此の花、咲くやあたたかい陽射しに少しだけ目を細めて、俺は遠くの桜の木々を見つめる。強い風が吹いて、次々と散る花びらが、ここからは白く見える。その様は一種、異様な美しさを持っている。白い雪に似ているようで、この世の他の何ものにも似ていないようで。いつのまにか、俺の隣に人影。「綺麗ですね」「ああ、怖いくらいにね」およそ春に相応しくない、落ち着いた調子。ひとつ年下の、戸籍上は俺の妻である、さくらが言う。「で、どうだった?」俺は腰かけていたガードレールから立ち上がりながら、彼女の顔を見ずに訊ねる。「ええ、順調だそうです」変わらない、静かな声で、彼女が答える。「そうか」「ええ」俺は、目の前の建物を見上げる。彼女が出てきた白い2階建ての建物。緑色の看板には「井上医院」と書かれた白抜きの文字。「行きましょう。真一郎さん」「うん」俺は答えながら、もう一度、桜の木々を見つめる。「ねえ、真一郎さん」「ん?」「少し遠回りして帰りませんか?」俺が大学を出るのを待たずに、俺たちは結婚をした。綺堂の家、さくらの実家は、旧家に属する一族だったから、何かと面倒があるのではないか、と俺はひそかに危惧していた。しかし、拍子抜けするほどあっさりと、俺とさくらの結婚は認められた。いや、認められたもの、と俺は思っていた。盛大な式など、学生の身分で許されるはずもなく、それでも、俺たちは近しい友だちと親類を招待して、ささやかな結婚披露のパーティーをした。高校時代の友だち、大輔や小鳥や唯子や御剣、そして、俺自身が久しぶりに顔を見る俺の両親。俺たちは、パーティーに招待するべき人達をリストにしていった。共通の友だちが多い高校時代の知り合いを除くと、さくらの招待リストに残ったのは、両親の名前だけだった。そして、その両親さえもパーティーには姿を見せなかった。パーティーの間中、俺も初めて見るくらいに明るい表情をさくらはしていた。パーティーが終わって、ふたりきりになってから、ぽつりとさくらが言った。「つまり、こういうことだったんです」「うん?」「もう私は綺堂の家とは、関係のない人間なんです」俺が何と答えていいかわからずに戸惑っていると、さくらがやさしく笑って言った。「大丈夫です。私は、あなたと普通の幸せを手に入れるために、家を出たんですから」俺が何も言わないのを確かめて、さくらが続けた。「だから、絶対に、幸せになりましょうね」そう言って、さくらは笑った。「このお店の草餅が美味しいんですよ」俺たちは、商店街の外れまでゆっくりと歩くと、古びた和菓子屋に入った。その和菓子屋の一角には、数卓のテーブルが用意されていて、買い求めた和菓子とお茶を取れるようになっていた。いちばん奥の席に向かい合わせに座る。他には、年老いた夫婦らしいふたりが、居るだけだった。俺は、草餅を切り分けるさくらの白い手を見つめていた。「そう言えば、和菓子はあんまり好きじゃなかったよな?」俺は、ふと思い当たって、さくらに訊いた。抹茶を少し飲んだ後で、軽く笑って、さくらが答えた。「あれ、本当ですね」「あれ?」「妊娠すると、嗜好が変わるっていうの」結婚してすぐに、さくらは大学を辞めた。『意味のないことをすることはない』というのが、彼女の主張だった。そして、さくらは仕事を始めた。彼女の「力」を生かす仕事。
黒い服を着た、無個性な男たちが、彼女を迎えに来ると、数日、ときには数週間、さくらは家を空けた。仕事の詳しい内容は知らなかった。けれど、仕事から帰ってきたときのさくらの憔悴は見かねる程だった。俺は、無理をして仕事をすることはないんじゃないか、とさくらに言ったことがある。彼女は答えた。「この仕事をしていると、もしかしたら、わかるかもしれない。そう思うの」「私が、こういうかたちで生を受けた意味が」俺は、大学を卒業すると、小さな出版社に入った。それは、大学時代の先輩が始めた会社で、規模は小さかったが、好きなことをやらせてもらえた。ただ、それ相応の犠牲は払わなければならなかった。一人一人の負担は必然的に増え、休みの予定は簡単に取り消された。少ない休みの日には、俺たちは、ずっとふたりで過ごした。時間の感覚が無くなるほどの間、抱き合っていることもあった。食事を採るのも忘れて、お互いを求め合うこともあった。俺たちふたりに流れる時間は、均質なものではなかった。だから、それを等価値なものにするためには、お互いの境界を無くすことしか術がないように思えた。それは、一瞬の充足を与えてくれた、けれど、その後に来るのはいつも、不安と焦燥だった。それを打ち消すために、俺たちはまた、抱き合った。商店街を抜けると、道は緩やかな上りを経て、小高い丘へと続いている。歩いていると汗ばむほどの春の午後。俺は、羽織っていた綿のハーフ・コートを脱いで、長袖のTシャツ一枚になる。隣を歩くさくらを見る。長袖の白いTシャツの上に、ベージュのジャンパー・スカート。その横顔が、以前よりも穏やかになったような、そんな気がする。「さくら」俺の声に、さくらが顔を上げる。「女の子、かもしれないな」「どうして?」「言うじゃないか。顔が穏やかになったら女の子、きつくなったら男の子って」「穏やかな顔してますか?私」俺は黙って頷く。さくらが曖昧な表情で顔を伏せる。道の両側には、桜の並木。盛りをほんの少し過ぎた桜の花が、はらはらと降りかかってくる。白い雪のように。けれど、雪とは明らかに違った質感で。「こんな道があるの知らなかったよ」俺は煩わしいほどの桜の花びらの中でさくらに言う。「真一郎さん」俺の少しうしろで立ち止まったさくらが口を開く。陰鬱ともとれるような声で。俺はさくらを振り返る。さくらは、目を伏せたままで続ける。「本当にいいの?」俺は一瞬、さくらが何のことを言っているのかわからなかった。さくらが顔を上げる、きっとした視線で俺を見つめて、言う。「本当に子供を産んでもいいの?」「何で・・・」「だって、どんな子が生まれてくるのかわからないんだよ。わたしみたいに、人の血がなければ生きていけないような子かもしれない。人を傷つけることでしか生きていけない子かもしれない」「さくら…」さくらが、首をゆっくりと横に振りながら続ける。「わたしみたいに、未来に怯えて生きなきゃいけないかもしれない。大切な人とは違う時間を生きなきゃいけないかもしれない」荒かった語気が、だんだん弱くなって、最後の方は聞き取れないくらいに小さな声で。「そんな生き方を押しつけてもいいのかな」俺はさくらの肩に手をかける。「押しつけることにはならないさ」「無責任な言い方かもしれないけれど、親の想像なんて、子供は簡単に越えていくもんだと思うよ」さくらが俺の腕をぎゅっと握る。「確かに、どういった子が産まれるのかなんて俺にもわからない」「けれど、その不安は、親になる人たち誰もが感じるものと違うとは思わないよ」「でも、私は・・・・・・」「でも、も何も無いよ」俺はさくらの言葉を遮って言う。さくらが、俺の強い言葉に驚いたように、顔を上げる。「それにな」「俺は楽しみだよ、どんな子が、どういう顔をして産まれてくるのか、そして、どんな子に育っていくのか」「早く会いたい、そう思ってるよ」さくらが小さく頷く。「ちょっと、座ろうか」俺は、道の突き当たりに見える、石段を示して言う。無言のままのさくらの手を取って、歩いて行く。急角度の石段が続く先には何があるのだろう?見上げて、そんなことを思う。ふたり、並んで石段に座る。さしもの春の陽も傾いて、風には冷たさが混じり始める頃。「桜の下には死体があるんだってさ」俺の言葉にさくらが訝しげな表情を向ける。「何かの本で読んだのか、誰かに聞いたのか、とにかく、そういう言葉があるんだって」さくらが頷く。「だから、桜の花はただ綺麗なだけじゃなくて、一種の凄味があるって、この世に思いを残した人の気持ちが籠もってるって、その言葉はそういう意味らしいんだけど」「でも、俺は違うと思う」「例えば、恋人を亡くした人とか、親を亡くした子とか、子を亡くした親とか、そういった人たちが、春ごとに咲く花に、想いを込めたんだと思う」「たとえ、姿は変わってしまっても、きっとすべてが消えてしまうわけじゃない。どんなに短い時間でも、共にした思いは絶対に消えない」「たとえ一緒に見た花と同じものではなくても、花の綺麗さは変わらない」俺は言葉を切って、さくらを見る。さくらの伏せた睫毛がかすかに震える。「そう感じることができるから、人はひとりで生まれてきて、誰かと一緒に生きて、そして、ひとりで死んでいけるんだと思う」さくらが、もう一度頷く。俺の腕を取って、ぎゅっと抱く。さくらの鼓動が腕に伝わる。「私は独りで、ずっと先まで気持ちを飛ばしてしまっていた」「あなたは隣にいるのに、いつでも、私の心はあなたを消そうとしてしまう」俺の顔を見て、寂しそうに笑う。「ねえ、憶えてる?ずっと、昔、高校生のときにあなたに言った言葉」「“同じ時は過ごせないかもしれないけど、それでもいいですか?”私はあなたにそう言った」「怯えていたのは、私の方だったね」俺は、ぎゅっとさくらを抱きしめる。「さくら」「この腕はあなたをちゃんと掴んでるのにね、私の体はあなたの命を受けとめてるのにね」さくらが、俺の胸に顔を押しつけたままで言う。時折、かすかな嗚咽が混ざる。「こんなんじゃ、生まれてくる子に笑われちゃうね」その顔を少しだけ俺の体から離して、とても淡くさくらが笑う。春の夕方はどこか寂しげで、桜の散る姿はどこか寂しげで、けれど、そんなことを気にする風もなく、桜は無表情に、白い花びらを舞い散らせ続けていた。ふたりでゆっくりと並木道を歩いて行く。俺は、脱いでいたハーフコートを着込んで、さくらは、俺の腕に自分の腕を絡めて。突然、さくらがくすりと笑う。俺は、さくらの顔を見つめる。「どうした?」「さっき真一郎さんがしてくれた桜の話」「さっきって…、ああ」「あれ、ずっと前に、私が真一郎さんに話したんですよ」わずかに笑いながら、さくらが言う。「そ、そうか」俺は、少しバツが悪くなって、さくらの顔から目を逸らす。そんな俺の態度を見て、さくらが、さらに笑う。「そんなに笑うなよ」「だって」「だって、うれしいから」「えっ?」「私の言葉が真一郎さんの中に残ってたかと思うと、本当にうれしいから」俺はさくらの顔を見る。やさしい微笑みがそこには浮かんでいた。
「ねえ、真一郎さん」「ん?」「私は、この子、男の子だと思う」「そうか?」「うん」「男の子だったら、私が名前つけてもいいかな?」「ああ、いいよ」
「名前、考えてあったりするのか?」
さくらが頷く。
「教えてくれるか」
「それはね…」此の花、咲くや−END−
HID 2000/4/8 修正 2000/4/10