6月の朝。梅雨が始まる前の、つかの間の青空を予感させる早朝。僕の隣には彼女が居た。僕は彼女と並んで歩いていた。
彼女は足元を見ていた。僕はぐるりと周りを見た。人影は全くなかった。
『なあ』
僕の言葉に一瞬、彼女が僕を見た。でもそれは一瞬だけで、すぐに自分の足元に視線を戻した。
『バイクで山に行くとさ、たまに雨が降ってることがある。いろんな雨。夕立みたいな激しくてすぐに降り止む雨とか、静かにいつまでも降り続く雨とか』
僕は言葉を切って彼女を見た。彼女は足元を見たままだった。
『俺は、そんな雨が好きなんだ』
彼女が小さく頷いたような気がした。
『そして、そんな雨と同じようにお前が好きだ』
ピーナッツロジック
「すごい」ひとしきり笑った後で、真顔に戻ってマリが言う。
「そうか」僕は照れながら言う。
「私、褒めてないよ」
「そうか」落胆をこめて、僕は応える。
「本当に、すごい台詞」
いつもの店にはいつものように音楽が流れている。歌の入っていないジャズ。静かなサキソフォン。いつまでも続くかのように、一定のリズムを刻むドラム。
僕たちの他には、隅の方のテーブルに若いカップルが居るだけだった。僕はマリの言葉の続きを待ちながら、この店の名前の由来でもある、テーブルに置かれた壜のピーナッツを皿にあける。
「ねえ、そのとき彼女がなんて言ったか覚えてる?」
マリが目を細めて、記憶の糸をたどるような顔で訊ねる。
「何も言わなかった」
いったい、どんな記憶を手繰り寄せているのだろう、そう思いながら僕は答える。
「じゃあ、そのとき彼女がどんな顔をしたか覚えてる?」
今度は僕が目を細める番だった。僕は記憶をたどるフリをして見せた。それが既にどこにも繋がっていないことを知りながら。
「いや、覚えてないな」
そう、と小さい声で言って、マリはグラスの酒を飲む。
香りの強いブレンデッド。僕はこの匂いを嗅ぐといつもオーストラリアの草原を思い浮かべる。僕はオーストラリアに行ったことはないし、この酒もまったくオーストラリアとは関係ないんだけど。
昔の話を、しかも他の女の子との話を女の子にするのは、別に僕の趣味ではなかった。ただ、それが誰かと親密になるための有効な手段のひとつであることは、経験的に知っていた。それは、僕にとってのソナーだった。その子が僕に対して、どのような姿勢でいるのか、上手くいく可能性はあるのか、そして僕の仕掛けに乗ってくれる傾向の女性なのか。そういったことを測るためには、昔の恋の話は打ってつけだった。
けれど、マリの反応はそれまでの誰とも異なるものだった。そして、それが僕を混乱させた。それまでの女の子の反応は、大きく二つに分かれた。「ふーん」と言った後で「いい思い出だね」とだけ述べるタイプと、根掘り葉掘り質問をした後で、何かをわかったような表情を見せるタイプ。もちろん、後者の方が壁は低い。
僕はマリと友人を介して知り合った。何かの飲み会で、友人のツテで集まっていた何人かの女の子たちの中の一人がマリだった。マリと僕は同じ大学の出身だった。けれど6年の差があったから、二人のキャンパスに対する印象は微妙に異なっていて、話が上手くかみ合わなかった。僕が学生の時にはまだ使われていた古い体育館が、マリの頃には壊された後だったり、学食のメニューが違っていたりとか、そういった細かい条件の違いが影響しているんだろう。
最初に何か強い印象を持ったわけではない。初めて会った後にマリを誘った理由は、彼女がショートカットで、僕は昔からショートカットの子が好きだったことと他の女の子がマリ以上に印象に残っていなかったことぐらいでしかなかった。
二人で食事をした最初の夜、今日と同じ店で僕はソナーを打ってみた。それは、今までの女の子達には好評なエピソードだった。学生時代の話。何人かのサークルの仲間と一緒に、一人の女の子が家に遊びに来る。僕は彼女のことを気に入っていたけれど、彼女はサークルの先輩とつき合っている。だけど、その先輩は2ヶ月前に1年間の海外留学に行ってしまっている。終電に合わせてみんなが帰る。だけど、午前2時過ぎ誰かが僕の部屋のベルを鳴らす。ドアレンズの向こうには、彼女が立っている。
そんな話。そこから始まって、そして終わった二人の話。
マリは一度も口を挟まずに、けれど退屈そうな素振りも見せずに僕の話を聞いた後で、今よりは遠慮がちな口調で、いくつかの質問をした。そして、グラス一杯分の酒が無くなる位の時間考えた後で、僕とベルを鳴らした彼女が犯した間違いを指摘し、それらの間違いから学ぶべきことを述べた。起伏に乏しい、だからと言って冷たいというわけでもない口調で。
僕にはマリがどうしてそんな反応をしたのか、わからなかった。正直、面食らったと言った方がいいかもしれない。六つも歳の離れた女の子から、あなたはある種の感情が未成熟なのではないか、と冷静に指摘される機会は、それまでの僕にはなかったから。
けれど僕はなぜか、それからも時間を見つけてはマリと食事をし酒を飲むことを続けた。そして、その度に過去の恋愛の話をした。最初の目的は薄れ、今では僕たちはケーススタディに取り組む同志のような関係になっていた。ケースを提示するのは僕だった。マリは、できるだけ公平な立場でそれを受け止めて、問題点を抽出し、課題を整理し、対策を挙げた。
今も、彼女の頭の中では、今回のケースの分析が行われていることだろう。
僕はマリの頭が回転する音を聞きながら、残り少なくなったソーダ割りを飲んだ。「君はどうして山に降る雨が好きなの?」
一語一語を確かめるように、マリが言った。
「え?」考えていなかった切り口の質問に、僕は思わず問い返した。
「山に降る雨のどんなところが好きなの?」
「どんなところ?」
「そう、理由」
僕はマリの質問をゆっくりと飲み込む。そして頭の中に山に降る雨を描こうとした。
もう長い間乗っていない記憶の中のバイクを引っ張り出し、ヘルメットを被り、グローブをはめる。エンジンをかけて、充分なアイドリング。サイドスタンドを蹴ってたたみ、アクセルを開け、クラッチを繋ぐ。
ワインディングをたどる。いくつものカーブをこなし、高度を稼いでゆく。そこには雨が降っている。幻のような淡い雨。確かめるためにスピードを緩め、ヘルメットのシールドを上げる。くすぐったい感触を、鼻先に感じる。
無意識のうちにグラスに手を伸ばし、残っていた酒を飲む。
マリは、何も言わずに僕の答えを待っている。
「気持ちがいいから、かな」僕は口を開く。
「どうして気持ちがいいの?」マリがすぐに訊ねる。
「誰もいない山道を一人でバイクで走ってる。誰もいない。すれ違う車はあっても、俺とは全然関係ない。路面が濡れているのに気づく。知らない間に雨が降り出している。冷たくもない、痛くもない。そんな雨」
マリは無言で頷く。
「峠でバイクを止めて、振り返ってみる。下の方は霧で見えない。誰も通らない道。そして、雨は静かに降っている」
「うん」
「そういう雨は気持ちがいいんだよ」
「質問の答えになってない」
マリが少し厳しい調子で言う。何度目のケースからだろう、マリの口調は次第に遠慮のないものになっていた。けれど、すぐに緩めて続ける。
「でも、感じはわかる」
「車で走っていたとしても、そういう雨を気持ちがいいと感じるのかな?」
「いや、感じないだろうな」
「そう」
再び何かを考えるように、マリが黙り込む。
テーブルの上のマリの右手が、左手の人差し指と中指をそっと撫でている。それは、彼女の癖だった。
今度はそれ程の時間を置かずに、マリが口を開いた。
「君の台詞は自分の気持ちを表現するという意味では、目的を達していると思う。けれど、自分の気持ちを伝えるという意味では、不完全だと思う」
「そして、その不完全さの原因はたぶん君にあるんだと思う」
「またしても」
「そう、またしても」
マリは頷きながら言う。
「前にも言ったと思うけど、君は状況を作るのに注力しすぎだと思う」
「どうして、その状況を望んでいたのかっていう理由や、その状況から何を得るのかという目的を考えないようにしていると思う」
「うん」
「私の言ってる事わかってる?」
「どうだろう」
「ノッキンオンザドアーのときに、君が誰かに言われた言葉」
「真摯」
「うん、『誰かのことをこれ程真摯に好きな人見たことない』っていう、あれと同じなんだよ」
ノッキンオンザドアー、それはマリによって付けられたケース名だ。
会社の後輩。可愛いと評判だった彼女に、僕は最初興味がなかった。けれど、大勢で行ったスキー旅行の夜、彼女が叩いたドアを開けたときから、僕は彼女に恋をすることになる。それからの数年で僕は彼女への気持ちを深め、関係を深め、けれどそれは結局実らなかった。その数年間、僕の生活の中心にその子がいたことは確かだった。時に彼女は僕を幸せにしてくれたし、それ以上に焦燥や落胆を味わわせてくれた。その頃、僕の周りにいた人たちにとっては、僕は「彼女のことを好きな僕」だった。つまり「彼女のことを好き」であることと「僕」は、切り離すことができないものだった。そして、そんな時代の僕に別の後輩の子が言ったのが、さっきマリが口にした言葉だった。
三回にわたるこのケースの検討の最後に、マリはこう言ってまとめた。
『君が真摯だったのは、その思いが本当の意味では相手に向かわず、閉じていたからだと思う』
しばらくの間、僕たちは黙っていた。若いカップルの笑い声が聞こえた。音楽は止まっていた。店のマスターは音を消したテレビで、NFLの試合を見ていた。
僕は振り返って、ぼんやりとその画面を見ていた。ちょうど、クォーターバックがタッチダウンパスを投げたところだった。
「例えば、君に誰か好きな人がいたとして、その人のどこが好きかを説明できないのは、どうしてだと思う?」
僕は、タッチダウンパスの成否に気を取られていて、その声に驚かされた。向き直って、けれどすぐに答えることができなかった。マリは真っ直ぐに僕を見返してくる。
「そういうのって、説明できるのか?」
マリの言葉を反芻し、やっと僕は答える。
「私はできると思うけど」
「たぶん、俺には無理だ」
「無理じゃないよ。雨と同じように、その女の子が好きだったんでしょ?」
僕はもう一度、雨のことを考えてみる。そして、あのとき、どうしてそんなことを言ったのかを考えてみる。
「確かに、無理じゃないかもしれない。けれど、それに意味があるのか?」
マリは僕を見る。さっきよりも、もっと真っ直ぐな瞳で。本当は僕の向こう側のテレビを見ているのかもしれない。タッチダウンパスは成功しただろうか?
振り返って確かめたい気持ちを抑えて、僕はマリの言葉を待つ。
でも、マリは何も言わない。僕はグラスの中、酒に浮かぶ氷を見る。それは、氷山のような形をしている。尖った、上に出ている部分よりも、沈んでいる部分の方がずっと大きい。
バーの狭い階段を昇って外に出ると、静かな冬の夜だった。
結局、マリはあれから口を開かなかった。
「で、今日はどうする?」僕は訊ねた。
何度目の誘いだろう。僕はマリを部屋に誘いつづけ、マリはそれを断りつづけていた。僕が誘いマリが断る、それは二人の間で挨拶のようになっていた。
マリは、少し迷うような表情を見せた。それは初めてのことだった。
「うん、今日はもう帰る」
「そうか」
いつもと同じやりとり。けれど、今日はマリの表情が柔らかいような気がした。僕たちは駅に向かって歩き出した。ターミナルから三つ目の私鉄の駅。時期によっては、学生達で騒がしいこの街も、今日は静かだった。
「ねえ」駅に向かう道のりの半分を過ぎたあたりで、立ち止まってマリが言った。
「さっきは笑ったけど、雨のようにっていうのはそんなに悪くないかもね」
それだけ言うと、彼女はまた歩き出す。
僕はマリの言葉に意味があるのかどうかを考えていて、置いていかれる。彼女の巻いたマフラーが、取り残された僕を誘うように揺れる。「意味はあると思うよ」
僕が隣に並ぶのを待って、マリが言う。僕はマリを見る。彼女がさっきの店での話の続きをしていることに、僕は思い至る。彼女は続ける。
「意味はあると思うけど、確かに説明するのは難しいかもしれない」
僕は頷く。けれど、彼女の言いたいことがよくわからない。
「もしかしたら」
マリが再び口を開く。僕はまた、彼女を見る。
「間違っていたら恥ずかしいんだけど、君は私のことを…、私に興味があるの?」
僕は驚いて、彼女をじっと見つめる。マリは今まで見たことのない表情をしている。
「興味がないのに誘ってると思ってた?」
「ケースの分析がしたいのかと思ってた」
僕の問い掛けに、とても意外な答えをマリがすぐに返してくれた。
「本当は少し迷ってる」
駅の改札の前で、僕に向き合ってマリが言う。
「何を?」
「君の部屋に行ってもいいんだけど。本当にそう思うんだけどね」
僕は彼女を見る。
「本当にそう思うんだけどね」
繰り返した後で、微笑みながら言う。
「私の気持ち。ずいぶん前に感じたことのある、ぼんやりとした気持ちを思い出したいと思って。あの気持ちを思い出せるのは、今日だけかなって、そう思って」
僕は黙ったまま頷いた。
「君のせいなんだよ。ある意味」
「ある意味?」
「そう、君の話がとても面白かったから」
「面白かったのか?」
「うん、面白かった」
短い沈黙。改札から出てきたスーツ姿の男が、僕たちの横を通り過ぎた。
「それは二人でいると思い出せない気持ちなのか?」
「うん、それは二人でいては思い出せないと思う」
「でもね」
「でも、それは一人では思い出せなかった気持ちでもあるんだよ」
僕は、彼女の真意が良くわからないまま頷いた。
「雨のようにっていうのはそんなに悪くないかもね」
マリがさっきの言葉を繰り返した。
「それが自分に向けられるのなら、悪くない言葉かもしれない」
「そうか」
「うん」
マリがにっこりと笑った。僕は少し居心地が悪かった。
「説明できない想いを支えているのは、そういう気持ちかもしれないなって、そう思う」早口でそう言った後で、マリは改札を抜けた。
そして、向こう側で立ち止まって、つけ加えるように言った。
「だから、おやすみ。そして、ありがとう」
一人になると風の冷たさが増したような気がした。
僕は、ついさっき見たマリの表情を思い出す。それは、彼女が初めて見せた表情だった。はにかむような何かを迷っているような。迷っているフリではなく、本当に自分の気持ちを測りかねているような、そんな表情だった。
僕はその表情をどこかで見た気がした。マリだけでなく、いろんな女の子が僕にそれを向けたことを思い出した。
それは何だったのだろう。
彼女たちは僕に何を伝えたかったんだろうか?
そして、それが伝わらなかった今、僕が彼女たちの表情を覚えていることに、思い出すことに、何か意味はあるのだろうか。
強い風が吹いた。僕は反射的にコートの襟をかき合わせた。寒さを感じるのは、一人でいるからかもしれないと、また思った。
久しぶりに、雨が降ればいいのに。
そう思いながら、僕は冬の夜空を見上げた。
END
オリジナルこんぺに出したSSを改定したものです。ようやく読み返しても恥ずかしくないくらいの時間が経ちました。「イエスタデイをうたって」を読んで、懐かしくなったのでUPします。
2007/05/10 HID-F