
 ミキがはっきりとした声で、子供らしくない堅い口調で言う。
「注意しないと、頭からバクリ、と食べられちゃうんだよ」とても、真剣な表情で続ける。
 その言葉に、わたしは吹き出してしまう。
「ほんとなんだよ、だって、お兄ちゃんが教えてくれたもん」
 ミキが不満気に頬を膨らませる。
「ね、ここに座りなよ」わたしは、自分の隣のベンチを示して、笑いの下から言う。
「ほんとだよ、お兄ちゃんが言ってたんだもん」わたしの言葉には答えずに、ミキが繰り返す。
「お兄ちゃんがいるんだ?」
 わたしの問いに、ミキが首を横に振る。
「え、でも、さっき言ったよね?」
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんだけど、ミキのお兄ちゃんじゃないの」
 ゆっくりと、わたしの隣のベンチに登るようにして座りながらミキが言う。
「お向かいのお兄ちゃんなんだよ」
 お兄ちゃん、とミキが言うとき、本当にうれしそうな顔をする。
「ミキはお兄ちゃんが好きなんだね?」
 また、ミキが首を横に振る。
「お兄ちゃんなんて、嫌いだよ。いっつも、ミキのこといじめるんだもん。さっきだって…」そう言って、少し瞳を潤ませる。
「ね、ミキ」わたしは、ミキの気を逸らせようと、話しかける。
「おっきなイルカが人を食べちゃう、っていつ聞いたの?」
「うんとね、テレビ見てたとき」
「イルカがテレビに出てたんだ?」
 にっこりと笑って大きく頷く。くるくると変わる表情は、見ていて飽きない。
「イルカがバンって飛んでたんだよ、バンって飛んで、バシャンって潜るの。だから、お兄ちゃんに、イルカ見に連れてってってお願いしたの」
 声がだんだん小さくなる。
「そしたら、お兄ちゃんが、食べられるからダメって言ったの」
 ちょっと鼻を鳴らしながら、ミキが答える。
「ミキなんか、ちっちゃいからひとくちだぞって」
 そっか、そういうことか。わたしは、“お兄ちゃん”の気持ちがちょっとわかって、笑ってしまう。
 
 
「ミキッ」
 男の子の大きな声に、わたしとミキは驚いて、声の主を見る。
 夕陽を背にして、小学生くらいの男の子が立っていた。走ってきたのか、肩が大きく上下している。
「お兄ちゃん」ミキが小さな声で呟く。
「ミキ、お前、ひとりで遠くまで行ったらダメだって言ってるだろ」
 そう言った後で、ミキに走りよって彼女の小さな手を取る。そして、わたしのことをきっと見る。小学生の低学年くらいだろうか、座ってるわたしより少し低い目線。華奢な体つき。
「知らない人と話したらダメだって、いっつも言ってるだろ」
 わたしのことをじっと見つめたままで、庇うようにミキを背中に隠して、彼が言う。
「大丈夫だよ、わたしは、誘拐魔とかじゃないから」苦笑しながら、男の子に言う。
 けれど、彼はその警戒を解いてはくれないようだった。
「お姉ちゃんに、イルカ見せてもらってたんだよ」
 彼の背中に隠れたミキが言う。彼が、ミキの方をちょっと振り返る。
 そして、初めて気がついたというように、わたしの手元に目を落とす。
 わたしは、見易いように手を彼の眼前に差し出す。
「イルカ?」彼が呟く。
「そ、イルカだよ」わたしは頷く。
「このイルカなら、ミキのこと食べないよね」
 彼がミキの言葉に、一瞬驚いたような表情をして、そして小さな声で、「う、うん」と答える。
 三人で、わたしの右手の親指と人差し指で挟まれた、イルカのリングを見つめる。
 銀のリングは、夕陽に染められていた。
「ミキ」
 わたしの呼びかけにこたえて、ミキが男の子の陰から顔を覗かせる。
「おいで」
 ミキがひょいとベンチを降りて、手を繋いだままで男の子と並んで立つ。わたしもベンチを降りて、そっと屈んで、ミキの空いてる右手を取る。
 そして、その中指にリングをはめてあげる。サイズの調節を一番狭いところにすると、ようやくリングはミキの中指に留まってくれた。
「よしっ」
 そう言いながら、わたしは、両手でミキの手のひらを軽く包む。やわらかくてあたたかい、彼女の手の感触が手のひらに残る。不思議そうな表情をしているミキの顔を見て言う。
「ね、大事にしてあげてね、イルカ」
 わたしの言葉をゆっくりと受け止めて、そして、ミキが大きく頷く。
「うんっ」大きな笑顔。
 
 
 わたしはベンチの前に立って、夕陽に向って歩いてゆくふたりを見送る。
「ね、君」
 男の子が、ゆっくりと振り返る。
「いつか、ミキとイルカ見に行くんだよ」
 彼は、しばらくわたしの顔を見ていた。そして、何も言わずにふいっと目線を逸らせた。
「おねえちゃん、ありがと」
 男の子に手を引かれて、わたしを振りかえってミキが言う。
「り・え」
 わたしは言葉を区切ってゆっくりと言う。わたしの言葉にミキが不思議そうな表情を作る。
「わたしの名前は、理恵だよ、ミキ」
 うん、と大きく頷いて、「りえお姉ちゃん、ありがとう」そう言って、わたしがリングをはめてあげた右手を大きく振った。
 ふたつの影が長く後ろに伸びる。オレンジ色に染まった公園にはわたしだけが残される。
「ミキ〜」わたしはもう一度、大きな声で呼びかける。
 公園の出口のところで、ふたつの影が立ち止まる。そして、わたしの方を振り返る。
「絶対にイルカ見に連れてってもらいなよ〜」
 わたしの声に応えて、ミキが大きく右手を振る。もう、その表情は見えなかった。
 そして、ふたつの長い影も彼らの後を追うように公園から出ていく。
 わたしは、すとんとベンチに腰を下ろす。
 軽くなった右手をひらひらと振ってみる。その動きを止めてじっと手を見つめる。
―― ね、きっと、間違っていないよね。
 誰にともなくわたしは話しかける。
―― あんなに喜んでもらえたら、イルカだって本望だよね。
 
 
 
 
「暗い」
 パコンッという音とともに、頭に軽い衝撃が走る。反射的に振り返ると、憮然とした表情をつくって、丸めたパンフレットを手にした夏紀が立っていた。
 夏紀の足元からは、長い影がわたしに向かって伸びていた。
「乱暴者」
「あ、それがデート抜け出して、わざわざ来てやった友だちにかける言葉?」
「はいはい、ありがとうございます」
「かわいくないなあ」
「夏紀にかわいいとか言われたら、気持ち悪いです」
 ぽんぽんと、まるでテニスのラリーのように、なんでもない言葉を交わして、何かを確認するかのように、そんな無意味な言葉をやりとりして、最後に二人は顔を見合わせて笑うんだ。
 ほらね。こうすれば、わたしは笑顔でいられる。こうすれば、いつでも前に進める。
 
「まったく、携帯に電話すればお母さんが出るし」
 わたしたち以外に人影のない公園のベンチ、西の空の端にオレンジ色の残照。
 夏紀の言葉に、わたしは着ていたナイロン製のアノラックの大きなポケットを探る。
 当然、そこに携帯電話は入っていなかった。
 わたしの隣に座って、燈色に染められて、どこかうれしそうな口調で夏紀が文句を並べる。
「定休日の店で待ち合わせようって言うし」
「人のデート中に電話かけてきて、なんだか重い雰囲気を漂わせてるし」
 そう言うときにだけ、ちょっとわたしの方に、心配そうな視線を向けて。
「ね、夏紀」
 わたしはベンチから勢い良く立ち上がる。
「うん?」
「お腹空いたよ」
「うん、わたしも」
 わたしは、ひとつ伸びをする。夏紀がゆっくりと立ち上がる。
 そして、ふたり並んで夕暮れの街へと歩き出す。
 後には、誰もいない公園が、今日最後の光に染まっている。
 やがて、その光も静かに消えて、この公園も夜の闇の中に沈むだろう。
 
「そういえばさ」夏紀がわたしの方を見て言う。
 自転車を押して歩くわたしの歩調に、彼女は合わせてくれる。
 並んで歩くと、絶望的なくらいの身長差。わたしたちの目線は優に10cmは違う。
「卒業式の後の打ち上げ、サド・カフェに決まったってよ」
「へえ、良く空いてたねえ」
 “SAD・CAFFE”は、その安い値段に見合わない料理の味と、独特な店の雰囲気で、わたしたちの間で人気の店だった。
「うん、無理矢理予約入れたらしい。だって、始まる時間がね」
 言葉を切って、夏紀がもう一度わたしを見る。
「二時だって」
「え、昼の?」
「そ、本当はやってないんだよね、その時間」
 わたしたちは顔を見合わせて笑う。笑い声が静かな風にのって、残照の向こう側に消えてゆく。
「よし、打ち上げでは飲んだくれるぞ〜」わたしは勢いよく言う。
「よく言うよ。甘酒で酔っ払う女が」夏紀が笑いながら言う。
「あ、そういうこと言うとね」わたしは軽くなった右手の人差し指を夏紀の前に突き出す。
「ホントに酔いつぶれてやるんだからね」
 それだけは勘弁してとか、やめてくれ〜とか、そういったことを言って夏紀が笑ってくれる。
 
 わたしは思う。もう大丈夫だね、と。
 もう大丈夫。君の助けはまだまだ必要かもしれないけれど、それは、わたしの心の中の君だけで十分済んでしまいそうだよ。
 だから。
 だから、次に会うときも、笑って話せるね。
 次に会えたら、また、笑って話そうね。
 
 
「あっ」そう言って立ち止まったわたしを、夏紀が振り返る。
「どうしたの?」
「忘れてた」
「何を」
 わたしは、再び自転車を押して歩き始める。夏紀もそれに合わせて歩き出す。
「今日、潤から電話あったんだ」
「へえ、で?」
「うん、生意気にも志望校に受かったらしいよ」
「そっかー」
 夏紀が伸ばした相槌の語尾に、複雑な思いが込もってるような気がする
 わたしは、そんな夏紀に心の中で感謝しながら、言う。
「お祝い言うの、すっかり忘れてた」
 吹き出すようにして、夏紀が笑い出す。わたしも、声をあわせて笑う。
 
 
 
 
 銀のペン・ケースのふたの内側には、中学のときのクラス・メイトの寄せ書きが残っている。
 色とりどりのマーカーで書かれた、今はもうどこにもいない、あの頃のわたしに向けられた言葉。
 本当は開かなくても、憶えているんだ。ペン・ケースを見たときに、思い出してしまったんだ。
『俺の事、忘れるなよ』
 それが、あの頃、君がわたしにくれた言葉。
 
 家に帰ったら、あのペン・ケースを元の場所に戻そうと思う。
 今はふたを開けずに仕舞っておこう、とわたしは思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 Good-bye our pastels badges
さようなら、僕らのパステルズ・バッヂ
     −END
 

 
【one word】
 長らく暖めていたネタとタイトルです。
 タイトルは往年の名バンド(笑)、LOLLIPOP SONIC、もとい、Flipper's Guitarの 1stに収録されている曲から。
 知ってました?最初は5人組だったんですよね、パーフリ。
 そういえば、最近、小沢くんもコーネリアスも見かけないですね。ま、SSとは関係ないですが。
 どことなく寂しい、何となく不安な、でも、きっとその奥には根拠のない期待があるような。
 そんな、甘くてちょっと苦い(笑)ストーリであればな、と思います。
 そういう意味では、坂本真綾の「オレンジ色とゆびきり」のinspireも受けているのかもしれません。
 
 HID 2000/4/19

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