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◆『Happiness』

 

 それは、ほんの一瞬の出来事だった。 


 炎に包まれた巨大な十字架が、負傷した俺を助け、すぐ隣を走っていたクロエの身体を貫いた。
「クロエ!」
 咄嗟にクロエに向って伸ばした俺の手が掴んだのは、灼ける金属の熱さと、無機物の重み。
「ッ!!」  
「ケビン!」
 俺の小さな悲鳴に、先を行っていたマルスが駆け戻ってくる。
 そして、倒れるクロエの姿に一瞬息を呑むが、すぐに
「来い!! 一刻も早く脱出しねえと、こっちまで危ねえ!!」
 俺を怒鳴りつけた。

 そんなことは、言われるまでもなく分かっている。

「しかし、クロエが……!!」
「―――もう無理だ!!」

 分かっている。そんなことは、分かっている。でも。

「クロエ……!」
「……チッ!」
 どうしてもクロエの傍から動けない俺を、マルスが無理矢理抱え上げ。そのまま炎の中を、駆け出した。


 やがて、地響きを立てて。自爆した敵のアジトが崩れ落ちていった………。 




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 クロエと俺が生活していたマンション。
 
 入院治療を終えた俺はそこに戻ってきていた。しかし、何をする気も起きない。

 クロエと、二人で生活していた場所。そこに、今はクロエがいない。
 
 俺一人だ。



 ぼんやりしたまま、二日程が過ぎていった頃。
 俺の耳に、玄関のドアノブが回る音が響く。

 
 クロエ…………!?


 一瞬、あらぬ期待をしてしまい、俺は玄関に飛び出した。
「よお」
 そんな馬鹿な俺の前に現れたのは、もちろんクロエじゃなかった。

 琥珀色の瞳をした、d・M・p 時代以来の古馴染み。

「何だ、マルスか……」
 思わず落胆の吐息をつく俺に、マルスは微かに眉を潜め、それからそれを打ち消すように、明るい笑顔を作ってみせる。
「何だとは何だよ。心配してきてやったんじゃねえか」
「ああ……悪い」
 俺も苦笑して、コーヒーでも出してやろうとして……はたと気付いた。帰りがいつになるか分からなかったから、
クロエと相談して、電気もガスも、止めてもらっている。それが、そのまま。
「いいさいいさ。そんなこっちゃないかと思ってな」
 マルスは、白いビニール袋を差し出した。
 中に入っていたのは、紫の葡萄。そのちょっと季節外れの果物は、それでもまだ、充分に瑞々しい。
「これならすぐ食えるだろ?」
「………すまない」
 酷く心配をかけてしまっている自分に気付いて、俺は俯いた。
 マルスは、そんな俺の頭を、大きな手でくしゃっと撫でる。
「いいって。……でもな、ケビン。俺だけじゃないんだぜ? みんな、お前のことを心配してんだ。HFの再建とかで、
色々けっこう忙しくてよ。なかなか来られねえんだが……。お前の方から、ちょっと出て来ないか?」
 みんな、万太郎たちも、喜ぶと思うぜ、とマルスは言うが。


 でも。


「悪い。今は、会いたくなんだ。……俺も、あいつらも生きてて。なのに、クロエは…………………いない」


 死んだ、とは、どうしても言えなかった。


 震え出した俺を、マルスが両腕で抱き締めてくる。
「ケビン! ……すまん、急がなくていいんだ。ただ、本当に俺たちみんな、お前のこと、気にしてるんだよ。落ち着いたら、
ちゃんと出て来てくれ」
「ああ………」


 マルスはテーブルの上に袋を置くと、帰っていった。


 俺は、また一人。クロエのいない、この場所で。




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 日が落ちると、途端に部屋の中は暗く、寒くなってくる。

 俺は冷たいフローリングの床に座り込み、膝を抱えた。




 クロエが、いない。俺とクロエと、二人のための場所なのに。


 寂しい、寂しい、寂しい…………


 クロエが、いない。いつだって俺を一人にはしないと言ったくせに。

 
 なのに、クロエが、いない。


 寂しい、寂しい、寂しい………


 クロエが、いない。


 どうして、傍にいてくれないんだ、クロエ。帰ってきてくれよ。俺は、ここにいる。



 帰ってきてくれ、クロエ………






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「馬鹿野郎!!」
 突然、怒鳴り声が響き、思考の渦が散っていく。
 俺は、のろのろと膝に埋めた顔を上げた。

 視界に飛び込んで来たのは、生気に溢れた、目の醒めるような赤。

 それが酷く眩しくて、俺は瞬きを繰り返した。

 友人の怒った顔が、間近から自分を覗き込んでいる。

それに俺が気付いたのは、一拍の後。
「ああ、マルス……」
「“ああ、マルス”じゃねえ! てめえ、何やってやがる!!」
 再度、怒鳴り声。
「うわ、何これ!」
「葡萄? 腐っちゃってるよ!?」
 向こうでも、複数の声がする。マルス以外にも、何人かが来ているようだった。でも……その中に、クロエの声はない。


 クロエはまだ、帰って来ない。


「何って……決まってるだろ? クロエが、いないんだ」
「……ああ、そうだよ!」
「だから、待ってる」
「あ?」
「クロエがいないから……クロエが帰ってくるのを、待ってるんだ」
「ケビン? お前……っおい!!?」


 不意に、眼の前がふわふわっと白くなって。

 抱きとめられる、腕の感触。

 そのまま、俺は気を失ってしまった。




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 気が付くと、俺は辺り一面、真っ白な場所にいた。壁も、カーテンも白。ここは……病院?

 俺の目の前には、眼鏡をかけた医者らしき男がいた。そいつは、まるで子供に語りかけるような、妙に優しい声で俺を呼んだ。

「憶えていますか。今まで自分が何をしていたか?」

 俺は状況が読めなくてイライラした。


 何を当たり前のことを聞いてくるんだ。俺はずっと、家でクロエが帰ってくるのを待っていたんだ。それなのに、
何で、俺はこんな所にいるんだ? 早く家に戻らないと。クロエが心配する。


「ケビンさん。クロエさんは、もういないんですよ?」


 そんなことは分かってる。だから、帰ってくるのを待っているんじゃないか。


 ますます、おかしなことを言う奴だと俺は思った。
 そんな俺に、そいつは炎の中での出来事を覚えていないのか、とか、更にどうでもいいことを聞いてくる。俺はもう、
そいつの言葉を耳に入れていなかった。


 早く、早く家に戻らないと。クロエはもう帰ってきていて、俺がいないのを心配しているかもしれない……。


 それなのに、俺はそれっきり、その白い病室の中に閉じ込められてしまった。




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 俺の病室には、頻繁に色んな奴がやって来た。


「お前はこのまんま壊れちまう程、弱くねえ筈だろう! ケビン! 俺がお前を治してやる!! 治してやるから……!!」

 赤い頭と、琥珀色の瞳をした大男。
 俺のベッドの傍まで来て、悲痛な声を上げ、ボロボロと泣いた。
 俺は、それをとても不思議に思う。


 ――お前、誰だ? どうして泣いてる? どうして、お前は俺の名前を知ってるんだ………?


 俺の呟きに、泣いていた琥珀の瞳が大きく見開かれるのを、ただぼんやりと見つめる。何の感慨も、俺には湧いてこない。


 その以外にも、俺の病室に入ってくる奴は、みんな何だか哀しそうな顔をしていた。泣いている奴も少なくない。
クロエの所に帰れなくて哀しいのは、泣きたいのは、俺の方なのに。
 実際、俺は泣いてしまうこともある。


 ――放せ! 放せ、放せぇ……!! 


 子供のようで、みっともなくて嫌だけど。いつまでたっても帰してもらえなくて、逃げ出そうとしても連れ戻され、
挙句には革のベルトでベッドに拘束されてしまって。
 苛立った俺は、泣き喚いて暴れる。


 ――放せえぇ!! 帰るんだ!! クロエが………!!


 俺を、待っている。


 なのに、俺の周りにいる見知らぬ奴ら。鹿のような奴とか、肉まんのようなおかしなマスクをつけた奴とか、
軍人風の年配のとか若いの。他にも色々、あの赤い大男も。
 みんな、哀しそうな気の毒そうな顔をして、今俺は病気だから、治療をしなくてはいけないから、帰せないなどと言う。


 余計なお世話だ。何処か悪い所があるなら、クロエに治してもらう。クロエさえいてくれればいいんだ。
クロエさえいてくれれば、俺は落ち着くことが出来る。クロエさえ、いてくれれば。
 
 それなのに。

 ああ、クロエ、クロエ……。

 クロエ、クロエ、クロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエ
クロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエクロエ………………………




*************************************************




 夜。

 ベルトに拘束された身体を何とかもぎ放そうといつものように抗い、やがていつものように抗い疲れた俺が、
うとうととしかけていた時。
 誰かが音も無く、俺の病室へ入り込んで来た。
 静かにベッドに歩み寄ってくる。
 横たわる俺を覗き込むその顔は、これまでの誰とも違っていた。哀しそうでもないし、俺を憐れむように見たりもしない。
 ただ、静かな表情を浮かべている。

 ……栗色の髪と、どこかで見たことがあるような、湖水の蒼の瞳をした人。

 その人は、幾つもの点滴の針を刺され、痩せ細った俺の腕に、そっと手を当てた。労わるように、ゆっくりと指を滑らせる。

 囁くような声。

 
 ――ケビン、ケビン……。お前、幸せだったのか……? 今、幸せなのか……?


 そんなこと聞かれても、俺には分からない。俺はただ、クロエの所へ早く帰りたいだけ。早く、早く帰らないと。
クロエもきっと、心配している。


 ――そのクロエは、お前を待っていないかもしれない………


 それなら尚のこと、早く帰っていなくては。クロエが待っていないなら、俺が待っててやらなくちゃ。クロエが帰ってきた時、
すぐに迎えてやれるように。クロエは、いつだって俺を待っててくれたんだから。
 ああ、だから、早く、早く、早く……


 ――そうか…………


 その人はそっと微笑って、俺の額に軽い口付けを落とした。
 
 いつか何処かで、触れたことがあるような………淡い温もり。
 
 それが消えた時、俺は自由な身体になっていた。




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 夜の街には、雪が降っていた。チラチラチラチラと、冷たい白いものが、俺の肩に、足元に、降り積もっていく。
 そのせいだろうか。俺は酷く歩きにくくて、すぐに疲れてしまう。
 

 家の近くの、見覚えのある公園まで来た時には、俺はもう、どうしてもそれ以上歩けなくなってしまっていた。
 ここまで来たら、もう大丈夫。もうじきクロエに会えるから……その前に、少し休んでいこうと思った。


 公園のベンチに蹲る俺の上に、白い白い雪が、包み込むように降り積もっていく。

 音も無く………。

 冷たい筈のそれは、何だかとっても温かくて。俺は久しぶりに、安らいでいく。
 



 そんな俺の耳にいつか、あの懐かしい、恋しい声が。


 ――ケビン…………


 見慣れた、優しい笑顔。
 ずっと、ずっと求めていた………!!
 

 ――クロエ…………!!


 俺は微笑う。嬉しくて。子供のように。
 そんな俺を見て、愛しそうに微笑ってくれる瞳が、本当に嬉しい。

 俺は、待たせてしまったすまなさに、一生懸命詫びた。


 ――やっぱり、ずっと待ってたんだろ? ごめんな、遅くなって。

 ――いや…俺の方こそすまなかった。最初から、お前も連れて行くつもりだったのに。寂しかったろう?

 ――ああ、寂しくて寂しくて。本当に寂しくて……


 嬉しいのに、何故か溢れてしまう涙。
 子供のように泣いてしまう俺を、温かい腕が抱き締めてくれる。

 心の底からの、安堵。

 俺は、いつものように甘えた声を上げる。



 ――もう、放さないでくれ………
 
 ――ああ……


 愛しい、世界中の誰よりも愛しい声。

 
 ――俺たちは、もうずっと一緒だ………………………………………