1 昔語 深い闇だ。 広大な薔薇園はその闇の中に半ば溶け、その果てを見る事は出来ない。 そこを見下ろす屋敷の中、一つの窓にだけ朧な光がある。 薄く張られた紗を通して漏れてくる灯火の光。 その柔らかい金色の光の中、じっと闇を見下ろしている人影がある。 細い肩。緩く縺れて長く伸び、やがて床近くにまで達そうかというプラチナブロンドの髪。 磨き上げた象牙のような滑らかに白い肌は、その煌く絹糸のような髪にすら、影を映し出す。 同じ色の、薄い瞼を縁取る長い睫が時折瞬く事だけが、その身に生命が宿っている事を示す。 それほどの美貌だ。 闇に沈んだ深紅色の花を見つめている筈の、鮮やかな藍色の瞳はどこか焦点が曖昧で、何の感情も浮かんでいない。 柔らかい花色の唇は、絶えて言葉を紡ぐ事もなくなって久しい。 『彼』がいなくなってしまったから。 自分が存在する、唯一の意味を教えてくれる筈の人が、この世から消えてしまったから。 だから、待ち続けている。 永遠の花園の中で、待ち続けている。 『彼』が帰って来てくれる、その日だけを待ち続けている。 脳波は復活する事がない。 自発呼吸も、ほぼ停止している。 それでも、強靭な心臓が鼓動を停止しない事だけが、現在唯一、彼の肉体が生命を維持している事の証だ。 どうしてこの状況で、心停止が起こらないのか、その方が不思議だ、と医局のスタッフは言った。 まあそれは、と呟きながら夜の廊下を歩く。 自分の足音だけが遠く長く反響しているのが聞こえる。 超人ってのは、死ぬべき時にしか死ねない様に、生れてるんだから仕方がない。 扉を開け、少しだけ敷居の上で足を止める。 重々しい機械の群。不格好なチューブと管に囲まれたカプセル式のベッドの中に収められた、自分にはまだまだ小さく見える体。 ちょっとだけ淋しそうに微笑んだ唇が言葉を零す。 「…わりいな、眠り姫。キスしてくれる王子様役は、二人とも欠席で。不肖野獣が代役だ」 その巨体に似合わないしなやかな動きで医療機器の間を通り抜け、カプセルの蓋に手を掛けると、ロックを外して両手で押し上げる。 蜜色の髪が、暗闇の中では案外強く光るモニタの光を受けて、ふわりと輝きを増したような気がした。 その口から鼻を覆っている人工呼吸器を外して、軽々と両手に意識のない体を抱き上げた彼は、辺りの物を少し足で押しやって空間を作り、 そこに座り込んだ。 大きな手で肩を胸に抱き寄せて、片膝を立てた上にくたりと崩れる脚を揃えて乗せてやって。 この子は。 自分の肉体が滅びるかもしれない危険を省みずに、それでも愛するものを守ろうとして、生命と力の全てを『そこ』に送り込んでしまう能力を持った。 それほどまでに強い心と、激しい思いを育てたのは一体誰だという。 何故それを認めない。何故目を固く閉ざし、耳を塞いで闇への道を踏み出して行く…? 怒りなど、もうとうに超えてしまい、酷く透明な塞き上げるようなものが、自分の喉の奥まで満ち溢れている。その所為で、 祈りが生れてくる隙間さえ今この胸にはない。 ただ、この闇の中、『彼』が置き去りにしていったものを、冷たい機械に繋いで、ただ命長らえさせる為だけの薬漬けにしておくことなど、 とても耐えられなかった。 無骨な指先で金色の髪を柔らかく撫でると、そこから金茶色の、豊穣な実りの輝きを思わせる光が零れ出して腕の中の少年を包み込む。 自分の命を、力を分け与える事など、この子を守る為ならば何程の事でもない。 「良く寝るいい子には、お話をしてやるからな、ジェイド」 一度だけぎゅ、と抱き締めるように長い睫を閉じた頭を胸に引き寄せて抱き締め、バッファローマンは呟くように話し出した。 「むかしむかし、ある所に、薔薇に囲まれた大きなお城にすんでいる王様がいました。 王様は美しくて賢く、誰にも負けない強い強いちからを持っていました。 でも、王様は自分でも気が付いていませんでしたが、一つだけ大変お気の毒な不幸をもっておいででした。 それは」 医療機器の立てる甲高い金属音。照らし出される横顔の中、シェリー酒色の瞳が伏せられる。 「…あまりにも全てを持っていた為に、心からなにかを欲しいと思ったり、愛したりする事が出来なかったのです。」 昔は鍾乳洞だったのだろう。今は地上に露出して乾いた白い壁になっている洞窟の中に、パチリと薪が爆ぜる音が響いて、赤い炎の描く影が揺れる。 「先代…つまり、Jr.の父に、Jr.の母親『エヴァ・ロゼ』が嫁いだのは、彼女が13歳の時だったと思う」 赤く弾ける炎を見詰めるキルスの頬にもその影は暗い赤に、あるいは灰色に揺らめきを映し出していた。 「へえ。随分可愛いのをやったもんだな、そりゃ」 話を聞いているのは、長い黒髪を背中で括ったあの男だ。 地面に幾つもある、層状に積み重なった岩の上に腰を下ろし、右手の肘を自分の膝の上について、その手で頬を支えて、話に耳を傾けている。 「意味あるのかい。跡取り産む為の大事な奥方がそんな幼妻で」 「いや、その辺りは…彼は、物凄くものを割り切って考える人だったので」 キルスは苦笑混じりに首を竦めた。 「言ったものさ。要は、自分の血筋から強力な能力者である男子が生れれば、相手の女は誰でも良い筈だろうと… で、結局長老達も彼の意見に真っ向から反対できるものがいなくて」 「お嬢ちゃんほったらかしで、成熟した大人の女性を相手にしてたわけだ。」 「その段階で、私が知っているだけでも屋敷に3人いたかな…いわゆる、側室扱いの女性が」 「あはは、絶対外にもいたなそれ。…で?」 キルスの視線が、また過去を追いかけるように遠くなる。 目の前に蘇るのは、薄い蒼味を帯びた、灰銀色の瞳。濃い青色の光彩が、嵌め込まれた宝石のように煌いたのまではっきり覚えている。 どうしてそんな事ばかりしているのだよと問い詰めたら、何をそんなにむきになっているのだお前、と、心底不思議そうに、 可笑しそうに笑ったあの瞳。 「俺が欲しいのは、確実にJr.になれる器だと。女はどうでもいいのだと…そして結果的に、彼女達には男子を産む事はできず… 生れたのがいても、普通の人間だった」 「でもまあ、それはある意味、仕方ない事じゃないのかねえ?お殿様なんだし。子供が一杯いるのは別に構わないでしょう?」 キルスはそこで相手の言葉を遮るように、緩く首を振った。 「殺されたんだよ、全員。女子はまだいい。外に出されればそれでお終いだ。だが、男子は病死という扱いで全て始末された。 それさえ彼は、自ら承認した。『失敗作はいらない』と」 キルスと向かい合って話を聞いていた男は、そこでひょいと立ち上がると、奥から陶器の器を二つと、白い首の長い瓶を一本下げて戻って来た。 「悪いね。なんか結構、俺が苦手な展開の話になってきたんで、ちょっとリラックスさせて貰うわ」 瓶の中から透明な液体を器に注ぐと、どこか甘さを含んだ、豊潤な酒の匂いが漂う。そこに傍らに積んであった、飴色がかった拳ほどもある 木片を取り上げると、ぐいと握り潰した。 ちょっと想像がつかないほどの水が、その中から絞り出されて器に落ちる。 流石に驚いた顔になっているキルスに二つの器の一方を差し出して、男は自分の分を口元に上げた。 「大丈夫だって。まだ日本の水は、噂ほど腐っちゃいないよ。それに、これ」 と、傍らの木片を示してみせる。 「森の木が倒れて崩れていく間に、雨水とか湧水を含んだものなんだよ。幹の繊維がね、良い具合に濾過装置になってくれてて、 きれいなもんだ。まあ呑んでみてくれ」 キルスは器を受け取って、酒を口に含んでみた。 不思議な芳香が鼻の奥を衝く。きついが、まろやかな味わいに、緑のすっと抜ける爽やかさと大地の深い香りが交じり合って、 えもいわれぬ調和を創り出している。 「…不思議な国だな、ここは」 ふ、と吐息して、肩の力を落して。 そんな呟きに、黒い髪の男は口元だけで微笑んで、焚火に薪を足す。 酒が口を潤した為か、張り付いていた喉が湿って、幾分話しやすくなった事に気付き、キルスはまたぽつりぽつりと話し始めた。 「そして、そういう経緯もあって、彼が『エヴァ・ロゼ』と事実上の夫婦になったのがその2年後、彼女が15歳の時だったはずだ。 そしてその1年後…彼女は男子を出産した」 男が目を上げ、キルスの鉄色の瞳を見詰める。 キルスは頷いた。 「そう。それが今代の『薔薇の継承者』──ブロッケンJr.と呼ばれている、あの子だよ」 「王様は、自分の跡継ぎが生れた事をとてもとても喜びました。王様の周りの召し使いも、王様に仕える魔法使いも。 王子様が生れた事をとても喜んで、それぞれが精一杯の贈り物をしました。」 何となく、漠然とは解っているつもりだった、友人の生れた事情、育ってきた環境。 それでも、全ての辻褄が、欠けたピースを補われたジグソーのようにぴたりと合ってみると、そこに残るのは、馬鹿馬鹿しいまでの 無力感、脱力感でしかない。 だってよ、Jr.。 お前が何だろうと、親父さんがお前をどう思ってたにしても、生れて来ちまった以上、 死ぬまでは生きるしかねえじゃねえか。 「ある者は賢さを。ある者は、一目見たもの全てが、王子にひれ伏すだろう美しさを。そうやって王子様は、大事に大事に守られて、 薔薇のお城で育っていく筈だったのです。」 大地の色の、濃い土色の睫ががゆっくりと瞬かれた。 「王様が、あることに気付いてしまいさえしなければ。」 「Jr.は生れた直後に超人の力の片鱗を見せた。どれだけ先代や長老達が喜んだか、想像がつくだろう?」 「うーんまあ…でも俺は凄く同情するけど。そのボウヤに」 酒を含んで、頬杖で笑う男に、キルスは目を瞬く。 「何故?」 「人生の選択の余地なしっていう点では、俺も同じような子供時代だったからな。ま、俺は吹っ切れたから別にいいんだけど。 恐ろしく重そうだしね、その子にのしかかった期待とか…何て言うの?執念みたいなものとか」 そう言えば、この男が自分の過去の話をするのを聞くのは、これが初めてだとキルスは気付く。 「まあ、俺の感想はどうでもいいや。それで?何が起こっちゃったんだい、幸せな家族に?」 その時、キルスはまるで苦いものでも噛み締めてしまったように顔を顰めた。 「ブロッケン一族では、生れてきた子が超人だった場合、生みの母が子供をじかに育てる事はない。産後間もなく一ヶ所に集められ、 嬰児のうちから徹底的な帝王教育が始まる」 当歳の子供に、教育などしても無駄だというのは、全くの間違いだ。通常の人間の子供さえ、母親の胎内にいる時から音を聞き、 外部の刺激を母親の体と羊水という緩衝材を経て受止め、いずれ出でるべき世界の知識を貯えている。 まして、それが超人という、特異な力を持った生命体だったなら尚のことだ。 「教育は順調だった。幸いJr.は体も丈夫で…母親に良く似た、可愛い子供だったよ。宗主のブロッケンマンも、 女たちを構う必要もなくなって本来の生活に戻った。一族は本当に、何十年ぶりかにあの子のお陰で安定し、平穏だったんだ」 だが。 子供は成長する。その生まれと、身分に相応しい力と美しさをあます所なく受け継ぎ、惜しみなく注がれる知識と愛情を花が水を 吸い込むように吸収しながら。 「小さい頃のJr.は、かなり頻繁に両親と共に過ごす時間を与えられていた。それは、一族の子供の育て方としては酷く例外的な事だったのだが、 宗主自身が強く望んだ。だがそこで、宗主は──彼は、ある疑問に気付いた」 柔らかい陽光が降り注ぐ、春咲きの、薄桃色のベイビー・ローズが花開く庭の片隅の四阿。 まだたどたどしい言葉で何かを話しながら、それでも驚異的な身体能力を見せる小さな息子。 その、光に煌く壊れやすい宝物のような、プラチナブロンドの髪と藍色の瞳。 そして、春先のふわりと薄物を広げたような光さえ強すぎるというかに、四阿の影に入り、小さな椅子に掛けて息子を見守っている、 全く同じ髪と瞳を持った妻。 その横顔を見ている内に、ふと彼は違和感を覚える。 それが何なのか最初は分からず──そして、その違和感の理由が判然とした途端、彼は凍るような寒気が全身を貫くのを感じた。 柔らかくうねる髪を、幾つかの編み込みに束ねて、そこへ輝く星屑のように宝石の嵌め込まれたピンをちりばめた横顔。 もうすっかり子供の域まで成長した息子へ、慈しみ深い微笑みを落しているその顔は──全く時間の経過を感じさせなかったのだ。 息子を産んだ、16歳の時のまま。 いや、もしかしたら、歴代の『エヴァ・ロゼ』が皆纏ったという重々しいアンティークレースに飾られた白い衣に身を包んで 自分の所に嫁いできたその日のまま? 「お妃さまは年を取らないのだろうか?この先も、これからも?永遠に? 王様の中に湧き上がったその言葉は、もう掻き消す事など出来ないものになっていました。 だから、王様は、お城にいる一番年寄りの魔法使いに尋ねたのです。」 「…ブロッケンの女の、一種の特殊体質だろう。いや、もしかしたら、過去の先人達が遺伝子レベルで何か操作したのかもしれないが」 キルスは両手を重ねあわせてそこに額を付けた。 「超人を孕んだ女の体には、胎内の子供の力がフィードバックを起こす。力が強い子供ほどそうだ。母親の体を造り変えて、 子供は自分が安全に育つ事が出来る『環境』を作り上げるんだ。…私も同じことをしたんだろうさ」 聞いている男の、星空を思わせる深く濃い色の瞳には、どんな感情もない。 ただ、様々な出来事を、長い時間を看取ってきた者の持つ、静けさだけがある。 「私達一族が、超人の子供をまとめて育て、両親や兄弟という感覚を余り持たせない事は、さっき話したな?」 「うん。効率の良い教育法だとは思ったけど。それが何か?」 「フィードバックによって、造り変えられた母親の殆どが、変死するからだよ。」 ふうっとあの狂気の微笑みがキルスの頬に浮かんだ。 「自殺するもの。狂死するもの。失踪したきりになってしまうもの。だからブロッケンの家は、あれだけ数が残っていても、 無事に生れる子供がとても少ない。…人間外の化け物になってしまうものもいる…私の母もその一人だ」 まあ、それはどうでもいい、と手で辺りの空気を払い除けるようにして、キルスは続けた。 「とにかく、彼は調べたんだ。歴代の『エヴァ・ロゼ』の記録を。彼女たちがブロッケンJr.を出産した後、一体どうなったのかを」 「そうしたら?」 「記録は全く残っていなかった」 ぴく、と、男の黒い眉が片方だけ跳ね上がった。 「まるでそんな女は最初から存在していないとでも言わんばかりに。そして、必ず唐突に再び現れる。『薔薇の継承』 ──ブロッケンJr.が、宗主ブロッケンマンになる、その儀式の直前に。」 キルスの鉄色の瞳が男の黒い瞳を炎越しに見詰めた。 「それまでどこで暮らしていたのか、何と言う名で呼ばれていたのか、一族の誰の子供なのか──全てが不明のまま、 彼女はそこに現れるんだ。代々引き継がれた花嫁衣装を纏って。『永遠の薔薇』として」 キルスの瞳は殆どぎらついていると言った方が正しい。 「なあ、彼がどんな想像に行き着いてしまったのか、君なら解ってくれるだろう?」 「魔法使いは答えました。 『お妃様は必ずお世継ぎを生んでくださらねばなりません。それはとてもとても大切なお役目でございます。 ですから、お妃様の御身には、どんなことにも傷つかず、そして決して衰えないという魔法がかかっているのです。 お妃様こそこの世に二つとなき華、永遠の薔薇≠ナございます。』と。」 「彼女が年を取らなくなったのは、目の前の息子を産んだ事によるフィードバックなのか。いや、そもそも、彼女はどこから来て、 一体何者だったのか。」 キルスはぼんやりと呟く。 「…彼女が『エヴァ・ロゼ』の役目を果たすのはこれが初めてなのか、どうか。」 時の流れを刻まないその肉体は、いつまでも少女のあどけなさと痛々しいほどの細さを維持し続ける。片手で掴み取れてしまう ほっそりと小さな肩、口付けする事さえ躊躇われる、薄く傷つきやすそうな、花びら色の唇。 それがもしも永遠に続くものだとしたら。 かつて彼女は同じように、別の『宗主』に『永遠の薔薇』として嫁いだ事があったのではないのか? 一族の掟通り、幼くして両親と引き離され、一族の者に育てられた自分。その、最早面影すら定かではない、自分の母親は一体誰だったのだ? そして。 恐らく自分は知る事はない、この目映いばかりの光に今は包まれている息子が宗主の地位を継承するその日、 一族の定めた妻として立つ女は、一体誰なのだろう? 「でもなあ、ジェイド」 バッファローマンは、そっと腕の中の体を揺すり上げて抱き直し、哀しげな笑みを浮かべた。 「…その時にはもう、王様はお妃様の事を、本気で好きになり始めてたんだ。 生れて初めて本当に、自分から欲しいと思って、大切にしたいと思ったひとになってたんだ。 だから、それがただの、物凄く不幸な偶然が重なって、王様の頭でばんばんに膨れ上がった、ただの妄想だったかもしれないのに、 王様はお妃様が好きで好きで、だからこそ一度考え出したら止まらなくなって、一緒にいられなくなっちまって… そんで、お城を飛び出しちまったんだ」 それから。 どれほどの凄惨な戦いの日々が彼を待っていた事か、全てを知っている訳ではないが、今だその名は自分達の記憶にさえ刻まれて久しい。 「バカだな。そう思わねえか?ジェイドよ」 暗い天井へ顔を上げぐっと目を閉じて呟く。 「いいじゃねえか、惚れた女がバケモノだろうが実はばーちゃんだろうがよ。今この女の目の前にいて、抱いてんのはオレ、 くらいのふてぶてしさ持ってりゃ、人生万事オーライだろうが。そんな、てめえの息子にヨメさんがダブルで嫁ぐんじゃねえか、 なんて目に見えねえ未来に嫉妬してよ、目の前にある幸せ壊してどうすんだよなあ。」 僅かな沈黙の後、バッファローマンの声が割れるように怒鳴った。 「…頼むから、今すぐここに来て、『そんな不謹慎な真似さらすのは貴様だけだ!』とか、喚いてくれよJr.!」 「なるほどねえ」 話を聞き終わった男は、ばりばりと頭の後ろを掻いた。 「そういう複雑な事情がお父上にはあった訳か…結構思い込み激しい方だったみたいだねえ。 で、それをご子息は?知ってるのかい?」 「はっきりとは知らないだろう。『永遠の薔薇』の事は、何故か一族の中でも禁句中の禁句だし…だが」 キルスは横を向いて、ふうっと息を吐いた。 「父親の自分への態度には悩んでいたと思う。結局、じきに母親は例によって姿を消し…その頃には、宗主は闘いと流血にだけ 生きる人になっていたから」 「で、目の前では、その最愛にして自分の狂乱の源の、奥様似の跡継ぎ息子が段々大きくなってくる訳ね。 しかも、一段と奥方の面影を濃くしたりしながら」 男は頬杖をついたまま、眉を顰めた。 「そりゃ屈折もするわな、お互いに。お父様的には、息子を愛してるのと同じだけ、どんどんどうすりゃいいのか 分からなくなって行くだろうし…息子的には、どうしてお父様から無体な仕打ちされんのかが理解できないけど、 愛されたくて仕方ないだろうし」 ぽんと放り込んだ木片が、火花を舞い散らせる。 「その辺じゃないのかなあ。いつまでたっても、お父上の名前を継がなかった訳も」 キルスは訝しむように、左目だけを細める。 「どういう…?」 「いやまあ、無責任な第三者の憶測だと思って聞き流してもらえると有難いんだけどね」 男は、眉を寄せるような、独特の笑みを浮かべてキルスを見詰めた。 「そうやってさ、屈折した熱愛状態真っ只中で、お父様はいきなり死んじゃったわけだろ?息子さんは自分に対するフォローの方法を 失った訳さ。生きていてさえくれたら、互角の力になった所でぶん殴ってでも本音吐かせるとか、色々方法考えられるのにね。 男の子なんだからさ」 ちょっとキルスは眉を寄せて考えてみる。 しかし、Jr.が父親をまともにぶん殴っている図というのは、どうしても想像できない。 「あの子はそんな事しないよ」 「いやだから、物の喩えだってば」 ははは、と軽く笑って、火を突ついて炎を立たせる。 「だから、彼の中でお父上はまだ生きてる。それこそ、永遠のひと、としてね。 話に聞く限りじゃ相当賢そうな坊ちゃまだからなあ。薄々自分の所為で、何かが狂ったくらいは感づいてそうだし」 行き場を失った思慕と、己へ向かう飽く事ない呵責、自己の否定。 それが彼の心と精神を叩き続け、罅だらけになったガラスがほんの些細な衝撃に四散するように、ある日呆気なく崩壊が訪れたと。 「しかしそれは…」 「だってしょうがないだろ?」 男の星空色の瞳に炎が映り込んで、不思議な光になる。 「自分がブロッケンマンになるって事が、お父様の死を認める事になるなら、彼は意地でも引き受けやしないよ。 例え一族の全てを敵に回す事になっても。生涯、追われる身になったとしても」 だから。 キルスの手が微かに震えて拳に変わる。 恐らくそれを選ぶだろうその心を、それこそ彼がまだ、振り向きもせずに通り過ぎる父親の背中を目で追い掛けて 立ち尽くしている頃から、知っているからこそ自分はここにいる。 「そんな真似はさせん」 キルスの声に、氷のような冷たさが走った。 「どんな事をしても私は彼を見つけ出す。私は『薔薇の継承者』の守護だ。」 「うん、それは止めないし。君は間違ってないと思うけど」 男はにっと口元を上げて笑った。 「それで、そのお話の中で俺はどういう役回りになるのか、そろそろ聞かせてもらえるか?」 |