Forestage
 
 
カーテン越しの日差しが眩しい。
朝、朝だ。
枕元の時計達を見る。時計の針はまだ目覚ましをセットした時間に届いていない。
今日も浅い眠りだった。もう何日になるだろうか。
あの知らせを聞いてからのわたしはどこかおかしい。
もうとっくに忘れたと思っていたのに。
子供の頃のつまらない思い込みだと思っていたのに。
どうしても心が騒いでしまう。そして、その心の向かう先を自分でもはかりかねている。
思い切ってベッドを出る。制服に着替えて部活に出かけよう。
“今日がいい天気で良かった”
心の中でつぶやく。
 
ドアを開けて一階への階段を降りる。
いつも通り、家の中は静かだ。この家は二人で暮らすには広すぎる。
その寂しさにももう慣れてしまったけれど。
 
リビングへのドアを開けると香ばしいコーヒーの匂いに包まれる。
「おはよう。」
キッチンにいる母に呼びかける。
「今日も早いのね。」
ちょうどできあがった料理の皿を持ってキッチンから出てきた母が言う。
「いつもこうだったら助かるわ。」
 
きっと母はわたしの気持ちの不安定さに気づいている。
そしてその原因にも。
だけどそれを口にしようとはしない。
ただ彼女はこう言ってるような気がする。
“あなたの好きなようにすればいいのよ、それはきっと間違いじゃないから”
 
「今トーストが焼けるから、ちょっと待っててね。」
ほんの少しいつもよりはしゃいでいるような口調で母が言う。
できたての料理の柔らかな湯気、コーヒーの香り、オーブントースターのタイマーの音。
いつもの朝。けれどきっと何かが始まる朝、予感。
たぶん母も同じ気持ちだったのだと思う。
 
 
気がつくと空は急に暗くなっていた。
低く、黒い、重そうな雲に覆われた、空。
「部長ー、柔軟終わりました。」
今にも雪が降り出しそうな空だ。
“朝はあんなに晴れていたのに”
「部長?」
“雪だけは降ってほしくない”
「部長!」
「えっ?」後輩の声で現実に引き戻される。
「部長、もしかして寝てました?」
「そんなわけないよ、どうしたの?」
「だから、柔軟終わりましたって、何度も言ってるのに。」
ちょっと拗ねたような口調で後輩が言う。
「そう、ごめんね、じゃあ次は50mダッシュね。」
わたしは手をたたきながら言う。
何かを断ち切るように。自分の気持ちに区切りをつけるように。
 
午前中の部活が終わる頃、雲はいよいよ低く垂れこめていた。
もう、いつ雪が降りだしてもおかしくない。
待ち合わせの時間まではまだ間があった。
「ねえ、なに下駄箱で固まってるの?」
聴き慣れた声、静かでしっかりとした。
「もしかして寝てた?」言葉の終わりには笑みが混じる。
「香里、部活だったの?」
いつの間にか隣に立っていた親友の美坂香里に言う。
「うん、もう終わったけどね。陸上も終わりでしょ?」
「うん。」
「じゃあ、お茶でも飲んでいく?久し振りだし。」
わたしはちょっとの間答えにつまる。
「あ、そうか今日は午後から用事があるって言ってたね。」
香里はすぐに思い出したように言う。
よく気がついて、気が利いていて、人当たりが良くて。
だけど、わたしと二人のときにはときどきとても寂しそうな瞳をしている。
「うん、そうだけど、まだ時間あるから大丈夫。」
「そう、じゃあ行こうか。」
「うん。」
昇降口の扉を開けると冷たい風が体を貫く。
 
カランカランッ、乾いたベルの音をたてて扉が開く。
天気のせいか、時間のせいか、いつもにぎわっている喫茶店は、
今日は一人二人の客しかいない。
 
「雪降り出しそうだね。」
窓際の席に座り、暗い空を見ながら思わず口をついて出てしまう。
「そうね、でもめずらしくもないでしょう?」
「うん、でも今日は降ってほしくなかったんだ。」
「そう?」
「うん。」
香里はそれ以上は聞かない。
ほんの少しの間。
「ご注文は?」ほんの少しの静寂を破ってウェイトレスが言う。
「私はハーブティーを。」
「じゃあわたしも。」
オーダーを繰り返しウェイトレスが去った後で香里が言う。
「今日はイチゴサンデーじゃないのね?」
「うん、今日はね。」
「めずらしいね?」
「そう?そうだね。」
 
またしばらくの間。
「お待たせしました。」
ウェイトレスがハーブティーを運んでくる。
柔らかなハーブの香りの湯気が、少し心を鎮めてくれる気がする。
「天使が降りてきそうな空。」
香里が窓の外を見ながら言う。
「なに、それ?」
「歌にあったの、”空がとても低い 天使が降りてきそうな程”って。」
そう言ってティーカップを口に運ぶ。
 
「雪は嫌なんだ。」わたしはそうつぶやくように言う。
香里はわたしの顔を見る。
「雪は嫌なの、今日だけは。」
香里はただうなずく。
しばらくの間二人は無言でお茶を飲む。
店内は静かだ。流れているBGMもまるで音楽じゃないみたいに感じる。
深く、静かな、海の底のようだった。
 
 
「私もね、」香里が言う。
「私も、白くて、冷たい雪に囲まれているのが嫌になることがある。」
そして、ときおり見せるあの寂しそうな瞳を見せる。
私には香里にかける言葉がなかった。彼女が全ての言葉を拒んでいるように思えた。
無力感、無力感だ。
まだ、知り合ったばかりの頃、香里に聞いたことがある。
「何かあったの?悲しそうな顔してるよ?」と。
香里は「ううん、別に。」とだけ答えた。
けれど寂しい瞳はそのままだった。
そして、何度目かにその瞳を見たとき、私は言葉を失ってしまった。
こんなときあいつなら、きっと何食わない顔でこう言うんだ。
”おい、なに泣きそうな顔してるんだよ”って。
そして、すべてを受け止めようとするんだ、その大きな手で。
 
「いとこの男の子が来るって言ってたよね。」
「うん。」
「同い年?」
「そう。」
「一緒に住むんだよね?」
「そうだよ。」
「大丈夫なの?」
「何が?」
「いや、気にしてないならいいんだけど。」
ふと窓の外を見ると、静かに雪が降り出している。
重く、静かに、積もってゆく、雪が。
 
「7年振りだっけ?会ってわかるの?」
「多分わかると思うよ。」
「向こうがわからなかったりしてね。」
「うん、わたし、かわいくなっちゃったからね。」
香里が首を少し傾けて柔らかく微笑む。
 
「どんな子なの?」
「うん、ちょっと変わってるよ、でも、やさしくて、強かった。」
過去形だったわたしの言葉を聞いて香里が少し怪訝そうな顔をする。
そう、わたしの中の時間は止まっているから、今はまだ過去形でしか語れないんだ。
「きっと香里とも仲良くなれると思うよ。」
「そう?」ちょっとだけ微笑んで香里が言う。
「うん。」わたしも微笑む。
 
「時間はいいの?」
わたしは、喫茶店の壁の時計を見る。
「うん、そろそろ行かなきゃ。」
「気をつけてね。」
「香里も、気をつけて帰ってね。」
香里とは反対の方へわたしは商店街を歩き出す。
もう、待ち合わせの時間を過ぎていた。
雪はいよいよ強く降っていた。
静かに、我慢強く、空を埋め尽くすように。
 
どうしても待ち合わせの場所に足が向かなかった。
わたしが長い間避けていた場所。
最初は意識的に、そして、その後の長い間は無意識に。
7年前のあの日、同じように静かに雪が降る日、止まってしまった時間。
再び動き出すことはないと思っていた時間。
どうしてこんなに心が騒ぐんだろう。もう7年も経っているのに。
わたしは見るともなく店のウィンドウからウィンドウへと歩く。
人通りの少ない商店街。
朝は晴れていたから傘を持っていない。
いつのまにか髪に、制服の肩に、雪が積もる。
 
ウィンドウに何か映った気がする。わたしのうしろを何か変わったものが通ったような。
“羽?”
振り返るとうしろには誰もいない。
左右を見回すと遠くに羽のついたリュックを背負った女の子が歩いているのを見つける。
まるで飛んでいるように、フワフワと、どこか非現実的に。
“本当に天使が降りて来たのかと思ったよ”
なぜか笑顔になってしまう。
「うん、もう行かなきゃね。」そうつぶやいて歩き出す。
なぜかうながされたような気がして。
 
きっとあいつは雪を見上げて、バカみたいに待っているんだ。どこかで雪を避けることなんて思いつきもせずに。
きっとあいつは雪の帽子をかぶっているんだ。7年前のあの日のわたしのように。
だからわたしはせめて温かい手であいつに触れよう。
そう思って、冷え切った手を暖めるために自動販売機で缶コーヒーを買う。
不思議なくらい、ためらいは消えていた。
駅前までの道を、思いきって一気に走り抜ける。
 
商店街の出口から、駅前のベンチが見える。
そこで立ち止まって、頭や肩の雪をきれいに払う。
大きく息を吸う、そしてゆっくりとはき出す。
ベンチを見る。背の高い男の子が座っている。
仕草や雰囲気が懐かしい。
「7年振りだっけ?会ってわかるの?」香里の声がよみがえる。
簡単だよ、こんな雪の中にベンチで待ち続けるヤツなんていないから。
ううん、きっとどんな人混みの中からでも見つけられるよ。
だって、わたしは、すごく、あいつのことが...。
 
ゆっくりと歩き出す。
さっきまでのためらいが嘘のように、今は早くあいつの声が聞きたい。
最初はなんて言おう。
「7年振りだよ。憶えてる?」がいいかな。
はやる心を抑えるようにゆっくりと歩く。
早くあいつの声で名前を呼んでもらいたい。
だからわたしはこう言おう。
「わたしの名前憶えてる?」って。
きっとあいつは照れ隠しのあとで呼んでくれるはずだ。
 
「名雪。」って。
 
 

 
 
 
【初出】 1999/6/9 key SS掲示板
【One Word】
初めての、生まれて初めてのSSです。
今読むと文が堅いですねえ。
でも、最後に一度だけ名雪の名前がでてくるところなんか、結構気に入ってます。
(1999/7/14)


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