『遠い声、遠いうた』

 
 
 
 
 
 
電車の心地よい揺れ。
夏の終わりの午前中。
すべてが終わるような焦燥感と、
すべてが始まるような期待感、
両方がない交ぜになる、そんな不思議な夏休みの終わりの頃。
 
「海ですよ、祐一さん。」
その横顔に夏の色を焼きつけた少女が列車の窓の外を指して言う。
 
「わたし、海って久しぶりです。」
 
「うれしいです、海に来れて。」
 
「俺と来れて?」
 
「はい。」
 
こぼれるような笑顔。
 
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「祐一さん、明日海に行きましょう。」
 
昨日の夜の唐突な誘い。
 
「いや、俺、今夜バイトだからな、明日はちょっとつらいな。」
 
「でも、明日を逃したら、今年は行けないですよ、海。」
 
「ね、祐一さん、お弁当作りますから。」
「海に着いたら眠ってていいですから。」
「えっと、わたしが膝枕しますから。」
 
「栞、」
 
「はい?」
 
「その辺で誰か聞いてないか?」
 
「はい?」
 
「お前、家からだろ、”膝枕”とか言っていいのか?」
 
「わ、」
どんな表情をしているのか容易に想像がつく。
大きな目を丸くして、少し頬を染めて、周りを見回しているんだ、きっとな。
 
「えーっと、大丈夫でした。」
心底ホッとした声でそう言う。
 
「うーん、弁当と膝枕か?」
「えっ、それだけじゃ駄目ですか?」
「もうひと声だな。」
 
沈黙、きっと、もっと赤くなってるな。
 
「栞、」
 
「しおり、」
 
「はい?」
 
「後ろから抱いててくれるか?俺が眠ってるあいだ。」
 
「えっ?海でですか。」
 
「ああ。」
 
逡巡の沈黙。
 
「明日を逃したら来年までお預けだなあ、海。」
「きっと、明日はいい天気で、海日和だな。」
「今頃の海は空いてるし...。」
 
「えっと、わかりました。」
 
「えっ?」
 
「お弁当と...でいいです。」
小さな声、遠くから聞こえるような声。
 
「よし、決まりだな。」
 
「もう、祐一さん、ずるいですよ。」
少し責めるような声。
でも、少しだけうれしそうな声。
 
たくさんの小さなわがまま。
たくさんの小さな甘え。
 
ほんの少し遠慮がなくなって、
ほんの少しだけ図々しくなって、
 
でも、それはふたりの距離が近づいた証拠。
 
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「えっと、この辺でいいですか?」
砂浜に沿って広がる松林。
そのごつごつとした根元にやっとふたりで座れるだけの場所を見つける。
「ああ、ここだと日陰だし、海も見えるしな。」
 
夏の終わりの平日の海、
海の家はとっくに店じまいを済ませ、
海岸には手ですくい取るようにして、
小さな波に乗ろうとする数人のサーファーがいるだけ。
 
白いリボンのついた大きな麦わら帽子。
くすんだオレンジ色のTシャツに茶色いコットンのショート・パンツ。
焼けた肌にオレンジ色がよく似合っている。
 
「栞、お前、また焼けただろ。」
「う、この前の土曜日に庭の芝生掃除をやらされたんです。」
「やっと、色が落ち着いてきたなと思ってたら、”夏休みぐらい家のこと手伝いなさい”って、お母さんに言われて。」
「香里と一緒にか?」
首を横に振って、
「ずるいんですよ、お姉ちゃん、”私は日焼けしない主義だから”とか言って全然手伝ってくれないんです。」
”それで、口きいてないんです、土曜日から。”
子供のような顔で口をとがらせている。
 
「ま、いいじゃないか、いい色に焼けてるから、」
「でも、」
「その辺の...。」
俺が言いかけると、
「その辺の子供みたいって言うんですよね。」
栞に遮られる。
 
だから俺は、ただ笑って、
麦わら帽子にぽんっと手を置いて。
 
そして、少し栞の頭を撫でるようにする。
帽子の上から撫でるようにする。
 
栞が少しくすぐったそうな表情で。
目を細めて、俺を見ている。
 
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「そうか、香里とけんかしてるんだよな。」
「けんかじゃないです、わたしが無視してるんです。」
「そうか、昨日のうちに聞いとけばよかったな、」
ふたりの前には大きなランチボックス。
 
ふぞろいなおにぎり、ふぞろいな卵焼き、
ふぞろいなウィンナー、いろいろなふぞろい達。
 
「祐一さん、ひどいこと言ってますよ。」
そういって俺の肩を軽く叩く。
「ま、味が問題だからな。」
 
そう言って、おにぎりを手に取る。
卵焼きを口に運ぶ。
 
栞が黙ってこっちを見ている。
 
「ど、どうですか。」
「ああ、だいぶ先生の味に近づいてるんじゃないか。」
”よかったー”と胸をなで下ろして、
途端に笑顔になって自分もおにぎりに手を伸ばす。
 
その横顔は夏の少女のもので、
初めて出会った頃の、少し触れると壊れてしまいそうな、あやうさは消えている。
 
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「ごちそうさん。」
「いえ、お粗末様でした。」
 
「さて、」
「はい?」
 
「約束だからな。」
「ひ、膝枕ですよね?」
ひきつった笑顔。
 
「お、栞は約束を破る悪い子なのか?」
「う、でも。」
「そうか、約束破るんだな。」
「俺はこれが楽しみで海に来たんだけどな。」
 
「もう、わかりました、どうぞ。」
よく焼けた頬をほんのりと紅く染めて、
座ったままで手を広げてくれる。
だから、俺はゆっくりと栞の脚のあいだに座って、
そっと、背中を栞にあずける。
 
「栞?」
「な、なんですか?」
「背中向けてないか?」
「えっ、」
「いや、俺の背中に何の感触もないんだが。」
 
バシンッと俺の脚を思いっきり叩いて、
 
「もう、祐一さん、大っ嫌いです。」
 
そう言う。
 
そう言ったあとで、そっと、俺の前に手を回す。
手を回して、やさしく、俺の体を包んでくれる。
 
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あの冬、
肺が痛くなるほどの冷たい空気の中で栞に会っていたとき、
俺は、綺麗なメロディーを聴いた。
いや、聴いたような気がした。
 
それは、完璧に配列された音符と、完璧に配置された強弱符号、そして完璧なハーモニーによって構成された曲を、
ギリギリに張りつめた音楽家達が、魂を削るようにして演奏する音楽のようだった。
 
とても綺麗、とても人を惹きつける、
けれど、とてもはかない、いつ途切れてしまってもおかしくない。
 
そう、たぶんそれは栞の生命の奏でる音楽だったのだろう。
今はそう思う。
 
あのメロディーはあの冬とともに消え失せてしまって、
もう二度と聴くことは出来ない。
 
 
今、栞の奏でる音楽はその音楽ではない。
 
洗練されてなくて、アドリブだらけで、ときには和音もずれている、
いやひとつひとつの音さえも外れているかもしれない、
そんな不格好な音楽。
 
でも、心に響いてくる音楽、
力に溢れた音楽、
途切れることのない音楽、
 
 
俺と共鳴する音楽。
 
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波の音が聞こえる、
寄せて、そして、戻っていく波の音。
 
どこかで海鳥が鳴いている。
 
風が潮の匂いを運んでくる。
 
潮の匂いと波の音を運んでくる。
 
そして、耳元で音楽が聞こえる。
 
規則正しい音楽。
 
力強い音楽。
 
俺を満たす音楽。
 
俺の大好きな人の鼓動。
 
 
 
「祐一さん、起きました?」
 
俺は栞の腕の中で、目を覚ます。
傾いた太陽の陽射しが顔を照らしていた。
すこし眩しい。
 
「ね、祐一さん。」
 
「祐一さんの心臓の音、」
 
「そして、わたしの心臓の音、」
 
「今、ぴったり合ってましたよ。」
 
海鳥の鳴き声がする。
 
潮の匂いがする。
 
波の音がする。
 
俺の耳元で聞こえていた心臓の音が、
ゆっくりと動いて、
俺の顔の前に陰ができる。
 
栞の奏でるもうひとつの音楽、
吐息のリズムがすぐ近くにある。
 
俺はそっと目を閉じて、
そのリズムを味わっていよう。
 
ほんの少しの間だけ、
そのリズムを味わおう。
 
吐息がキスに変わる、
その瞬間まで。
 
 
 
 
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inspired by  「遠い音楽」
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【初出】Key SS掲示板 1999/08/02
【One Word】
いやあー、このSS、タイトルだけで、中味が別のものにリンクされてました(笑)
今日気がついたなあ...。誰も教えてくれないってことは、誰も読んでないってことか(爆)
Zabadakの「遠い音楽」という曲がよほどの衝撃だったようで、いきなりこのようなSSを書いていますね。
今でも、一番好きな曲ですが...。
HID 1999/12/13

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