それにしても、今年の冬は寒い。
 年が明けてから、太陽が姿を見せたのは数える程で、それがさらに寒さを増しているように思えた。
 もちろん、太陽が出ているから、必ず暖かい日になるというものでもない。そんなことはわかっていた。そう、それは心持ちの問題にすぎないということも。
 今日も朝から、重い雲が垂れこめていた。学校が終わる頃には、きっと雪が降り出すだろう。そして、それは明日の朝まで降りつづき、三日前に降った、今は汚れてしまった雪の上に真白なカバーをかけるだろう。
 悪くない、わたしは思った。
 悪くはない。真新しい雪に覆われた世界とともに、誕生日を迎えるのは。










メディスン











1.

 時が経つとともに、すべてが本来の場所に収まった。そんな感じがしていた。学校に行くことがあたりまえになり、特に気をつかうこともなしにお姉ちゃんと話をしたり全く話をしない日があったり、そういう風に毎日を送ることが、わたしの日常になっていた。
 祐一さんは卒業の後、この街を出てしまった。その選択を残念に思ったりもしたけれど、彼が説明してくれた選択の理由は納得のいくものだったし、ここに留まることではなく新しい場所を選んだ彼のことが少し誇りに思えた。
 だから、一晩眠れない夜を過ごした後で、わたしは彼を笑って見送ることに決めた。
 毎日会うことはできなくなってしまうけれど、それでも、わたしの中には確実に彼のための場所があり、彼の中にはわたしの場所があるはずだった。
 それさえ変わらなければ、何も問題はない。
 そんな風に、わたしは考えていた。

 誕生日の前日の夕方から始まり、今も降りつづく雪は、教室の窓から見える風景をすっかり白で覆っていた。
 わたしの席からは中庭が見えた。
 それは、彼がわたしを見つけてくれたのと同じ教室だった。幸運というほどのものではないのかもしれない。教室の割り当ては学年ごとに決まっていて、それは彼が二年生だった頃と変わっておらず、クラスの数も同じ三クラスしかないのだから。
 確率は三分の一。だからそれは、手放しで喜べるほどの幸運ではないのだろう。
 けれど、わたしはそれが嬉しかった。
 クラスが決まった日の夜、彼に電話をかけ、その物足りない反応についての長い愚痴にお姉ちゃんをつき合わせたほどに。
 今でも、嬉しいと思っている。
 いや、正確に言うと、その気持ちを持ちつづけようと努めている。



 一月の半分を過ぎた頃から、わたしは落ち着きがなくなった。なくなったらしかった。家ではお姉ちゃんやお母さんに、学校では何人かの友だちにそう指摘されたから。
 思い当たる原因。彼と離れて迎える、初めての誕生日。それが、刻々と近づいていたこと。それだけが、わたしの考えつく理由だった。
 用もないのに、課題に取り組んでいるお姉ちゃんの部屋を訪れては、彼女の大学生活についての、取り止めのない話をする機会が増えた。講義のこと、実験のこと、二年生から選択するゼミのこと。お姉ちゃんは少し迷惑そうな顔をしながら、けれど、わたしが訊ねることにきちんと答えを返してくれた。
 それにもかかわらず、本当に話したいのはこんなことじゃないのに、わたしはそんなことを思いながら、ほとんど上の空でお姉ちゃんの話を聞いていた。

「ねえ栞、知ってる?」と、お姉ちゃんは言った。彼女は最近たまに、そういったエキセントリックな話し方をする。
「何を?」
「統計によると、遠距離恋愛の七割は残念な結果に終わるんだって」
 わたしは頷いて、話のつづきを待った。遠距離恋愛という言葉は、なんだか漠然としすぎている、と思った。それは例えば宇宙旅行とかタイムスリップとかいう言葉と同じくらい、実感の湧かない言葉だった。
「一割は結婚まで至り、一割は再び近い場所で暮らすようになってから、別れる」
「気になるのは」彼女はそこで言葉を区切って、コンタクトレンズをしていないときにかけている、縁なしの眼鏡のフレームに右手で触れた。
「どうして、せっかくまた一緒に居れるようになった二人が別れてしまうのか、ってことね」
「うん」と、はっきりしない返事をしながら、わたしは考えた。
 わたしたちが、祐一さんとわたしが、再び近くで暮らす日は来るのだろうか。わたしは彼を追って(お姉ちゃんは、「追って」という発想が嫌だと、この話をするたびに言う)、彼の住む街に行くのもいいと思っている。
 でも、一方ではこの街と、この街の風景と離れて暮らすことなんてできないような気もしている。
「……思うんだけど。たぶん、距離っていうのはストレスなのよ、彼女たちにとっては。その本質は、キロメートルとかマイルとかいう数字で表せるものじゃなく、二点を移動するのにかかる時間とかでもなく、もっと曖昧なもので、だからこそ純粋なストレッサーとして作用するの。蓄積されたストレスは……」
 何と言っても、わたしはこの街に馴れすぎているから。この街にはわたしにとって、二人にとって、替えることのできないほどの思い出が、それが染みついた景色があるから。
「聞いてないわね」
 お姉ちゃんの静かな声が、わたしの思考を中断した。
「ご、ごめん」わたしは、慌てて言う。
 いいんだけどねの気持ちを表す、彼女の大げさなため息。
「ちょっと今、考え事してて……」
「今だけじゃないでしょ?」
 確かに、今だけじゃなかった。
「う、うん」
 もうひとつ、今度はさっきよりも小さなため息をついた後で、お姉ちゃんが言う。
「変えた髪型を見せたいね」
「うん」
「この前買った、ハーフ・コートも見せたいね」
「うん」
「そういえば、変わった色のリップも買ってたね」
「うん」
 わたしは、ただ相づちを打つことしかできなかった。窓の向こうで、風が強く吹いた。屋根や木々に積もった雪が、風に舞った。
「早く帰ってくるといいな」口にするつもりのなかった言葉が、風花のようにこぼれた。
「早く帰ってくるといいね」やさしい声で、彼女が言った。
 わたしは、お姉ちゃんを見て頷いた。眼鏡の向こう側、瞳のやさしい表情がいたずらっぽい光に変わった。
「こんなからかい甲斐のない妹、つまらないもの」










2.

 雪は降りつづいた。
 都合三日間、弱くなったり強くなったりしながら、雪は降りつづいていた。
 祐一さんは帰ってこなかった。
 試験が終わったらすぐ帰る、と電話で話したのは、もう一週間も前になる。誕生日には間に合わないから、と彼は言った。埋め合わせできるくらいのプレゼントを持って帰る、とそう言ってくれた。
 もう試験も終わっているはずだった。電話くらいくれてもいいのに、と何度呟いたかわからない。
 クラスの誰かが、英文を読んでいた。スチームの微かな音が、自分が確かに機能していることを控えめに主張していた。曇った窓を拭い、外を見た。そこから、中庭が見えた。わたしは、そこにたったひと組の足跡が残っていた冬のことを思った。長い時間、風に吹かれていても、寒さなんて言葉が浮かびさえしなかった、あのときの不思議な感覚を思い出そうとした。
 あの冬、この中庭を俯瞰していた人がいたなら、きっと素敵な景色を見ることができたに違いない。
 別々の方向から伸びて出会い、またそれぞれの方向に戻っていく、軌跡。
 あるいは、それはわたしたちの現在を暗示するものだったのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。






「思うんだけどね」と、お姉ちゃんは言った。こういう切り出し方をするとき、彼女はとんでもないことを言い出すことが多い。わたしは、それを経験的に学んでいた。
「恋愛感情にもプラシーボ効果があるんじゃないかな」
「スパシーボ?」
「ハラショー」
 わたしの言葉にそう応えて、彼女がにやりと笑った。
「元気になってるじゃない?」
「元気じゃないよ」わたしは応えた。
 誕生日から一週間が過ぎて、彼はまだ街に帰って来ていなかった。電話もなかったし、こちらからかけても繋がらなかった。お姉ちゃんが訊いてくれたところ、水瀬家にも何の連絡もないらしかった。
 誕生日の翌々日に雪は止み、それが合図だったかのように寒さが一層増した。空気は乾き、わたしは風邪をひいた。
「で、何の話だっけ?」油断していると襲ってくる微かな頭痛を紛らわせようと、わたしは訊ねた。
「うん、プラシーボ効果。偽薬のことをプラシーボって言うんだけどね。それが偽薬であることを知らせずに……」
 一体、彼はどうしたんだろう? 連絡が取れない状況というのは、どんなものだろう? わたしはお姉ちゃんの言葉を聞きながら、考える。
 ここに帰って来たくないのだとしたら、連絡を取りたくないのだとすれば、その原因はなんだろう? そこは居心地が良くて、古い街になんて帰ってきたいとも思わないのだろうか。あるいは、この街にあって彼と一番強く繋がっているもの。それが原因なのだろうか? だとしたら、それは一体……。
「……だから、いつも感謝の気持ちを忘れないでいれば、すべては上手くいくってことをロシア語の『ありがとう』から取って、スパシーボ効果って言うの」
気がつくと、お姉ちゃんの話は終わっていた。
「わかった?」わたしの視線を捕らえて、彼女は言った。
「うん」わたしは答えた。
「ボケたわけじゃなかったのね、さっきの」と言ったあとで、ハラショーと小さくお姉ちゃんが呟いた。









3.

 雪が降り、雪が積もり、雪が止み、雪が融け、また降った雪がその上に積もる。
 そんな風にして季節は深まり、そして過ぎてゆく。
 日曜日と祝日の間のその日、朝からまた雪が降っていた。
 わたしは頭が痛かった。学校を休もうかと思った。けれど、これぐらいで欠席なんてするものかと思い、家を出た。
 教室に着いて席に座ると、すぐに後悔した。とにかく頭が重かった。机の上に頭を載せたら、そのまま、ずぶずぶと沈んでしまうのではないかと思うくらいだった。

 気がつくと、曇ったガラスの向こうの中庭に、校舎とは逆側から足跡が伸びているのが見えた。鼓動が早くなった。制服の袖で、窓を乱暴に拭った。間の悪いことに、その途中で先生に見つかり、テキストの音読をさせられた。音読を終え、席に座り、今度は慎重に窓を拭いた。
 相変わらず雪が降っていた。真っ白な景色の中に、灰色の人影があった。ここからは、こういう風に見えるんだな、と冷静に考えた。
 わたしもあんな灰色の影だったのだろうか。どうして、彼はそんな影に興味を持ってくれたのだろうか。今すぐに、彼の顔を見たいと思った。こんな所で、こんなことを考えている場合じゃない。席を立とうとして、まだ授業中だったことを思い出した。わたしの様子に気づいて、隣の席の男の子が訝しげな表情を浮かべた。彼を寒い場所に立たせておきたくない、そう思った。思ったときにはもう、授業中の教室から廊下に飛び出していた。プレゼントは何だろう。どうして、彼は何の連絡もくれなかったのだろう。今までずっと押し込めていた思いが、とめどなく溢れてきた。人影のない授業中の廊下を、わたしは全速力で走りぬけた。
 それにしてもどうして、いきなり中庭なんかに来たんだろう。階段を一段飛ばしで、駆け下り、二階へ下りる階段で転びそうになった。けれど、階段を下りるスピードは緩めなかった。緩めることができなかった。一刻も早く、彼の姿を見たかった。その手に触れたかった。待ってたんだよ、と責めたかった。
 中庭への鉄の扉を思い切り引いた。記憶していたほどの手応えはなくて、勢い余って、また転びそうになった。彼がその姿を見て笑ったような気がした。恥ずかしくて、頬が火照るのを感じた。雪混じりの冷たい風が心地よかった。怒った顔を作ろうとしたけど、できなかった。わたしは中途半端な笑顔で彼を見た。教室から見えた、灰色の影の位置を見た。
 人影なんてどこにもなくて、白一面の雪にただ二組の足跡が残っているだけだった。
 ひざの力が抜けた。わたしは、雪の中庭に座り込んでいた。まだ、風が吹いていた。ストールの両端をぎゅっと掴んで、かき重ねた。雪なんて冷たくない。鋭い風もわたしの中までは、届かない。教室を見上げた。わたしを見つけてくれるはずの、唯一の瞳を一心に探した。その瞳には名前が在ったはずだった。とても大切な、名前が在ったはずだった。
「……なんで」
 誰かの声が聞こえた。それは、わたしの声に似ていたけれど、わたしの外から聞こえてきた。わたしは、名前を呼ぼうとした。口を開いた。けれど、わたしの声は空気を震わせることができなかった。大切な名前さえ、わたしにはわからなくなっていた。
「……電話ぐらいできな……」
 辺りを見回し、声の主を探した。けれど、冬の授業中の中庭に立ち尽くす趣味のある人間など、わたし以外にはいなかった。そして、そんなわたしに声をかけてくれるたった一人の心当たりさえ少し前に失っていたことを、わたしは唐突に思い出した。
「……熱出して寝込んで……」
 声が聞こえた。聞こえたような気がしたけれど、もうわたしはその主を探さなかった。それはわたしには関係ないことだとわかっていた。
 わたしはここでひとりぼっちで、世界のどんな繋がりからも自由だった。
 だから、わたしは、雪の冷たさを感じなかった。
 だから、わたしは、風の鋭さも平気だった。














 全身にかいた汗の感触で目が醒めた。
 電気を消した部屋。カーテン越しに差し込む微かな月明かりが、全てを青く見せていた。スチームの音が聞こえた。上半身を起こした拍子に、タオルにくるまれた保冷剤が額からベッドに落ちた。枕もとの目覚し時計を見た。二つの針が真上で重なろうとしていた。
 夢、と声を出さずに呟いた。それが本当に夢だったのか、自信が持てなかった。汗で湿った前髪をかきあげ、薄青い部屋をゆっくりと見回す。部屋の隅に、コンビニエンス・ストアの袋があるような、そんな気がした。枕もとに、真新しいカッターナイフを見つけてしまうのが怖かった。静かな夜の空気が怖かった。
 おそるおそる部屋を見回し、カッターナイフもあの日のコンビニエンス・ストアの袋もないことに、ほっとした。微かな違和感を感じ、もう一度ゆっくりと部屋を点検した。
 それは、きれいに片づけられた机の上にあった。
 わたしは、くすりと笑ってしまった。
「似合わないよ」と、口に出して言った。ふらつく足元で机に向かった。それを手に取って、匂いを嗅いだ。
「花なんて買えるようになったんだ」わたしは、彼に話しかけた。
 そして、彼が返してくれるだろう、いく通りもの軽口を想像して、そっと一人で微笑んだ。












4.

 空は久しぶりの青さを取り戻し、どこか誇らしげにわたしたちの街を覆っていた。
 その濃いブルーに、体の奥底に確かに残る清冽な空気の感触を思い出して、わたしはなんだか嬉しくなる。
 髪型を確認するために、鏡を覗く。不安なんて言葉からは一番遠い表情で、昨日まで風邪で寝込んでいたのが信じられないくらいの顔色で、よく知っているわたしがわたしを見ている。
「出かけるの?」
 気がつくと、お姉ちゃんが扉のところに立っている。
「ノックぐらいしてよ」
「ドア、開いてたわよ」
「そう?」
「そう」
 そんなやり取りの後で、わたしたちは声を合わせて笑う。
「風邪は?」お姉ちゃんが言う。
「ありがと。もう平気」
「ふーん」何かを含んだような、声音。
「何?」
「いや、結構面白いテーマかなって」
「何が?」
 お姉ちゃんが何か言おうとして、口を開きかける。
「……止めた」
「ちょっとー。気になるよー」
「気にしないで」
「気になる」
「いいから、もう出かければ」
 そう言われて、反射的に時計を見る。本当は、時間なんてわかっていたけど。
「うん、もう出かける」
「待ち合わせは?」
「15分前」
 お姉ちゃんが、おかしそうに笑う。
「外、寒いわよ」
「みたいだね」
「帰ってきた早々可哀想にね」
「大丈夫だよ」
「大丈夫なの?」
「うん、大丈夫。寒さなんて感じてられないはずだから」
 わたしが言うと、お姉ちゃんは呆れたように肩をすくめる。その横をすり抜けながら、おろし立ての紺色のハーフ・コートを羽織る。階段を勢いよく駆け下り、玄関でわたしを待っていたダークブラウンのチロリアン・シューズを履く。
「行ってきます」家中に聞こえるような声で言って、ドアノブを握る。
「栞」お姉ちゃんの声に、二階を見る。
「忘れ物」お姉ちゃんが言って、二階から新品のリップを投げてくれる。
 わたしはそれをしっかりと受け取り、想像していたとおりの冷たく心地のいい空気の中へと足を踏み出した。











END
 
 


 遅くなったけど、栞誕生日SSです。その遅れを、埋め合わせできるほどの話ではないかもしれませんが。

 2003/02/11 HID-F


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