〜とても素敵な彼女のコート〜
“SHE'S IN WINTER JACKET”

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「栞、時間大丈夫なのー?」
階段の下からお姉ちゃんの声が聞こえる。
わたしはブラッシングしていた手を止めて、壁の時計を見上げる。
長針が10、短針が4の位置に届こうとしている。
ぜんぜん、大丈夫じゃなかった。
待ち合わせの時間まで、あと10分。待ち合わせ場所までは15分。
簡単な引き算。答えは明白。
 
なにが作用するのかは、わからないんだけど、わたしが遅刻するときには、彼はたいてい時間通りに来る。
そして、わたしが時間通りに待ち合わせ場所に着いたときには、彼はいつも遅れる。
それを、彼に話したことがある。「ねえ、気づいてました。祐一さん」って。
彼は、こう答えた。「相性悪いのかな俺たち」そして、にやりと笑った。
 いつもの軽口だったんだろうけど、なぜだか、わたしは悲しくなった。
本当は、彼の隣はわたしの場所ではなかったのかなって、ちょっと考えてしまった。
彼は、わたしの様子に気づいて、わたしの頭に手を置いて言ってくれた。
「ま、相性なんか悪くても、俺は気にしないけどな」って。
 
 う、物思いにふけってる場合じゃなかった。時計を見上げる。あと5分。
 階段を駆け降りる。ドアのノブに手をかけながら、「行ってきま〜す」と、居間に向かって大きな声で言う。
「栞、暖かくしていった方がいいよー」と、お姉ちゃんの声。
 ドアを開ける。すぐに閉める。靴を脱ぎ捨てて、もう一度階段を駆け登る。
 クローゼットの中から、厚手のピーコートを引っ張り出す。袖に手を通しながら、階段を駆け降りる。
 傘立てから、一番手前にあったモスグリーンの大きな傘を抜き取る。
“あ、お姉ちゃんの傘だ”そう思いながら、ドアを開ける。
冷たい風が頬に痛い。でも、今度は大丈夫。心の準備ができてたからね。
 傘を開く。ひどく重くて手に取れそうな雨が降っている。
 
 
 
 
 
 
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 風がかなり強い。真っ黒な雲が、驚くほどの早さでその形を変えている。
 わたしは早足で、待ち合わせ場所に急ぐ。いつもと同じ公園。
ちょっとこの季節には似合わない、いつもの待ち合わせ場所、わたしたちの特別な噴水の公園。
 ほとんど走るようにして公園に入る。
いつものベンチ、彼の好きな噴水の向こう側のベンチに真っ直ぐ向かう。
 噴水をぐるりと回りこむ。ベンチが視界に入る。
そこにいるものと決めつけていた彼の姿が見えない。
 冷たい雨に打たれた木製のベンチは、うずくまっている動物のような印象を与える。
“雨だもん、ここにいないのは当たり前か”
わたしの思考は、当然の帰結をみて、視線は東屋の下の濡れていないベンチへと移動する。
―――誰もいない。
 腕時計を見ようと、セーターの袖を少しめくる。時計を忘れてきたことに初めて気づく。
わたしは小さなため息をついて、東屋に向かって歩き出す。
 
 これはもしかしたら喜んでいいことなのかな。
 ふたりとも遅刻。こんなのは初めてだから。
 これなら、誰も、“相性が悪い”なんて言わないよね。
 
 手袋をしていない手が冷たい。ピーコートの、縦にカットされたポケットに手を突っ込む。
 不意に彼の暖かくて、柔らかい唇の感触が甦ってきて、照れくさくなる。
 
 屋根の下に入る。傘を畳む。雨は避けられるけれど、当然、ここでは風を避けることなんてできない。
“寒すぎて帰っちゃったのかな”背中を丸めながら、そんなことを考えて、すこし寂しくなる。
ベンチに背中をあずける。もう一度小さなため息をつく。
 
 
 
 
 
 
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「はい、美坂です」
 
「え、相沢君?」
 
「栞ならさっき、慌てて出かけたわよ」
 
「待ち合わせしてたんじゃないの?」
 
「......」
 
「ね、相沢君」
 
「栞を寂しがらせたりしないでね」
 
 
 
 
 
 
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 わたしに染み込んで来るような雨。冷たくて、我慢強くて。
こういう雨は嫌だな。そんなことをぼんやりと考える。
 ポケットに入れている手を出して、ゆっくりと頬を撫でる。
冷えきっている。でも、手でたどった顔の輪郭は確かにわたしのもので、それは、わたしを安心させてくれる。
 
 寂しいな、と思う。祐一さん、どうしたんだろう。
待ち合わせ場所間違えたかな。どこかで事故に遭ってたりしたらどうしよう。
不安はどんどん膨らんで、わたしはそれに押し潰されそうになる。
 
 ふーっと、もう、今日、何度目かもわからないため息をつく。不安な気持ちを吐き出すように。
何気なくピーコートの襟をさぐる。手に触れるクリーニング屋さんのタグ。
 軽く引っ張ると簡単に千切れる。手の中のタグには、去年の12月の日付。
 そういえば、このピーコートを着るのは、まだ二回目だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ね、ね、お姉ちゃん、これどうかな?」
 分厚い生地の、重くて、ごわごわと硬い、本格的なピーコート。
 わたしは、何かの映画で、同じようなコートを格好よく着こなしてる女の人を見て、
どうしても欲しくなってしまった。
 十一月の初旬の日曜日、体調のよかったその日、わたしはお姉ちゃんと出かけた。
学校はずっと欠席のままだったから、休みの日に外出するのは、ちょっと気が引けた。
 けど、めずらしく頭の重い痛みもなく、気分がよかったから、そして、どうしても、あの格好いいコートを着てみたかったから。
 だから、無理矢理、お姉ちゃんを引っ張って、買い物に出た。
 
「ね、栞、そのコートってホントはハーフ丈だよね?」
「う、もういいよ」
 わたしは、試着していたコートを脱いでハンガーに戻す。
自分でもわかってるよ、これじゃあ、普通の丈のコートと変わらないって。
 そんな文句を頭の中で言いながら、もっと小さいサイズを探す。
でも、試着したのより小さいサイズはその店にはなかった。
 
「栞、そんな重い本物のピーコートじゃなくても、同じデザインのレディース物にしたら」
お姉ちゃんが、ちょっと疲れの滲む声で言う。この店でもう何軒目だろう。
わたしもいい加減疲れてきていたから、付き合わされるだけのお姉ちゃんが疲れちゃうのも無理はない。
 頭ではそう思うんだけど、でも、わたしはお姉ちゃんの言葉には答えずに、もう一度、お店に並ぶピーコートのサイズのチェックをする。
 そんなわたしをしばらく見つめて、そして、お姉ちゃんは、レジの方に行ってしまう。
 怒っちゃったのかな、そう思いながら、目でお姉ちゃんを追う。
店員さんと何か話をしている。
う、お姉ちゃん、つくり笑顔がすごく眩しいよ。
 店員さんに軽く会釈をして、お姉ちゃんが戻ってくる。わたしは慌てて、コートに視線を戻す。
 
「栞、行くわよ」
「やだ、コート探すんだから」
「だから、」
わたしの手をお姉ちゃんが掴む。
「ピーコート探しに行くって言ってるの」
その声は、意外な程やさしかった。
 
 
 
 
 ふたりで出かけるのなんて、いつ以来になるだろう。
ようやくお姉ちゃんと同じ高校に入れたのに、わたしの体調は下降線をたどるばかりだった。
 そして、ある程度まで下降すると、そこで、奇妙な平衡を保つようになった。
 学校の授業に出る程良くはない。でも、日常生活を送るのに支障がある程悪くもない。
真綿でくるんだ凶器を背中に当てられているようだった。一人でいると、思考がよくない方向に向かう。
 だから、わたしはビデオを見たり、本を読んだりした。
その世界に身を沈めていれば、すこしの間は不安から逃れることができたから。
 そして、あるビデオの中で、あのコートの女性に出会った。
肩の辺りまでの黒い髪、意志の強そうな鳶色の瞳。その人が映画の中で着ていたのが、そのハーフ・コートだった。
 その映画を見た夜にお姉ちゃんに訊いてみた。
わたしの説明だけでは通じなくて、もう一度、一緒にビデオを見た。
「これ、これ、かっこいいでしょ?」
じっと、画面を見てお姉ちゃんが言った。
「ピーコートね」
「ピーコート?」
「そう、もともとは、船に乗る人用のコートだと思ったわよ」
「格好いいよねえ?」
「そうね、確かに、この人によく似合ってるかもね」
 その夜から、『ピーコート』という言葉と、それを着こなしていた女性はわたしの頭の中にキープされた。
 そして、そのコートの名前をわたしに教えてくれたのが、お姉ちゃんだったということが、なんとなくうれしかった。
 
 
「ねえ、お姉ちゃんこんなところにお店があるの?」
さっきのお店を出てから、お姉ちゃんは、道を確かめるように度々立ち止まっては、商店街の外れへと歩いてゆく。
ずっと、この街に住んでいるわたしでも、あまり足を踏み入れたことがないような場所。
「うん、たぶんこの辺だと思うんだけどね」
 お姉ちゃんが立ち止まって、あたりを見回す。そして、何かを見つけたように、しっかりとした足取りで歩き出す。
 
「ここ?」お姉ちゃんについて行った先は、狭い間口に雑然と物が置かれた店だった。
濃い緑色の変なかたちのヘルメット。金属製の何に使うかわからないような、取っ手のついた箱。
これも同じような緑色に塗られている。サンドバックみたいな形をした袋が何個も提げられている。
そして、迷彩色のブルゾンや、裾の窄まったナイロン製のパンツ。
 今までこんな店があるなんて知らなかった。もし、前を通っていたとしても、何かのお店だとは気づかなかったかもしれない。
 お姉ちゃんは、わたしがついてきているのを確認して、お店に入っていく。
ちょっと、ドキドキしながら、わたしも後に続く。それは、どことなく懐かしい感情だった。
子供の頃、お姉ちゃんに連れられて、いろんな初めての場所に行ったときのような、そんな昂揚感。
 
 お店の奥の方にいる、無精ひげを生やして縁なしの眼鏡をした、ちょっと気難しそうな人にお姉ちゃんが何か訊いている。
わたしは後ろに立って、店内を見回す。
 表から見たときにはわからなかったけど、細長くて、奥行きのある店内。
幅のない店内の両側に、たくさんの服が提げられ、作りつけの棚には見たことないような物が無造作に置いてある。
「栞」お姉ちゃんに呼ばれて我に返る。
「ほら、これ、着てみなよ」そう言って、濃紺のピーコートを差し出してくれる。
 わたしは、コートを受け取って袖を通す。硬くて、ちょっと、ううん、だいぶ着づらい。
その様子をじっと見ていたお姉ちゃんが、小さく頷く。
「鏡、なんて、ありませんよね?」店の人にお姉ちゃんが訊く。
「ないね」素っ気なく、さっきの髭の人が答える。
「サイズは、いいみたいね」わたしのことを足元から頭までと見て、お姉ちゃんが言う。
「どう、着心地は?」
 正直、着心地は良くなかった。けれど、わたしはもう決めていた。
さっき、わたしのことをゆっくりと見てくれた、お姉ちゃんの表情を目にしたときに。
 それは、本当に久しぶりに見る表情のような気がした。
小さな頃には、何度も見たことがあったのに、そして、大好きな表情だったはずなのに。
わたしは、さっき見るまで、お
姉ちゃんのその表情を忘れてしまっていた。
 
「どうする?」黙ってるわたしを見て、決めかねてると思ったのだろうか、お姉ちゃんが もう一度、訊いてくる。
「うん、これ買う」にっこりと笑う。
「そう」短く答えて、お姉ちゃんが頷く。その顔には、さっきと同じ表情。
 着心地のいいコートのように、わたしを包んでくれるやさしい表情。
 
 
 
 
 大きな袋に入ったコートを抱えて、お姉ちゃんと歩く帰り道。
かさばって、かなり重たいその袋。けれど、それはとても幸福な重さだった。
「ねえ、お姉ちゃん、もっと寒くなったら、このコート着てどっか出かけようね」
夕暮れの色に染まっているお姉ちゃんに話しかける。
「そうね、もう少し寒くなったらね」
お姉ちゃんが、やさしく笑ってこたえてくれる。
 その日が本当に楽しみだった。
“早くその日が来ればいい”と、思えたのは久しぶりだった。
 顔を上げて、前を見たのは、本当に久しぶりのことだった。
 
 
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
「悪い、栞」
 突然、すぐ後ろから話しかけられて、わたしはびくっとして振り返る。
 辺りに白い息をまき散らしながら、祐一さんが真剣な顔でわたしを見ていた。
「祐一さん」わたしはゆっくりと振り返る。
「待ったか?」真剣な表情。
 いつもは、わたしの言うことを茶化したり、ちょっとバカにしたような調子で返事をしたりするのに、
ときどき、こういう真剣な表情で、どきっとするようなことを言う。
 ずるいよ、と、思うこともあるんだけど、でもやっぱり、わたしは彼のこんな表情がうれしかった。
「ううん、平気ですよ。わたしも遅れたから」そう答えて、笑顔をつくる。
彼の頬にそっと触れる。冷えきった頬。やっと、彼が硬かった表情を崩してくれる。
「出がけに、ちょっと急用が入ってな」彼がわたしの隣に座りながら言う。
「うん」
 理由なんていいんですよ、来てくれただけで。心の中でそう呟く。
「ホント、悪かったな、こんな寒いところで待たせて」
「うん」
 いいんです。今、触れてるあなたの冷たい頬が、どんなに急いでここに来てくれたかの証だから。
 彼が頬に添えていた、わたしの手を取る。そっと包み込むようにしてくれる。
わたしの手と彼の手が、冷たい空気の中で、均等に暖まってゆく。
 それは、生あるものの温もり。わたしの根源の凍えを溶かしてくれる、わたしにとって特別な温もり。
 
 彼の空いてる方の手がゆっくりと背中に回る。そっと抱き寄せられる。その動作が途中で止まる。
 わたしは、彼の顔を見上げる。
「なあ、栞」
「はい?」
「抱き心地が良くないぞ」彼がいたずらっぽい声で言う。
「え、えっ?」わたしは少し照れながら訊く。
「ごわごわしてる」
「祐一さん、ひどいですよ」わたしは拗ねたように言い返す。
「お気に入りのコートなんですよ」
「そうか、新品なのか?」
「えっと、」
「着るの二回目です」
ふーんと言って、わたしから目を逸らして、ちょっとの間、降りつづく雨を見て。
「じゃあ、俺が柔らかくしてやろう」
そう言って笑って、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。
 雨粒がいよいよ質感を増していた。この雨には見憶えがあった。
去年の今頃、このコートを初めて着た日。その日にもこんな雨が降っていた。
 
 
 
 
 
 
 平日の午後、誰もいない家にひとりで居たわたしは、ぼんやりと外を眺めていた。
 突然、電話が鳴った。一度だけベルを鳴らしてすぐに切れた。
電話のベルが響いた後の部屋の空気は、その前とすっかり変わってしまった。
 なぜだか、とても寂しくなった。どうして誰もいてくれないんだろう、と思った。
 一度そう考えてしまうと、お父さんが、お母さんが、そして、お姉ちゃんが、それぞれの場所に行ってしまったことが、
わたしを置き去りにする行為のように思えてくる。
頭では意味のない妄想だとわかっていても、心の中の埋めようのない寂しさは、抗いようのない不安は、
大切な人達へ根拠のない攻撃を始める。
 そのまま家にいると、その妄想に押し潰されてしまいそうで、コートを着て外に出た。
お姉ちゃんと出かけるときに着ていく約束をしたコート。それを着て、ひとりで出かける
ことで、お姉ちゃんへ当てつけをしたかったのかもしれない。
 
 外に出てから、冷たい雨が降ってるのに気がついた。傘を取りに帰る気も起きなかった。
そのまま、歩きつづけた。コートの厚い生地の上に、雨滴がまとわりつく。
雨がわたしに降り注ぐ度に、体が重くなっていく。
 やがて、わたしは歩くのを諦めた。駅前のベンチにぼんやりと座り込む。
雨に濡れそぼったベンチ。通り過ぎる人達は、傘で顔を隠して、まるでわたしの事なんて見えていないように、足早に歩き去る。
まれに、わたしに目をとめる人がいても、すぐに、傘を下げて、視界を閉ざしてしまう。
――――わたしは。わたしは消え去ってゆくしかないのかな。そんなことを考える。
 いや、既にわたしは消え去りつつあるのかもしれない。
学校にも満足に通えず、どこかに出かけることもなく、少しずつ朽ちているのかもしれない。
そして、遠くない将来に、わたしの全ては朽ち果ててしまうのかもしれない。
 ぎゅっと、目を閉じる、そして、自分を抱きしめる。未だ硬いコートの生地に包まれた、細い体を確かに感じる。
 
 
「栞」
聞き間違えかと思った。わたしの名前を呼ぶ人がいるはずがないと思った。
背中に回した手にさらに力を込めた。
「栞」
 聞き間違えじゃなかった。わたしを呼ぶ声が確かにした。
目を開いた。濃い緑色の傘をさして、色のない瞳でわたしを見てるお姉ちゃんがいた。
「お姉ちゃん?」
傘もささないで...、そう言って、わたしに傘をさしかけてくれる。
 ただ凍えてゆくだけだった体の中に小さく灯る明かりが見える。
 それは、コートを買いに行った日のお姉ちゃんの表情と同じ感触をもたらす。
 それは、とても弱い光。けれど、消してしまいたくない大事な光。
「寒いよ」わたしの口から零れる言葉。
「コート着てるのに寒いよ」
 そっと、お姉ちゃんの手がわたしの頬に添えられる。
その手は驚くほど冷たくて、わたしは、ようやく我に返る。
思い至る。お姉ちゃんがどれだけの時間をかけてわたしを捜してくれたのかに。
「お姉ちゃん」そう呟いて、お姉ちゃんの顔を見上げる。
瞳には悲しみの表情が浮かんでいる気がする。そんな表情を強いている自分に憤りに似た気持ちを感じる。
結局、わたしのしていたことは、子供じみた自棄でしかないのかもしれない。そう思う。
「栞、帰ろう」凍える唇が紡ぐ。
わたしはただ頷く。頷くことしかできなかった。
 
「お姉ちゃん」
 ひとつの傘に入って、暮れはじめた家路をたどる。
 いつしか、雨滴は雪片へと変わって、静かに宵闇を舞っていた。
「ごめんね」
 黙ったままわたしを見る。
「コート着て一緒に出かけようって言ったのに」
 わたしを見つめる瞳が一瞬揺らぐ。
「謝ることないよ」
「また、出かければいいんだから」
 そう言って笑った顔は、少しだけ悲しそうだった。
 その悲しい表情の意味は、その時のわたしにはわからなかった。 
 
 
 
 
 
 
「初雪のコートなんですよ」
「初雪のコート?」彼が訝しげに訊いてくる。
 公園にほど近い、それ程広くない喫茶店。音楽が静かに流れ、コーヒーの香ばしい匂いが粒子のように漂う、落ち着いた店。
わたしと彼だけのとっておきの場所。
 抱きしめ合っていても、結局、寒さには勝てず、体を温めるためにこの店に来た。
十一月の雨の降る日曜日の午後の雰囲気が、その店にも流れていた。
 どこかもの悲しくて、でも、心の中にそっと置いておきたいような、そんな感じ。
 それを壊すのが躊躇われるような、そんな感じ。
 自然と二人の話す声も小さく、やさしく、なっていった。
 
 わたしは、あたたかいティーカップを両手で包むようにしてつづける。
「去年、どうしてもピーコートが欲しくなって、お姉ちゃんと買いに行ったんです」
 彼がコーヒーカップを口に運ぶ。そして、目で話のつづきをうながす。
「何軒も何軒もお店を回って、やっとわたしに合うサイズを見つけました」
「自分の欲しかったものを見つけることができたのがうれしくて、」
「お姉ちゃんが一緒にそれを探してくれたことが、もっとうれしくて、」
「とても、幸せな気持ちになれたんです」
 
 彼はコーヒーカップをテーブルに戻して、相変わらず黙ったままで話を聞いてくれる。
わたしはティーカップに、そっと唇をつける。微かな甘みと紅茶の香りが口に広がる。
「約束を破ったんです」
 彼の顔に疑問符が浮かぶ。
「このコート、ふたりで出かけるときに下ろすって約束したのに」
「ひとりで家にいるのが嫌で、約束を破ってコートを下ろして、出かけたんです」
「冷たい雨が降っていて、誰もわたしには気づかなくて、」
「でも、お姉ちゃんが探してくれて...」
「気がついたら、雨が雪に変わってました」
「それが、去年の初雪だったんですよ」
「それから、そのコート着なかったのか?」彼が口を開く。
「うん」
「その後、すぐ入院したから、」
「短い間だったけど、入院したんですよ」
――そして、あのクリスマスが来てしまったから。
「お姉ちゃんがコートをクリーニングに出してくれてたみたいで、」
「さっき、初めて知ったんですけどね」そう言って、笑顔をつくる。
 
 もう一度、このコートを着れたこと。
 そして、こんな話を笑ってできること。
 それらはこんなにも幸せなことだから。
 あのとき、このコートを買って良かったな、とわたしは思う。
 
 
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
「出来過ぎですよね」
喫茶店を出て、入り口の小さな屋根の下で空を見上げながら、わたしは言う。
 さっきまで降っていた重い雨滴が、今は白く固まって、宵闇の中にいくつも舞っている。
「初雪ですよ」
「“雪を喚ぶコート”だな?」彼が、面白そうに言う。
 わたしは、ちょっと笑って、こう応える。
「これから毎年、喚んでみたいですね」
 
 
 
 
「なあ、栞」
 雪が音を吸い取るかのように降る静かな宵。
ふたりで、ひとつの傘に入って歩いてゆく。彼の手の中には、わたしが持ってきた、お姉ちゃんの傘。
「はい?」彼の顔を見上げる。
「確かめなきゃな」彼が前を見たまま言う。
「えっ?」
「そのコートが本当に“初雪のコート”かどうか、」
彼がわたしに視線を移す。
「何度も何度も確かめなきゃな」
 
 わたしは、ゆっくりと微笑む。
「祐一さん、」
彼の瞳の中に、コートを着たわたしがいる。
「もちろん、一緒に確かめてくれるんですよね」
 彼の口元がゆっくりと綻ぶ。
 彼の左手が、腰に回る。
 そっと、静かに引き寄せられる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
“SHE'S IN WINTER JACKET”
END−  
 
 【初出】 1999/11/22 天國茶房 創作書房




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