母の介護
1907年〔明治40年〕生まれ、女姓
性格
痴呆がでた
窃盗事件発生、母の弟・甥・姪出没
骨折した
めでたく退院
あげくの果ての緊急手術
近況
妻への暴言
お風呂の入り方
人間愛
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本人の性格
本人は若かりしころ、東京の読売病院で看護婦・婦長・助産婦をしていたせいか、責任感が強く、その為何でも自分がやらなければいけない、他人に任せられないようになってきている。

そのため、
家族に何か頼んでも、いつも傍にいて、なんだかんだと意見をいう。
頭の中は、何かしていても、先へ先へと思いをめぐらしている。
自分以外信用できない。
他人の有り難味が判らず、自分のことしか考えず、私ら夫婦を含め他の人の話には、一切耳 を傾けない。
聞いているようで聞いていない、頭の中は常に自分の思いをめぐらし、こちらの話が終わると 自分の思いを述べる。
自分の昔からの友人も、利用できるうちは利用し、邪魔になると、あの人はどうのこうのと批判ばかりする性格、それを他の友人に話すから、だんだん友人が来なくなる。
自分が1番上位の人間・他は自分より下位の人間、自分より上位の人、たとえば、医者などには愛想がよく、帰ると非難する
私たちから見れば、自分が地球の中心にいると言ったところ。
実家が何かしていたようで、自分もその一員として、かなりいばっていたようです。そのため、自分が1番えらい、と、いった具合で、誰に対しても命令調です。
この実家も他人に対して呼び捨て、誰々さんとか誰々君と言えない。私が居る時は君呼びをする。話方も、うんうんで、はいと言えないようです。
こんな感じですから、ごく普通の一般社会の付き合いがなく、常識が全然なく、判らなければ聞けばいいことと済ます母、判らなければ聞くと言っても、程度問題、その程度が判らないんです。
きつい言い方と、とれてしまいますが、本人がこうなるのも無理からぬ事情もあり、私は理解しているので誤解をしないでください。

痴呆の始まり
1998年10月下旬、老人の集まる病院の送迎バスに乗る途中、転んで腰を痛めた為、家で治療をする。
ここは、老人がよく集まる病院です。何しろ送迎バスが迎えに来てくれるのです。
病院に行く前日、玄関の照明がついているので、見てみると、夜中の12時頃、、病院に行く支度をして座っていることが何度かありました。
何かあるときは、(病院に行くときなど) 一日中、そのことに集中してしまい夜中に準備して待っているのです。
家で療養中腰にとこづれの気配が出てきました。寝返りをすると腰が痛いようで一方向で寝ていることも多かったからでしょう。私らの注意がたりなかったのですが、気をつけてください。
近所の医者に往診をお願いしましたが、母が老人の集まる病院で出してもらった薬を、『見せてはいけない』と注文をつけた。
先生が往診に来て薬を見せるが、いわく、これでは薬屋さんになれるな。
看護婦経験があるため、病院で薬をもらっても、自分で調整して飲んでおり数年前の薬まであります。それを見つけたので捨ててしまいました。
医者に塗り薬を頂き、消毒して、塗ってあげるが、薄く塗らないから、乾かないので直らないと文句をいいます。


事件発生
この自宅療養期間中、年金の記帳をする為、郵便局の通帳を預かろうとしたが、見つからない、よく捜すよういって本人も探したようだが見つからず、知らない間に、自分の甥っ子に再発行手続きを依頼、 母の周りには、いろんなものを入れるスーパーの袋が五つぐらいあり、あっちに入れてはこっちに入れるの繰り返し、箪笥のあるところに行っては、作業しており何処に何を整理したか、わからなくなるのです。

再発行手続き中、私が、この甥っ子に話して、一緒に探すことにした。 普段の行動を知っているのだから大体見当はつくのです。ご機嫌伺いに来る姪・甥達にはわからない部分です。
箪笥の中に市役所から送られてくる年金の袋が一杯あり、全部調べたら出てきたのです。
しかし、私が、通帳を盗んで、無くなったのがばれたから、戻したんだ・私を困らせようとしているんだ。と、甥に話しているわけです。母の変化を知らず、母の言いなりで言われたことをしてあげる。これが、私と親しい関係が後の断絶、普段の介護も知らず、私らの気持ちも判らす゜、電話で呼ばれれば、二、三日中には来て話をしている。忠告したのによく来ます。
立会人を何人付けても同じでしょうが、持ち物を探すときは必ず誰か居てもらわないと疑われるので注意しましょう。よく言われていることですけど、実感しました。

骨折
11月下旬に、トイレに行く時、急いでいたようで、自分の服を足で踏んで引っかかり転倒し右大腿部を骨折、運ぶときかなり痛がっていたが、翌日病院に入院し、骨折部分を金属で補強する手術をすることになりました。
手術後の、第一声、私の許可なく誰が手術を承諾した、です。
一週間経過し、母の弟、甥・姪・がよく来るようになり、来るとニコニコして喜んでいる。
私らに見せたこともないような笑顔・まあ、しょっちゅう、来るわけでないからこの位はいいかなと思ったが、これは介護側の間違い。私たちが少し楽したいと言う気持ちが出ていたのでしょう。
病院には、毎日私か奥さんが行っていたが、あれしてこれしてというばかり、幼少から大事にされていたのでしょう。ともかく、わがまま
一人のときは結構動いている様子、車イスも自分で走らせいるようだ。
自宅に、私がいないとき、母の甥が来て、嫁さんに話して、通帳・認印・指輪を叔母さんに頼まれたので持っていきますといって持ち出しした。
我が家に、私の居ないとき、これが逆の立場だったらどう思うか、私ら夫婦が信用できないのでしょう。
皆さん方は、このように、叔父・叔母・甥・姪が間に入って来るときは、最初に、介護のためだけと認識させなければ駄目です。金銭は、一切介入させないようにしたほうがよい。私は、この所を間違えてしまった。

毎日、病院には行って、手助けはしていましたが、夜、就寝するときなど布団の隅がどうのこうのとおかしな事を言う。
昼に食事の手伝いに行ったら、二人の姪がもう一人の姪が重病なんだからこちらに来る暇があるならそっちの手伝いしてあげればよいのです来ており、私が病室に入った途端、母を囲むようにして急に話題を変えようとしていたが、母はそれにはまだ気づかず滑稽であった。
私らから叔母さんを守ろうとさえ思える。内政干渉だ

その後、注意するようになり、看護婦さんに電話をしてもらい、私らが帰った後などに甥が来るようになりました。同室の患者さんが私らに教えてくれるのです。
看護婦さんに、普段見てもらっているので、お礼の意味で金銭を渡そうとしたようで、同室の人に頼んだが、この人が本当に渡したのか疑い始めてきた。このように、何でも自分が動かず 言い訳をして 人に頼むのです
まったく、困ってしまいました。
手術の傷口も癒えて、リハビリに行くようになりましたが、私たちが居ると、なんだかんだと注文します。
一人だと結構動いているのに

傷口もだいぶよくなったので、とこずれの手術をした。
1999年3月21日退院

めでたく退院
退院後も、私らに何か盗られると思っているのか、箪笥を開けたり閉めたり何かを確認している。私らが傍に居るのが判らないのかな

友人に、一人で何もできないから手伝ったもらいたいと電話、二階に上り、二人で探し物をしている。骨折の手術をしたのに感心するが、踏み外したらどうするつもりなのか、
帰るときには、風呂敷に何か包んで持ってかえる。こういうことが四回、それぞれ違う人にあげている
帰るときには、注意されるのがいやなのか、私らには何も言うなと念を押し帰している
親族を呼んでは、退院して帰ってきたら私のものが全然ないといっている。あげているんだから当然なくなっている。貰うほうもおかしい。母の状態を見ればわかるはずだ。
他人に物をあげるのは、私らにあげても捨てられてしまうと思っているからなのです。当然、不要なものばかりですから捨ててしまうでしょう。
母の姪二人が尋ねてきて、話相手をしていました。嬉しそうに、一日中大声出して話をしていました。ついでに母の身体の介護でもしてください
相談すれば直ぐに何かをしてくれる。私たちは、やれることはしてあげるが、意味のないことは言い聞かせやらない、 うるさいんでしょう。自分の思ったとおりに事が運ばなければいけないのです。その点、兄弟家族は、ハイハイと希望どおりしてあげる。
一週間でも、預けて、身の回り一切面倒見てもらおうかと嫁さんと話をしました。
自分の兄弟、甥・姪がくると、甥・姪に子供のことを聞いたり、ほめたり、卒業だからお祝いしなければなどといっている 孫を忘れているのでしょう
私らに、隠して何かをやりたがるのです。傍に居るのに判らないんですね

緊急手術
1999年5月 下旬になり、母が時々吐くようになり嫁さんがおかしいなと言い出した。
本人は、通じがないのでそのせいだといっていましたが、吐く回数が多くなり医者に行こうといっても頑として聞かず、昔、看護婦長などの経験があり、自己診断、医者から薬をもらっても自己調薬医者は私が決めると、のたまうばかり、この状態が、四、五日続き我慢できなくなり、本人から病院に連れて行ってと言われ行くがチアノーゼ状態でした。
直ぐカテーテルで胃の洗浄、出てきたものは汚物状態、ICUで状態を見ることとなった。
翌日のお昼頃、病院から腸の手術を要すとのこと 〔高齢なので手術中逝くかも知れないと言われた〕、 緊急にやらないといけないので直ぐ手術となった。手術後、ICUでは何本もの点滴が吊り下がっていた。
今度は、内科の手術なので、今までの整形外科病棟よりも手伝いがかなり楽であった
蒸し暑い季節なので、病院のほうが空調の関係で過ごしやすいようだが7月19日退院です
今回は非常に楽であった。しかし93歳で一年間の間に三回の手術です。この体力、この生命力お見事と言う他言葉はありません。身体の調子も腸の手術をしてからは最高潮です。
三度三度の食事も私ら以上、痴呆で出されれば食べるとは違います。
麻酔で少しおかしくなるのも当然です
退院後は、親族によく電話をするようになり、翌日には来てもらう。何か心配事?があれば夜中に起きて瞑想にふけっています。
気になることがあるとずっとそのことについて思い巡らし、翌日には電話です。
痴呆も進んだのかな

近況
2000年9月現在、 一年中、家に閉じこもるのもいけないので、デイ・ケアー施設を数箇所見学、ちよっと遠いがクレインという老人健康保健施設が環境のよい所にあつたので、お世話になるようにした。
 毎週一度ですが行くようになりました。おなじ老人が集まるので会話も合うし、リハビリ、催しなどありお年寄りには楽しいと思うが、入所している人たちは、お盆・暮れにも家族の下に帰るのは4,5人とのことで可哀想に思った。
 私も時には施設に入れてしまおうかと思ったときがありましたが、母の性格上孤立する可能性もあるので止めました。職員の方々もかなりの激務のようです。満足に昼休みも取れないよです。解りますねなにしろほとんど痴呆なんですから、流行語になった3K以上だと思います。こういpkurisumaseう職場にも、高校を卒業した女性がテキパキやつている。コギャルコギャルでも高校位はいいじゃないか、だれでも若いころは年配者から非難されていたのだから、
 お風呂にも入れるので、私らとすれば、助かっています。冬場のお風呂は危険ですからね。 私が、母に相談されれば親族に頼めというため、最近は親族も来なくなった
母は、一分前のことがもうわからない、自分では分かっているつもりですが、幼児が何で、何で、と聞くような状態です。 いらいらしてきます。

入浴
デイ・ケアー施設での入浴が、じぶんの思うようにできない為、休みがちとなる、風呂を直したいと相談していた為、意地悪だが、こちらからは何一つ言わず、デイに行かないと風呂に入れないよといじめると、いやいや行きます。いじめるといってもソフトに言っています。怒るわけではないのです。8月になり風呂の改修をした冬場が困るな。 風呂に、いれる準備が驚きです。タライ三個。桶二個。タオル類最低五枚、入浴時間ほぼ一時間。

妻への暴言
私の父が入院したとき、妻はパートではあるが勤務していました。病院は遠くないので、夕方いけるのですが、付いていなくていいのかと口をだす。自分は何もせぬくせに、口だけは出す。
非常識な母だから、言ってはいけないことを口にする、妻に対して 「・・・さん、おとうさんを殺す気」 この一言が母の全て、これは母がまだ正常なときの言動
私に言えないので妻に言う。このように自分以外は見下す性格、張り飛ばしてやろうとまで思った。
信用できるのは自分の兄弟・甥・姪。
最近は東京に居る姉がいろいろ言う為、相手も来る回数が減ってきている。
姉が言うには、私が優しすぎるというが、ここが問題なところで、何か意見すると、私なんか早く死ねばいいのになどと、殺し文句を貫かすため、あまり傷つくことを言わないようにしているのです。本当なら蹴飛ばしてでもやりたいところですね、気持ちとしては、
でも、最近はかなり身体が弱ってきています。私らの話していることも理解できていないでしょう。
比較的順序を隔てて話せるのは昔のことだけです。私たちが誰なのか判別できないときがあります。

人間愛
こういう気持ち、介護している人にはあると思いますが、若いときの母を知らない私でも、1953年頃の写真を見るとなんとなく母が可哀想に思えるし、これが痴呆だなとあきらめがつきますね。なにを言っても本人が理解できないんですから本人の前では穏やかな気持ちでやるしかない
kurisumasu 気分悪くとも、いろんな事情があったのだから人間愛で介護する
明治・大正・昭和・平成激動期に頑張ってきたのです。
ここまで生きてこられた人、日本で何人くらい居るのでしょうね
くどいですがこの年で、一年に三度の手術お見事
私にはできません。この、のほほんとした時代に、生きてる人間ですから。
しかし・・・・・・・
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