雨の日には歌が聞こえる。
誰かがうたう歌。自分のうたう歌。自分に似た他人がうたう歌。
それは、どこかで聞いたことがある歌。誰もが知っているありふれた歌。
私は、それにあわせてうたおうと口を開く。
けれど、耳を澄ますほどにメロディーはぼやけ、意識を集中するほどに歌詞は意味を失う。

雨の日には歌が聞こえる。
そして、歌っているあなたが見える。









She's Rain












 電気コンロにかけたケトルをおろすと、私は慌ててベッドの中でむずがる玲(あきら)の元に駆け寄った。
 やっと慣れてきた手順で彼女の状態を確かめる。オムツに異常が無いということが、私がお湯を沸かしていた行為が無駄ではなかったことを裏付けてくれていた。
 私は抱き上げた玲の背中を軽く叩いてあやしてから、そっとベッドに寝かせると、キッチンに戻って手早くミルクの準備をした。
 すぐに再び、玲は泣き出すだろう。そして、私は彼女を抱き上げ、この手の中のミルクを与えるのだ。彼女は夢中でそれを飲み、満足した後で安らかな寝顔を見せるだろう。
 私はこれから起こるであろう、一連の流れを頭に描き、知らず知らず微笑んでる自分に気づいた。
 なぜ、私は笑うのだろう?ふと思った。
 玲が、私の思った通りの反応を見せてくれるからだろうか?
 あるいはそこには、彼女が私から生れたからだ、などという理由ともつかない理由しかないのだろうか。

 私の思索を遮るように、玲が大きな声で泣き出す。
 私は手に持った容器の温度を確めると、急いで彼女のベッドに向かった。





















『テル、聞いてよ』
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴るのを待っていたかのように、映(あきら)が私を振り返って言った。
『ん、何、また例の整備主任の話なの?』
『げ、何でわかるの?』
――それはわかるわよ。これだけ毎日、律義に愚痴をこぼされたら、鸚鵡だって憶えるんじゃないかしら?
 そんな言葉を飲みこんで、私は答えた。
『何となく、かな』
 それを聞いて映が、満面の笑顔を浮かべて言った。
『うーん、相変らずイエスだよ』
『何が?』
『テルのリアクション』
 映の言葉に思わず苦笑しながら、私は言った。
『で、毎度バッドな主任の話だね』
『そ、毎度バッドな主任の話なんだけどね』




 放課後の教室には、いつのまにか私と映以外、誰もいなくなっていた。
 薄い影のようなクラスメイトたち。同じような表情、小さくぼそぼそとした声。この教室の中では、笑い声さえ聞こえることは希だった。膠着した戦況の長期化は、いつしか人々の緊張を奪い、それと共に戦時特有の高揚感さえも奪い去っていた。
 生徒たちは、色のない眼でただ訓練をこなし、課せられた仕事を片づけているだけだった。そう、一部のイレギュラーを除いては。そして、そのようなイレギュラーを類型化し、有効に活用することが、私が携わっていた仕事の大きな目的のひとつだった。




『テル!』
『テル、聞いてる?』
 私は映の声で我に返った。
『あ、ゴメン。聞いてなかった』
『まったく…』
『バッド?』
『ちょっとバッド』
 そう言って、映が口を尖らせた。
『嘘、やっぱりイエスだよ』
 けれどすぐに表情を崩して映が言った。
『え、何で?』
『だって、人の話しも聞かないで、物思いに耽る子って、テル以外にあんまりいないじゃない』そう言って笑う。
『他の子なんて、わたしが話しかけても、聞いてるんだか、聞いてないんだか…』
…わたしが嫌われてるだけかもしれないけどね、と映が続けた。
 私は動揺を気取られないように、努めて静かな声で応えた。
『そんなことないでしょ。大げさ』
『そうかなあ』
『そうだよ』
 考え込むように、顎に右手の人差し指と中指を当てる。それは映のクセだった。私は映を見て、それから視線を窓の外に移す。相変わらずの雨が、グラウンドと、その外れにあるプレハブ校舎とテントを濡らしていた。
『そういえば』
 映が口を開いた。彼女にはめずらしい静かな口調。
『彼もそうだったかな』
『彼?』
 視線を私に向ける。こんな風に誰かの目を真っ直ぐに見る人は、この学校でも映以外にいないだろう。
『そう。魔法使い君』
『面白かったよ。わたしの言葉に反応して、くるくる表情が変わるんだもん…』
 私は自分の言葉そのままに、くるくると表情を変えて、最近出会った別の部隊の男の子のことを話す映を見ていた。そんな彼女を見ていると私の中に複雑な感情がわき上がってきた。
 それは懐かしいような、焦燥のような、何とも言い表しようのない感情だった。ただ、けして嫌なものではなかった。そして、その複雑な気持ちは、私の表情に表れたときには笑顔になっていた。私は自分の顔に手を当ててそれを確認し、そして、少なからず驚いた。
 いや、それは、つられただけだったのかもしれない。本当にうれしそうな映の笑顔に、つられただけだったかもしれない。
 だって、私の中にはオリジナルの笑顔なんてないはずだったから。そんなものは必要がないはずだったから。





















―― 報告を読む限りでは、あまり使いものにはならなそうだな。
『用途にもよると思いますが』
―― ほう、戦車兵を志願してるのか?
『はい』
―― 志願という言葉を久しぶりに聞いた気がするぞ。
『主戦派…、芝村派中では、常識と聞きますが』
―― ……その名を口にするな。
『…はい』
―― ふむ、面白い。やらせてみたまえ。
『よろしいのですか?熊本方面の脆弱な幻獣相手とはいえ、戦車兵の登録抹消率は60%を越えますが?』
―― 構わん。所詮は実験体だ。
『……』
―― どうした?
『いえ……』
―― 真野 映(てる)万翼長
『はい』
―― 情は不要だぞ。我らの目的を忘れたわけではあるまい。
『はい』
―― 黒き月が空にあるなら、それをただ仰ぎ見れば良い。幻獣が現れるのなら、それをただ受け容れれば良い。
『…それ即ち、いと高き者の意志なれば』
―― うむ。だが、まだ時間は必要だ。今のままでは幻獣との共存など不可能。
『融和のための間引きが必要』
―― そうだ。それは人類にも幻獣にも言えることだ。それまでは熊本を失うわけにはいかん。
『わかりました』





















『テール!』
 降り続く雨の午後、放課後を待ちかねたように、映が私の名を呼んだ。
 その胸には、“武”の一文字を縫い込んだ士魂徽章が誇らしげにつけられていた。
『伸ばさないで。尾みたいだから』
『は?』
『ん、何でもないわよ。良かったね。おめでとう戦車兵殿』
『は、よろしくお願いします。指令殿』
 映が真面目な顔で、古くさい敬礼を真似てみせた。


『指令って?』
『うん、テルの小隊に配属だって』
 私は思わず天井を仰ぎ見る。ただでさえ薄暗い、間引きされた蛍光燈の灯かりが、暗く重い雲のせいで、よけいに澱んで見えた。
『希望、した?』
『ううん、イエスな偶然だよ』
 その屈託のない笑顔に向かって、一度小さく頭を振ってから、私は言った。
『イエスな偶然って、知ってるの?うちの小隊がなんて呼ばれてるか』
『シケーダ・パーティでしょ?』
『意味は?』
『蝉小隊?』
『言葉の意味じゃなく』
『蝉のように儚いから』
『違うわよ』私は首を横に振って、言う。
『儚いなんてものじゃない。うちの小隊に来ると地上に出た蝉ほども生きられないって意味なのよ』
『気が利いたネーミングだよね』笑いながら映が言った。
『映!』私は自分でも驚くほどの大きな声を出していた。
『心配してくれるのはうれしいよ』映が表情は笑顔のままで、真剣な声で言った。
『テルが、わたしのことを心配してくれるのはうれしい。でも、わたしは、それ以上に自分自身で戦えるのがうれしいんだよ』
『映……』
『それに他の小隊だったら、生存率が上がるってものでもないでしょ?人型を使えるんならともかく』
『…それはそうだけど』
 映の声にあわせるように、声をおとして、自分が大きな声を出した理由もわからないままに私は言った。
『なら、わたしはテルの小隊がいいよ』
 そうなのだ。映が言う通り、小隊間の生還率の差違はコンマ数%でしかなかった。それならば、私は映が自分の小隊に配属された偶然を喜ぶべきなのかもしれなかった。それが純粋な偶然だったならば。


『ね、テル』
 黙りこんだ私の名前を映が呼んだ。
『あきらという名前はずっと嫌いだった。男の子みたいだから』
 静かな声で映が続ける。
『テルには話したよね。うちの親達が、わたしのこと男の子だと思って準備してたって話し』
 私は頷いた。
『でも、それはとても大切な名前になった』映が真っ直ぐに私を見る。その瞳には、他の人には見られない意志の光が宿っているように思えた。
『同じ名前を持つあなたに会えたから』
 映の言葉は私を混乱させた。彼女は全てを知って言っているのだろうか。そんな考えさえ浮かぶくらいに。
 いや、そんなはずがない。私は辛うじて踏み止まり、その考えを打ち消した。
『読み方は違うけどさ、同じ字なんだもん、他人とは思えないよ』
 そう言って映が笑った。雲間から差す一筋の光のように。
 私の中の暗い場所に届く、たったひとつの光のように。
 私はますます混乱する思考を何とか統御しようとした。自分にこう言い聞かせながら。
 オリジナルは私。彼女はそのコピーに過ぎない。


――少なくとも私は、そう聞かされていたのだから。






















 映が配属されてから三日目、小隊に出動命令が下りた。

『指令車より5055小隊全車。指令車より5055小隊全車。これより我が隊は、阿蘇山麓方面に展開、各小隊と協力の上で幻獣の殲滅戦を行なう』
『先行スカウトは予定作戦地域まで各車両に便乗。作戦地域に到着次第前面に展開せよ』
『スカウト了解』
『よし、全車前進』

 あれは雨の多い年だった。そして、その日も降り続いた雨の何日目かだった。
 雨がすべての日を、同じ日のように見せていた。雨が、あらゆる個性を洗い流しているようだった。




『戦車隊、予定作戦地域に到着』
『全スカウト、前面に展開。偵察活動に当たれ』
『ブルー・スカウト了解』『レッド・スカウト了解』『グリーン・スカウト了解』


 ヘッドセットをつけた耳に雑音が届いた。それは雨の降る音のようだった。無線に混じったノイズが雨の音のように聞こえるのか、指令車の車体を叩く雨の音がここまで聞こえてくるのか、それとも私の意識の中で雨が降っているのか、判断がつかなかった。
『イエロー・スカウトより入電。幻獣捕捉、データを全車に転送』
『全車データ確認せよ』
 私は腕の他目的水晶をデータの受信モードにセットした。イエロー・スカウトからのデータが、一瞬で目の前のスクリーンに展開された。幻獣の種類毎に色分けされた光点を確認しながら、私は小隊への指示を出した。
 今日のところは幻獣派独自の指令は届いていなかった。ならば、目の前の敵をできるだけ多く倒し、その上で可能な限り生還者を増やすことが指令である私の役目のはずだった。


『小隊全車。いい?正面のミノ助には5121と5199が当たるわ。突出しないように』
 私は、一際大きなグリーンの光点を数えながら言った。
『了解。ミノ助相手に95式じゃあブリキのおもちゃだもんね』
 心持ち緊張した調子の映の声が、ノイズとともに聞こえてきた。
『わかってるなら結構。今日はうちは雑魚掃除に専念できるわ』
『せっかく初陣なのに、バッドだわ』
『それだけ言えれば上等。行くわよ。映の二番車は左翼の位置、戦車隊長車、以後指示よろしく』
『二番車了解』
『隊長車了解』
『レッド・スカウトより入電。5121と5199戦闘に入ります』
『グリーン・スカウトより入電』
『何?』 
『左翼に新手の幻獣』
『新手?』
『はい。種別、数、詳細不明』
『アンノウンの幻獣群、あと5分で未避難地域に達します』
『小隊全車回頭。左翼の新手に当たれ』

 私はスクリーンに展開される各隊の配備を確認して、一瞬で判断を下し言った。
 左翼を破られると、全部隊が後ろを取られる危険性があった。それは全滅の可能性さえある程のものだった。そして、新手の幻獣群に対処できる位置にいるのは5055小隊しかなかった。

『アンノウンに…』ヘッドセットを通して、隊長車からつぶやきが聞こえた。
『全隊全速で向かえ。幻獣は未避難地域に向かっている。一部の子供が逃げ遅れている』
 私は使い古された手を使って、隊長車のためらいを断ち切ろうとした。
『二号車了解!』
『…隊長車、了解』
『全隊マーチを歌え』
『オール!ハンデット、ガンパレード。オール!ハンデットガンパレード!!』
『全隊、突撃!』

 耳障りなノイズを伴って、聞き慣れたマーチが響き出した。

『指令!』
『何?』
『5199隊長車から入電、敵は正面での実体化を解いてロスト』
『ロスト?』
『5121、一番機から入電、左方に反応』
『スカウト!』
『左、いや、正面に幻獣多数実体化……』金属が潰される聞き慣れた音と、何度聞いても慣れない最後の声が、指令車の中に満ちた。
『正面にミノ、スキュラ、多数』悲鳴に似た声。
『オール!ハンデッドガンパレード!逃げ遅れた子供たちを救出する』
 映の声がヘッドセットから聞こえた。
『全小隊退却。退け。ミノに正面から当たったらダメだ!』
『子供を救出する』
『ダメだ。二番車、戻れ』
『テル、私は子供を助けに行くよ』普段と変わらない映の声が耳元で聞こえた。
『映、戻って、映』
 大きな炸裂音が響いた。頭の中で何かが弾けたような気がした。
 そして、指令車の硬い金属を叩く雨の音だけが、穏かに車内を満たしていった。





















 それは、静かで冷たい雨の降る日だった。
 私は誰もいない教室で、眼前で繰り広げられる戦いを見ていた。
 グラウンドに降る雨。その外れにある、古びたプレハブとテントに降る雨。
 見慣れた雨の中で戦ったのは、人類と他方の決戦存在だったという。
 緊急のサイレンが学校中に鳴り響き、皆が避難したあとの教室に一人残って、私は思い出していた。
 欠片さえも残らなかった遺骨の代わりに、乗っていた戦車の小さな破片が入った桐の箱の佇まいと、色のない目でそれを受け取りに来た映の両親の姿を。背を丸め、何も言わずに箱を抱えていた彼らの表情を。
 彼らの目からは、何の感情も読み取れなかった。そう、他のみんなと同じように。そして、彼らは涙を流したりはしなかった。
 それもやはり雨の降る日だった。
 雨の中で、弔いのために飾られた黄色い花が、しっとりとした色を見せていた。


 校庭をぼんやりと見ながら、私は自問を繰り返していた。
 私は何のために戦っていたのか。幻獣を受け容れるとは、即ちどのようなことだったのか。
 それは緩慢な自殺に過ぎなかったのではないか。あるいは、それが平和を手に入れるための方策であったとして、その平和は誰のためのものだったのか。


 静かで冷たい雨の降る日、誰かと誰かの決戦存在が戦ったという。
 それを私は見たような気もする。
 暗き思いが、永久とも思われた呪縛から解き放たれる瞬間を見たような気もする。
 人々の表情に光が射し、その顔に微笑みが浮かぶのを見たような気もする。

 だが、私は知っていた。
 私の決戦存在は、そのどちらでもなかったことを。
 もう一人の、いや、無数の名もない決戦存在たちがいたことを。
 誰かが造り出した架空の世界の中で、架空の子供たちを救うために自らを省みなかった、名も知らぬ彼らのことを。
 私の世界で、私の造り出した子供たちを救うことをためらわなかった、あなたのことを。
 あなたこそは、あの子供たちにとっての決戦存在に他ならなかった。
 そしてまた、私の決戦存在に他ならなかった。








 雨の日の戦いを経て、幻獣は姿を消し、幻獣派の主立ったものは抵抗する術も無く、失脚していった。そして、失脚したのと同じくらいの数の裏切り者が次々と生れた。私と映とその他の幾体かの実験体を熊本に派遣した準竜師は、その実験の詳細な報告書を持って、早々に主戦派に下った。
 いくつかの計画は暴露され、人々は自分はいつも正しいといった顔で、それを異常な行為だと批判した。
 弱いものは常に己よりも弱いものを求める。権力を手に入れそこなったものは、跪き、ひとときの勝者の靴を舐める。そして、それさえも彼らにとっては充足感を得られる行為なのだ。
 使い古されたクリシェ。でも、それは確かに、人の本質のある側面を映している。


 そして、戦争は一応の終結をみた。
 黒い月は、依然として頭上にあったけれど、私の戦争は既に終っていた。
 私は、特に誰の気をひくことも無く軍を除隊し、除隊のときに支給された僅かばかりのお金で、熊本市内に小さな部屋を借りた。
 簡単なアルバイトを見つけて、それを始めた。アルバイトが無い日には図書館に通った。
 図書館で私は、同じ本を何度も読み返した。
 一人の少女が、誰かの作った迷宮にも似た世界に迷い込む物語。少女はそこを抜け出すために、いくつもの冒険をする。
 私はいつもそれを最後まで読めなかった。
 私には、迷宮を抜け出すことが大事なこととは思えなかったから。
 迷宮を抜け出すことで物語りが終るのが怖かったから。


 アルバイトと図書館通いの他には、出かけるあてもなかった。どこに行きたいという思いも浮かばなかった。
 けれど、ある雲の低い日、アルバイトに向かう途中で、私はどうしても阿蘇を見たくなった。仕事先に連絡することもせずに、私は阿蘇へ向かう列車に乗った。
 阿蘇に着いたときには、静かな雨が降りはじめていた。大きく口を開けた火口は、世の移り変わりなど気にする風もなく、微かな煙をたなびかせていた。それは戦いの後に戦場にたなびく、幾筋の煙に似ていた。
 私は、目の前に広がる、およそ現実とは思えないような大きな風景を見ながら、自分の中に生じた疑問と向かい合っていた。
 風で揺れる草原から、子供たちの楽しそうな声が聞こえた気がした。
 そして、心の中で彼女に話しかけている自分に気づいた。

――ねえ、映。あの子供たちを救ったのは、どの私だろう?
――ここにいる私は、どの私なんだろう?




















 特に何ごともないまま数年が過ぎ、私はアルバイト先で知り合った民間人と、黒い月をめぐる混乱が起きる直前に結婚した。
 彼は私を守るためなら何でもできる(『映、僕は君を守りたい。そのためならどんなことも厭わない』彼は本当にそう言った)と言い、その言葉通りに混乱の中、戦いに身を投じて二度と帰ってこなかった。
 けれど、彼は私の中に確かな足跡を残していた。
 新たな生命の種という、足跡を。
 そして、気がつけば私はいつのまにか迷宮を脱け出てしまっていた。


 実験体という名で、私を元に作られた複製体が何体いたのか、正確には知らない。
 あの戦争が終り、それに続く黒い月をめぐる混乱を越えた後では、最早あの実験のことを知っている者を探すことすら、困難になった。
 平和を取り戻した街の中で、すれ違う全ての人が同じ私のような気分になることがあった。
 そうかと思えば、ここにいる私の中にも私がいないと感じることもあった。
 それは誰と一緒にいても消えることの無い感情だった。私のことを、唯一のものとして守ろうとしてくれた彼といたときでさえも。
 だから私は、自分の体内から新たな生命を産み出したときにとても安心した。
 これで、全ての呪縛から放たれる。そんな気がして。
 これで、私は私になれる。そんな錯覚を覚えて。


 映以外に知っていたはずの何体かの実験体の名前すら、私は次第に思い出すことができなくなった。それどころか、私が映と会い、話し、そして、彼女がミノタウロスに潰されたときに私が初めての涙を流したということさえ、本当に起こったことかどうかわからなくなることがあった。
 けれど、雨が降っているときだけは別だった。雨が降るたびに、あの記憶は擦り切れた輪郭を浮かびあがらせ、私の中のある部分に確実に作用した。本当に起きたことだったとしても、あるいは全てが私の妄想の産物だったとしても、実は両者の間にそれ程の差は無いのだ。
 雨の日には私は確信することができた。
 様々な状況を与えられ、効率的に生き、そして、死んでいったたくさんの私たち。
 雨の降る日には、名前も知らない彼女たちの声が聞こえた。
 遠い場所で、暗い場所で、私と同じ元素で構成されていた知らない彼女たちの思念が、私に何かを伝えようとしていた。
 暗い雨の夜、その声を聞いて目が覚めると、私は自分がもう既に何度も死んでしまったような気分になった。
 そして、それはたぶん、真実だったのだ。










 玲が生まれてから、雨の作用は次第に弱くなっていった。
 それでも、今になっても、雨が降ると、私の心は微かに疼く。
 煙るような雨の向こうに、あなたの真っ直ぐな笑顔を浮かべて、その笑顔の先に在ったはずの、会ったことのないあなたの魔法使い君の姿を浮べて、私があなたに見せたはずの、ひどく不器用な笑顔を思い浮かべて、造りモノの私の心が、とても微かに、微かに疼く。
 そして、私は膝の上で、無防備な笑顔を見せる私の分身に話しかける。
 その笑顔の中に、その泣き顔の中に、わずかばかりのあなたの面影を見ながら、私は話しかけるのだ。
 悔恨と憧憬と、そして少しばかりの皮肉をこめて。
 私はあなたに話しかける。
 いつかこの肉体が朽ち、私の中身があなたの元に旅立つ日まで、私は話しかけつづけるのだ。












 雨の降る日には、あなたを思い出す。
 他の誰かのようなあなた。まるで私のようなあなた。
 思い出すあなたはいつも歌っている。
 あなたのために、そして、私のために。




















END





このゲーム、天候も乱数(?)で決まってると思うんですけど、わたしがプレイしたときは雨がすごく多かったんですよ。
雨の日の音と画像が印象的で(降り続くと雨漏りがするのには閉口しましたが)、それともうひとつの印象深いエピソードを組み合わせたら、こんな話になってしまいました。
正面からじゃなくて、こんな視点なのが自分らしいんじゃないかと思ったり、思わなかったり。

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2001/2/21


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