『地上より永遠に』  〜ここよりとわに〜
 
 
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「じゃあ、明日6時半にうちに来てね」
「ああ」
長い髪の毛、少しウェーブのかかったやわらかい髪が揺れる。
一瞬、やさしい匂いに包まれる。
甘くない、気持ちのいい、つめたい水のような匂い。
似合いのコロンだな、そんなことを思いながら、階段教室を出ていく後ろ姿を見送る。
 
 
ざわめき。
大学の一般教養の教室。
俺と美坂が週に一回だけ顔を合わせる講義が終わった後の時間。
 
 
窓の外に目を移す。
軽い雪が降っている。
もう、3回目の冬か、ふとそんなことを考える。
積もる雪、積もらない雪。
軽い雪、重い雪。
冷たい雪、それさえも感じさせずに、触れただけで融けてしまう雪。
いろんな雪を見て、いろんな雪を見分けることができるようになっていた。
 
 
それは、つまり、それだけの時間をこの街で過ごしたということ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
傘のいらない程度の粉雪が舞う中、俺は、少しだけ緊張しながら、美坂家のドアの前に立つ。
何度か訪れているが、なかなか慣れるということのないこの場所。
“彼女の家”、“彼女の家族”。
それは、やはりどことなく居心地の悪いものだ。
特に、彼女の姉が元同級生だったりしたときには。
 
 
やがて、呼び鈴に応じて、ドアが開かれる。
 
 
「あら、時間通りね」
 
 
美坂がそんな言葉で迎えてくれる。
黒いタートルのセーター、厚手のデニムのロングスカート。
髪の毛を後でまとめた姿は学校ではあまり見ない。
 
 
「とにかく、いらっしゃい、どうぞ、あがって」
 
 
笑い顔で、俺を迎え入れてくれる。
玄関の中に入る。あたたかい空気の中に僅かに夕餉の匂いが混じっている。
ショートカットのブーツを脱いでいる俺の姿をじっと見て、
そして、おかしそうに美坂が言う。
 
 
「相沢君がネクタイしてるの初めて見たわ」
 
 
「こんな日に彼女の家に招待されたんだからな、一応礼儀は尽くさないとな」
 
 
俺の言葉を聞いてもう一度笑う。
 
 
「お姉ちゃん、早くあがってもらってよ」
 
 
リビングに通じるドアが開いて、俺の彼女が顔を覗かせる。
少し伸びた髪の毛、大きな瞳、健康そうな肌の色。
白いTシャツの上に白いシェットランド。
そして、ギンガムチェックのエプロンをした姿。
 
 
美坂の笑顔に気づいて、不思議そうに言う。
「玄関になにか面白いものでもあるの?」
 
「あるの?」美坂が笑顔のままで俺に訊く。
 
「いや、ないだろ」俺も少し笑いながら答える。
 
首を傾げながら、栞が言う。
「いいから、早くあがってくださいよ、祐一さん、もうお料理の準備できてますから」
 
 
そう言ってリビングに消える。
後ろ姿に大きなバレッタ。
香里があげた、栞のバレッタ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「なあ、訊いてもいいか?」
俺は、にこにことしながら、俺のグラスにシャンパンを注いでくれる栞に言う。
 
美坂は面白そうな表情を浮かべて俺と栞を見ている。
 
「ええ、なんですか?」
 
「なんで、クリスマスに鍋物なんだ?」
 
「えっと」
 
栞が、シャンパンの瓶に手をかけたままで、一瞬、固まる。
 
「だって、祐一さん、”冬に食べる鍋物は最高だよな”って言ってたじゃないですか」
ちょっと拗ねたような口調で言う。
 
「いや、それはそうだけどな」
 
ふたり、視線を絡めたままで、少しだけ沈黙が流れる。
 
 
 
「今の栞の精一杯だから許してあげてよ」
美坂が言う、微笑みを浮かべて。
「今日の料理は全部栞が一人で準備したんだから」
ね、と、念を押すような笑顔を俺に向ける。
 
 
「ま、そうだな、鍋ってみんなで食うと美味いしな」
 
「みんなで食べるから美味しいんですか?」
相変わらず拗ねたような口調で、俺の言葉尻を捉えて栞が言う。
 
「いや、栞が作った鍋を、みんなで食うと美味いって事だ」
そんな会話を交わすふたりを、相変わらずの笑顔で美坂が見ている。
 
 
栞の頬にも、美坂の頬にも少しだけ紅がさして、
鍋の湯気と、シャンパンと、そして、部屋の隅に飾られた小さなツリー。
曇った窓の外には、冷たい空気と、風に舞う雪。
 
 
あたたかな空間、やわらかい雰囲気。
ことさらにクリスマスを強調しなくとも、こんな時間を過ごせることの幸せを、
何かに感謝したくなるような、そんな、満たされた気持ち。
 
 
おそらくは、三人が三人とも、同じような気持ちを持ち寄って、
そして、はじめてこんな空気がつくられるんだろう。
お互いを見つめて、理解して、そして、受け容れて。
声高に何かを語ることはなくとも、ただ相手を見ようとすること、
自分をよく見ようとすること。
そんなところから何かが生まれる。
俺たちが大事に育てていきたい、何かが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鍋を食べながらのシャンパンとワインが効いたのだろうか、
栞はテーブルを挟んだ向かい側の床に、丸くなるようにして寝息をたてている。
美坂が、そっと、ストールを掛けてやりながらつぶやく。
 
 
「疲れてたのね、朝から張り切っていたから」
 
 
横顔には慈愛の微笑み。
きっと、俺が栞に与えることのできない種類の感情。
 
 
しばらく、寝息をたてる栞の顔を見た後で、俺に向き直って言う。
 
 
「ちょっと、ベランダに出てみない?」
 
「寒いからやだな」
 
「大丈夫よ」
 
 
俺の拒否の言葉は、微笑みとともに即座に否定されてしまう。
 
 
「残りのワインを持っていきましょう」
 
 
そう言って、俺をうながす。
頬の紅が色を増している。
すこし瞳が潤んでいる。
 
 
ああ、こいつは綺麗な子だな。
そんなことを頭の中のどこかで思う。
そして、苦笑を漏らす。
 
 
「どうかした?」
 
 
自分を見つめる俺に気づいて、訝しげに訊いてくる。
 
 
「いや、どうもしない」
 
 
俺は少し慌ててしまう。
俺を映す瞳の色は栞と同じ。
 
 
不思議だよな。
俺は思う。
この場所にこうして居ること。
今は静かな寝息をたてている少女が、ここに在ること。
そして、俺たちがこんな穏やかな時間を過ごせること。
 
あの頃には、果てしないほど遠くに感じたものなのに、
手に入れてしまえば、本当に他愛なくて。
でも、きっと、俺たちは感謝し続けることができるだろう。
こうやって流れてゆく時間に。
こんな、なんでもない日常に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「綺麗だよね」
ベランダの手すりにもたれて、街を見ながら、美坂が言う。
 
 
冷たい空気が火照った顔に心地いい。
相変わらず粉雪が風に舞っている。
風に流された粉雪が、ワイングラスのワインに落ちる。
そして、一瞬で消えてゆく。
街は静かに夜に佇む。
薄い明かり、どこからか、かすかに聴こえるクリスマスソング。
隣で目を閉じている、美坂の横顔。
 
 
「相沢君」
目を閉じたままで美坂が言う。
 
 
「ずいぶん遠くに来たような気がするね」
 
 
「あのときから、」
 
 
「私が、栞を暗い場所に閉じこめてしまったあのときから、」
 
 
「もう、2年になるんだね」
 
 
静かに瞼を開く。
澄んだ瞳で俺を見ている。
冬の空の星のような光。
綺麗で、透明すぎて底が見えないような、そんな瞳。
 
 
「ねえ、相沢君」
 
 
「なんだ、美坂」
 
 
「本当にありがとう」
 
 
小さな声。伏せられた目線。
長い睫毛。かすかな吐息が白く流れて。
 
 
「相沢君がいなければ、この場所にはいなかったね、私たち」
 
 
「きっと、暗いところでひとりぼっちのままだったね、私たち」
 
 
街を見る。
もう、三度目の冬。
 
 
最初の冬はつらかった。
その切りつけるような寒さが。
そして、本当に心が斬りつけられるような出来事もあった。
 
 
二度目の冬、俺の横には、大切な笑顔があった。
もう二度と離したくない、そう思える人がいた。
そして、その温もりを感じることができた。
冷たい空気の中で、強く強く感じることができた。
 
 
そして、三度目の冬。
俺たちは毎日毎日を生きるのに精一杯で。
ただ、前だけを見て進んでいける、そんな時間が本当に大切で。
そして、寒ささえ気にならなくなっていた。
そして、寒ささえ大切なものになっていた。
だって、それは、いろんなことを俺に思い出させてくれるから。
だって、それは、本当に大切なことを色褪せることなく喚び起こしてくれるから。
 
 
「なあ、美坂」
 
「そう言ってもらえるのは、嬉しい」
 
「でもな、」
 
「けして、俺だけの力じゃないさ」
 
「お前が栞を思う気持ち」
 
「そして、栞がお前を思う気持ち」
 
「栞が俺のことを思ってくれたこと」
 
「そんな全部が在ったから、」
 
「だから、俺たちはここにいれるんだろ?」
 
「だから、時間はこういう風に流れたんだろ?」
 
 
何も言わずに俺を見て。
一瞬、瞳の湖が揺れて。
でも、満面の笑みで美坂が言う。
 
 
 
 
「ありがとう」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美坂とふたりでベランダから降りてきた頃、
ちょうど栞は目を覚ました。
そして、三人で、俺が買ってきたケーキを食べた。
特にクリスマスっていうことを気にかけなくても、とても素敵で穏やかな時間。
 
紅茶の匂いと、ケーキの甘さと、あたたかい部屋と、俺に笑顔をくれる大切な人。
そして、俺たちをやさしく見てくれる彼女の姉と。
そういったもののかけがえのなさを。
そういったものが内包する危うさを。
俺たちは知っているから、痛いほど知っているから。
だから、俺は思う。
だから、俺は言える。
 
 
「ありがとう」と。
 
栞に、
 
香里に、
 
そして、俺の周りの大切な人達に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ねえ、さっきふたりで何を話してたの?」
相変わらず、粉雪の舞う夜の道。
栞が俺の顔を見上げるようにして言う。
 
 
『栞、片づけは私がやるから、そこまで送ってあげたら』
美坂の言葉に背中を押されるようにして、俺たちは家を出た。
 
 
「気になるか?」
「うん、少し」
 
 
「クリスマスっていいなっていう話だ」
「え?」
 
 
「つらいクリスマスもあったけれど、でも、それがあったから、
今日が本当に幸せなんだなって、そういう話だ」
 
 
うーん、と言って、人差し指を顎に当てる。
最初に見たときから変わらない仕草。
俺の知っている表情が増えていくことの喜び。
それは、俺と栞が積み重ねることができた時間の証明だから。
だから、こんな何気ない仕草も、すべて記憶に焼きつけようと思う。
しっかりと抱きしめて、ひとつも落とさないようにしよう、そう思う。
 
 
「えっと」
 
 
栞が俺に言う。
 
 
「なんだ?」
 
 
「ありがとう、祐一さん」
 
 
にっこりと笑う。
そして、目を閉じる。
俺はゆっくりと栞に近づく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「プレゼントありがとうございました」
 
「ああ、せいぜい、使ってやってくれよ」
 
「はい、大切に使います」
 
 
街灯の下。
人工の白い光は、周りに白いリングを浮かび上がらせて。
それが照らし出す光の領域を、粉雪が静かに通り過ぎる。
 
 
「じゃ、気をつけてな」
「はい、祐一さんも気をつけて」
 
 
そして、俺はゆっくりと歩き出す。
二、三歩行って、ふと気づいて、そして、ゆっくり振り返る。
そうあってほしいと思ったとおりに、栞はまだそこに立っていて、
振り向いた俺に微笑みをくれる。
 
 
「忘れるところだったな」
 
 
「はい?」
 
 
「メリークリスマス」
 
 
俺は少し笑って言う。
栞の表情がゆっくりと変わる。
ゆっくりと微笑みが辺りに広がる。
 
 
「メリークリスマス」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
――――――――――――――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『メリークリスマス、わたしの大切な祐一さん、
 
 
 
 
 
        そして、あの日のお姉ちゃんに.....
 
 
 
 
 
                   ......メリークリスマス』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

END


 
【初出】1999/10/2 Key掲示板
【One Word】
もう、とにかく、前向きで明るいSSが書きたくて書きました。
タイトルは、1950年代のアメリカ映画です。
見たことはありませんが、ずっと昔にタイトルを聞いて、心に残っていたので..。
昔の洋画についてる邦題って、いい題が多いですよね。
「北北西に進路を取れ」とか、「渚にて..」とか、いい感じだと思います。
 
HID
(1999/10/4)

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