ようやく指に馴染んできたセミアコースティック・ギターのフレットを押さえた指に僕は力を込め、右手で弦を掻き鳴らす。最後の一音が消えると、周囲からいくつかの拍手が起こる。
 深く息を吸い込みゆっくりと吐き出すと、自分のいる場所を確認するように辺りを見回した。駅前の広場の街灯の下。行き過ぎる人たちの横顔。車のクラクションとエンジンの音。
 足を止めて歌を聞いてくれていた人たちに軽く頭を下げると、ストラップから肩を抜いて、傍らにギターをおろす。
「もう、終わりね?」
 まだその場に残っていた数人の中から、男の声で問いかけられる。僕は、ギターケースの横に置いてあったラジオを手に取りながら、質問に答えようと、声の主を見る。
「先生、今日はもう終わりね?」
 背の高いがっしりとした体つきの男が、満面に笑みを浮かべて、もう一度問いかけてくる。鼻筋の左側に見覚えのある傷跡。
「先生は止めろって、言っただろ」僕は、メガネのフレームに触って、位置を直しながら答える。一体、どれくらい振りだろう、そんなことを考えながら。
「先生は先生たい」前にも聞いたことのあるセリフを、男が屈託のない顔で口にする。
「元気だった?隆明」僕は、自分の中に広がる懐かしさのせいで表情が緩むの感じながら言う。
「おお、俺は元気たい」隆明がうれしそうに言った。そして、僕がスウィッチを入れたラジオから聞こえて来る声を聞いて続ける。
「こいつも、相変わらず元気が溢れとうね」
 僕は、隆明の顔を見て、そして笑いながら頷いた。












 こ、こ、こ、コンバンハ!みんな、元気?
 あたしは元気。えっ?言われなくても、わかってるって?うっせ。ぐだぐだ言うな。
 そんな感じで、50過ぎても転がり続けるイカしたおじさまたちのJumpin' Jackなナンバーに乗って、今夜も始まるよ!
「茅ヶ崎めぐみのオールオアナッシン!」
 じゃ、行くよ、曲。最初の曲、行っちゃうよ!
 メロウでグレート・ハイパーなナンバー。あたし、茅ヶ崎めぐみの新曲。
「Nothing to Loose」




















Moonlight Drive













「……始まっちゃいましたね」
「ましたねって、始まんないと困るだろうが」
「……いいんすか、ホントに?」
「何が?」
「あのメール、ホントに渡しちゃいましたよ」
「やらせでも何でもないし、問題ないだろ」
「じゃなくて、いっつも言ってるじゃないすか、彼女」
「何て?」
「……悩み相談とか絶対しないって」
「……」
「人の悩みなんか聞いてる暇ないって」
「……」
「いいんすか?」
「バカ!いちいちタレントの顔色伺ってるから、つけあがるんだよ。いいか、今、彼女に必要なのは、カリスマ性なんだよ。上手いこと持っていけば、ティーンの星になれるんだよ。そうすりゃ、番組の聴取率も上がってスポンサーも喜ぶ。CDも売れるし、ファンも増える。事務所も、局も、みんなハッピーなんだよ」
「いまどき、星っすか」
「ハッピーなんだよ。ハッピーの何が悪い?」
「悪くないっすけどね……」
「けど?」
「彼女、今日は不機嫌全開でしたよ」
「……ま、まじ?」
「ええ、マジです」
「ちっ、いちいちタレントの顔色伺ってるようじゃ、ディレクターなんてやってらんないっての」
「……その言葉が番組終わるときまで続けばいいんすけどね」












「これはまた……」
 ラジオから流れてきた曲を聴いて、僕が思わず零した言葉を聞き逃さずに隆明が問いかけてくる。
「どうかした?」
「いや、いい歌だなと思ってね」
 ふーんと鼻を鳴らしたあとで、隆明が言う。
「俺にはよくわからんけど、先生が言うならそうなんやろうね。今度はヒットするかね?」
 うーん、と思わず唸って、僕は考える。
 確かにいい曲だった。骨太なギターサウンド。激しいビートに乗せて歌う彼女の歌も、文句のつけようのない出来だった。ただ、それが今の流れに乗っているかと言うと、少し違うような気もした。
「いい曲が全部売れるかっていうと、そうでもないんだよな」
 隆明が箱からタバコを取り出し、咥えながら僕を見た。
「売れてる曲がいい曲かというと、そんなことは全くないしな」
 隆明が僕の言葉を聞いて、大きな声で笑う。僕達の会話など聞こえるはずもない側に居る彼女のシャウトに合わせてバンドがブレイクし、彼女の新曲が終わった。
「まあ、でもあいつも喜ぶと思うばい」僕の隣に座った隆明が、タバコに火を点けながら言う。駅前の広場、植え込みの周りのコンクリートの囲い。広場の反対側では二人組の男が、アコースティック・ギターを掻き鳴らし歌っている。その前に数十人の人だかりができているのを見ると、彼らはここの常連なのだろうか。ただ、彼らの音と歌は、集まっている人数に応えられるだけのものではないように、僕には思えた。
「音楽にはとことん厳しい先生に褒めてもらえたんやから」












 はい、終わり!終了!!終〜了〜。
 どう?どうだった!?
 ソウルフルで骨太と巷で評判の、あたしの新曲、「Nothing to Loose」
 激しくて、どこかパンキッシュなギターサウンドには、ジョー・ストラマーもビックリ!!
 紙メディアからウェブまで、もう各地で絶賛!!発売、即チャート入り間違いなし。
 はっきり言って、自信有り。あたし的にも絶賛!
 まあねえー。苦労したからねえー。ギターとか、歌詞とか。
 おかげで、あたしの白魚のようだった指がもう、ギターだこでそれは悲惨なことに!つーか、昔からだけどな。
 こんな指でも、これはこれでオッケー、って言ってくれるコアなスウィーティーがいるってのは、ホントに幸せなことですわ。公共の電波を借りて、マイスウィーハートに感謝を捧げたい気分だわ。あっと、彼女ができずに悶々としてるに違いない、全国の一千万めぐみファンには酷な言葉だったわね。ゴメン!謝るわ。ゴメンナサイ!だから、取りあえず、買ってね。新曲。茅ヶ崎、これで世界進出、狙ってますから。
 そんなこんなで始まった、茅ヶ崎めぐみの電リクでGo大作戦!!、今夜も寝かせないわよ〜、って違う。電リク違う。
 取りあえず、行きます。番組、進行させます。番組タイトルとか、そんなのは大した問題じゃないし、ね。
 ま、電リク違いますが、リクエストは密かに受けてたりします。別に密かでもないですが。そんな感じで、リクエスト一曲目。
 えっと、デクちんさんからのリクエストで、「Still Got The Blues」
 うぉ。渋いね〜。渋すぎるチョイスで、女の子とかには受けなそう、モテナソウ
 ああっと、しゃべり続けてると、めぐみ数少ない味方さえ減らしそうなので、さっさと曲。曲ね。
 ゲイリー・ムーアで「Still Got The Blues」












「おっ、この曲聴いたことあるばい」
 ラジオから流れるギターのフレーズを聴いて、隆明が嬉しそうに言った。僕は彼がその曲を憶えていたことに少し驚きながら、彼の言葉に応えた。
「昔、僕が弾いてた曲だよ」
 僕の言葉を聞いて、彼が何かを思い出すように目を細めた。
「……もう、どれくらいになるかいな」
「五年……だね」


 僕が彼女と出会った場所は、今、僕が座っているこの広場だった。そして、結局、この広場以外で彼女と会ったことは一度もなかった。
 僕は大学に通うために、この街に来た。けれど、本当の目的はそれではなかった。この街、様々な色褪せない伝説に彩られたこの場所で、本物の、生の音楽に触れてみたい。それこそが本当の目的だった。それは、いつの頃かわからないくらい昔から抱いていた、僕の夢だった。だから僕は訝しげな顔をする友だちや(彼らは、僕がなぜ今住んでいる所から、千キロ以上離れた今よりも不便な街に行くのか、いくら説明しても理解してくれなかった)、その話をするとすぐに泣き出してしまった、そのときつき合っていた女の子(『どうして私を置いてそんなところに行ってしまうの?』と、何度説明しても彼女は繰り返した)と離れても、この街に来ることを選んだ。両親は、『親元を離れることも修行になるから』と言って説得した。彼らは渋々ながらも、僕の主張を認めてくれた。


 僕が歌い始めたのは、就職が決まってからのことだった。それまでに、様々なライヴハウスや、路上ライヴを巡り、たくさんの失望とほんの少しだけの羨望を見つけた僕には、タイムリミットが迫っていた。大学に進むときに無理を言ったツケで、僕は親が勧める就職先を断ることができなかった。そして、それはつまり、この街を離れることを意味していた。
 その頃には僕は、たくさんの偽物や嘘を見てきたおかげで、この憧れの街に執着を失っていた。だから、元の街に戻ることが嫌なわけではなかった。ただ、ひとつだけやり残したことがあったことに、突然、気づいただけだった。
 だから僕は、二月分のバイト代をつぎ込んだギブソン335を抱えて、週末の夜にはたくさんのストリート・ミュージシャンとそれを見に来る人たちで賑わう、駅前の広場に立ってみることを決めた。そして、いろんな所で、いろんな歌を聴いた時に作らないで居られなかったうたを歌ってみようと思った。
 みんなが聴いてくれるとは思えなかった。けれど、誰一人、聴いてくれる人がいないとも思わなかった。


「先生の作った曲じゃなかったんやねえ」隆明が、目を丸くして言った。
 僕はためいきをつきながら、頷いて見せた。
「でも先生の方が上手いんやない?」隆明が、ゲイリー・ムーアが聞いたら、間違いなく激怒しそうなことを笑顔で言った。僕は笑って、ありがとうと応えた。
「その割には、今も昔もあまり人気が無いのはなんでかね?」
 広場の向こう側で上がる歓声と拍手に目を向けた後で、悪びれる風もなく、隆明がそう言った。僕はただ苦笑するしかなかった。


 現実は、僕が思っていたよりもずっと厳しくて、あの頃、僕の歌とギターに足を止めて耳を傾けてくれる人は、ほとんどいなかった。そして皮肉なことに、その現実が僕を余計に歌とギターに入れ込ませた。
 僕は学校に行く時間を惜しんで、曲を作り、アパートの隣人に文句を言われながらもギターを練習した。いつか、絶対に誰かから拍手をもらう。それが、僕の唯一の目標になっていた。夜は駅前の広場に立った。酔っ払いに絡まれることはあっても、僕の歌を聴きに来てくれる人は一人もいなかった。
 一人もいない、と僕は思っていた。













「あれ、ディレクターでしょ?」
「な、何が?」
「あの曲リクエストしたの」
「な、何で?」
「彼女、あの曲好きですもんね……」
「……」
「……機嫌、良くなるといいっすね」
「……ああ」
「しかし、デクちんっすか」
「……」












 泣いてたね〜。ん〜、泣いてましたわね。ゲイリーのギター。
 あたし程じゃないにしても、彼もやりますわね。
 さて。リクエストに応えたところで、質問に答えてみます。メールやら、手紙やらで来たみなさんの質問に、あたし、茅ヶ崎めぐみ様が答える、恒例のコーナー行きます。基本的に訊かれたことには、めぐたん何でも答えます。
「いや〜ん!こんなハズカシイ質問、答えられな〜い」とかいう、ベタな展開は一切なし。いわば、ガチンコ。リスナーとあたしのセメント勝負。
 そんな、せつなくもはかないコーナー。始めます。
 一枚目のお葉書。ギブソン335さんからのお葉書。つーか、E-Mail。つーか、おめギターか?ギターがメールを打つ時代か?それが、21世紀か?無機物を名のるの止めれ。ま、いいわ。
『こ、こ、こ、コンバンハ!めぐみさん。いつも楽しくラジオ聞かせてもらってます。この時代にラジオで展開するというアナクロさが、めぐみさんの魅力だと思いますが、どうでしょうか?ところで、ボクはどうにも気になって眠れないことがあります。特に、めぐたんのラジオを聞いた後とかはひどいです。それは、めぐたんの選曲のことです。番組で流れる音楽達のことです。リクエストの曲とかは除くにしても、めぐたんの選曲は古くないですか?60年代から新しくても、80年代。その辺の曲ばっかりじゃないですか?そんなことでいいのですか?時代に置いて行かれてますか?』

…………なんか、余計なお世話って感じもしますが。
……ま、答えますわよ。めぐみ。つまんない質問でも、答えます。プロですから。これでお金もらってますから。
 時代に置いて行かれてますか?って、言ってくれるわねえ。つーか、質問多すぎ。一度にお願いできるのは三つまでと相場が決まってます。これ、クエスチョンマークが5個あります。だから、これ多すぎ。多すぎだから、やっぱ答えません。気が変わりました。いわば335の反則負け。いいんです。あたしがルールですから!
 そういうわけで、曲行きます。今日は、これをみんなに聴いてもらいたい気分。
 ブルース!偉大なボス・スプリングスティーンで「No Surrender」
 古くさいと言われてもいいものはいい。ホンモノは輝きを失わない。
 あ、あたしいいこと言った?
……取りあえずボケは無しね。疲れるし。つーか、あたし一応ミュージシャンだからね。ボケとか、オチとかそんなものをいちいち期待されても困ります!フレーズごとに!!
 さて、そんな揺れる心情をさらりと吐露しつつ、曲です。












「……かなりムカついとるね」隆明がボソリと言った。
「ああ、かなりキてるね」彼女が怒り出す寸前の表情を、目の前に思い浮かべながら僕は言った。
「ま、爆発すればしたで面白いけんいいけど」無責任なことを言って、隆明が笑った。
「でも、止められるヤツがいないよ」僕も笑って、応えた。


 最初に僕がここで彼女を見たとき、彼女は、よくここで歌っている、そこそこ人気のある二人組に食ってかかっているところだった。
『大体ねえ』僕は、そのときの彼女のセリフを今でも思い出すことができる。
『その辺のものを持ってきて、ちょちょっといじって、人気取ろうとしとうのが気にくわん』
 中学校の制服を着た女の子が、髪を染めた背の高い男二人組に向かってタンカを切っている様子は、ちょっとした見物だった。二人組は最初、彼女を無視しようとしているようだった。けれど、彼女の攻撃は止むことがなかった。気がつくと、周りには人だかりができていた。
『あんたたち、何のために歌いようとね?人気取りのためやったら、今すぐ止めんね』
 彼女のその言葉を聞いて、二人組の取り巻きの女の子達が、彼女を囲んだ。集まっていたヤジ馬たちは、関わりを避けるように散っていった。
 女の子達の輪の中心からは、相変わらず彼女の大きな声が聞こえていた。僕が、止めに入ろうかと逡巡しているところに、学生服を着た大柄な男が走ってきて、女の子達の輪に真っ直ぐ割って入った。罵声と怒声が入り混じる中で、ひときわ通る声が響いた。もちろん、彼女の声だった。
『なんね、タカアキ!離さんね!!』
 彼女の大きな声と、学生服の大柄な男に気圧されたように女の子達の輪が崩れた。
 タカアキと呼ばれた学生服の男は、大きな声を出しながら暴れる女の子の制服の首の所を持って、猫のようにぶら下げていた。
『離しぃよ!もう、タカアキ!!』
 ギターのケースを抱えて、呆然と見守る僕の前をその奇妙な二人組は通り過ぎていった。
 女の子はその乱暴な言葉遣いと、威勢の良さに似合わない、かわいい顔をしていた。少し癖のある柔らかそうな髪の毛。下ろした前髪の間の、大きな瞳。顔が小さくて、人形のような頭身だった。けれど、彼女の声の大きさは、すさまじいモノがあった。きっと、彼女が歌うのならマイクなんて要らないだろう。そんなことを想像して、僕は思わず笑ってしまった。彼女がそれに気づいて、僕の方をきっと睨んだ。
『何見ようとね!見せモンじゃなかよ!!』
 僕は驚いて、思わず目を逸らしてしまった。
 学生服の男は、暴れる彼女をモノともせず、その大きな声も聞こえていないような顔で、大股で広場を出ていった。二人が去った広場には、ステージが終わった後のようなしらけた雰囲気が漂っていた。それは、嵐が暴れるだけ暴れて過ぎ去った後のようだった。
 僕は小さくためいきをつくと、いつもの場所に座り込んで、ギターケースを開けた。
 向こうの方では、彼女に文句をつけられた二人組が歌い始めていた。
 ギターのチューニングをしている僕の前を、さっき散って行った、彼らの取り巻きの女の子達が通り過ぎた。 彼女たちの会話が耳に入った。
『あいつら知っとうよ。ひいらぎ園のヤツらやが』
『ホント?どーりで』
 僕は、女の子達の言葉を聞き流しながら、ギターを鳴らし始めた。女の子達がちらっと僕の方を見て、すぐに興味がなさそうに足早に過ぎ去っていった。
 僕はギターを掻き鳴らしながら、ずっと考えていた。さっきの彼女。飼い主のいない、気の荒い猫のような彼女の言葉が、僕の頭の中をぐるぐると回り続けていた。

―――あんたたち、何のために歌いようとね?














「い、いよいよっすね」
「………」
「ディレクター?」
「………」
「ね、ディレクター?」
「あ、ああ?」
「ああ、じゃなくって。いよいよっすね」
「ああ」
「ディレクター」
「あ?」
「……すごい汗、っすよ」














 さて。いい曲だね。いい曲です「No Surrender」あ、ここもボケは無し。
 質問行くよ。No nameさんからのメール、紹介します。
『こんばんは、めぐみさん。この前、始めてラジオ聞きました。普段はラジオとか聞かなかったんだけど、あなたがラジオ番組をやってるのを偶然ネットで知って、どうしても聞いてみたくなって。
 すいません。あ、突然謝られても困りますよね。というか、本当にごめんなさい。
 私はあなたのファンってわけじゃないんです。ううん、正直言うと、どちらかというと嫌いだったんです。昔は。
 めぐみさんが、テレビとかで目上の人に平気で乱暴な口をきいたり、人の話を全然聞かないのを見てるとすごく不愉快で。そのくせ、歌ってるときには本当に楽しそうで。
 あ、ごめんなさい。こんなことはどうでもいいことでした。謝ってばかりですね、私。ごめんなさい。
 あ、でも今は嫌いじゃないんですよ。めぐみさんのこと。本当です。
 ごめんなさい、前置きが長くなっちゃいました』

………………。

『質問、させてくださいね。質問というか、相談、なのかな?』

………なのかな?って、あたしに訊くなよ………。














「本気でヤバそうな感じじゃないか?」
 ラジオから聞こえた彼女のつぶやきが、重く響いた。それに気づいた僕は、隆明の顔を見て言った。
「まだ、大丈夫」
 隆明は妙に自信ありげに、そう言った。
「本当に?」
 隆明は何も言わずに頷いた。彼が言うのなら、おそらく大丈夫なのだろう。この街で彼女と一番長い時間を共にしたのは、彼なのだから。


 あの騒ぎの後にも、僕は広場に通い歌い続けた。タイムリミットはゆっくりと、けれど、確実に近づいていた。時折、足を止めて僕の歌を聴いてくれる人も現れ始めていた頃、僕は再び彼女に会った。
 それは、この街の冬にはめずらしい晴れた夜だった。いつものように、僕がギターを弾きながら歌っていると、それに合わせて歌う声が聞こえてきた。その日、僕の前では女の子が二人、足を止めて僕の歌を聴いてくれていた。彼女たちも、どこかから聞こえてくる声に気づいたようだった。ちょっと、驚いた顔をした後で、彼女たちはその声を良く聞き取ろうとするように目を閉じた。僕がギターの弦を震わし、最後の一音を閉じると、その声も聞こえなくなった。女の子達は目を開いて、小さなためいきをもらした。
『今の誰ですか?』一人が言った。僕は彼女の向こう側のベンチに座っている、制服のままの少女を見ていた。
『すごく、今の曲に合っとったけど』もう一人の子が言った。
『うん、すごくよかった』
 最初に僕に質問をした子が答えた。そして、僕の視線に気づいて、それを追いかけるように、制服の少女を見た。驚いた顔をした後で、彼女は言った。
『あ、あれ』
『あ、この前のひいらぎ園の』もう一人の子が答えた。そして、僕の顔を見た後で、何も言わずに足早に立ち去った。
 二人が立ち去るのを待っていたのだろうか、制服の少女がゆっくりと立ち上がって、僕の方に歩いてきた。大きな目は、僕を真っ直ぐに見ていた。彼女の表情には、どこか張りつめたところがあるように思えた。
『訊いてもよか?』彼女は言った。静かな声だった。
『何』
『さっきの歌は、あんたが作ったと?』
『うん』
 僕の答えを聞いて、ふーん、と声にならないような声を彼女は出した。
『もう一回、歌ってくれん?』
『うん』僕はそう答えて、ひとつ咳払いをすると、ギターの位置を直し、カッティングを始めた。彼女はひどく真剣な表情で、僕の一挙手一投足を見つめていた。そして、ギターが鳴り始めると目を閉じた。
 メロディーがサビの部分にさしかかると、彼女は目を閉じたままで曲に合わせてハミングをした。それは、思わず引き込まれてしまいそうな歌声だった。目の前の、中学校の制服を着た、普通の女の子が歌っている声とは思えなかった。僕は、そのハミングのせいでコードを二度間違え、歌詞を三度間違えた。
 どうにか、僕が曲を終えると、彼女は目を開けて僕を真っ直ぐに見つめた。ギターの失敗のことについて、文句を言われるのかと僕は思った。
 一瞬の間の後で、彼女の表情が崩れた。初めて見る笑顔だった。
『いい曲やない。歌詞教えてよ』笑いながら、彼女がそう言った。
『あ、ありがとう。え、歌詞?』
『うん。歌詞がわからんと歌えんやろ?』
 当然のように、彼女が言った。そして、その後で何かに気がついたように、大きく目を開くと、げっと呟きをもらした。僕は彼女の目線を追って、駅の方を振り向いた。こちらに歩いてくる、50過ぎくらいの地味なコートを着てメガネをかけた男の人が、視界に入った。
『やばっ。園長先生やが』
 彼女はそう言うと、素早く立ち上がった。そして、また来るけんね、と言って手を振ると、男の人とは反対の方に駆け出していった。男の人は誰かを探しているように辺りを見回しながら、僕の前を通り過ぎた。そして、広場の数カ所にできていた人だかりを丁寧に見て回ると、諦めたように駅の方に戻っていった。


 ひいらぎ園というのが、僕がいつも歌っている駅からバスで数十分の所にある孤児院のことだというのを、大学の友人に聞いたのは、それから数日後のゼミの追い出しコンパのときのことだった。その友人は僕の問いに答えた後で、こう言った。
『まだ、歌ってるの?』と。僕は、頷いて肯定した。


 僕のギターに合わせて彼女が歌ってから、すでに一週間が経っていた。僕は、彼女が褒めてくれた歌の歌詞をコピーした紙を持って、毎日広場に出かけた。けれど、彼女は一度も現れなかった。
 子供の気まぐれだったのかと思いはじめていた頃、細かい雨が雪に変わってしまいそうな夜、彼女は姿を見せた。その日は平日で、しかも雨が降っていたから、僕以外には誰も演奏をしていなかった。
 僕は閉店したショッピング・ビルの軒下で、雨を避けて歌っていた。曲と曲の合間には吐息で指を暖めないと凍えてしまいそうな、寒い夜だった。僕は息を吹きかけて指を暖めながら、いつもと違う場所で彼女にわかるだろうかと考えて、一度褒められただけで、彼女のことばかり気にしている自分に少し苦笑いした。
 傘をさして通り過ぎる人たちは、みんなが急いでいるようだった。その日は、僕の歌に耳を傾けてくれる人はいなかった。あるいは、歌っていると思っているのは僕だけで、本当は僕の声は出ていないのではないだろうか、そんな錯覚を感じる程、行き過ぎる人々は無表情だった。
 いつの間にか、僕はギターを弾く手を止めて、行き過ぎる人々を見ていた。そのとき、彼女の声が聞こえた。
『何で、途中で止めると?』
 僕は声の方を振り返った。
『音が聴こえたけん、来たのに』
 白い息を吐きながら彼女が言った。そして、僕をじっと見た。僕はその瞳にうながされるままに、ギターを再び弾き始めた。凍えた指が、滑らかに動き始める頃、僕の声に重なるように、彼女の声が流れ出した。何人かが立ち止まり、傘を上げて、僕と彼女を見た。そして、何かに気づいたような表情で、僕達の歌を聴いていた。












『私、どちらかというと真面目な方なんです。学校とかでも、すぐに委員とかに選ばれるし、先生たちにすぐ名前憶えられちゃうし。校則とかも破ったこと無いです。破る必要も無かったし。家でも両親に怒られたことありません。
 友だちも少なくないです。部活動もやってます。吹奏楽部です。パートはクラリネットなんですよ。いつか、弦楽器(ギターとかバイオリン)もやってみたいな、とか思ってます。
 ごめんなさい。また、話が横道にそれちゃいました。今度こそ、きちんと書こうと思います。
 私、何にも問題なんて無いと思ってました。毎日の暮らし。朝起きて、学校に行って、それから塾に行って、帰ってきて、少しだけテレビ見たり電話したりネットしたりして、そういう生活がずっと、変わりなくずっと続いていくと思ってました。
 けれども、気づいたんです。気づいたら足りなくなってたんです。何かが。
 でも、それが何かなんて、わからないんです。わからないけど、そのまま放っておいたらダメなんです』

……………………………………………。














「……やばくないっすか?」
「………」
「さっきより沈黙長くなってますよ」
「………」
「ディレクター?」
「……あ、ああ」
「いや、ああじゃなくって」














「これは、キレるね」隆明が、笑い混じりにそう言った。
「マズくないか?番組中に」
「マズかろうがマズくなかろうが、キレるときにはキレるばい。それがめぐたい」
「幼なじみならではの言葉だね」
 僕がからかうように言うと、隆明はうれしそうな顔で頷いた。
「でも、先生も知っとうやろ?」
「何を?」
「見境なくキレとうように見えて、そうでもないってこと」
 笑顔のままで隆明が言った。
「ああ。まあね」
 僕の言葉に、もう一度、隆明が頷く。
「でも、僕なんかでははっきり基準が掴めないけどね」
「俺でも、4割くらいしか掴めんかった」


 彼女が僕のギターに合わせて歌うようになってから、僕が駅前に行く時間はずっと早くなった。
 それは、彼女の門限のためだった。
 門限など気にしないと彼女は言ったけれど、僕のギターで歌うための条件として、それを守ることを僕は主張した。彼女は、本当に渋々とそれを受け容れた。
 平日は夕方、土曜と日曜は午後早い時間が僕達のステージ・タイムになった。そして、僕が半年以上かけても得ることのできなかった位の人数が、一度に僕達を取り囲むようになっていた。彼女は、とてもカンのいい子だった。ほとんどのフレーズは一回聴いただけで憶えたし、歌詞を憶えるのもおそろしく早かった。僕が彼女にギターを教え始めた頃から、彼女は僕のことをふざけて、先生と呼ぶようになっていた。僕がそれを嫌がると、尚更、彼女はその呼び方を使った。そういうときの彼女は、イタズラっぽい笑顔を浮かべた、ただの中学生の女の子だった。
 そして、たまに彼女の様子を確認するかのように広場に姿を見せる隆明も僕のことを先生と呼ぶようになっていた。
 僕のこの街での時間は終わりに近づいていた。それはすでに決められたことのはずだった。だけど、彼女にそれを告げられないままに、最後の週末はやって来た。
 彼女の歌う姿には、彼女の歌には、何か特別なモノがあった。それは、僕をどきどきさせる何かだった。僕を惹きつけて離さない何かだった。僕はそのときに気づくべきだったんだと、今では思う。僕がこの街に来たことの理由が手の届く場所にあったことに、その理由を彼女の中に見出す可能性があったことに。
 でも僕は、自分が中学生の女の子を好きになってしまったのではないかと思って、ただおろおろするばかりだった。


『せんせ、ここ、このコードでいいと?』
 僕が貸したセミアコースティック・ギターのフレットを小さな手で押さえながら、彼女が言った。それは良く晴れた冬の日曜日の午後だった。僕がこの街を出る日は三日後に迫っていた。
『うん』僕は気のない返事を返した。今日こそは彼女に別れを告げなければいけないと思うと、気が重かった。
『先生、そろそろ時間やない?』休みの日だというのに、学生服姿の隆明が言った。今日は大型のアンプを持ち込んでいたから、手伝いのために彼が来てくれていた。僕は彼の言葉を聞いて、駅の前に立つ時計で時間を確かめた。別に何時から始めると決める必要もなかったけれど、僕達の間ではいつのまにか、『夕方の部』の開始時間と『昼の部』の開始時間が決まっていた。
 時計の針は、昼の部の開始時間に迫っていた。僕はぼんやりと広場を見渡した。春が近いことを感じさせる暖かい午後で、親子連れやカップルで広場は賑わっていた。ひとつふたつ、すでに演奏をしている人達の前に、ぱらぱらと人が集まっていた。
 僕達の演奏を目当てに来てくれたらしい人達が数人、始まりの時間を待ちかねるように集まって、声をかけてきた。
『じゃ、始めようか』
 これが最後だと告げられないままに、僕は彼女にそう言った。彼女は、僕を見て頷いた。少し緊張を孕んだ、張りのある表情を彼女はしていた。


 僕達の周りには、いつもより多い人の集まりができていた。そして、いつもよりも大きな拍手と喚声が僕達を包んでくれた。彼女の歌は、拍手と喚声に応えるように、どんどん輝きを増してゆくようだった。
 十曲に満たないオリジナルの曲とレパートリィの限りのカヴァー曲を演奏し終わったときには、もう辺りは暗くなっていた。
 長い長いライヴの最後の曲を始めようとしたとき、若い男の声が聞こえた。
『こんなん、どこにでもおるばい』
 僕は一瞬で高揚が去るのを感じた。彼女の顔色がさっと変わった。声の主を捜そうと人の輪を見渡したとき、自分たちが、あまりガラの良くない人間に囲まれているのに始めて気づいた。
『下手ば下手って言って、何が悪いとや』僕達の視線が自分達に向いたのに気づいて、男達のうちの一人が、挑発するように言った。
『お前ら』そう言うと、彼女は大きく息を吸った。
『聴く気がないなら、帰ればよかろうが』そう言って、楽譜立てを投げつけようとした彼女に、抱きつくようにして僕は必死に止めた。
 人の輪の外側も、騒ぎに気づいてざわめき始めた。
『何で止めるとね、先生』彼女が僕の腕から逃れようと、暴れた。
『何やこいつら。イチャイチャするなら、他でやれって』
『ホントやが、歌もろくに歌えんくせに』
『曲も歌もギターも聴けたモンじゃないばい』
 五、六人の男達が騒ぎ立てた。
『うるさい。先生の曲をバカにすんな!』彼女が僕の腕から逃れて、金属製の楽譜立てを振り回した。それは大きな声で罵声をあげる男達の一人の背中に当たった。うずくまる仲間の姿を見て、逆上した男達が、彼女を掴まえて手の中のスタンドを奪い取った。髪の長い男が、それを彼女に向けて振りかぶった。僕は、二人の間に割って入った。スタンドは僕のギターと右腕に当たった。ギターが悲しい音で鳴った。右の腕に感電したときのようなショックがあった。頭の芯に響く、鈍い音が聞こえたような気がした。
『邪魔すんな』男がそう言って、もう一度スタンドを振り上げようとしたときに、隆明が男の手を押さえつけるのが目に入った。彼女が、自分を押さえつけていた男の脛を思いきり蹴飛ばして、その腕から逃れた。騒ぎを聞きつけて、駅前の交番の警官が何か言いながらこっちに向かってくるのが見えた。
『めぐみ、隆明、逃げろ!』僕の大きな声に、二人がびくっと反応した。
 めぐみが僕を見て、何かを言おうとした。
『逃げろ!園長先生に迷惑かけたくないだろっ』
 その言葉を聞いて、立ち止まって僕を見つめたままのめぐみを抱えるようにして、隆明が駆け出した。警官が来るのに気がついた男達も、口々に何か言いながら、その場から立ち去った。疎らになった人の輪の真ん中には、昔のように、僕一人が残されていた。













『気づいたんですよ、私。
 笑えないんです。ううん、笑いますよ、友だちとか先生とかお母さんやお父さんと話してるときには。笑うことはできます。声をあげて、表情をつくって、私は笑ってるんだよって、伝えることはできます。でも、それは自分のための笑顔ではないんです。そして、友だちとか両親とかのための笑顔でもないんです。
 じゃあ、それは誰のための笑顔なんでしょう?私は誰に向かって笑ってるんでしょう? ときどき怖くなるんです。いつか、本当に笑えなくなるような気がして。本当に怖くなるんですよ。
 めぐみさんは良く笑いますよね。昔から、アイドルとしてテレビに出てた頃から、良く笑ってましたよね。笑ったり、怒ったり。つくりものじゃない感情が、テレビのこっち側の私にも伝わってくるくらい。羨ましいぐらいに。
 私、気づいたんです。
 昔、私がめぐみさんのことを嫌いだったのは、きっと、私が嫉妬してたからです。
 あなたの、とても笑顔らしい笑顔に、無意識のうちに嫉妬してたんです。
 だから、めぐみさん、教えてください。
 私に足りないものは何ですか?どうすれば、私は笑えますか?』

………………………………………………………………………。

……足りないもの、ねえ。














「ちょっ、ヤバイ。めぐちゃん、待てって」
「友だちがおって、お母さんとお父さんがおって、帰る家があって……」
「ディレクター!頭抱えてないで、止めてくださいよ」
「あ・ん・た・に足りないものはねえ!!」
「ていうか、マネージャー呼べ、マネージャー」
「ヤ、ヤバイって!取りあえず、CM入れて!!」
「ディレクター!ディレクター、何してるんすか、ディー!!」












「ほらね」
 笑いながら隆明が言った。
「ああ」
 僕も苦笑しながら応えた。彼女がデビューをしてから、こんなシーンに出くわすのは何度目だろう。いつの間にか、それに慣れてしまっている自分がいた。いや、それは僕だけではなかったかも知れない。少しずつ、少しずつ、それは彼女の個性として人々に受け容れられ始めてるのかも知れない。




 僕が、骨折した右腕の手当と警察の事情聴取を終えて広場に戻ったとき、そこには何も残っていなかった。
 灯りの落ちた駅。車通りの絶えた通り。そして、誰もいない広場。
 空っぽの世界で、街灯の冷たい灯りに負けまいとするように、冬の月だけが澄んだ光を注いでいた。
 ヤツらの意図がどこにあったとしても、僕にはただ虚しさだけが残った。あるいはこれは僕自身が招いたことなのかもしれない。行き先も決めずに、ただ彼女の歌を聴くためだけに、この場所に立っていた僕がいけなかったのかもしれない。言葉が音楽が才能が、いつの間にか誰かを傷つけ、そして誰かの居場所を奪っていたのかもしれない。
 そう考えると、怒りよりも悲しみが、僕を満たした。僕は、歌うときにいつも座っていた場所に座り込んだ。
 足元にピックが一枚、落ちていた。右手を伸ばそうとして、痛みのせいでその状態に気づき、左の手を伸ばしてそれを拾った。それは見覚えのない真新しいピックだった。
 冷たい風が吹いた。誰かの声が聞こえたような気がした。辺りを見回したあとで気づくと、いつのまにか彼女が僕の前に立っていた。
『腕……』小さな声で彼女が言った。彼女は月に照らされて、白く輝いていた。
『めぐみ……』
『腕……』
『あ、ああ、折れてるんだってさ。まいったよ』僕は目を伏せ、笑いながら言った。
『あたしの……せい?』彼女が、弱々しい声で言った。
『え?』僕は、彼女が消えてしまいそうな気がして、顔を上げて彼女を見た。彼女はそこにいたけれど、本当に消えてしまうのではないかと思うほど、はかなげに見えた。
『あたしのせいで、先生の腕が折れたと?』
『……あたしが歌ったから、先生の腕が折れたと?あたしが、あたしが居たから………』
 彼女の目から、大きな涙が落ちた。そんな表情は彼女に相応しくないように、僕には思えた。僕は立ち上がると、彼女の頭に左手をのせた。想像していたとおりの柔らかい髪。そのふわりとした手触りが、さっきまで僕を満たしていた悲しみを薄めていくのを感じた。
『めぐみ、ごめん』
 僕の言葉に驚いたように、彼女が顔を上げた。涙で潤む瞳が月を映した。
『黙ってたけど、僕はこの街を出るんだ』
『今度の春からは働き始めなきゃいけない。だから、この街を出なきゃいけない。もう、ギターを弾いて、歌ってられない』
 彼女は何も言わずに僕を見つめていた。
『だから、もうめぐみと一緒に歌えないんだ』
 彼女が顔を伏せた。静かに時間が流れた。
『……あたしが、居なかったら』彼女が呟いた。
 僕は、左手に力を込めて、彼女の髪の毛をくしゃくしゃにした。彼女がまた顔を上げて僕を見た。
『めぐみが居なかったら、僕は、とうの昔に歌うのを止めてたよ。もし、この腕がめぐみのせいだとしても、僕は全然気にしてない』
『腕一本では足りないくらいのモノを僕は、めぐみにもらったから』
『何を?』涙を右手で拭って、彼女が言った。
『僕一人では、手に入れられなかった時間』
 彼女が右手で、ごしごしと目元をこすった。手を離したときには、目が真っ赤になっていた。僕はその表情を見て、思わず吹き出してしまった。それは、歌っているときとは違って、年相応の子供のような表情だったから。
『何で笑うと?』
 不満そうに彼女は言った。それでも、僕が笑い止まないのを見て、僕を睨んだ。けれど、その後で、すぐに吹き出した。忍び寄ろうとする悲しみを寄せつけないような、まぶしい笑顔だった。
 その夜が終わって、僕達の時間が終わって、元の街で働くようになってから、僕は何度もあの笑顔を思い出した。そして、その度にあの日、楽譜立てで殴られたギターのたてた音が聞こえた。
 それは、とても空虚な音だった。そして、それこそが、あのときの僕が選んだ音だった。


『よく、わからんけど……』
 いつもの場所に並んで座って、いろんなことを話した後で、彼女が言った。
『せんせの音だけが、あたしの中に入ってきた。せんせの音でなら、自然に歌えた』
『うん』
『でも、せんせは行っちゃうんだよね』
『うん』
『あたしは、また居場所がなくなる』めぐみが小さな声で言った。
『なあ、めぐみ』
『みんなは、僕のギターを聴きに来てたわけじゃない。僕の歌を聴きに来てたわけじゃない』
 彼女が僕を見た。白い吐息が、ひとつ洩れて、すっと消えた。
『じゃあ問題』
『えっ?』
『みんなは何を聴きに来てたでしょう?』僕はわざと明るい声で言った。
『………の…た?』
『聞こえないよ。大きな声で』
『……たしの…た』
『もっと、大きな声で。歌ってるときみたいに』
『あたしのうた!』
 彼女がそう言って、僕を見た。僕は大きく頷いて見せた。
『だったら、めぐみの居場所はわかるね?』
 僕の問いに彼女は頷いた。
『大丈夫。めぐみの歌は、きっとみんなに届くから』














『笑わない私は、ここに居ちゃいけないんですか?』

………居てもいいのか悪いのかなんて、あたしに決められるわけがない。どこがあんたの居場所かなんて、あたしにわかるわけない。何であたしに訊くのかもわからない。でも、あたしの大好きな歌の歌詞にこういうのがある。


 目を開いて よく見て
 耳を澄ませて よく聞いて
 どんなに暗い夜でも どんなに眩しい朝でも
 見ようと思えば見ることができる
 どんな雑踏の中でも 耳に痛いような静寂の中でも
 聞こうと思えば聞くことができるんだ
 大切なものは そこにあるから
 探しものは 必ず見つかるから 


 昔、全然冴えないギターを弾く人が、そんなこと歌ってた。たぶん、そんなに間違ったことは言ってないと思う。ギターは下手だったけど、とてもやさしい人だったから。

…………………………………………………………………………………………………。

 曲!曲行くよ、曲。ていうか、ギター貸して、ギター。
 新曲、アルバム用の曲演るよ!うっせ、いいだろ、生演するぐらい。失礼っ!ジャーマネがうるさいこと言うからさ。
 うっし、チューニング合ってる?ま、いいか、大体で。
 いい、よく聴いてね。耳かっぽじって、聴きなさいね。特に、No name!あんた特によく聴くように。
 行くよ!タイトルは……














「……信じられん」心底驚いたという声で、隆明が言った。
「えっ?」
「めぐが他人の相談に応えとう」
 その呟きを聞いて、僕は思わず吹き出しそうになった。こんな乱暴なやり方は、彼女に相応しかったけれど、そして、それは誰かの悩みに応えるというには程遠いことのような気がしたけれど、でも、確かに彼女は応えているのだろう。彼女なりのやり方で。
「しかし、全然冴えないギターを弾く人って……」
 僕が漏らした言葉を聞いて、隆明が笑い出した。
「さっきの歌詞、知っとうよ。よく、めぐが歌いよった」
 やっとそれだけ言うと、こらえきれないというように、隆明は笑い続けた。
「全然、まで付けんでも良かろうにねえ」
「そんなに笑うなよ、隆明」
 僕が言っても、彼の笑いは止まらなかった。大きな声で笑い続ける隆明に気をひかれたのだろうか、大学生らしいカップルが僕達に近づいてきた。そして、僕の腕の中にある、最近やっと馴染んできたギブソンに目を止めて、女の子の方が言った。
「今日はもう歌わないんですか?」
 僕は、隆明を睨んでから、二人に言った。
「歌うよ。ちょっと長い休憩だったけど、また歌う。よかったら聴いていってよ」
 隆明が、やっと笑いを収めて、僕を見た。まだ、何かの拍子に笑い出しそうな表情をしていた。
 僕は、ひとつ咳払いをしてから、夜空を見上げた。高い空に丸い月が浮かんでいた。
 それは、また新しい表情を僕に見せてくれている、そんな気がした。
 二人に向き直って、僕は言った。
「じゃあ、歌うよ。タイトルは……」




















Moonlight Drive





















「……何とかなったすね」
「…だろ?」
「しかも、メールとか、電話とかの反響スゴイんすけど」
「…だろ?」
「でも、もうこういうのは嫌ですね」
「バカ!」
「は?」
「だから、お前はいつまで経ってもADなんだよ。いいか、Dになりたかったらな、いつも伸るか反るかくらいの気持ちでいけよ。いいか、インプロヴィゼーションってのがあってだな…」
「ていうか、ほとんど、反ってたでしょ?」
「………ま、そう言えないこともないかな…」
「スゴイ大穴が来たときってこんな感じっすよね」
「………」
「………お疲れした」
「………ああ、お疲れ」




















 わたしは、モヤモヤした気持ちを叩きつけるように、乱暴に楽屋の扉を閉じると、マネージャーの声を無視して、大股で局の裏口に向かった。
 いつもの夜警のおじさんが、今日は一段と元気だったねと声をかけて来たのに、思わず笑顔を返してしまって、そんな自分の反応にますます苛立つ。
 ここのおじさんは、ちょっと痩せて銀縁のメガネをかけていて、どことなく園長先生に似てるから、ついつい気を許してしまう。
 わたしが、自動ドアが開く間ももどかしく思いながら、急いで局の外に出ると、すぐに見慣れた車が目の前に止まった。
 運転席に座ったままで、洋平が助手席側のドアを開けてくれる。わたしが車に乗り込んで勢いよくドアを閉めるのを、洋平は笑顔を浮かべて見ていた。
「何?」わたしは、思わず強い口調で言ってしまう。
「ラジオ、聴いた」わたしの口調を気にする様子もなく、洋平が言う。
「だから?」さらに声を荒げてしまう。
 洋平は笑ったまま、左手の親指で後ろのシートを示す。そこには、わたしのギブソンと洋平のアコースティックが仲良く並んでいた。
「歌い足りないだろうと思ってさ」
 頭の中のモヤモヤがサーッと引いていった。懐かしい雑踏と冬の冷たい風を思い出した。わたしを呼んでくれた、最初のギターの音が聴こえた気がした。
「洋平!さすが洋平だね。洋平っ。洋平!!」
 わたしはそう言って、バシバシと洋平の左肩を叩いた。体の中から何かがこみ上げてきて、洋平のギターに合わせて歌いたくてたまらなくなった。
 痛いって、と言いながら、それでも笑顔を消さずに洋平が車を出す。
「よっし、行くよ!茅ヶ崎スペシャル・ライヴ会場へ!!」
 わたしは笑いながら、フロントガラスの向こう側を指さした。洋平がアクセルを踏み込んだ。
 長い坂を登りきる瞬間、高層ビル街の向こうに浮かぶ白い月が、わたし達を照らしているのが見えた。




















END




本作品はフィクションです。作中の施設名、団体名等は実在の物とは一切関係ありません。
註1:めぐみが孤児院出身というのは、オフィシャルな設定です。
註2:方言は特定の地域を意図したものではありません。ただ、雰囲気を出すためのものと思っていただけると嬉しいです。また、違和感のある方、イメージを傷つけられたという方にはお詫びをします。
ごめんなさい。





HID
(2001/05/07)

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