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◆『What have you had ?』

 


 d・M・p 独特の、新入り歓迎式。

 新入りをまとめてリングに上げ、古参の者が、やはり複数でその相手をする。
 大抵、新入りはあっさり叩きのめされ、改めて自分たちの訪れた場所の恐ろしさを噛み締めることになるのだが……。

 
 その日のリングでは、例外と言っていい情景が生み出されていた。

 新入りのほとんどが倒れ伏す中。
 古参を逆に、叩き伏せる新入りが一人。

 しっかりと地を踏みしめ、時には空に舞って戦う。
 無表情な黒い鉄仮面と、そこから流れる金の髪。


「ほう…なかなかやるじゃねえか。ケビン…とかいったか?」
 d・M・p 幹部の死魔王が、感心したように呟いた。
「正義超人軍リーダー、ロビンマスクの血筋ってのは、伊達じゃないようだ」
 同じく幹部の麒麟男も、頷く。

 引き締まった身体が的確に、激しくもしなやかに動く様は、見る者の目に快くさえある。


 しかし。
 語り合う幹部連から少し離れて。
「ふ……ん」
 きつい、醒めた眼差しで、戦うケビンを見つめる男がいた。



*************************************************



 数ヶ月後。
 ケビンも、ようやくd・M・pでの生活に慣れてきていた。


 そんな彼が、一日の訓練を終え、MAXたちとも別れて、自分の宿舎へ戻ろうとしていた時。

「よう」
 声をかけられ、ケビンは振り向いた。

 背後に立っていたのは、琥珀色の目をした体格のいい男だった。
 名前は……マルス。


 直接話したことなどない。しかし、間違えようがない。
 リングに立つ彼は、他の誰よりも目立っていた。
 暗く陰湿なこの空間の中で、それと同じ雰囲気を確かに身につけながら、いっそそれが似合わぬと思える程、強い輝きを放つ男だ。
 まるで、この地下世界の太陽のような。それとも、その名の通り、戦いにまみれた世界に現われでた軍神のような。
 決して目を逸らせない、見失えない、強大な男。

 嫌な…男。


 仮面の中で、ケビンの表情がすっと醒める。
「何の用だ」

「つれねえなぁ……」
 冷ややかな彼に答えるマルスの声も、実は全く笑っていなかった。
 ただ、それと裏腹の軽い口調を崩さない。

「いや、別にたいしたことじゃないんだがよ……」
「何だ!」
 からかうような、嬲るような男の様子に、ケビンの視線が更に尖る。

 マルスは、軽く爪先で岩肌を蹴った。
「お前にちょっと、教えてやろうと思ってな」
「……何を?」
「……現実ってやつを!!」
「!!」

 その瞬間、風を切ってマルスがケビンに襲い掛かる。

 驚いたケビンは、咄嗟に飛び下がり、身構えようとしたが。
「ぐはっ!!」
 間髪入れずに鳩尾を蹴られ、蹲る。

 マルスは、そんな彼の頭部を片手で掴み上げ、岩に叩きつけた。

「がっ……!」
 苦痛に呻く。
 その上に、マルスが圧し掛かった。
 低く囁く。
「……ここでの現実ってやつをな、教えてやるよ。世間知らずのお坊ちゃん」
 
 身体を岩の上に組み敷き、鉄のマスクに手を伸ばす。
 
「くっ……!」
 当然、ケビンは跳ねのけようとした。
 しかし、彼を押さえつけるマルスの身体は、根が生えたように微動だにしない。
 ようやく背が伸び始めたばかりのケビンに比べ、マルスは既に2メートル近い身長を誇り、体格も大きい。
 更にそれだけではなく、パワーでもケビンは負けているようだった。押し倒されてしまってからでは、どうしようもない。
 結局、なす術も無く、ケビンはマスクを外された。

 ……金属の擦れる音を立て、転がるマスク。

 フルフェイスの鉄仮面が取り除かれて。
 マルスは、ヒュウと口笛を吹いた。


 澄み切った湖水を思わせる蒼の瞳が、下から男を睨みつける。

 くっきりとした二重の瞼。
 切れ長の目は蜜色の長い睫毛に縁取られ、薄い唇は形良い。
 通った鼻筋も顎の輪郭も、全てが繊細に、人に美を感じさせる造りになっている。
 その上、その個々のパーツを整え、包み込む何ともいえない上品な気色。


「……これが上流階級生まれの顔ってもんか。何とも言えねえな。飾っときたいくらいだ」
「だ、黙れ!!」

 
 ケビンは歯噛みしていた。
 不意を突かれたとはいえ、あまりにも他愛なくやられてしまった自分が情けなかった。
 それも、よりにもよって、この男に……


 そんな彼に、マルスは低く笑った。
「お前の戦い方じゃな、本当に強い相手にゃ、通用しないんだよ」
「な、何だと……?」
「クククク……」


 力任せに押してくる敵を翻弄する、理論に適った流麗な動き。
 実戦で、思いがけない敵の攻撃に対応する、理論無視の狂的な動き。

 ケビンはこの二つを自在に利用し、戦っているように見えるが、実はそうではない。
 実際には、彼は前者を押し殺し、後者のみを生かして戦うよう努めていた。

 しかし。
 恐らくは徹底的に叩き込まれ、基本動作として身体に染み付いた戦闘理論。
 もっとも的確と言えるそれに沿って自然に身体が反応するのに、無理に無視して荒っぽく動こうとしても、スムーズにいく訳が無い。

 結果、不意打ちに対するケビンの動きは、一瞬戸惑いを孕む。そして、大きな隙を作り出す。

 
「優等生のお坊ちゃんが、どんなに悪ぶったって所詮無駄なのさ。己に見合った穴を掘ってりゃいいんだよ」
「くっ……!」

 もちろん、レベルの違う者相手になら、それはどんな風にもごまかしが効く。
 そうでなくても、ゴングが鳴って同時に始まる戦いならば、最初の瞬間にしかない隙を叩かれる可能性は低くなる。

「けどな、ここではそんな、悠長な戦いばっかりじゃないんだよ」

 マルスのその言葉は、嘘ではなかった。
 リングでのんびり開始の合図を待つことなく、先手必勝で仕掛けても、ここでは卑怯と言われない。
 とはいえ、さすがに今マルスが行ったような、訓練に関係ない私的な闇討ちは一応禁じられている。
  特に、“あの正義超人ロビンマスクの息子”という利用価値を持つ存在をそんな闇討ちで殺してしまえば、
  上層部から咎めを受けることは必至だった。

 マルスは、そんなリスクを侵す気はなかった。その必要もない。

 マルスの望み。
 それは、ただ……


 明るい地上を離れて。
 暗い、地下の片隅で。


 マルスは、強引にケビンの顔を引き寄せた。
 そして。

「んんっ!? んぅ……!」

 突然唇を奪われ、蒼い瞳が大きく見開かれる。

「ん! んん……! ぅくっ!!」
「っって…!」
 噛みつかれ、口の端から血を零しながら、一旦マルスが引く。
 しかし、にやりと口角を吊り上げて笑う、その表情には余裕があった。

 一方のケビンの顔には、抑えきれない怯みの色がある。
「な、何をする!」
 完全に組み敷かれたまま精一杯強がってみせる声は、微かに震えていた。


「ククク……」
 マルスは嘲笑う。 
「分かんねえのか、ええ? お坊ちゃんよ…」


 ズボンのベルトを外され、自分より一回り大きな手が、中に潜り込んでくる。
 適当に前を弄られ、そのまま後ろへ……

「ぅあっ! なっ…お前!」


 マルスの望み。
 それは、上流の血統を受け継いで生まれ、何不自由なく育てられながら、それすら不満で逃げ出してきた、この綺麗で甘えた坊やを……
  汚し、傷つけ、自分の選択に対するこの上ない後悔のどん底に突き落としてやること。

 そのためには、命を奪うより、もっと手っ取り早い方法があった。


「ああっ…!」
 あらぬ場所への衝撃に、ケビンの身体がビクンッと引きつった。
「や、やめ、ろっ……!!」 

 マルスは構わず、秘所を抉った指を、更に突き動かす。
「くぅっ…やっ…」
「俺がお前に、男の味を教えてやるよ」


 そんな言葉の間にも、指を二本に増やされ、ケビンは強まる苦痛に呻いた。

 ……身体の奥底から。黒い恐怖が、じわじわと込み上げてくる。

 これまで、ずっと目を逸らしてきた。
 なかったことにして、忘れてしまいたかった。
 それでも拭い切れず、ケビンの中に、絶えず存在していた感情。

 それに支配されるのを嫌い、逃れようにも、圧し掛かる男の力が強く、全く身動き出来ない。
 まるで、大人に組み敷かれた子供のように……。


「ひっ……!!」

 どうしようもなく、身体が震える。

「や、やめろ! いやだ……!!」
「心配すんな、よくしてやるから……」

 もう恥も外聞もなく、涙声で叫ぶケビンに。
 声だけは優しく。両腕は容赦なく、震える腰を抱え込んで。

 白い双丘の間に、舌が差し込まれる。

「ひぃっ……い!!」

 本来秘められるべき恥部に、生温かく、蠢くものの感触。


 ――その瞬間、ケビンの中で、何かが切れた。

「いっいやあっっ!!」

 暗い、暗い地下空間の闇を裂き。
 甲高い、音程の狂った悲鳴が響き渡る。


「やぁっああああああぁぁぁっ!!!!」



*************************************************



 ………――あああっっっ!!


 やめてっ やめてええぇっ!!


 やめてやめてっ!  ダディっ やめて!!

 ごめんなさい ダディ!   ぼく いい子になるから

 もう“さそったり”しないから   だから やめて!!

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさあぁいぃっっ  ダディ!!

 ダディ!!  いやだよっ やめてよおぉっ!!  

 いい子になるよ!!  だから!!

 ダディィっっ!! 


 ぼく…  ぼく やだあああぁっっ!!





 不意に。
 頚骨が折れ曲がるのではないかというような衝撃が、頬を打って。

 ケビンはカハッと息を吐き。
 瞬きを繰り返した。

 ……気がついてみれば。
 背に這う感触は、上質の絹のそれではなく、硬い岩肌のもので。
 目の前にいるのは、端整な顔立ちに、湖水の蒼を湛えたあの父親ではない。
 琥珀の瞳を物騒な金色に輝かした、精悍で、とてつもなく物騒な男。

 ………静かに、現実が返ってくる。

 ケビンは熱く脹れ上がった頬を押さえ、上体を起こした。


 ああ… ここは、あの家ではない…………

 
 知らず、彼の顔に泣き笑いのような、歪んだ安堵の表情が浮かんでいた。


 そんなケビンに、マルスは大きな手を握り締めた。不機嫌な顔を見せる。
「……ったく」
 何かを嘲るような、唸り声を洩らす。

 ……急に。
 舌足らずな、まるで幼い子供のような調子で泣き出したケビンに、彼はこれは何か異常だと気付いた。
 そして、それ以上はもう何もせず、すぐに手を放したのだが。

 ケビンはそれでも虚ろな目でただただ暴れ、泣き叫んで許しを乞う。
 結局、半分そのまま気絶させるつもりで殴って、何とか正気に戻すことになった。


 錯乱したケビンが呼んだ相手に、マルスは何ともいえない不快感を覚えていた。

 そこに、どんな意味があるのか。
 それは、あまりに明白で。


「てめえ、八歳で家を出たって、言ってたよな?」 
「あ? あ、ああ……」

 突然、脈略のない質問をされ、半分呆けたままだったケビンは、素直な返答を返した。
 妙に機嫌の悪いマルスは、それを聞いて更に皮肉な顔になった。
「そんな歳の息子をね……。まったく、正義が聞いて呆れるぜ」
「え……? あっ」
 そこまで聞いて、ケビンはようやく、たった今、自分が誰の前で、一体何を口走っていたのかに気付いた。

 血の気の戻りつつあった顔が、再び一気に蒼褪める。
「ち、違う……」
「何が違うんだよ、え? お偉い正義超人軍のリーダーであるロビンマスクは、まだガキの息子を手籠めにして、それに耐えかねた息子は、
 遂に家をおん出て立派な悪行超人になりました。………そうだろ?」
「違う! そんなんじゃない!!」

 皮肉と嘲笑に満ちたマルスの言葉を、ケビンの叫びが遮った。

「違うんだ! あれは俺が悪いんだ。ダディの――親父のせいじゃあない!!」

 マルスが驚いた顔になる。
 しかし、ケビンは必死だった。
 焦りのあまり、舌をもつらせそうになりながら、それでも懸命に訴える。
「あれは俺が悪かったんだ。俺がもう少し…あと少し! ちゃんと出来ていれば、それで良かったんだ! 俺が親父を誘ったりしなければ――」
「八歳のガキが大人を誘うか、馬鹿」
「でも、俺のせいなんだよ! 俺が、ちゃんと出来なかったから!! ……だって、だってそうじゃなきゃ…親父があんな………!!」

 叫びながら、興奮を抑えきれず。
 自分で自分の両肩を抱え、がたがたと震え出したケビンに。

「おい、分かった。分かったからよ」

 ついさっきまでの狂ったような暴力の影はどこへやら。
 皮肉っぽくも、どこか幼子を宥めるような表情になったマルスが、軽くケビンの肩を叩いてやる。
「とりあえず、落ち着け」
「ん………」

 たった今、危うく自分を強姦しかけた男の、こだわりのない気安げな仕草に。
 かえってケビンは落ち着きを取り戻した。

 大きく、息を吸う。

 それを見届けてから、マルスは再び口を開いた。
「俺はてっきり、お前は自分の親父に嫌気がさして、家出したもんだとばっかり思ってたぜ?」
「ん……そうだ。その通りだよ」
「その割にお前、親父のこと、庇うな? まあ、違うって言うんならそれでもいいがね。さすがの俺も、お前の親父のやったことは、
  言語道断な幼児虐待だと思ったが?」
「ん――その通り、だよな」
「――分かってんじゃねえか」

 ケビンは苦笑した。
「分かってるんだよ、俺だって」

 どうしてだか、分からない。
 しかし、ケビンはこの時。
 何となく、これまで誰にも話したことのなかった思いを、この男相手にしゃべる気持ちになっていた。


「……俺のお袋はさ、俺を産んだせいで死んだんだ」
「ふうん?」
 唐突に話し出した彼に驚きも見せず、マルスは視線で先を促す。

「高齢出産でさ、身体の調子ももともとあんまり良くなくて、危ないって言われてたらしいんだけど。結局、俺を産んで、
  生まれた俺と入れ違いになって、死んじまった。……親父とお袋はすっごい仲のいい夫婦だったらしいからな。
  そうしてお袋を犠牲に生まれた俺を親父が嫌うのは、ある意味当然なのかもしれない。俺は…親父の望むような、
  親父に相応しい完璧な息子でもなかったし。でもそれにしたって、五歳の息子に手を出すのは……反則だよな」
「五歳、からだったのか?」
「ああ。それから、時々。――親父のしたことは反則だって、俺も頭では分かってるんだ。だから、家を出たんだ。でも……頭で分かってたって、
  ダメなんだなぁ、これが」


 いつの間にか。
 ケビンの肩は、マルスの広い胸にもたれかかり。
 マルスの左手は、ケビンの蜜色の髪を無造作に梳いていた。

 暗く湿った、血の匂いがする岩穴の中。
 気を許しあった親友か恋人同士のような和んだ雰囲気が、場違いに漂う。


「心がさぁ……何か、親父を庇うんだよな。あれでも血の繋がった俺の親なんだ。俺のこと、愛してない筈がない。俺がちゃんとしさえすれば、
  ちゃんと父親として、俺を可愛がってくれる筈。たとえ今日がダメでも、明日なら。それでダメならまた明日。明日、明日……」
 ケビンは、自分に呆れたように、首を振る。
「格闘技のスパルタ教育も含めて、されてることは毎日エスカレートしてたんだぜ? その内、俺もいい加減このまんまじゃ、
  命も危ないって気付いて、家を飛び出したんだが……」
「…………それでも、か?」
「ああ。あと一日、もう一日だけ我慢してれば、全てががらりと変ってたかもしれない。…なんて、甘えたことを考えてしまう訳だ。
  あんなクソ親父、こっちから憎んでやりたいと思うし、どうしようもなく、憎くて憎くてたまんない面も、確かにあるんだけどな」
「……なかなか大変なもんだなんだなあ、実の親子ってのも」

 マルスは、感に堪えたように大きく息を吐いた。

 そして。
 やはり唐突に言った。
「俺はさ、捨て子だったんだ。二親の顔は愚か、名前さえ知らねえ」

 思いがけない告白に、一瞬ケビンが身じろぐ。

 マルスは苦笑した。
「悪い、余計なこと言わせた…とか、つまんないこと言うなよ? 悪行超人には似合わねえ台詞だし、何よりお前、俺に謝って同情出来る程、
  まともな家庭環境で育ってねえだろうが」
「……んん、ん。まあ、そうかもな」
「そうだよ! ……それに、ここではそんなに珍しいことでもないしな。物心つくや否やでd・M・pに拾われてて、
  以来ずっとd・M・pでしごかれてるってやつ、多いぜ? 特に俺なんかはまあ、生活の中にいっつも戦いがあったっての、合ってたし。
  他で育つより、いい面もあったかもしれん」

 それもそうだ、とケビンも思った。

 まあ、育った環境の影響も大きいのだろうが。
 パワーも体格も規格外。
 何より楽しそうに、弱い相手を嬲り倒し、強い相手を捻じ伏せようとするこの男が、d・M・p以外の場所で育っていたら。
 社会の害悪以外の何ものにもならなかった筈だ。

 そんなケビンの考えを見透かしたかのように。
 マルスはこら、と彼の頭を軽く小突いた。

「……そんなわけで、自分の環境がどうしても我慢ならん、っていうんじゃないんだけどな。それでも、親の顔を知らない、
  どうして捨てられたのかも知らない、自分のルーツが全く分からない……ってのは、気持ちのいいもんじゃないぜ?  
  それにさっき言った通りで、俺はほとんど、ここ以外の世界を知らねえ」

 他の世界から隔離された、小さな密空間の中のことしか分からない、とマルスは言う。

「正義超人の甘っちょろさは気に入れねえが、悪行超人もなあ……。暗闇の中で敗北勢力が寄り集まって、正直いじましいと思わんこともない。
  けど俺は、そう思ったところで、ここ以外を知らないから、出て行くことが出来ない」
 
 自由で明るい、外の世界に憧れても。
 そもそも、選択肢が与えられていない。

「ま、ここが嫌いなわけじゃないし、どうしても嫌になったってんなら、俺は何が何でも出て行く。ただ、けっこう面倒ありそうだろ、それ」

 笑ってみせるマルスに、ケビンは何も言えなかった。
 現在の自分に科せられた枷について、笑って語れるのは並々なことではない。
 やっぱり強い男だと、密かに感嘆する。

「――で、そういう諸々を面白くねえ、と俺が思ってた時に、外を知ってる新入りが、鳴り物入りで入ってきたってわけだ」

 苦笑して。

「聞けば、正義超人の中でも特に名門エリートのお坊ちゃん。パパの愛のムチに耐えられなくて、拗ねて飛び出してきたなんていう。
  ……正直、ちょっとむかついたぜ。何を甘えてやがるって……な」
「……………」
「だがなぁ、俺には似合わん台詞だが…悪かったよ。人にはそれぞれ、事情ってもんがあるんだな。それがたとえ、どんなに甘ったれた、
  苦労知らずの坊ちゃんに見える奴でも、な」
「……坊ちゃん言うな」

 ぐしゃぐしゃ、と髪をかき混ぜてくるマルスに、怒ったような声を返しながら。
 ケビンは、自分自身の心情を振り返っていた。


 父親への恐怖という、未だに逃れえぬ悪夢に怯え。
 父親を憎もうとして、どうしても憎み切れず。
 心が、自分を責めて。痛くて。
 闇の中で息を殺すしかない、情けない、弱い自分。

 そんな自分に比べ、ただただ強く見えるこの男が、どれだけ妬ましかったことか。


 大きく、逞しく。身体だけではなく、心もきっと。
 かすり傷一つ負ったことのないような、とてつもなく強く華々しい男。
 
 表世界と裏世界の違いはあるにせよ。
 若い頃の父親は、こうだったのだろうと想像してしまうような。

 お前は、圧倒的な強者によって、踏みにじられたことなどないだろうと。
 解決できない悩みや不安を抱え、眠れぬ夜を過ごしたことなど、ないだろうと。
 
 
 そんな男に、また踏みにじられてしまう悔しさが、さっきの自分の心には溢れていた。
 幼い頃を思い出し、錯乱したのもきっと半分はそのせい。

 相手にも相手なりの悩みや苦しみがあって、相手なりに耐えているのだということが、分からなかった。

 もちろん、彼――マルスのしたことは、掛け値なしに酷いことだけれど。
 それをやったマルスの心中は、自分のそれ――相手の真実を無視した思い込みや妬み――と、まあ似たようなものだったと。

 ケビンはそう思う。


 だから。
 素直に謝ったマルスに対し。


「俺も、悪かったよ」
 ケビンも謝った。
 お前のこと、何の悩みもない、強大お気楽男と思い込んでいてと、後半部分は心で呟く。

「ん?」
 すると当然、マルスには伝わらない。彼は、不審そうな顔になった。

 構わず、続ける。
「あいこでいいさ。俺の方がちょっと損…かもしれんが」
「んん? 俺に何かしたのかよ、お前?」
「いいや? 俺は行動には移してない……けど。何かしてたと言えなくも…ない、のかな?」
「んだよ、それ」

 呆れたように、マルスが笑う。
  
「変な奴だなー」
「お前に、言われたくないな。何の脈絡もなく、いきなり俺に襲い掛かってきたくせに」
「だからさぁ、それは悪かったって……!!」

 笑いながら、それでも頭を掻いて、決まり悪そうに言うその様に。
 ケビンも、笑った。

 溜まっていたものを吐き出してしまった胸が、すっきりと酷く軽い。

 それは恐らく、マルスも同じだったのだろう。


 たいしておかしなこともないのに。
 二人は、いつの間にか。 

 その場に身を投げ出し、声を揃えてげらげらと笑い転げていたのである。




                                     Fin.