私は手に持った教習カードを見つめて、ため息をつく。太い枠線で区切られた規定の教習時間を軽々と超えてしまう数のスタンプ。そんな筈はないんだけれど、自分の存在自体を否定されてるような、そんな気持ちにさせる何かが、そこにはあった。
 重く垂れ込めた雲。絡みつくような湿気のせいで髪の毛に張りが無い。エア・コンディショナーが効いているはずの建物の中にも、雨の匂いが忍びこんでいた。
『夏休みまでに免許取れるのかな』そんなことを考えながら、次の教習を予約するためにできた列に加わる。端末にたどり着くまでの待ち時間が、自分が免許を手にするために越えなければいけない道のりを象徴してるような気持ちになって、私はもう一度、深いため息をつく。





 
 
 
 
 
 
海に行くつもりじゃなかった −  青い車 replies







 
 
 
 
 
 
 
 
『よう、美坂、久し振り』
 4月の終わり、連休前のキャンパスは、新歓の時期のばか騒ぎぶりが幻であったかのような静けさだった。私は一般教養の掲示板の前で、懐かしい声に呼びとめられた。
『あら、北川くん、まじめに学校に来てるんだね』私は驚いた表情を作って彼に言う。自然に出た自分の言葉に、彼と私の距離を感じて、ちょっと懐かしいような気持ちになる。大学に入ってから知り合った友達には、まだこんな軽口を叩くことはできない。
 相変わらずだな、という風に笑った彼の見覚えのある表情が私の郷愁に拍車をかける。 こんな何でもないことでほっとしたような気持ちになるのは、まだまだ新しい環境での毎日に緊張しているからなんだな、頭の片隅でそんなことを考える。
『どうした?ボーッとしてないか』
 北川君が訝しげに言う。
『ん?ううん、ボーッとしてないわよ』
 どこかずれた答えを返してしまう。
『で、次は講義?』
『ううん、午後まで空き。だから、図書館でも行こうかなって思って』
『そうか、残念』
『えっ?』
『いや、俺、今から教習所なんだよな。それがなけりゃ、昼一緒に食べれたのにな、と思ってさ』
 彼の言葉が、天啓のように思えた。
『車の免許?』
『ああ』
『何で行くの?電車?』
『いや、すぐ近くだからな、歩き。ほら、河川敷に教習所があるだろ?』
『知らないわよ』
 彼がちょっと考える。
『そうか。美坂の家とは反対の方向だからな』
 知らないのも当然か、そう続ける。そして、腕時計を見て言う。
『俺そろそろ行くよ。じゃあ』
 軽く手を挙げて立ち去ろうとする彼を呼び止める。
『ね、北川くん』
 彼が二、三歩行って、立ち止まる。
『私も行っていいかな?教習所』
 
 
 
 
 もしかして自分には素質が無いんではないだろうか?その疑問は、わりとすぐに私に訪れた。
―――第一段階。車の基本動作を覚えましょう。
 バックするときにハンドルを切る方向で混乱した。車幅と車長の感覚が掴めなかった。アクセルとブレーキの踏み具合に呼応する車の挙動が理解できなかった。私はそこに至って、ある程度、その先に待ち受ける困難を予測した。
 
 
 大学に入って、やりたいことが二つあった。ひとつは、アルバイト。もうひとつは、車の免許を取ること。ひとつめの願いはすぐに実現した。母親の仕事先の知り合いで、家庭教師を探している人がいたから。受験を控えた、中学三年生の女の子。初めてのときには、お互い緊張したけれど、三回目に彼女の家を訪ねる頃にはその緊張も消えていた。
 彼女は私と同じくらいの背の高さで、とても頭のいい子だった。彼女は勉強中ほとんど無駄口をきかなかった。そして、それは勉強が終わってからも同じだった。最初のうち、私は彼女に嫌われていると思っていた。嫌われていないまでも、敬遠されているのだと思っていた。けれど、ある時、母親に言われた。『香里、なかなかしっかりやってるみたいね』と。どうして?と訊ねた私に、彼女は仕事先の知り合い、つまり私の教え子の母親から、『うちの子が、先生のこと褒めてたわ。教え方が上手だって』と聞いたと答えた。
 もしかしたら、ただのお世辞だったのかもしれないけれど、それを聞いてから、前にも増して、家庭教師の仕事に力が入るようになった。週に二回、彼女と会うことが楽しみになった。ときどき勉強の後にお茶をご馳走になるようになった。彼女の淹れてくれるお茶は、美味しかった。相変わらず口数は少なかったけれど、彼女の纏う雰囲気は私を拒絶していなかった。
 
 
 もう一つの願い。車の免許を取ること、の方は難航していた。
 教習所に通えば、誰でも(余程のことが無い限り)免許を取れる、というのは、もちろん知っていた。けれど、何となく、教習所に関する情報を集めるのが億劫だった。
 今思えば、それは本能的な警告だったのかもしれない。野生動物が、特に教えられなくても、天敵の匂いを怖れるように。
 けれど、私はあのとき北川くんに出会ってしまった。そして、彼の言葉に天啓を聞いてしまった。
――それは、あるいは、神を装った悪魔の囁きだったのだろうか。
 
 
 
 
「あの、空いてますよ」
 背中からかけられた言葉に、はっとして振り向くと、髪の毛をうしろで結んだ女の人が、微笑みながら、私の前の端末を示していた。
「あ、すいません」私は、小さく頭を下げて、教習所から渡された自分のI.Dカードを端末に挿し込む。画面には予約可能な時間帯が青く、すでにフル・ブックになった時間帯が赤く表示される。週末の昼間はほとんど真っ赤に染まっていた。
 それとは別に、最初の時点で振り込んだ料金で受講可能な残り時間数が、画面の右上に表示されている。それはすでに片手の指で足りるほどになっていた。私は、その数字を見て小さなため息をつきながら、手早く画面のボタンを操作する。三日先までの予約を入れる。今日何回目のため息だろう?頭の片隅で考える。
 夏休みまであと三週間。日数的にも、そして、金銭的にも私の免許は他人よりも重いものになりつつある。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「お姉ちゃん、電話だよ〜。北川さんから〜」
 階下から大きな声で栞が言う。私は、風呂上がりでまだ少し湿った髪の毛のままで、二階の廊下に置かれた子機を取る。
「こんばんは」
「おう、こんばんは」
 家からの電話だろうか、ライン越しに伝わる空気がしんとしている気がする。
「どうしたの、めずらしいわね」
 私の問いかけには答えずに、彼が少し笑いながら言う。
「てこずってるらしいな」
「え?」
「車の免許。栞ちゃんがさっき言ってた」
「そう」
 余計なことばっかり言うんだから、人の気も知らないで。私は、すっかり健康になって、それとともに、少しずつ生意気にもなりつつある妹の姿を思い浮かべながら答える。
「本気で、てこずってるみたいだな」笑いの消えた声で北川君が言う。
「どうしてそう思うの?」
「美坂の声が聞いたこと無いくらい真剣だから」
 彼の真剣な声に思わず笑ってしまう。この人はこういう人だったな。ぼんやりと考える。 他人の思いを真正面から受け止めて。けして、それから逃げる訳ではないけど、その人の気持ちをふっと一瞬、逸らせてしまう。その悩み意外見えなくなっていた人に、ちょっと立ち止まって、周りを見回す余裕を与えてくれる。そういう彼のキャラクタに、何度助けられただろう。
「ね、ホントにどうしたの?まさか、私の免許が心配で電話くれたわけじゃないでしょ?」
「あ、ああ」
 相槌を打って、ちょっと口篭もる。
「あのさ、俺、免許取ったんだよ」
「知ってるわよ。今の教習所、北川くんに教わったんだから」
 あ、そうだよな、とか何とか、よく聞き取れないことを彼が言う。一瞬の沈黙が、ラインに流れる。
「そ、それでさ、今度、ドライヴ行かないか?」
「ドライヴ?」
「あ、ああ。親父の車で悪いんだけどさ」
 誰もそんなこと聞いてないわよ、私はそんなことを思いながら、表情が緩んでいる自分に気づく。
「海でも、山でも、美坂の行きたいところでいいからさ」
「海は却下ね」
「じゃあ、山」
「そうねえー」笑いを堪えながら私は語尾を延ばす。息を詰めて私の言葉を待っている彼の表情が見える気がする。
「今はやだ」
「はっ?」
「言ったでしょ、免許取るのにてこずってるって。だから、ドライヴに行っても楽しくないと思うんだ」
「なんで?」
「だって、私がすごく困ってることを、北川くんが当り前のようにやってるの見たら、気合抜けちゃうわよ」
「それに、すごく口惜しいし」
「なんだ、それ?」
 そう言って、北川くんが笑う。
 私も、一緒になって笑う。昼間ついたため息の分、これで取り戻せたかな、ぼんやりと思う。
「だから」
「うん?」
「免許が取れたら、また誘ってね」
「あ、ああ、そうだな」
 
 
 
 
 
 
 私たちの親は二人とも働いていて、しかも、普通に土曜日と日曜日が休みの仕事ではなかったから、家族みんなで出かけることがほとんどなかった。その上、栞は子供の頃からあまり体が丈夫ではなかったから、尚更その機会は減ることになった。
 いつ頃だったろう?まだ、栞が小学校に上がる前、たぶん、それぐらいの頃に、父親の運転する車で海に行ったことがあった。
 私たちの住む街から車で数時間。今思えば、それほど遠い距離でもないんだけれど、そのときは、ずいぶん遠出のように感じたことを憶えている。
 八月の初め。夏の典型のような、青空の日。家族だけが居る狭い空間。いつもよりもやさしいお父さんとお母さん。そして、はしゃぐ栞の表情―――。
 
 その日、海に着いてから、私はちょっとしたことで栞とけんかをした。今ではその原因なんてすっかり忘れてしまったけれど、泣きだした栞に気づいた母親に怒られたことを憶えている。理由も聞かずに自分だけが怒られたこと、そして、それまでの楽しい雰囲気が一瞬で消えてしまったこと。それが悲しくて、私も泣きそうになってしまった。栞の前で泣くのが嫌で、私は駆け出した。みんなが居る場所から離れたところで、ひとりぼっちで、熱い砂に座って泣いた。波の音がずっと規則的に聞こえていた。
 
 やがて、捜しに来た父親に連れられて、私は車に戻った。帰りの車は、行きの時の華やいだ雰囲気が嘘のように静かだった。栞は疲れて、後ろの座席で母親にもたれて眠っていた。父親は、黙ったままハンドルを握っていた。時折、思い出したように煙草を吸っていた。空もすっかり曇って、今にも雨が降り出しそうだった。
 そして、それ以来、私たち家族が海に行くことはなかった。
 
―――あのとき、私たちはなぜ、けんかしたんだろう?
 
 
 
 
 
 
「お姉ちゃん」
 誰かが、私の思考を邪魔している。
「お姉ちゃんってば」
 私は、揺り起こされて初めて、自分が机に向かったまま眠ってしまっていたことに気づく。タオルを頭に巻いた栞が、紺のTシャツにカーキ色のショートパンツ姿で、私の肩を揺すっていた。
「そんなとこで寝てたら、風邪ひくよ」
「う、うん」私はまだ寝ぼけたままの頭で答える。夢の中で見た子供の頃の栞の泣き顔が目の前の栞に上手く重ならない。
「疲れてる?」タオルをほどいて、少し伸びた髪の水気を軽く叩くようにして拭き取りながら、栞が言う。
「みたいね」
「何か不機嫌だね?」
「そう。そうかな?」
「うん、何となく」
 私は、何度か頭を振って、その中に残っている波の音を追い出そうとする。つけたままだったモニタに表示された時計を見ると、まだ11時前だった。少しずつ、今日一日の記憶が甦る。
――相変わらず、自分の尊厳を脅かすような教習を受けてしまった。
――数え切れないくらいため息をついた。
――北川くんに電話でドライヴに誘われた。
 
……そういえば。
 
「栞、北川くんに余計なこと言ったでしょ」
「あ、ばれた?」小さく舌を出して栞が言う。その表情は姉の私から見てもかわいくて、普通の男の人なら、その表情だけで、たいていのことは許してしまうんじゃないかと思える程。
「あんまり余計なことばっかり言ってると、免許取っても、どこにも連れてってあげないからね」
「意地悪」
「どっちがよ」
 もう一度、今度は顔をしかめて舌を出してみせる。そして、栞は私の部屋を出ていった。
「ね、お姉ちゃん」
 部屋を出た栞が、廊下から顔だけのぞかせて言う。
「何?」私は、机の上のモニタに向かったままで答える。
「どこかに連れてってくれるのはうれしいけど、ホントに免許取れるの?」
 素早く振り返って、言い返そうとすると、もうそこには栞の姿はなかった。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「よう、美坂、久しぶり」
 夏を思わせるような、陽射しの強い日、学食で友だちと昼を食べてるときに、相沢君に声をかけられた。彼は、なぜかすっかり日に焼けて、腕も顔も真っ黒だった。
「久しぶり、最近、うちに来ないのね」相沢君と栞がつき合いだしてから、もう一年以上が経つ。
「元気か?」そう言いながら、視線で、私の隣の席を示す。私は、そこに置いた鞄を取って、彼のために席を空ける。
「ええ、まあ」
「そうか」トレイを置いて、箸を割っている。きっと、あの話題が来るな。私は身構えつつ、何とか、話を逸らそうと努力する。
「何で、そんなに焼けてるの?」
「バイト」ひと言で会話を終わらされてしまう。しばらく、彼は黙ったままで、自分のA定食に取り組んでいた。
 私は向かいに座ったクラスの友だちと当たり障りのない会話を交わす。
「そういえばさ」タイミングを見計らったように相沢君が言う。
「な、何?」
 何、慌ててるんだという顔で、彼が私を見る。
「北川が免許取ったんだってな」
「へえ、そうなんだ」遠回しに責めてきたな、そう思う。
「でさ」
「何?」
「ドライヴに行きてえーって言ってたぞ」
「え?」
「この前、久しぶりに飲みに行ったらさ、最初から最後まで、ずーっと言ってた」
「行けばいいのにね」
 相沢君が箸を止めて真面目な表情で私の顔を見る。そして、軽く頭を振る。
「哀れなヤツだな」ぼそりと呟く。
「ま、自業自得とも言うか」そう続ける。
「何、それ?」
「何でもないよ。独り言だ」
「独り言は、聞こえないように言ってよ、気になるから」
 そうするよ、と言って、再び彼はA定食に集中する。私は、取りあえず、怖れていた話題が出なかったことにホッとしていた。
 
「そう言えばさ、美坂」
 トレイを持って立ち上がった相沢君が思いだしたように言う。
「何?」
「免許、がんばれよ」
 そう言って、彼はにやりと笑って去っていった。
 
 
 
 
 
 
 継続は力。と言い出したのは誰だろうか。私はその言葉を全面的に否定したい気分だった。何度運転しても、私の感覚は四つの車輪とそれを操るハンドルに同調してくれなかった。それでも、教習の段階が進んでるのは、つまり、継続は力を地でいっているということなのだろうか。けれど、自分でも、とても運転が身についているようには思えなかった。
 その日も、一週間分ぐらいのため息と共に教習を終えて、私は教習所を後にした。教習所の自動ドアを出て、重い灰色の雲に覆われた空を見上げる。湿気の多い空気が、空を覆う雲と同じような重さでまとわりついてくる。私はまたため息をつきそうになって、それを呑み込む。そうそうため息ばかりついてもいられない。そんなことを思って。
 プァンという軽いクラクションの音。私は反射的に音のした方を振り向く。教習所の駐車場に止められた白のセダン。傍らには、こんな天気に必要とは思えないサングラスをかけた人が立っていた。
「北川くん」私はゆっくりと車に近づきながら言う。
「よ、教習終わりか?」サングラスをかけたままで、表情を緩めて北川くんが応える。
 私は頷いて、彼の後ろに止めてある車を見る。
「どうしたの?」
「ああ、今日はたまたま車が空いてたからさ、学校まで乗ってきたんだ」
「そう」
「でさ、美坂、今から何か用事あるか?」
 サングラスをかけた顔をちょっと逸らせて、北川くんが訊ねる。声色が固い。
「別に用事はないけど」
「じゃあさ」
「ドライヴ?」
「あ、ああ。いや、ちょっとその辺走ってみないかと思って」
「免許取るまでドライヴは禁止なんだけど」
「そ、そうか」声のトーンが下がる。私は笑いそうになってしまう。曇っていた空に陽が射したような気がした。
「ね、家まで送ってくれる?」
「え?」
「ちょっと遠回りするくらいの時間はあるから」
 少し考えるような間。
 そして、彼は笑いながら頷く。サングラスのせいで瞳は見えなかったけれど、きっと、レンズの奥でやさしく笑っていたに違いない。私はそう思う。
 
 
 
 
 街を出て北に向かった車は、いくつかのカーヴを辿るうちにいつのまにか小高い丘の上に出ていた。片側一車線の道路。センターラインは追い越し可能を示す白の破線。けれど、さっきから、こちらの車線には一台の車もいなかった。前にも、そして、後ろにも。
 対向車線を古びたピックアップが走っていく。荷台に積まれた青いビニールをかけられた干し草を見て、近くに牧場があるのかな、と思う。
 アスファルトは暗いグレイに染まっていた。遠くに見える森も、道路の両側に広がる草むらも、しっとりとした緑色。街を出た頃から降り出した雨。微粒子のような細かい粒で、空間にスクリーンを下ろしたように、静かな雨が降っていた。ときおりワイパーが動いて、フロントウィンドウの雨滴を拭う。キュッというゴムの音が聞こえることがある。
 彼は、今はサングラスを外して、ハンドルを握っていた。正面に向けた真剣な眼差し。私は助手席のドアに頬杖をついて、彼の横顔をぼんやりと眺める。北川くんの横顔をこんなにきちんと見たことはなかったな、そんなことを考えながら。
「運転、上手だね」彼の横顔を見たままで言う。
「そうか?」
「うん。少なくとも私よりは上手」
 彼が小さく笑う。
「驚いてるんだよ、俺」
「何が?」
「美坂にも苦手なことがあったことに」
「何それ」
「美坂って、何でもできそうな感じがするんだよな」
「私にも苦手なことくらいあるわよ」
「そりゃそうだろうけどさ」彼が、もう一度笑う。
「でもね、正直言って自分でも驚いてる」
 彼が一瞬、目線を私に向ける。私は、ちゃんと前見ててという気持ちをこめて、フロントグラスの方を指さす。彼が頷いて、視線を戻す。
「ここまで自分に向いてないことがあることに」
 笑いながら言う。彼も笑ってくれる。今日、北川くんに会えて良かったな、と頭の片隅で考える。
「だから、余計口惜しいの」
「俺が運転できることが?」
「ううん、北川くんだけじゃなくて、みんなが普通に運転してることが」
「もっとも、みんなが私みたいに運転下手だと、すごく困ると思うけど」
 二人で声を合わせて笑う。
 つらなる丘の向こうにくすんだ赤い屋根のサイロが見える。波打つような丘の稜線を這う木の柵。ずっと遠くに見える、何頭かの茶色い牛たち。彼らは今雨が降っているのに気がついているのだろうか。
 
 
 街に戻ったときには雨は上がっていた。
「じゃあ」そう言いながら、助手席のドアを開ける。
 雨が降ったおかげで、空気はひんやりとして気持ちが良かった。
「ああ、じゃあな」北川くんが応える。
「ありがとう、北川くん」
「え?」
「家まで送ってくれて」
「あ、ああ。遅くなってかえって悪かったな」
「ううん。ちょっとやる気が出たよ」
「免許?」
 彼の問いに頷く。彼が笑顔で言ってくれる。
「がんばれよ」
「うん。がんばるわ」そう言って、助手席のドアを閉じる。
 彼が軽く左手を挙げて、そして、右側にウィンカーを出して車を発進させる。
 私は彼の白い車が見えなくなるまで、家の前で見送っていた。
 
 
 
 
 お風呂上がり、まだ濡れた髪の毛をタオルで拭いながら、自分の部屋の窓の前に立つ。
 雨がまた降り出していた。
 ざあざあ、と音をたてて降る強い雨を見ながら、考える。
 そういえば、しばらく誰かを好きになったことなんてなかったな。
 この前、他人を好きになったのはいつだったろう。
 はじまりはどんな感じだったっけ。
 
―――今みたいな感じ、だったかな。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 私の通う大学は、前期の試験が夏休み明けに行われる。そのおかげで、夏休み前の時間を免許を取ることに費やすことができたのは、私にとって幸いだった。
 普通に教習が進めば、一人半くらいは免許が取れるくらいの時間と費用をかけて、私は何とかすべての教習項目をクリアすることができた。
 スケジュールはギリギリだった。用意周到な交渉の甲斐もあって、私は父親に、新車を買ってもらう約束を取り付けていた。もっとも、その交渉が成功したのは、栞の活躍に負うところが大きかった。栞を見ていると、私は思う。長女は損だな、と。
 昔からものをねだることにかけては、栞に敵う気がしなかった。
 あるいは、それは、長女とか末っ子とかそういうのに関係なく、純粋に個人の資質の問題なのかもしれないけれど。
 スケジュールの話。
 私は夏までに免許を取りたかった。けれど、それは車で学校に行きたいからというわけではなかった。実際、免許を取ったところで、車を買ってもらったところで、それ程、今の自分の生活に役立つとは思えなかった。
 それでも、車がほしかった理由。それでも、免許がほしかった理由。
 それは、本当につまらないこだわり。
 あの日、さみしい思い出になってしまった海へのドライヴ。それをやり直してみたかった。同じような夏の日に、同じように家族みんなで、あの海を訪れてみたかった。
 本当はわかっていた。そんな行為に何の意味もないこと。そして、そんなことをしなくても、現在、幸せとさえ言える毎日を送っていられることを自覚してもいた。
 でも、その願いはあまりに長い間私の中にありすぎて、すでに、私の一部になってしまっていた。だから、そんな理屈で納得させることは不可能だった。
 それに、私は興味があった。長い間に自分の一部になってしまった願い、それが叶ったときに、自分がどういう風に変わるのか、に。
 
 
 教習所を修了した以上、私に怖いものはなかった。学科試験?そんなものでつまずく私ではなかった。
 車は、青い車を選んだ。車種とか、形とかにはそれほどこだわりはなかったけれど、色だけは決めていた。夏の海には青い車こそが相応しい―――なぜかそう確信していた。だから、栞が『青い車がいい』と言ったときには、内心うれしかった。
 納車の日も栞が夏休みに入ってからに調整することができた。月曜日なら、補習もないはずだ。部活があったときは、無理やりにでも休ませようと思っていた。家族みんなで出かける前に、納車の日に海まで行って見るつもりだった。
 栞を乗せて、下見を兼ねて。
 
 
 
 
 思えば当たり前のことだったのかもしれない。教習所の中でさえ手こずっていた人間にとって、公道の方が運転が楽になる要素なんてほとんどないのだから。
 納車の日は良く晴れた暑い日だった。栞も無事確保できた。さり気なく、車を引き取った帰りにドライヴに行こう、という提案もできた。
 栞は、思いの外乗り気で、冷たい紅茶の入ったステンレスのポットまで用意してくれた。
 でも、私は車のディーラーを出てすぐに自分の目論見の甘さを思い知らされた。多くの人たちが、自分たちの行きたいところに行こうとして走っている公道は、混沌の海だった。
 それは、私にとって恐怖でしかなかった。
 走り出して最初の交差点を右折する時点で、私は悟った。二人の身の安全のためには、今日は真っ直ぐ家に帰るべきだと。
 やっとの事で家に帰り着いたときには、私は背中に冷たい汗をびっしょりとかいていた。
 狭い車庫に無事に車を入れることができる確信はなく、仕方なく家の前の私道に青い車を停めた。夕方になれば親が帰ってくるだろう、それを待った方が得策だと思えた。
 汗で湿ったブルーのポロシャツを着替えると、私は取りあえず車の無事を確認しに外へ出た。手に取れそうなほどはっきりとした輪郭を持った積乱雲。地面を焼く音が聞こえてきそうな程、強い陽射し。典型的な夏の日。海に行くにはうってつけの日。
 私は、空を見上げて、久しぶりのため息をつく。
 
 
 何度目かの見回りのために家を出て、衰えない陽射しの眩しさに目を細めながら車に向かったときに、後ろから声をかけられた。いつの間に来たのだろうそこには栞が立っていた。
「ね、お姉ちゃん、ドライヴ気分だけでも味わおうよ」栞は言った。
 私は、突然声をかけられたことに驚いてしまって、少しの間、反応できなかった。栞はにこにこと笑って私を見ている。その手に銀色のポットを抱えていることに気づいて、私も笑顔をつくる。
「仕方ない。つき合うわ」私は応える。
 ショートパンツのポケットから真新しいキーを取りだして、ロックを外す。ドアを開くと、思わず顔を背けたくなるような熱気がこぼれ出す。私は、外に立ったままでエンジンをかけると、まだ慣れないたくさんのスウィッチに戸惑いながらも、エアコンをつける。
 停めたままの車の中、栞が注いでくれた紅茶を飲む。まだ冷たい紅茶が喉を潤してくれたときに初めて、私は自分の喉がからからに渇いていたことに気づく。
「美味しいね」自分の分の紅茶を飲んだ後で、ふーっと息をついて、栞が言う。私は空になったカップを栞に差し出しながら言う。
「のどが渇いてるのも忘れてたわ」
 栞が微笑みながら、カップを受け取って、新しい紅茶を注いでくれる。
 二杯の紅茶を飲み終える頃には、車内はエアコンディショナーの作り出す、どこか乾いた冷たい空気で満たされていた。こうしている限りでは、車の中は快適だ。窓越しに照りつける太陽でさえ、私たち二人に手出しはできないだろう。


「ね、お姉ちゃん、憶えてる?」
 助手席のシートを少し倒して、私が運転の時にかけていた色の濃いサングラスをかけてくつろいだ様子の栞が言う。
「何を?」
「ずーっと前、まだわたしが小学校に上がる前に、みんなで海に行ったよね」
「うん、憶えてるわよ」そうか、栞もあの日のことを憶えていたのか。私は青い空に、白い雲を四本引きながら、飛び去る旅客機を、フロントウィンドウ越しに見ながら答える。
 飛行機の音は車の中までは聞こえてこなかった。
「あのときはごめんね」
「えっ?」
 問い返した私に、栞が真剣な表情を向ける。そして、口を開く。
「あのとき、砂浜で、お姉ちゃんがすごくきれいな貝殻を見つけたでしょ」
 そうだったかな。憶えていなかった。
「わたしが、それをすごくほしがって、泣き出しちゃって、それで、お姉ちゃんがお母さんに怒られたんだよ」
 ぼんやりと砂浜の風景が甦るような気がする。でも、そこにいる人たちはシルエットになっていて、はっきりと誰なのか判別することはできない。
「わたしのせいでお姉ちゃんが怒られてるんだ、と思うと、もっと悲しくなっちゃって、それで、いつまでも涙が止まらなくて、そんなわたしを見て、お母さんはもっとお姉ちゃんを怒ったんだよね」
「お姉ちゃん、泣きそうになってたけど、泣かなくて、怒ったみたいな顔で、どっかに走って行っちゃったんだよ」
 憶えてない?ともう一度、私の顔を見る。
 私は意外だった。自分がすっかり忘れていたけんかの原因を、栞がきちんと憶えていたことが。そして、それ以上に、その原因が自分にあると栞が思いこんでいたことが。
「そんなことあったっけ」
「うん。ごめんね、お姉ちゃん」もう一度、栞が謝る。
「謝られても困るわ、私憶えてないから」
 私の言葉を聞いて、栞が微笑む。それはどこか大人びた微笑みだった。
「だからね、わたし海行きたかったんだよ、今日」
「そう」
「うん、できたらこの夏のうちに行けるといいな、海」
「相沢君にでも連れていってもらったら」
「そうだね。でも、お姉ちゃんの運転で行くっていうのも魅力的なんだけど」
「私には、母さん達を悲しませる勇気はないわ」
 私の言葉に栞が笑う。


 太陽が積乱雲に隠される。陽射しがさっと翳る。突然、訪れた夏の日陰が私の記憶のスウィッチを押してくれる。私は一番強くしていたエアコンディショナーのスウィッチを調整しながら言う。
「ね、栞、憶えてる?あの海の後、二人で父さんの車に忍び込んだこと」
 栞がサングラスをずらして私を見る。記憶を辿るような遠い目をする。
「父さんが休みで、ちょうどこんな真夏の日だったわ。私が車のキーを持ち出して、二人で車に乗りこんだ」
「車は車庫に入ってたんだけど、中はすごく暑くて、エアコンの付け方なんかわかるはずもなくて、でも、我慢してしばらくの間二人で車の中にいたの」
 栞は何も言わずにじっと私の顔を見ている。
「なんでだろう?けんかしたから、あのドライヴをやり直したかったのかな?汗がどんどん流れるのに、我慢して二人で車の中にいた」
「思い出したよ。ちょうど今みたいに、水筒も持ち込んだんだよね」
 栞がおかしそうに言う。
「そう、水筒に何入れてたか憶えてる?」
 栞が頷く。そして、二人で声を合わせて言う。
「牛乳っ」
「あのときの牛乳は、すごくぬるくて美味しくなかったわよね」
「止めてよ、お姉ちゃん。思い出しちゃったよ」
 そうだった。
 今まで忘れていたけれど、あのドライヴのやり直しはもう済ませていたんだね。
 私は栞と声を合わせて笑いながら考える。
 そうか、じゃあ、免許なんて無理して取ることなかったのか。
 無理して、車の運転なんてすることなかったのか。
 無理して海に行く理由なんて、どこにもなかったのか。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「お姉ちゃん、早くしないと北川さん待ってるよ」
 開け放したドアを通して、階下から呼びかける栞の声が聞こえる。私は、もう一度、姿見を覗いて、うしろで纏めた髪の毛と、耳につけた小さな銀のイアリングを確かめる。
 玄関のドアを開けて外に出る。朝だというのに、太陽は少しの遠慮もなかった。目が眩むほどの陽射しに、私は眼を細める。
 眩しさに慣れた目を開くと、家の前に停められた車の前に北川くんが立っていた。
「美坂、おはよう」
「おはよう、北川くん」
 少し日焼けした北川くんが、やさしく笑っている。彼の後ろに停まっている車はこの前とは違う黄色のワゴン。
「車、買ったの?」
「ああ、中古だけどな。おかげでバイト三昧決定だ」彼が笑いながら言う。
 私も小さく笑って応える。
「ちょっと変わった黄色だね」少し色褪せたような黄色。
「ああ、サンバーン・イエローっていうらしい」
「サンバーン?」
「ああ、車の色の名前って変だよな」
 他には車の色の名前なんて知らないけれどね。私は思う。でも、きっと、この色の名前は忘れないよ。
 
 
 
 
「それで、今日はどこに連れていってくれるの?」
 彼の車の助手席に収まり、横に座った北川くんを見ながら訊ねる。やっぱり、私は自分で運転するよりも、誰かの車に乗せてもらう方が向いているな、そんなことを考える。
「山、かな」彼が、サングラスをかけながら答える。
 
「ね、北川くん」
 彼が私を見る。
「私は海に行ってみたいな」
 私は微笑みながら言う。








海に行くつもりじゃなかった −  青い車 replies

END




連作(?)「青い車」香里Ver.です。祐一、栞Ver.とあわせて読むと面白いかもしれません。
時間的にはこの話が一番古い、ということになります。
当初は、祐一、栞だけで、香里Ver.を書くつもりはなかったんですけどね。


三話あわせて読むと完璧です(何が?)


HID 5万ヒットに感謝をこめて
(2000/05/21)
改訂 2001/02/16



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