”Sittin' in the limbo”
 
Prelude for “Starting over”
 
 









 
 
 
 
 
 
 
いつの頃からだろう
私はただひとり
話しかける本物の言葉も持たず
人にふれる本物の手も持たず
ただこの辺土に佇む
 
 
楽園の果て
冥府との境
 
 
何ひとつ明日を映すものはない
 
 
見渡す限りの荒野
見渡す限りの暗闇
 
 
この辺土にひとりきり
 
 
 
 
 








 
――――――――――――
 







 
 
 
 
 
「お待たせ、香里」
「遅いよ、名雪」
あれっと言って、時計を見上げる。
「ごめんね、30分も遅れてるよ〜」
「まあ、私も10分くらい前に来たんだけどね」
そう言って、笑顔をつくる。
ずるいよ、香里ぃ、と口を尖らせる名雪に、
「これぐらい当然の自衛手段ね」と返す。
 
 
気がつくと、また雪が舞い出している。
肌に触れるとすぐに溶けてしまうような、軽い雪。
白く、はかないもの。
 
 
「ね、香里、急がないと始まっちゃうよ、映画」
「大丈夫よ、余裕みて待ち合わせしたから」
さすが、香里だね〜、と言った声音には、嫌味やてらいはなくて、
私は今更ながらにこの人の純粋さを感じてしまう。
 
 
ふたりで並んで、映画館に向かう。
ほんのすこしの距離だから、傘はささずに。
 
 
 
 
 








 
――――――――――――










 
 
 
 
 
 
圧倒的な質感
漆黒の雲
 
 
それは誰かの心象風景
 
 
どれほど長い時間が経とうと
どれほど強い風が吹こうと
 
 
けしてはれない重い雲
 
 
それは私の心象風景
 
 
 
 
 








 
――――――――――――









 
 
 
 
 
 
パラパラと席が埋まるくらいの客の入り。
名雪と私は真ん中の列の後ろよりに席を取る。
映画館の中は、暖房の熱気と湿気で少し空気が淀んでいる。
 
 
紺のダッフルコートを脱いで、付いていた雪を払う。
綺麗にたたんで、隣の席に置く。
「名雪、コートは?」
「うん、ありがとっ」
キャメルのコートを手渡される。
 
 
受け取るときに、手と手が触れる。
久しぶりに他人の手に触れた気がする。
あたたかい感触。
やわらかい感触。
私の中の何かを呼び覚ます、そんな感触。
 
 
「ところで、何の映画なの?」
「うんとね、天使と人間のラブストーリーだって」
 
 
軽い後悔を憶える。
今の私に一番似合わない気がする。
 
もっとも、今の私に似合う映画なんて思いつきもしないのだけれど。
 
 
ブザーが鳴って、映画館の照明がおちる。
カタカタカタという、映写機の音。
画面が出るまでの、一瞬の暗闇。
 
 
私の中から滲み出してきたような、淡い闇。
 
 
 
 
 








 
――――――――――――








 
 
 
 
 
 
「天使を見た」
とあなたは言った
 
遠い昔、幼い頃
 
 
それは形而上の天使?
 
それは熱の見せた夢?
 
それはあなたのつくりだした幻?
 
 
 
偽りの笑顔を纏い
 
偽りの心をつくり
 
それでも私は生きつづける
 
何のため?
と問うのはやめた
 
何処にいくため?
と問うのもやめた
 
 
この生に意味があるのなら
 
誰かそれを私に教えて
 
 
 
 
 







 
――――――――――――









 
 
 
 
 
 
闇は私を連れ出そうとする。
この世界から、私がかろうじて繋がっている現実から。
私をここに繋ぎ止めてくれている、この人の隣から。
 
 
喉が渇く、背筋の奥に鈍い寒気がある。
得も言われぬ不快感、スポンジでくるんだ鋭利なもので背中を撫でまわされるような、
遠回しな脅迫。
 
 
私は思わず、頭を抱える。
前の椅子の背をつかみ、眼を閉じる。
 
 
「香里、ねえ香里」
どこか、遠くから声が聞こえる。
私を現実に連れ戻してくれる、確かな声。
 
 
「香里、気分悪いの?」
ゆっくりと顔を上げる。
すぐ横に、心配そうな表情を貼り付けた名雪の顔がある。
「うん、ごめん、ちょっとね」
「外に出ようか?」
「ううん、もう大丈夫だから」
 
 
嘘だ。
早く明るい場所に行きたかった。
けれど、名雪にこれ以上心配をかけるのは嫌だった。
名雪の側を離れるのはもっと嫌だった。
 
 
「ごめんね、もう大丈夫」
そう言って、体を起こす。
背もたれに体をあずける。
「大丈夫だから、映画、見よう」
名雪に微笑みかける。
そっと眼を閉じる。
名雪に気づかれないように。
 
 
 
 
 








 
――――――――――――









 
 
 
 
 
 
「おはよっ」
 
「元気?」
 
「じゃあね」
 
「またね」
 
 
そんなあたりまえのコトバ達が私を深く切りつける
 
日常の風景達が私を深く傷つける
 
その傷口はけして塞がることはなく
 
 
私に赤い血を流させる
真っ赤な血が流れつづける
 
 
いつか私が朽ち果てる日まで
 
 
 
 
 







 
――――――――――――








 
 
 
 
 
 
私の思考は同じ場所を回りつづける。
ぐるぐると、ぐるぐると。
 
 
どうして、映画なんて見に来たんだろう?
名雪が誘ってくれたから。
 
 
どうして、この闇から逃げ出さないんだろう?
名雪が隣に座っているから。
 
 
どうして、私はここにいるんだろう?
どうして、私は闇を怖れるんだろう?
 
 
どうして、どうして、ドウシテ、ドウシテ....。
 
 
その中心に在るもの。
 
 
回りつづける独楽の芯。
 
 
それにはけして、触れないように。
 
私の思考は回りつづける。
 
 
 
 








 
 
――――――――――――
 
 









 
 
 
 
あなたの瞳が絶望に閉ざされるなら
私はそれを引き受けよう
 
 
あなたが未来を思って泣くなら
私はそれも引き受けよう
 
 
あなたが残したすべてを背負って
私はここで生きていこう
 
 
 
ただそのために生きていこう
 
 
 
だから
 
 
せめて
 
 
 







 
カナシミをすぐにこの手に








 
 
 
約束の時よ早く来て
 
 








 
 
 
 
――――――――――――








 
 
 
 
 
 
「ね、香里、ホントに大丈夫?」
心からの気遣いを湛えた瞳。
何処か遠くから聞こえてくるような人々のざわめきの中。
 
 
いつもの店。
何度となく通ったこの店の空気でさえ、今は私の肌に馴染まない。
最早、私の居場所はあそこだけなのだろうか?
暗くつめたい辺境の地。
心の中の、涯の場所。
 
 
「うん、ごめんね、大丈夫だよ」
私は笑う。
記憶を溯って、力を振り絞って、意志の力で筋肉を操って、全力の笑顔をつくる。
 
 
「映画、面白かったねえ」
「そうね」
憶えているはずもない、私が見たのは淡い闇だけ。
私の中から溢れ出した、私の中の闇の色だけ。
「わたし、最後泣きそうになっちゃったよ」
「そうね」
涙、せめて、涙を流すことができたならば。
けれど、私には何のために泣けばいいのかさえわからない。
 
 
 
 
 









 
――――――――――――









 
 
 
 
 
 
待ちつづけること
終末のときを
 
 
閉ざしつづけること
本当の心を
 
 
背を向けつづけること
本当の現実から
 
 
そのためには強さが必要
 
 
 
はじめて知った
 
 
 
絶望するにも強さがいること
 
 
 
 
 







 
――――――――――――









 
 
 
 
 
 
「ね、香里」
「なに?」
既に太陽は一日の仕事を終えて、街灯が白い暈を纏って、街を照らす頃。
人工的な白い灯りの中を、全く違う白が舞う。
羽のように、あるいは、誰かの命のように。
触れると消えてしまいそうな、はかなさで。
 
 
「明日電話するね」
名雪が笑顔で言う。
「明日?」
「うん、お楽しみなんだよ」
「お楽しみ?」
「そう、お楽しみ」
 
 
私は、少し考える。
 
 
「ねえ、名雪、今教えてくれないの?」
私の問いかけは、白い形を成して、ふたりの間に浮かぶ。
永遠に問われ続ける、生命の深淵に関する質問のように。
「今は、ダメだよ、明日のお楽しみ」
「そう」
「そうだよ」
と言って、大きく、ぎこちなく、笑う。
 
 
「だからね、香里、約束」
名雪が私の目の前に、手袋を取った小指を差し出す。
名雪の言葉も白く流れる。
 
 
街灯の白、吐息の白、そして、舞い続ける雪の白。
いろいろな白が私を包む。
 
 
「早く、指切りだよ」
黙って指を見つめる私を、名雪がうながす。
「約束だから、指切りしなきゃ」
言葉に切実なものが籠もる。
ふと、顔を見ると、真剣な表情。
 
 
「香里」
 
 
私は手袋を取り、自分の小指を名雪の指に絡める。
冷たい小指。
けれど、私のこころを落ち着かせてくれる感触。
生きている人の感触。
 
 
「約束だからね、明日電話するからね」
 
 
 
 
 
「どこにも行っちゃやだよ」
 
 
 
「香里」
 
 
 
消え入りそうな声。
 
 
 
 









 
 
――――――――――――
 
 








 
 
 
 
ばかだ
 
 
私は
ばかだね
 
 
ここが辺土?
 
 
周りを見回して
 
 
眼を凝らして
 
 
私は本当にひとりなの?
 
 
この指に残る感触は何?
 
 
こころに響く声は何?
 
 
これらが繋がる先はどこ?
 
 
私はまだここにいるのに
 
 
心を閉ざして
 
 
背を向けて
 
 
笑顔をつくって
 
 
涙を捨てて
 
 










 
そんな強さがあるのなら....
 
 
...光さえたやすく見つかるというのに...
 
 
 
 
 







 
 
 
一羽、白い鳥が飛び立つ
 
 
白い羽が暗闇に舞う
 
 
雪のように
命のように
 
 
強い風にあおられて
白い鳥が何処かへ飛び去る
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鳥がたどりつく先を
 
 
 
 
 
私は見極められるだろうか
 
 
 
 
 
 
 
 
 








 
――――――――――――

【初出】1999/8/18 Key SS掲示板

【One Word】
読んでいただいてありがとうございます。
一応、この後のSS(Starting over)で、香里は光を見い出します。
いまさら、こういう話を書く意味は、わたしにもわかりません。
ただ、自分が書きたかった、それだけかもしれません。
 
このSSを見て、つらい気持ちになられた方には謝りたいと思います。
申し訳ありませんでした。
HID


コメントをつける


戻る