九月とは思えない強い陽射しに照らされて、わたしはキャップを目深にかぶりなおす。
 ホームに待つ、ベージュとくすんだ赤のツートンに塗り分けられた、三両編成の電車に乗り込む。
 冷房の入っていない車内では、古びた扇風機が生ぬるい空気を掻き回していた。
 普段のわたしなら文句のひとつも言ったに違いない。けれど、今はこの古い電車に乗ることさえ、うれしく思えた。
 肩にかけたバッグを放り出して、誰も座っていないシートに勢いよく座る。平日の午後の車内は、がらがらだった。
 わたしは錆の浮いた固い金具を押さえて、窓を開ける。
 窓から入る微かな風が、潮の香りを運んでくれた。








    
 Cry For The Moon 








 わたしは海辺を歩いていた。ときおり波が足元まで届き、サンダルを履いた指先をやわらかく、くすぐった。
 月が出ていた。東京なんかでは見ることのできない、大きく丸い月だった。
 波の音が聞こえた。一人で眠る夜には、うるさく感じたこともあるその音は、今はやさしくわたしを鎮めてくれるようだった。
 鼓動が早かった。不思議な気持ちだった。どこか落着かない、けれど、自分の一番深い所は、とても凪いでいる。そんな、生まれて初めて感じる気持ちだった。
 わたしの少し前を、あいつが歩いていた。
 あいつが立ち止まり、ゆっくりと振り向く。
 わたしは、鼓動が一層早くなるのを感じながら、あいつに手を伸ばす。




―――ジリリリリ




 いつもその先には進めなかった。現実の世界に戻るべき時間を知らせるベルが鳴り響き、わたしは、乱暴に枕元の目覚ましのストップ・ボタンを押す。
 ちょっとだけ夢の余韻に浸って、軽く頭を振り、勢いよく立ち上がる。
 カーテンを開く。あの海辺に比べれば、ずいぶん弱いけれど、でも確かに同じ太陽が今日もわたしを照らしてくれている。
 ベッドに立てかけたギブソン335にそっと手を触れる。冷やりとした弦の感触に、思わず笑みをこぼす。






 敵前逃亡のツケは、文字通りツケとして、わたしのスケジュールに反映されていた。
 ただ、それでも責任半分なんだぞ、と社長は言った。あとの半分の責任(というより3分の2以上らしいけど)は、元マネージャーが負わされたらしい。
 毎日、朝から夜まで仕事が詰まっていた。ときには分刻みのスケジュールをこなすこともあった。でも、それは思ったほどつらいことではなかった。
 もう、わたしは、無理してアイドルのフリをすることを止めていたから。そうしなくてもいいということを、あのときあいつに教えてもらったから。あの夜はその自信をくれたから。


 だから、くだらないインタビュアのくだらない質問には、ちゃんと、くだらないと言えたし、テレビの収録で他のアイドルがバカみたいに笑ってるのを見たときには、ちゃんと、バカみたいだと言えた。
 社長も新しいマネージャーもそんなわたしの正直すぎる反応に、特に文句は言わなかった。あるいは、また逃げ出されるよりはましだ、と思っていただけなのかもしれないけれど。
 本当にくだらない仕事も多かった、けれど、歌うことはわたしの歓びだった。
 それがどこだろうと関係ない。わたしが初めて弾き語りをしたあの駅前も、あの田舎の商店街のシャッターの前も、そして、眩しいライトに照らされる、テレビカメラの前も。
 わたしにとっては、歌うことのできる大切な場所でしかない。
 カラオケが用意されているテレビの歌番組でも、わたしはできるだけ、生のバンドを入れてもらえるよう頼んだ。そして、もちろん、口パクなんかじゃなく、きちんと自分で歌った。


 わたしは、今自分が何をしているのかを知っていたから、そして、これから何をしたいのかを知っていたから、だから、もう悩んだりはしなかった。立ち止まっている暇はなかった。






 ときどき、夢を見て、ちょっと寂しくなるとき以外は。








 始発駅から数えて三つ目の駅に電車が停まった。ゆっくりと開くスライド式のドアは、ここでの時間の流れを反映しているようだった。
 色褪せた風呂敷きで包んだ大きな荷物を背負った、良く日に焼けたお婆さんが、ゆっくりと電車に乗ってくる。
 この駅までに、電車に乗ってきた人がふたり、降りた人が一人。
 そんなことを数えている自分に気づいて、少しおかしくなる。
 わたしには意外と、こんな風にゆっくりと流れる時間が合うのかもしれない。そう思って、でも、すぐにその考えを取り消す。
 わたしが好きなのはこんな風に時間が流れる、この場所ではないことに気がついて。
 ここをいとおしく思うのは、あいつがいる場所に近いからだ、と気づいて。








 ドアを開けて、明かりも点けないままに玄関で靴を脱ぐ。暗いままの部屋を歩き、ベッドに勢いよく体を投げ出す。
 瞑った瞼の裏側がうすい銀色に染まっている。わたしはゆっくりと、目を開ける。
 ここではめずらしい大きな月が、空の真ん中に浮かんで、部屋の中を照らしていた。
 それは、いつも夢で見る月に似ていた。月が、何かを伝えたがっているように思えた。
『そうか』わたしは体を起こして、月を見上げる。
『そうだね』窓際まで歩いて、窓を開け放つ。
 ベランダに出て、銀の光を体一杯に浴びる。街の灯りで弱められてはいたけれど、それは間違いなく、夢で見るあの月が放つのと同じ光だった。
 わたしはギブソンを手に取り、あの街で良くうたった歌を弾いてみる。
 ギターに乗せて、小さな声で口ずさむ。
 月は黙ってわたしの歌を聴いてくれた。最後の一音をやさしく閉じて、わたしはつぶやく、心の中で。
『そろそろ、いいかもしれないね』








『あたし、明日から休むから』
『えっ?何?』
『だ〜か〜ら〜、あたし、明日から夏休み取るから』
 電話の向こう側でマネージャーが絶句する。
『じゃ、そういうことで、三日後には連絡するからね〜』
 そう言って、マネージャーの返事を待たずに携帯の電源を切る。ちょっと迷って、携帯をジャケットのポケットに入れる。
 右肩に小さなバッグ。そして、左手にはちょっと重いギター・ケース。
 ジリリと鳴り出した目覚ましのボタンを、ご苦労さんとつぶやきながら押し下げて、窓の外を見る。
 九月の太陽が、まだまだ夏だよと言いたげな顔で、街を照らしはじめていた。








 アナウンスが訛りの混じった言葉で目的の駅の名前を告げる。
 わたしは、思ったよりもずっと自分の鼓動が早くなっていることに気がつく。
 ここまで来てはじめて、自分がどんなにあいつと会いたいと思っていたのかを知る。
 あの手紙で、わたしの気持ちは伝わっていただろうか、今更のような不安が頭の中で回り出す。
 わたしのことなんか、すっかり忘れて、バンドに夢中になっているんじゃないだろうか。
 もしかしたら、突然消えてしまったわたしに腹を立てているかもしれない。わたしのことを嫌いになってしまったかもしれない。
 小さな不安が一瞬のうちに膨れ上がり、わたしの中で破裂しそうになる。
 軽い制動と共に、電車がホームに停まる。ドアがゆっくりと開く。
 開いたドアから風が吹き込む。
 潮の香りを微かにまとった、遠い海からの風が、わたしの髪をやわらかく揺らす。
 その風が、わたしの不安を運び去ってくれる。
 わたしは、小さなバッグを右肩に、ギター・ケースを左手に提げて電車を降りる。
 午後遅くのまだ強い陽射しが、一瞬のうちに、わたしに汗をかかせる。
 そうだ。キャップのつばを上げて、太陽を仰ぎ見ながら、わたしは思う。
 伝わってなかったなら、ちゃんと伝えればいい。忘れてしまっていたら、思い出させればいい。
 わたしのことを嫌いになってしまっていたなら、もう一度、好きになってもらえばいいんだ。
 わたしは、駆け出したくなる気持ちを押さえて、ゆっくりとホームを歩く。


 最初はなんて言えばいいだろう。そんなことを考える。


 きっと、あいつは驚くだろう。
 わたしは、素直に話せるだろうか。
 ずっと、会いたかったんだよ、と言えるだろうか。


 きっと、わたしは、言わなくていいことまで言ってしまうだろう。
 つまらない強がりとか、口にしなくていいでまかせを並べてしまうかもしれない。






――でもね。






 改札を出て、駅前に立つ。
 あの日、泣きながらこの街を出た日の空気と、何も変っていない。そんな気がする。
 すぐにでも、あいつの弾くギターが聴こえてきそうな気がする。


 きっと、わたしは、素直にはなれないだろう。
 君に会いたくてここまで来た、とは言えないだろう。
 でも、本当の気持ちはひとつ。
 ずっと奥にある、この気持ちには、












――もう、嘘はつかないよ。






Cry For The Moon
END



HID
(2000/09/01)

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