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◆『二律背反』

 
ANTINOMY 

*『二律背反』にりつはいはん:相等しい妥当性をもつ前提に立った二つの原理や推論が互いに矛盾し合うこと。
カントが提出した「世界は有限である」と「世界は無限である」という矛盾した二つの命題の類。(国語大辞典、小学館)

1.迷路の断片

 ヒースロー空港からロンドンでテムズリンクに乗り替えて北へ。窮屈な座席から車窓の菜の花や牧草地を二時間あまりも眺めたころ、
ジェイドは聞き慣れていない訛りの英語で話し掛けられ、弾かれたように左後を振り返った。

「おなか空いてないかい、おいしいよ」

 一瞬、視界が揺らぐ。しかしすぐ、自分の孫にでも語りかけるかのように、老婦人が満面の笑顔で向かいの座席から身を乗り出していることがわかった。
いつ同席したのか目を細めて思い出そうとするジェイドを気に留める様子もなく、小さな掌にジェリービーンズをこぼれるほどに盛って差し出している。

「あ…Dan……Thank you.」

笑顔に気圧され、ジェイドは反射的に礼を述べた。まだ暗い時分からこうして座っているのでむしろ喉の方が乾いているのだが…と思いながら、遠慮がちに手を伸す。

 あの超人オリンピックから2年、身長も伸びた。骨格もすでに少年のそれではない。一人旅には慣れているが気安く人に話し掛けられたことはない。
何が婦人の琴線に触れたのか。子どもっぽく見えたのか。髪型のせいか。それとも物欲しげにしていたのか。そんなことを思いながら出された極彩色の駄菓子の
ひとつを指で摘んでじっと見つめる。その間もしきりと婦人がせかすように頷くので、結局勧められるままにありったけを両手で受け取り、急いで口の中に放り込んだ。

 調子を合わせて自分も頷きながら、さも美味しいです、と言わんばかりに一杯で物を言えない口角を引き上げて見せる。想像していた通りの歯ごたえは
光沢を持った薄い外側だけだ。色合いの派手さとは裏腹に、かすかな香料の香りを除けば甘さ自体には何のひねりもない。単純な砂糖の味がジェイドを驚かせ、
また脱力させた。(この程度のものなのだ。今の自分には何の意味もない。)

 ジェイドは合成着色料や保存料を使った食べ物の摂取を一切禁じられて育った。昔、珍しくヘルガおばさんの肉屋が閉まっていたとき、空腹によろめく小さな
ジェイドを見かねた他の店の主人が、美味そうだが今思うと少し発色が良すぎるヴルストを振舞ってくれたことがあった。そのあと運悪く2日ほど熱が出て、
後日ブロッケンJr.がもの凄い形相で店に怒鳴り込み、面識のない主人は驚いて警察に通報した。そんな三面記事紛いの騒動が起きるほど、師匠によるジェイドの
食事管理は厳しさを超えて常軌を逸していた。確かに成長過程にある超人の身体は押しなべて薬物や化学合成物といった人工物に弱いところがある。
奇妙な色の駄菓子などは言語道断で、ベル赤が発動され兼ねないタブーだったからねだったことは一度もない。ただ、薄着の上に鐘を縛り付けて駆け抜けた
真冬のベルリンで、柔らかそうなネル地を幾重にも着込んだ子どもが嬌声を上げて走り去ったあとに転がっていた、2、3粒鮮やかな光沢のジェリービーンズ。
灰色の空と濡れた石畳との間で、己とは異なる幸福の所在を示していたような色合いが、幼いジェイドの心を締め付けた。

 家に戻れば、満腹にはほど遠い量ではあったがJr.が心ばかりの食事を用意してくれていた。塩分の過剰摂取にも神経質な人だったから、ドイツで味付けの
薄い食品を揃えることは難しかっただろう。どんなときでも世話を焼いてくれる人というのは必ず居るものだ。求めようと、求めまいと関係なく。
確かその日のメニューはいつもと同じく少量の肉料理と数個のジャガイモだった。それでも盛り合わせのザワークラウトは十分にあり、酸味がきつくて
ジェイドの口には合わなかったが、空腹から夢中で頬張った。師匠はワインの少量入ったグラスだけを前にして向かいに座り、懸命に食べる弟子に微笑みかけて、
目が合うと優しく頷いた。

「おいしいだろ」
「あ…ええ、美味しいです。甘くて…」

 現実の向かい側に座っている人物は老齢という点を除けば彼と何の共通点も見当たらない。小奇麗だが明らかに体に合っていない古びた服。
長い人生で辛酸を舐めた月日もあったろうに、それを感じさせない大らかな笑顔。陽だまりで眠っていたような薄桃色の肌。小さくて暖かそうな掌。祖母という、
古びた家庭の象徴であるような存在。

「そうだろう。ハービーという孫が居てね、本当にこれが好きで…雑貨店に行くと……私の前を走って……転びそうで………」

 話し声より滑車の音の方がジェイドには大きく聞こえた。幼いころの記憶など、ここ数年思い出していなかった。じわりと額が汗ばむのがわかる。
長い間閉ざしていた埃まみれの私室を不意に覗かれたような不快感を隠し、老婦人には気付かれぬように笑顔を保ち、湧き上がってくる苛立ちを生唾で飲み下した。
相変わらず婦人は視線を宙に漂わせて幸せそうに独白を続けている。

 ジェイドの作り物の笑顔が限界に近づいたとき、列車は何かに躓いたように駅に停車した。通勤時間なのか、大勢が足早に乗り込んで車内は見る間に人で埋まった。
ジェイドが折り曲げた膝で押さえつけていた真向かいの空席は手付かずだったが、老婦人の前の席、ジェイドの左の狭い空間には細身の若い女性が腰を下ろし、
時折こちらを伺っている。ジェイドは息苦しくなった。昔Jr.と列車に乗ると彼はいつも狸寝入りをしたものだ。さすがに戦闘服は脱いで一般人と変わらない姿に
なっても、その体格と雰囲気はいやでも人目を引いた。ジェイドはJr.のすぐ傍に行儀良く腰をかけ、師匠を守るように睨みを利かせて女性たちの視線を
弾き返したものだった。それを思い出しながら、ジェイドは軽く腕を折りたたむように組んで目を閉じた。隣の女性も老婦人に捕まったようだ。
滑車の軋む音の合間に、低い声、高い声が浮かんでは消えていく。

 本当に眠ってしまい、気が付くと、列車は終点のヘレフォード駅に到着して乗客の大半が車両を降りるところだった。延べ3時間余りを窮屈な姿勢で過ごしたので
体の節々が痛む。ジェイドは腰をかけたまま腕を上げて伸びをして、首を鳴らし、頭を荷物棚に打ち付けないように腰をかがめて立ち上がった。
あの人懐こい老婦人の姿を目で探したが、姿はない。静けさの中でジェイドはゆっくりと荷物の棚に手を伸した。一人になることには慣れている。
ましてや自分はあの婦人を疎んじた。

 (疎んじた相手を、いつも俺は後になってから気にする。)ジェイドは己を嘲った。不名誉な負傷、師との別れ、友の死亡。そのあと、一人で過ごした1年半という
時間の長さ。オリンピックを始めあらゆる試合を欠場している今の自分。ベルリンからフランクフルトへ移り、偽名を使い、街のスポーツジムで子供に水泳を教えて
食いつないできた。ヘラクレスファクトリーとも、万太郎やキッド、チェックやガゼル、何かと心配をしてくれたルームメイトのクリオネとも連絡を取っていない。
一人の生活は気楽だ。寂しいと感じるならそれは生活から来る疲れのせいだ。日々のトレーニングと栄養管理を止めて体重は80キロに落ちたがむしろ体は軽くて
爽快だ。ジェイドは幾分ゆとりのできた胸ポケットからサングラスを取り出して顔に掛けた。駅を出ると、青い芝生に陽光が反射してグラス越しにも眩しかった。

 ジェイドは舌打ちをして立ち止まった。普段の生活には支障はないが、明るい光の中で体を動かすと極たまに平衡感覚を失うことがある。医師によれば脳内の
映像の認知系統と三半規管に障害が生じているのだそうだが、それ以外のことはわからずいつ治るとも言えないらしい。1年半この症状と付き合ってきた。
おそらく今後もそうだろう。ジェイドは、ブレザー姿の小柄な学生たちが自分を追い越すのを待って、再び歩き始めた。

 不安だった。かつて師匠は戦いにしか己の存在意義を感じられず、荒廃した生活を送った。友人は戦いを心から楽しみそれでいて、信じられない無残な方法で
死んでいった。俺は違う。自分の居場所を失うことは怖くない。(居場所はどこにでもあるはずだ。)傷つき打ちのめされることも怖くない。
(戦いの昂揚感は今でも自分を駆り立てる。)俺はただ、己が求めるものを壊してしまうことを恐れているのではないか。人を、平穏を、信じることを、それとも―。
どんなに自問しても、釈然としない胸の痞えは消えることがない。行動が全てを解決する。すがるような思いでジェイドはサングラスの上から軽く目頭を押さえ、
足を速めた。人にはそれぞれ天分がある。自分が超人として生まれたことにも必ず意味がある。戦いに限らない本当の意味が。そう信じたかった。
逃げているのではない。俺はそれを知りたいだけだ。第一この体のままではリングに戻れるはずがない。

 ジェイドは自分を納得させて上着のポケットに両手を突き入れた。うつむき加減に歩く癖はヘルメットを被らなくなるとすぐに身に付いた。地面を見るとも、
どこを見るともなく歩きながら、ポケットの中で1通の封書を握り締める。差出人の名前はない。宛名には、偽名のペーターではなく、
本名の「Jade」とはっきり明記されてある。住居を転々と変え、先生たちにも旧友にも捕まらないようにしているのに、この差出人はどうやって俺の居所を掴んだのか。
筆跡から書き手を判別しようにもタイプの文字では伺う術はない。

「ヘレフォードへ来い」

 手紙には、それだけが書かれていた。何があるというのだ。偶然に自分の過去を知ったフランクフルトの知人の悪戯かもしれない。
しかしジェイドには無視できなかった。最初、まさかレーラァではないかと思ったがすぐに否定した。あの人は何かを俺に伝えたいとき、こんな回りくどい方法は
取らない。それにタイプライーターを前にして座る姿などは想像できたものではない。こんな謎掛けのようなことをしそうな人物は知人の中でもそう多くはない。
策士っぽいところからロビンマスク先生ではないかとも疑った。十分あり得る。だが、それだけなら態々イギリスの田舎町くんだりまで来たりはしない。

「来い」

 そのわずかな文字に懐かしい香りを感じた。傲慢で、人を食ったところがあって、ぶっきらぼうでぞんざいで、しかも暖かい―。ジェイドは心の中に浮かぶ人物に
思いを馳せた。…あり得ない。消印は1ヶ月前だ。1年半前に死んだ者からどうやって手紙が届くというのだ。まさか…。ジェイドは考えが自分に都合の良い方に
どんどん膨らんでいくことにうろたえて、頭を振った。まぁいい、そのうちはっきりする。時間はまだある。

 封筒には、1枚の小さな切抜きも同封されていた。新聞の不動産物件の広告だ。写真は付いておらず、ただ小さな枠の中に所在地と延べ面積、連絡先、
放牧地である旨が書かれていた。1ヶ月の期間限定の売却物件だ。妙だと思い、念のためドイツからその番号に電話してみたが現在は取り扱われていない番号だった。
連絡のつかない売買物件。まさか新手のキャッチセールスではあるまいに―。何にしても、もうすぐわかる。ジェイドは道端の雑貨店に入り、
サンドイッチとソフトドリンクを買って店の主人に道を尋ねた。目的地まではまだ徒歩で三時間かかるという。バスに乗るように勧められたが、
ジェイドは丁寧に礼を言ってバス亭とは逆の方向に歩き出した。見知らぬ人と同じ座席に乗り合わせて気を使うより、一人で居るほうが空しさを味合わずに済む。
ここしばらくジェイドはそうやって暮らしてきた。誰にでも、どう求めても手に入らないものはある。それは曲げようのない事実だ。気にするな。
気にする方がおかしい。(俺が求めるものは決して手に入らない。)

 道は浅い運河に差し掛かった。川面に向けてベンチが等間隔に並んでいる。ジェイドはその一つに腰を下ろし、先ほど買ったサンドイッチと飲み物を
リュックの中から取り出した。昨日の昼にフランフクルトを立つ前ジムで軽くスナックを食べて以来のまともな食事だ。キュウリとチーズがはみ出した
大きな三角切りのパンにかぶりつく。不味い。ヘラクレスファクトリーの食堂でもしばしば同じように味の無いサンドイッチが出されたが、
当時は教育的配慮の一つだろうと解釈していた。だがもしかすると、単に英国出身のロビン先生の食習慣だったのかも知れない。
そう思うと、腹の底から笑いが込み上げてきた。

「我慢して食ってやるこたぁないぜ」

 ファクトリーの食堂でスカーフェイスにそう言われた。奴は出会った当初から食事には果物ばかりを選んでいたので、お返しにでかい図体に似合わずカワイイものを
とからかうと、自分は菜食主義だと言い捨てて俺の首に腕を廻し、オーバーボディ姿そのままに不敵な笑みを浮かべ、思い切り締め付けてきた。

「ジェイド、お前、腹ん中が素直じゃねぇんだよ。いい加減、楽になれ」

 クリオネとデッドが止めに入らなかったら場所を省みず乱闘に突入していたに違いない。チョークスリーバーの体勢に不用意に絡め捕られたことよりも、
素直じゃないと言われたことに狼狽した。誰からも素直でいい子だと評されて育った。養い親からも、Jr.からも、そして、ロビンマスクの教育観そのままに
規則だらけだったファクトリーでも。今思えば従順を装えば何かにつけて都合が良かった。あからさまに噴出させてしまいそうな不満を一時的に胸に押し込める
苦しさなど、その便利さに比べれば物の数ではなかった。押しなべて大人たちは自分を褒めて可愛がった。本当は、あいつの方がよほど素直だったのに。
どれだけ良い子だったかは別として。

 思い出し笑いが収まると、目じりには涙がうっすらと滲んでいた。ジェイドはそれを指で拭い、急いで残りのサンドイッチを胃に押し込んだ。―俺は自分を偽って
生きてきた。そして傷つけたくない大切な人を深く傷つけ、一番傷つけたくなかった自分自身も傷つけた。(本当におまえの言った通りだよ、スカー。)
見上げれば、太陽は天の頂点から少し西寄りだ。急ごう。もうじき到着する。膝上のパンくずを手で払い落して立ち上がろうとすると、食事を期待した面持ちの
鵞鳥やら白鳥やらが集まって来ていた。

「悪い、もう何も残ってないんだ」

 ジェイドはドイツ語でそう言って、鳥たちに両の掌を広げて見せた。鵞鳥はけたたましく警戒音を発しながら首を振って後退る。白鳥は黙ったままゆっくりと
足踏みをして留まっている。(まるで俺だな。)どちらの鳥を指すでもなく、ジェイドは心の中でつぶやいた。ANTINOMY―二律背反。以前、超人哲学の授業で
この言葉があがったとき、それまで眠っていたはずの後のスカーが急に薄目を開けて、からかうようにジェイドの背中を指で突付いた。

「おまえだ」

 それは誰の声だったのか。実際の声だったのか、それとも今の心の声なのか。記憶に紛れて判別しかねる曖昧で柔らかな響き―。(今日の俺はどうかしている。)
相変わらず喧しく鳴きたてる鵞鳥に軽く一瞥をくれて立ち去ろうとした視界の隅に、一瞬、灰色とも金色とも取れる閃光が見えた気がした。
(しっかりしろ。もう少しだ。)4月にしては風が冷たかった。ジェイドは握りしめた拳を唇に押し当てながら、自分にも聞こえない小さな声で1つの名前を口にした。
いま一番会いたい、真っ直ぐな目をした、その人の名前を。