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◆『Sadness』

 

 いつも子供に対し、どこか冷ややかで、恐ろしいぐらい厳格な父だった。

 ――ロビン。マスクを外してごらん。

 そんな父が、自分も珍しくマスクを外して言うのに、逆らうことなど考えもしなかった。何の躊躇いもなく、即座にマスクを外す。


 ………露になる、薔薇色の頬。まだ、幼いままの輪郭。あどけない唇。


 いつもマスクに隠されている髪は、少し伸びていて、栗色の毛先が項まで垂れる。
 父はその髪に指を絡め、不気味な程に柔らかく、頬を撫でた。


 ………痺れるように指に走る、未熟な子供の、滑らかな肌の感触。
 


 ――ロビン……お前は、母に似ているな。

 それは、これまでにも時折父から聞いた台詞だった。

 父親似の妹、母親似の自分。
 
 その自分に似た母が、気弱で涙脆かった母が、父の厳しさに耐えかねて、幼い自分たちを残し、一介の庭師と情死していたことなど……この時は、
まだ知らなかった。
 
 ――本当に、似ている…………

 ただ、いつも異常な程厳しい父の、思いがけない優しい仕草が嬉しかった。
 何も知らず、無邪気に笑う自分の肩にかかる、父の手の重み。



 ………小さな影に、重なる大きな影。




 ――ダディ…………?




 その呟きは、誰のもの…………?
 




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 頭が、がんがんと割れるように痛む。



 額に手を当て、頭痛に伴い、込み上げてくる吐き気をこらえながら、ロビンは上体を起こした。


 ……眼の前に、傷つき、汚された白い小さな身体が、壊れた人形のように転がっていた。
 その蒼い、湖水の色を湛えた瞳は虚ろで、余計に無機物の印象を強めている。
 ……ぐしゃぐしゃになったシーツの上には、蜜色の髪が散らばっていた。

 それは、死んだ妻と同じ髪の色。


 不意に、耐え難い程の頭痛と吐き気が襲ってきて、ロビンは身をかがめ、よろめきながら立ち上がった。



 何度も膝を突きかけながら、どうにか部屋のドアを開け、廊下に逃れ出る。

 冷たく新しい廊下の空気のおかげで、ロビンは少し胸が楽になった。頭の痛みも、遠のく。
 彼は背を伸ばし、大きく息を吸った。
 それでも何故か消えない、異常な程の胸苦しさを抱えながら、窓の外に目を向ける。


 窓の外では、遠くに沈む夕日が、微かにその昏い残光を漂わせている。


 ……蒼い闇の空気の中で、窓ガラスは、半透明に透き通る巨大な鏡と化していた。



 その蒼い、冷ややかな鏡の中に映っていたのは。




 絶叫と叩き割られるガラスの音が、同時に辺りに響き渡った。




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 目的地に着いた時には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。


 少しでも早く着こうとタクシーを使ったことが、裏目に出ていた。空港を出てすぐに衝突事故に巻き込まれ、事情聴取やら何やらで、
すっかり遅くなってしまったのである。

 ウォーズマンは、酷く焦りながら、洋館の前階段を駆け上がった。

 この館は比較的簡素なもので、主に避暑の目的で夏季にのみ使用されている。
 館にいるのは、現在二人。
 彼の師匠ロビンマスクと、その息子ケビンマスク。
 この二人だけ。
 一緒に来る予定だった使用人や家庭教師が、身内の不幸や病気のため、四、五日遅れて着くことになったのだ。

 それが分かってすぐに、ロビンはたまたま近くにいたウォーズに連絡を取り、すぐに来てくれないかと頼んできた。
彼は、ケビンと二人きりになることを極端に恐れているのだ。
 以前、同じような状況で彼が犯してしまった過ちを、ウォーズも知っていた。それを抑えるために、彼が息子に多数の教師を付け、
過剰な訓練メニューを組んでいるのだということも。
 だから、自分の用事もそこそこに、ウォーズは適う限り早く、駆けつけてきたのだが。


 玄関の扉の前で、大柄な男の背を見つけ、ウォーズはこっそり、唇を噛んだ。
 男が振り向く。
「ああ、お前か」
「ネプチューンマン」
 意識して何でもないような声を作り、男の名前を呼ぶ。


 この男と師匠ロビンの現在の関係も、ウォーズは知っていた。

 ……互いが互いを縛ることなく、ただ気まぐれに抱き合い、情を交す。

 アリサが生きている頃からそうであったと知った時には、随分憤慨もしたが。
 ある程度ロビンのためには仕方のないことだというのも、理解はしている。


「あんたもロビンに呼ばれたのか?」
 それでも、感情的な不快感はどうしようもない。
「いいや? しかし、勝手に入ればいいことだからな」
 そんな彼の心の葛藤に構わず、言外に、ウォーズ同様、自分も扉の鍵を渡されているのだと告げる男に。
 ウォーズは、今度ははっきりと嫌な顔をした。
「ははは、仕方あるまい? 文句があるなら、お前の師匠に言うことだ」
「……別に、文句などない」
 押し殺したように言い、ウォーズは先に立って扉を開けた。


 彼が心で葛藤していられたのは、そこまでだった。


 暗くなっているのに灯り一つ点けない館の様子を、おかしいとは思っていたのだ。
 そのウォーズの不安が、階段を上がった二階正面、打ち砕かれた大きな窓ガラスによって裏付けられる。

 鋭い切り口を見せる、ガラスの破片。
 吹き込む風に揺れるカーテン。
 無地の筈のそれに咲く、黒い花模様。
 どこからか、絶え間なく続く水の音。

 玄関の扉一枚で遮られていた異常な光景を前に、ウォーズは息を呑んだが。

「…………」

 二階にある、無造作に開け放たれた部屋のドア。

 あれは確か、ケビンの部屋。

 
 思い至った瞬間、ウォーズは他を忘れ、階段を駆け上がっていた。



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 開け放たれたドアをくぐり。
 ウォーズが真っ暗な部屋の中に入ると。

 部屋の片隅のベッドの上に、更に暗く。シーツを被った小さな影が一つあった。

 戦闘マシーンである彼の鋭い感覚に、怯えた小動物を思わせる気配が伝わってくる。

「……………」

 どうしたらいいのか、分からない。

 必死に駆けつけてきたのに、ウォーズはそのまま途方に暮れてしまった。

 こんなにも小さなこの影――ケビンを怯えさせているのは、彼の父親なのである。それに対し、赤の他人であるウォーズに、一体何が出来るというのか。
 もちろん、ロビンが息子をうっとうしがって痛めつけているのならば、血の繋がりがどうあろうと、相手が尊敬する師匠であろうと。
意見もするし、場合によっては殴りもしようと思うのだが。

 そうではないことを、彼は知っている。

 愛妻アリサの命と引き換えるようにして生れてきた息子を、ロビンはその分、何よりも大切に思い、誰よりも愛している。
それなのに、抑え切れない衝動に駆られ、息子を虐待してしまう自分に、誰よりもロビン自身が一番苦しんでいる。

 どうしてそうなのか理由は分からないが、そんなロビンを知っていて、それ以上彼を責めることは、ウォーズには出来ない。
 誰よりも慈しんでくれる筈の父親に虐待され、怯えるケビンが憐れで憐れでならないが。

 こんな状況の中で、一体何をしてやったらいいのか。

 彼には分からなかった。


 それでも、見て取れる状況から、まだ幼く柔らかい身体が、かなり傷ついてしまっているだろうということは、想像できた。
 とりあえず、せめてその傷の手当てだけでもしようと。
 黙ったまま、おずおずとベッドに近づく。

 その、微かな足音を耳にしたらしい。膨らんだシーツの塊がびくっと震え、更に縮こまる。
「……ご…ごめんなさい……ごめんなさい……ごめ、んなさ……」
 零れ出るその小さな声に、ウォーズはたまらない気持ちになる。
「ケビン」
 歩み寄りながら、呼びかけた。
「ケビン、俺だよ。ウォーズマンだ」
 出来るだけ、優しく。怖がらせないように。
「知ってるだろ?」
 すると、寝台の上で、小さな影が起き上がった。
「…うぉず……?」
 くるまったシーツの間から、濡れた二つの瞳がウォーズを見つめている。
 ウォーズは、一生懸命言った。
「そうだよ。俺だよ、ケビン。」

 その途端。

「うわああああぁぁぁっっっ!!」
 激しい泣き声を上げながら、どん、と音を立てて、小さな身体がウォーズの胸にぶち当たってきた。
 あまりの勢いに、ウォーズは一瞬、尻餅をつきかける。
「ケ、ケビン?」
「うああっあっ! ウォ、ウォーズっっ、ウォズさぁっ、ああ!!」

 相手は、まだ幼い子供で。おまけに、少なからず肉体的にも傷を負っている筈で。
 そんなに強い力を、出せる筈がないのに。
 ぐいぐいと涙に濡れた顔を押し付け、小さな手がしがみ付くその強さに、かなりの痛みを覚える。

「ケビン、ケビン。大丈夫。もう大丈夫だから……」
 
 一体何が大丈夫なのか、自分でもさっぱり分からなかったが。

 とりあえずそう言って、ほとんど痙攣するように震える背中を、懸命にさする。
「ああぁっ!! ひくっ、うぅ、うぇっっえ!! えっええぇ!!」
 すると、ケビンは更に激しく泣き出し、よりいっそう強く、ウォーズにしがみ付く。
「ケ、ケビン……!」
 そんなケビンに、ウォーズもまた、更に激しく狼狽した。
 おろおろと視線をさ迷わせ、うろたえる。
「ケビン………」

 それでも。

 何の血の繋がりもない、醜いロボ超人である自分に。
 必死にしがみ付き、頼り切ってくる小さなケビンが。
 心底可哀想で可哀想で……………愛しくて。

 いつしか。

「ケビン、もう大丈夫だよ。俺がいるから。ここに、いるから……」

 精一杯、甘く優しく囁きながら。


 ウォーズは、泣きじゃくる小さな身体を、そっと抱き締めていた。
 




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 一方ネプチューンは、流れ出る水音を辿り、その源となっている部屋の方へと駆けつけていた。

 そこにあったのは、彼の予想とそれ程変らない情景だった。

 廊下から上品な色調の寝室まで、点々と続く赤い雫。飛び散るその雫は、更に半開きの扉で仕切られた、備え付けの浴室の中へと続いている。

 浴室の中には、水を流し続けるシャワーと、水を張ったバスタブに上体を投げ出した、男が一人。
 その男が両手を垂らすバスタブの水の色は、真紅。

 どれだけそうしていたのか。
 上から降り注ぐ水と溢れる水。
 その二つが入り混じって、浴室のタイルまでが真っ赤に染まってしまっている。

 ネプチューンは近づいて、ぐったりした身体を抱え起こした。
「ロビン。おい、ロビンマスク?」
 呼びかけに、返答はない。

 抱え上げた男の顔は、もともとあまり日に当たることがないため、酷く白い。
 それが今は失血のため、更に蒼白くなってしまっている。
 しかし一応、生命ある者の温もりを無くしてはいない。

 バスタブに漬かっていた男の手首は、傷だらけで相当無残な有様になっている。
 しかし、切ろうと思って切ったのではなく、恐らくは素手で窓ガラスを叩きつけ、結果として割れたガラスの欠片で切れただけだからだろう。
数の割に、そう深くはない。

 最高技術の手当てと超人の回復力がなければ、一生元通りに手が動くことはなかった。

 そう思わされたこともある、これまでの手首の傷に比べれば、今回はまだましな方である。


 やれやれと息をつき、浴室から男を運び出しかけて、彼は爪先で小さな薬瓶を蹴った。
 拾ってラベルを見て。
 意識のない男の、薄く形のいい唇に鼻を寄せれば。

 案の定、甘ったるい、花のような香り。

 高濃度の睡眠薬である。

「………念の入ったことだ」
 ネプチューンはもう一度、呆れたように溜め息をついた。



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 濃い、栗色の睫毛が、ぴくりと動く。

 蒼い、湖水のように蒼い瞳を開けて、ロビンはしばらく、自分の置かれた状況に戸惑うようだった。
 二、三度ゆっくりと瞬きして。

 見慣れた寝室の天井と、白いシーツ。
 ……ベッドサイドの椅子に座り、自分を覗き込んでいる、これまた見慣れた男の姿。

 それに、実態を失った不安な気分がすっと消えて、代わりに正しい現実の認識が、脳裏を走り過ぎる。
 そして彼はいきなり、寝台の上に跳ね起きようとした。
「っ………!」
 途端、身体を支えようとした手に、鋭い痛みが走り。
 そのまま小さく呻いて再び寝台に崩れ落ちる。

「この馬鹿」
 傍にいた男の呆れたような呟きは、ロビンの行動の、一体何に向けられていたものか。

 今度はやや慎重に手を動かしながら、呼びかける。
「ネプチューン………」
「何だ」
 いつも通り、そっけない男の返事。
 彼は、真新しいバスローブを着せられている自分と、両手首に巻きつけられた白い包帯を確かめながら、躊躇いがちに尋ねた。
「……ケビン、は…?」

 基本的に、男はロビンの家族に対して興味を示さない。しかし、それが彼の一人息子の名前であることくらいは知っている。

「さあ? しかし、お前の弟子が行ったからな。大丈夫だろう」
「そうか、ウォーズが……」

 安堵したように息を吐いて。
 飲め、と片手に持ったミネラルウォーターを煽り、唇を寄せてくる男に、ロビンは素直に気だるい身体を委ねた。

 この二人には珍しく、性的な色合いのない、軽い抱擁と口付け。

「ん………」
 ロビンの唇から零れた水の雫を、男が指先で拭う。
 
 そしてもう一度。
 ……同じことを繰り返す。

 ある意味、笑える程切迫し、歪んだ状況の中で、不釣合いにのったりと緩んだ空気が醸し出される。


 男が空になったグラスをサイドテーブルに置いた時。

「……里子に出した方が、いいのかもしれないな」

 その雰囲気に甘えるように、ロビンは不意にぽつりと呟いた。

「ロビン?」
「あの子にとって、たぶんその方がいい。あの子は、私に捨てられたと傷つくかもしれないが、ウォーズを見ていても分かる。
私より、他人の方があの子をうまく愛してくれる。私は……ダメだ」
 男は何も言わず、ただ軽く、ロビンの栗色の髪を撫でた。
「アリサが、命がけで与えてくれた私の子だ。大切にしたい。この手で愛して、育てたい」
「……………」
「しかし、ダメだ。さっき…あの窓に映っていたのは――………」
 小さな声が、泣くように震え、途切れた。

 自らの手で叩き割ったガラスの鏡の中に、一体何を見たのか。

 彼は語らない。
 男は黙って、手を動かし続ける。

 その手の温もりを、少しでも強く感じ取ろうとするかのように、目を閉じて。

「……あの子は…私と違って、あの子は…………」

 ケビンはまだ綺麗なんだ、と。

 小さく、無表情に。

 それっきり黙ってしまったロビンに、男はやはり、何も言わず。
 男の指が髪を柔らかく梳く音だけが、静まり返った部屋の中に落ちる。



 ……やがて。

 沈黙していたロビンの身体が、不意に寝台から起き上がった。
「……どうした?」
「なあ、ネプチューン……?」
 いぶかしげに見る男の肩に、伸ばした腕を這わせる。

 甘ったるく、ねだるように。
 ロビンは囁く。

「抱いて、くれないか?」


「おい」
 さすがに、男がたしなめる。わざと、包帯を巻いたばかりの両手首を掴んだ。
「何を言っているんだ、この怪我人が」
「いいじゃないか。こんなもの、リングでお前に負わされた傷に比べれば、傷の内にも入らん」
 しかしロビンは一向に構わない。
「なあ……? 欲しいんだよ、お前が」
 男の耳元に熱い吐息を当て、婀娜めいた声で、ちょっと拗ねるように。
「どうせお前だって、そのつもりで来たくせに………」

 まあ、それは否定できないが。来てみれば、それどころではない修羅場を造り出していたのは、一体どこの誰だったというのか。

 あまりと言えばあんまりな、ロビンの言い分ではあった。

 しかし男は、それ以上逆らわなかった。むしろ、満更でもない表情になって、絡みつく身体をシーツの上に押し倒す。

 機嫌のいい猫のように喉を鳴らし、ロビンは更に強く男にしがみつく。
 その白い身体はもう既にかなり熱くなっていて、ポイントを押さえた男の手の動きに、さっそく耐えかねたような、甘いあえぎが洩れた。


 こんなロビンには、見覚えがある。
 
 こんな時、ロビンはいつも以上に愛撫の手に敏感で、いつも以上に乱れる。
 そして、与えられる背徳的な快楽に全身を淡く染め、派手に嬌声を上げながら………その蒼い双眸から、虚ろな、冷たい涙を流す。
 
 歪んだ快楽を貪りながら、澄んだ涙をとめどなく流し続ける、清廉でこの上なく淫らな麗人。


 男はその様が、決して嫌いではなかったのである。



                             Fin.