“流星ビバップ”
―― あ、夏紀?
――うん、わたし
――おごり決定だよ
――そう
――夏紀が思ってる通り
――約束、だったよね
――え?
――へへ、らしくないね
――うん、平気に決まってるよ
――――――――――――――
わたしは昨日ふられた。
六年越しの恋愛ってやつ。じわじわと緩慢に積み重なった恋心。
笑えるくらいのすれ違いと、ばかばかしい程の盲目さ。
そう、誰もが一度は通るのかもしれない。幼くて、でも、身を滅ぼすくらいに純粋な。
そんな、恋。
――――――――――――――
あれは十月だった。
高校三年生の十月。進学組のわたしの周囲はそろそろ慌ただしくなりはじめていた。
普通と比べてかなり呑気な校風のこの高校でも、さすがに、この時期になるとみんな目の色が変わってくる。
秋から冬へと変わってゆく季節。でも、それはあまりに巧妙で、あまりに緩慢で、その中に身を置く人でさえ、容易にその変化に気づくことはない。
そして、人々は毎年のようにこう言うんだ。
「いつのまにか、すっかり寒くなったねえ」と。
違うよね。誰にともなくわたしは語りかけたくなる。
違うんだよ、いつのまにかじゃない、そんな言葉は季節に失礼だよ。
彼らがどんなにゆっくりと積み重ねているのか、彼らがどんなに我慢強く、自らを変えていくのか、それを知っているのならば、
そんなことは言えないはずだよ。
それを毎日見ていれば、“いつのまにか”なんて言えないはず。
そんなことを考えて、ふと笑いたくなる。
どちらにしても同じことなんだよね。今日は今日。昨日は昨日。
結局のところ、昨日何をしていても、今日にどれほどの影響も与えられはしないんだ。
正しいとか正しくないとかは関係ないんだ。これは実感だから。
わたしがそう思って、世界もそうある以上、それは揺るぎのない真実なんだよ。
ねえ、わかる?
わかるはずないよね、だって、わたしにもよくわからないもの。
そう、十月の話。
わたしは二学期から予備校通いをはじめた。特に必要に迫られてたわけじゃない。
実際、模試やなんかの志望校判定ではBより落ちたことなかったから。
たぶん、そのままなんとなく受験をしても大丈夫ではあったんだろう。
でも、予備校に通いはじめた。
ひとつは受験生の雰囲気が味わいたいという、ちょっと不謹慎な動機。
もうひとつは、淡い期待から。
昔馴染みとの再会。
選択肢の少ないこの辺の予備校事情では、それは容易に引き起こされる偶然。
――淡い期待。それが、ふたつめの理由。
期待は予感にすりかわって、あっけないくらい簡単に現実に変わったんだ。
最初は焦らすように、大して懐かしくもない人との再会から。
「よう、冬野、久し振り」
誰だったっけっていうくらいの知り合い。
「久し振り、元気だった?」
そんなお定まりのあいさつ。そして、それから、近況報告。
――誰が誰とつき合ってるとか、誰と誰は別れたとか、彼は地元の大学を受けるとか、彼女は東京に行くんだよとか。
あまり、こういうことに意味はないような気もするんだけど、でも、つきあいっていうのは大事だからね。
自分自身にそう言い聞かせつつ、でも、その我慢も限界に近いくらいの時間を無駄話に費やした頃、
わたしが話を打ち切る言葉を口にしようとした時、唐突に彼が言った。
「そういや、この間、北川見かけたぜ」
その言葉は思っていたよりもずっと、わたしに響いてきた。
『不意打ちだったからだよ』そう心の中でつぶやいて、自分を落ち着かせる。体勢を立て直す。
「え、どこで」それはあまり上手くはいかなかったようで、わたしは間抜な問いを発してしまう。
おかしい。こんなに鼓動が早くなるほどのことじゃないはずなのに。
確かに、会いたいとは思っていた。そして、「淡い」というには可能性の高すぎる期待だとも思っていた。
けれど、それが現実になったときに、ここまで自分が動揺するのは計算外だった。
これじゃあ、これじゃあ、まるで――――。
すごい勢いで、わたしの中をいろんな思いが駆け巡る。でも、彼はそれに気づいた様子もなく答える。
「ここの自習室で」
そして、こう付け加えた。
「すっげえ綺麗な子と一緒だったぜ」
「はい、真田」
「ねえ、夏紀、聞いてよ」
「何?あいさつも無しにいきなり」
心のざわめきは結局、落ち着くこともなく、わたしは、予備校からの帰り道に電話を手にする。
「へへ、ビンゴだったよ」
夏紀の不平に取り合わずに話をつづける。
高校に入ってからの友達では一番仲のいい子。わたしがわたしのペースで付き合える大事な友達。
「え、なに、“焼けぼっくいに”ってやつ」
夏紀があまり女子高生っぽくない表現でわたしをからかう。
「バカ、そんなんじゃないけどさ」
ひとつゆっくりと息を吐く。
「...そんなんじゃないけど、うれしいじゃない」
少しの沈黙。携帯電話のノイズが際立つ一瞬。
「そう、よかったね、理恵」
――――――――――――――
「何、直接、会ったわけじゃなかったの?」
次の日の学校、朝の気だるい雰囲気が流れる教室に、夏紀の声が響き渡る。
『あー、真田うるさい、頭に響く』、と隣の席の男子から、すかさずつっこまれる程の大きな声。
「え、言わなかったっけ?“予備校で見かけた”って話を聞いただけだよ」
「で、その話を聞いただけでうれしくなって電話してきたんだ?」
「別にいいじゃない」
「あんたねえ」
すうっと大きく息を吸って、どんな大声で何を言われるかなと身構えたわたしに、思いの外、静かな声でこう言った。
「大丈夫なの?」
疑問符を浮かべて彼女を見返したわたしに、
「ちゃんとわかってるよね、あの頃のあんた達じゃないんだよ」と、つづけた。
聞き慣れたチャイムが鳴って、一日の授業が始まる。
自分の席に戻っていく夏紀のすらっとした後ろ姿を見送る。
170CM近い身長、しなやかで筋肉が程よくついた脚。ついこの前の夏の大会まではテニス部のエースだった。
『あ、冬野さんだよね』
高校に入学してすぐの、全クラス合同のオリエンテーションで初めて話しかけられた。
背が高くて、整った目鼻立ち。嫌でも目立つ子だったから顔と名前ぐらいは知っていた。
『ね、高校ではテニスやらないの?』
『あなたのプレイ、好きだったんだよねえ』
人の返事を待たずに自分のペースで話を進める。
『テニスはやらないよ』
『そう、残念』
あっさりとそう言って、自分のクラスに戻っていった。
わたしは、隣でやり取りを見ていた同じ中学出身の友達に言った。
『なに、あれ?強引な子だよねえ』
その友達は静かな声で、こう言い放った。
『理恵がふたり』
それが、始まり。
それから、わたし達は徐々に仲良くなっていった。
夏紀はテニス部に入って、一年からレギュラーを取った。
彼女のテニスは見ていて気持ちいいくらいに攻撃的で、ある意味、彼女らしかった。
それを夏紀に言うと、いつも、こう返してきた。
『なに、言ってんの、中学の時の理恵のテニスの方がよっぽどだったよ』
そして、いつもこう続けた。
『ああ、ホントにあんたと一緒にテニスしたかったんだよねえ』
『“一緒に”じゃないでしょ。どうせ、わたしとゲームがしたかったんでしょ』
『あ、ばれた?』大きく笑って。
『パワー対パワー、これこそテニスの醍醐味よね』そう言って、ぎゅっとこぶしを握ってみせた。
結局のところ、わたしはラケットを握る羽目になった。
部活ではなく、部活後や休みの日の空いたテニスコートで。
もちろん、夏紀を相手に。
彼女とのテニスは楽しかった。
頭の中が真っ白になる。そんな気持ちを何度も味わった。
一年の頃、何度か夏紀に部に誘われた。でも、いつもわたしは断った。
どうしてだろう?今でもはっきりとした理由はわからない。
わたしがわからないのだから、世界中で誰一人その理由を知る人はいないんだろう。
でも、もしかしたら。
ひとりだけはその理由を教えてくれる人がいるかもしれない。
そう考えることがあった。
でも、きっと、その人はそれを言葉に表しては言えないだろう。
そういうのが苦手な人だから。
いや、それもただの思い込みに過ぎなかったような気もする。
愚かだった過去のわたしへの、後悔の気持ちから発した思い込み。
そういう幻想でしかなかったような気もする。
「おーい、戻って来ーい」
そう言いながら、夏紀がわたしの頭を軽くこづく。
一時間目と二時間目の合間の短い休憩時間。
「うるさいなあー、もう、人が物思いに沈んでるっていうのに」
「似合わないから止めといた方がいいよ」手をひらひらと左右に振りながら彼女が言う。
「夏紀に言われたくないよ」
なぜか満足そうな笑顔を浮かべる夏紀。
「で、次は体育だよ、ここで着替えるつもり?」
見ると教室に残っている女子はわたしと夏紀だけだった。
わたしは慌てて着替えを用意する。
夏紀は黙ってわたしを待っていてくれる。口元に微笑みを浮かべたままで。
つまるところそれは、既に放たれてしまった矢のようなもので、二度と戻ることはないのだろう。
そんなことは、わたしにだってわかっている。
でも、再び始まることだってあるかもしれない。あるいは、再び終わってしまうことだってあるかもしれない。
わたしの中にいつのまにか自分の場所をつくっていた、思い出の中の彼と、未だ言葉さえ交わしていない、今の現実の彼。
そのギャップにわたしが幻滅してしまうかもしれない。
あるいは(うまく想像できないんだけど)、彼は、まるっきり変わってしまってるかもしれない。
意味のない思考の繰り返し、わかってるよ、会ってみないと何も始まらないし、何も終わらないこと。
でも、全く考えてなかったんだよね。迂闊だったな。
―――キミの隣に誰かがいるなんて。
「理恵、ボール!」
誰かの呼ぶ声に我に返る。
わたしの横、20CMくらいのところで、すごい勢いでバスケットボールがバウンドする。
「大丈夫〜?」
わたしはその声に大きく手を振って答える。
それが合図だったかのように、体育館の中に音が戻ってくる。
シューズが床を捉えるキュッという音と、ボールが床に叩き付けられるダムッダムッという音。そして、みんなの叫ぶ声。
わたしは、じっとシューズの爪先を見つめる。ひざを抱えて、体をぎゅっと丸めるようにして。
「おーい、」
いつの間にわたしの後ろに回ったのだろう、夏紀がグリグリとバスケットボールを頭に押し付けてくる。
「ちょ、もっと縮んだらどうするのよ」
わたしの払いのけるような仕草に呼応して、彼女はそれを止めて、隣にストンと座る。
「ずいぶんと動揺してるようだねえ」ふざけた調子で夏紀が言う。
わたしはふっと顔を上げる。いつものような軽口も出てこない。
もう一度顔を下げる。頷く仕草に見えるように、ゆっくりと。
「ま、仕方ないか。六年越しだっけ?」
軽い調子で夏紀がつづける。
体育館のざわめきの中でも、はっきりと耳に届く声。
しばらくの沈黙。じっと、わたしのことを待ってくれるような沈黙。
「うーん」わたしは手を組んで、腕を前に伸ばす。
「正直言って、わかんないんだよね、わたしにも」
膝を抱えるようにして、前かがみの姿勢で床に座った夏紀が、こっちを見る。
その大きくて漆黒の瞳がわたしを捉える。
「会えたらいいな、とは思ってた」
「会って話をしたいなとは思ってた」
「その先のことなんて考えてなかった」
「でも、あいつが同じ予備校にいるって聞いて動揺してるわたしがいた」
「隣に綺麗な子がいるって聞いて、もっと動揺してるわたしがいた」
「あいつに会っても、話しかけられる自信が無いよ」
「ね、理恵」
夏紀が言う。自分の爪先を掴むように、体を深く折り曲げた姿勢で。
「こう考えたらどうかな」
「あんた達が積み重ねた時間は、あのとき、離れ離れになったときに、流れ星になって旅立ったんだよ」
「流れ星の行き着く先なんて、きっと、流れ星自身にもわからないよね」
顔をこっちに向けて、わたしが頷くのを確認する。
「それどころか、一度手を離れた流れ星に、もう一度出会えることなんて滅多にないことだと思う」
「だからね、」
「行き着く先をちゃんと見届けなきゃ」
「理恵は、それにもう一度出会えたんだから」
そして、微笑んだ。普段はあまり見せることのない、母のような微笑みだった。
ねえ、キミはどれだけ憶えてるんだろう。
会えなかった時間の中で、どのくらい、わたしのことを思い描いてくれたかな。
夏紀の言う通り、あのとき、あの雪の日にわたし達の積み重ねた時間はわたし達の手を離れてしまった。
わたしがその手を離してしまったから。
それはきっと、取り返しのつかないことだったのだろう。
でも、流れ星が何らかの意志によって操られているとしたら、あるいは、彼自身が何らかの意志を持って、その軌道を決めているんだとしたら、あのとき、ふたりの手を離れた流れ星に再び巡り合えたのは、きっと幸福なことなんだろうね。
そして、何か意味のあることなんだろうね。
それはもしかしたら、わたしがあのとき、望んだことだったのかもしれない。
いくらかの別々の時間を経た後だったら、それを受け止める術を持ち得るはずという、無意識の願いを込めたものだったのかもしれない。
だから、
だからね、
きっと、わたしはその行き着く先を見届けなきゃいけないんだろうね。
怖いよ。
それは、やっぱり怖いよ。すべてを否定されたらどうしようとも思うよ。
でも、今、キミに背を向けると、もう一生、流れ星には巡りあえないような気がするから。
だから、わたしはわたしのままで、わたしの思う通りにキミに話しかけるよ。
ねえ、でもね。
すこし楽しみ。
また、キミと話せるのが、すこし楽しみ。
それもわたしのホントの気持ち。
――――――――――――――
「あんたねえ、遠慮っていうもんを知りなよね」
ふたりで、学校帰りに、テニスコート帰りに、よく寄った喫茶店。
でも、冬になってからは、受験の季節が来てからは、ここにふたりで来るのは久し振り。
「夏紀こそ、もっと“いたわりの心”っていうもんを持ちなよね」
「親友が大失恋して、その小さな胸を痛めてるっていうのにさ」
テーブルの上には、いろんな形のクリスタルの食器。
そのほとんどは、盛り付けられたものを綺麗に片づけられて、まるで、積み荷を下ろした船達のよう。
「ま、確かに」夏紀が妙に素直に折れてみせる。
わたしは満足気に頷く。
夏紀がそんなわたしをいたずらっぽい目で見て続ける。
「理恵の胸は小さいよね」
そして、ふたりで笑う。
店を出る頃、街はすっかり淡いグレーに沈んでいた。
冷たい風が、冬の主役は自分達だということを誇示するように、吹き抜ける。
年末の忙しない雰囲気にふさわしいような落ち着きのない風。
一瞬だけ、わたし達の体に触れて、また何処かへと去ってゆく永遠の旅人達。
それは、いつの冬にも巡り会うことが出来るような錯覚を人々に与える。
けれど、けして同じ風は吹かないことを、きっとキミは知ってるよね。
それに気づいたから、キミはそんなにしっかりと歩けるようになったんだろうね。
ぽんっと、夏紀の手袋をした手が、わたしの頭に置かれる。
ただでさえ身長差が10cm以上あるのに、夏紀はかかとの高いハーフ・ブーツを履いている。
自然と彼女の顔を見上げるような格好になる。
「一応、けしかけた友達のひとりとして言わせてもらうとさ」
夏紀が冷たい風に乗せようとするかのように、そっと言葉を紡ぐ。
「きっと、相手の見る眼がなかったんだよ」
「何、それ?」
「理恵は十分きれいだってこと」
わたしは思わず吹きだしてしまう。
「ねえ、夏紀、それ、口説いてるの?」
「あんたねえ、人がなぐさめてやろうと思って...」
強い口調で途中まで言って、でも、わたしの顔を見て、止めた。
そして、にっこりと笑った。
冷たい風にも、けして消されないような、あたたかい笑顔だった。
「たぶんね、これは必要なことだったんだと思う」
「昔、わたしが放り出してしまったことが戻ってきただけ」
「そして、戻ってきたときには、その姿が変わってしまっていた、それだけのこと」
でも、それは、変わらずあたたかいものだった。
すこし苦くて、すこしだけ疼くような痛みを伴って。
でも、わたしのずっと奥の方に大切に仕舞っておきたいようなものだったよ。
駅前の人通りの多い広場、夏紀は定期入れを手にしたまま、わたしの話を聞いてくれている。
「うん」わたしは大きく頷いてみせる。
「なんかすっきりしたよ」
夏紀が口元に微笑みを浮かべて頷く。
「“倒れるときは前のめり”だよ」
わたしは言う。
それを聞いて、夏紀も笑いながら言う。
「“転んでもただじゃ起きない”」
「それはなんか違うと思う」と、わたしも笑う。
冷たい風が、ふたりの笑みをどこか遠くへ運ぼうとするかのように吹き抜ける。
風に行き着く先があるのなら―――――――――。
そこでも、誰かが笑っていてくれればいいな、とわたしは思う。
結局のところ、流星の行く先なんて、大した問題じゃなかった。
だって、それはどこかに行き着くものではないのだから。
それは、ずっとずっと長い旅をつづけるもの。
あるいは、そこでずっと輝きつづけるもの。
いつまでも。
わたしが望む限り。
わたしに、それが見える限り。
〜BEBOP LIKE A SHOOTING STAR〜
“END”
【初出】1999/11/17 天國茶房/創作書房
【One Word】
半オリジナルというか、全オリジナルですね、これ(笑)
「流星ビバップ」という曲は実在します。小沢健二のうたです。
久しぶりに曲を聴いていて、それをモチーフに何か書きたくなりまして。
で、クリスマス3部作前後の理恵を書いてみました。
いかがでしょうか?
1999/11/17
HID
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