”小さきところに愛は宿る” 

 
 
「よっ、美坂、おはよう」
靴を履き替えている、肩までの髪の少女。
俺よりひとつ年上の同じクラスの少女。
昇降口のところで追いついた。
 
「あ、藤井くん、おはよっ。」
 
あれ、少し顔色わるいか?
 
「しっかし、お前、まっ黒だな。」
気持ちとは裏腹の言葉。
「もう、ほっといて、みんっなに言われてるんだから、」
「今日だけで、お姉ちゃんでしょ、北川さんでしょ、名雪さんでしょ、」
指を折りながら数え上げる。
「祐一さんにも、言われたのよ。」
最後の名前、そこだけ声の調子が違った。
 
「いや、そりゃあ、言うって、自分で鏡見たか?」
「うー、もう、うるさいよ、藤井。」
 
怒ってみせるとき、
拗ねてみせるとき、
俺を呼び捨てにする、
そんなときの美坂が俺は好きだった。
 
だから、そんなつもりもないのに、ついからかってしまう。
 
「それより、」
”お前、顔色よくないぞ”と続けようとして、
でも、止めた。
 
いらぬ心配だと思ったから。
俺の気のせいだと思ったから。
 
「なに?」
「なにが?」
「なにか言いかけてたよね。」
「ああ、補習始まるぞ。」
その言葉と重なるようにチャイムが鳴って、
俺たちはふたりで、教室に向かってダッシュする。
 
 

 
 
 
7月の終わり。
夏休みとはいえ、毎日のように補習があった。
ただ、午前中だけで終わるのが幸いだった。
 
きっと、他のみんなにとっては。
 
俺はできれば一日中補習をしてほしかった。
別に勉強がしたかったわけじゃないがな。
 
 
 
やっぱり少し顔色が悪いな。
 
斜め前に座る、美坂の横顔を見ながらそう思う。
 
確かに病気は快方に向かっているらしいけれど、
自分の体力と気持ちのバランスがまだ取れていないらしい。
自分では大丈夫だと思っても、体がついてきてくれない。
きっと、歯痒い思いをしてるんだろうな。
 
 




一学期だけで三回、俺は美坂を保健室に連れていった。
いつも、ギリギリまで我慢して、真っ青な顔をして、
でも、自分で保健室に行こうとしていた。
 
 
だから、俺はあいつを運んでやった。
背中におぶって、
小さな体、
軽い体、
でも、俺にはなにより重い意味を持つ体。
 
 
クラスのやつら、一部のやつらがなにか言ってるのは知っていた。
やっかみ、憶測、中傷、
そういう、つまらない感情。
 
 
誰かを貶めていないと我慢できないやつら。
そういうやつらにはあいつは格好の標的だったのだろう。
ただでさえ肩書きが多すぎたから。
 
 
『奇跡』とか、『不治の病の克服』とか、
そういった、本質をひとつも表していないただのレッテル。
 
自分の理解できないことを認めたくないやつらが貼り付けた浅薄なレッテル。
 
 
一度、面と向かってあいつにこう言った女がいた。
”そんな、いかにもつらそうな顔して、みんなの同情ひくの止めたら”と。
俺は思わずそいつに掴みかかりそうになった。
でも、あいつの強い視線で止められた。
あいつは、こう言って、その女に笑いかけた。
 
「そういう風に見えたらごめんね、
 でも気にしないでいいよ、
 わたしはあなた達に迷惑はかけないから。」
 
皮肉なところの少しもない笑顔。
つまらない同情を拒否する気高い態度。
 
 
そして、そういうやつらは俺のことを標的にし始めた。
”いつも、美坂を保健室に連れていってやるのはおかしい”
とか、そういった類の噂。
ふたりの関係を貶めるような、つまらない雑言。
 
 
ある日、放課後、あいつと一緒になったことがあった。
 
「ごめんね、藤井くん。」
あいつがあまり見たことのない神妙な表情で言った。
「わたしのせいで嫌な思いさせてるよね。」
「他人に迷惑かけないとかいって、藤井くんに迷惑かけてるよね。」
そう言って、俺の目を見た。
「ばか、つまらないこと気にするな。」
「俺に嫌な思いをさせてるのは、お前じゃないだろ。」


やわらかく声を出さずに笑って、あいつはこう言った。
 
 
「やっぱり、」
「わたしの思ったとおりだよ。」
「なにがだ?」
「藤井くんなら、絶対そう言うと思ってた。」
「本当によかったよ。」
 
 
そう言って、大きく微笑んだ。
 
 
「嫌なこと言う人はどこにでもいる、」
「そんなこと言う人はクラスのほんの一部分だよね、」
「でも、気持ちもわかるんだ、そういう人たちの、」
「きっとあの人たちはわたしのことが怖いんだと思う、」
「自分たちの”ものさし”では測れない経験をした、わたしのことが、」
 
静かな口調。
その言葉には静かな力があって、
俺はただ黙って、バカみたいに聞いているしかない。
気の利いた相槌のひとつも打てずに。
 
「そしてね、きっとなにも言わない人たちも少しはそう思ってるんだよ、」
 
「だって、もしわたしがその人達だったら、そんな人とどう接していいかわからないもの、」
 
「でもね、」
 
「でも、藤井くんは違った。」
 
「全然そんなの気にしないで、わたしに話しかけてくれた、」
 
「わたしに笑いかけてくれた、」
 
「わたしのことからかってくれた。」
 
小さな微笑みを浮かべて俺を見て。
 
「ありがとうね、藤井くん。」
 
そう言ってくれる。
 
俺は思いだした。
悲しいとき、つらいとき、
そんなとき以外でも涙が出ることを。
 
もう長い間それ以外の涙なんて流したことなかったから、
ほとんど忘れてしまっていた。
 
俺はやっとのことで、それを押しとどめた。
 
俺はうれしかった、
そして、愛しかった。
 
この小さくて、
はかなくて、
 
でも、この上なく強い少女が。
 
美坂 栞が。
 
 

 
 
 
「先生、すいません、ちょっと保健室に行って来ていいですか。」
懸命に平静を装おうとする声、
その声で俺は現実に引き戻される。
 
美坂が真っ青な顔をして、
でも、気丈に自分で歩いて、保健室に行こうとしている。
 
”またか”という、白い雰囲気と、
美坂のことを心配するような雰囲気と、
その両方の感情の居心地のわるい均衡。
 
俺は、思い切り椅子を引いて立ち上がる。
 
「先生、俺が美坂を保健室に連れて行ってきます。」
 
均衡が崩れて、教室の中のマイナスの雰囲気が勢力を強める。
 
それでも、教師は、”よし、頼んだぞ”とか何とか、よく聞き取れない口調で言ってくれる。
 
俺は、美坂を抱きかかえるようにして、廊下に出る。
”俺の方が美坂に迷惑かけてるのかもな”と思いながら、
その思いに少し苦笑しながら。
 
廊下に出てから、美坂を背中におぶる。
 
「ごめんね、藤井くん。」
小さな声が耳元で聞こえる。
あいつの吐息さえ感じ取れるような気がする。
 
「ああ、気にするな。」
「ありがとう。」
 
 
保健室の扉を開ける。
「あら、またあんた達なの?」
ぞんざいな口調、でも、やさしい雰囲気。
 
保健の先生。
27、8才で髪を無造作に短く切って、
やせた体にあまりぱっとしない白衣を羽織って。
けして、美人という造作ではないけど、笑うととても魅力的だった。
どこか、包み込んでくれるようなやわらかな笑顔。
 
俺は、この保健教師が、この学校の教師の中で一番好きだった。
 
 
 
「どうですか?」
美坂をベッドに寝かせて、ひと通り手当をして、戻ってきた先生に聞く。
 
「ああ、いつもの疲労だね、最近暑いしね。」
「そうですか。」
 
安心している俺をいたずらっぽい目で見ている。
「あんたも毎度大変だねえ。」
からかうように言って、
何と答えようかと迷っている俺に、
「ま、心配する気持ちもわかるけどね。」
少し真剣な声音で言う。
 
 
俺が教室に帰ろうとしないのを見て、聞かせてくれた先生の話。
 
 
「去年、あの子がここの試験に合格したとき、」
「入学を認めるかどうかで教職員の意見が割れたんだ、」
「実際、私から見ても、あの子の体で普通に授業についていくのは難しいと思えた、」
「あの子の両親は医者だからね、その辺のことは理解していたと思う。」
「理解していて、でも、あの子に好きにさせたんだと思う。」
 
俺のことを少し見て、ちょっと休憩をするように、ひとつ小さい息をつく。
 
「でも、ここは学校だからね、無駄なリスクを負うわけには行かない、」
「入学を認めない方向で意見がまとまりかけたんだ、」
「それで、最終的に私に、保健教諭である私に意見を求めてきた、」
「私は、やっぱり無理だと思っていた、」
「入学させない方があの子のためになると思った。」
 
もう一度言葉を切る。
視線を俺の頭の少し上の空間に向けて、
また、ゆっくりと話し出す。
 
「そんなとき、あの子の姉がここに来たんだ、」
「知ってるよね、今、3年生の、」
 
俺は頷く、香里という名前の、美坂とはちょっと違う雰囲気の、
でも、よく似た類の強さを感じさせる女の人。
 
「そして、私に頼むんだよ、”妹の入学を認めてください”って、」
「涙は流してなかったけどね、」
「でも、心の中で泣いてたんだろうね、」
「必死だったよ。」
 
一瞬の沈黙。
 
「噂では、優等生で通ってたからね、」
「ホントに驚いた、」
「いくら説明しても納得しなかった、」
 
”私が責任取りますから、なにかあったら全部、私が責任取ります。”
”この学校に来ることが、私と同じ学校に通うことが、妹の夢なんです。”
”ちっぽけな、でも、栞にとっては、私にとっては、大事な夢なんです。”
 
「そう言ってたね。」
 
「結局、あの子はほとんど学校に来れなかった。」

「あとの話は知ってるわね?」
 
俺の目を見て問いかける。
俺は少し頷く。
 
「さっきのあんたの表情見てたらね、」
 
「そんな昔のことを思い出したわ。」
 
 
 
白いついたての向こう側であいつが動く気配がする。
 
ふと、時計を見ると、もう補習も終わる時間だった。
 
俺は、あいつの様子を見ようと立ち上がりかける。
 
 
「ねえ、藤井。」

先生に呼び止められる。

「小さいところに愛は宿るよ。」
 
「えっ?」
 
「何でもないよ、いつか、あんたもわかるわよ。」
 
「はあ。」
曖昧な返事をして、美坂のところに向かう。
 
 
 
「あんたとあの子ならいつかわかるわよ。」
 
 
 
 
 
「結局、補習なんかほとんど出なかったな。」
 
夏の昼下がり、強い陽射しの下。
俺は少し美坂のことが心配で顔を見ながら言う。
 
「わたしのこと放っといてもよかったのに。」
「いやだな。」
 
すぐにそう答える。
 
「どうして?」


ちょっと真剣な眼差しで俺を見ている、あいつの瞳。

その顔色は、すっかり生気を取り戻している。
 
俺はそんなあいつの表情に安心して続ける。
 
「それはな、」
 
「補習よりも保健室の方が居心地がいいからだ。」
 
「ばか、」
 
「もう、ほんとに子供なんだから、藤井は、」
 
そう言って、俺の肩を叩く、美坂。
 
「でもな、美坂。」
真剣な口調で言う。
「なに?」
あいつもそれに合わせるように真剣になる。
 
「食うもんだけはちゃんと食えよ。」
「えっ、先生が言ってた?」
 
「いや、俺が言った。」
”どうして”っていう表情のあいつに、
「もっと育たないと、おぶってて楽しくないからな。」
 
 
ゆっくりと、
あいつの表情が、
笑顔に変わって、
 
 
「子供に言われたくないわよ。」
 
 
 
そう言って、俺の肩をやさしく叩く。
 
 
やさしく、やさしく叩いてくれる。
 
 
















【初出】 1999/8/3 天國茶房内 創作書房 【修正】 1999/8/15

【あとがきとお願い】 藤井君SS第二弾です。 
このテーマを書くには祐一より、藤井君の方がいいかなあということで。
ぜひ、感想を聞かせてください。お願いします。


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