彼ノ者ハ 赤ガ似合フ 夕焼ケノ 美シキ赤ジヤ 赤キ空ヲ自在ニ飛ブ 鮮烈ノ赤ジヤ 我モ美シキ赤ヲ 纏イタイ ──叶ワヌ 夢 ナレド ソレはずっと森の中で生きてきた。気が遠くなるほどずっと昔からだ。 最近、森に不思議なモノが現れるようになった。 木々の隙間を駆け抜けて、梢から軽やかに跳び、柔らかな草木を踏みしめていく。 その正体が何なのか、ソレは知らない。ただ── 彼誰時の頃、彼の者が梢から閃くように跳び、天空に躍る姿を見るのがとても好きだった。 草木が時折見せる美しい色合いとは別の、魔性の赤。跳ぶ折に見せる紅絹のような軌跡。 その姿は鳥のようにも見えた。人のようにも見えた。しかしソレが知る人や鳥とは似ても似つかぬ姿をしていた。 ──だが、そんなことはどうでも良かったのだ。 ソレはその姿の纏う赤い色がただ欲しかった。 何処とも知れぬ森の中。 スカーフェイスが己が掌を見つめていた。 彼の前には無惨に砕かれた樹木が痛々しい姿を見せている。 見つめた暫しののちに、軽く拳を作った。少し力を込め、また開く。 ───まだ、か… 動作を二、三回繰り返しながら忌々しげに金の双眼を眇めた。秀麗な面が僅かに歪む。 入れ替え戦の最終試合、キン肉万太郎に破れたのは少し前のこと。試合終了後、スカーフェイスは超人病院に収容された。 だが情けを好まぬ悪行超人である彼のこと、数日と経たないうちに病院を抜け出し、この森へ身を潜めた。 傷が癒えて数日。漸く修練に勤しめるかと思いきや、碌な手当ても受けないうちに出てきたせいか、どうも思うように動かない。 捗らない鍛錬に少々焦れてきたところだった。 「苛々してもはじまらねェ、か…」 作った拳をほどいて、空を仰いだ。 赤く染まった空で長閑に烏が鳴き交わしている。燃えるような西の空、太陽が名残惜しげに燃え尽きて沈もうとしていた。 空の東には夕闇が迫っている。 「行くか」 その場に言葉を残して、スカーフェイスは地を蹴った。ひゅるりと低く、草葉の切れ端が円を描いたときには、 スカーフェイスの姿は緑葉の隙間を足がかりに梢の上まで跳躍していた。 陰翳を深く刻む彫りの鋭い体躯が一瞬、空に閃き、赤い軌跡を残しては緑海に沈む。その刹那、また空へ。 宙を駆けるたびに夕陽の赤さが目を射抜く。 ───血の色とは良く言ったもんだ。 そんなことを考えて苦笑した。 枝を使ってこの森を跳ぶのだ。いつもの日課だった。そして── 彼は今日も感じていた。 その日課をこなしているときに向けられている、突き刺すような視線を。 露降りる草を褥にスカーフェイスは眠りに落ちる。 襲撃にもすぐに対応できるほど眠りが浅いのはd.M.pで過ごしていた頃の賜物だろう。しのぎを削りながら生きていた証だ。 ヘラクレス・ファクトリーに入ってからもこの癖は抜けなかった。当たり前といえば当たり前なのだが。 だから、すぐ気がついた。自分に忍び寄る気配。 音を殺しているつもりなのだろうが、葉擦れは容赦なく相手の接近をスカーフェイスに知らせていた。 相手は自分に近づき、顔を覗き込んでいるようだった。夕方に自分を見つめているあの視線と同じもののように思えた。 やがて相手はそっと彼の身体に手を伸ばしてきた── 「誰だ」 びくっ、と脅える気配がした。そのまま硬直してしまったらしい。 スカーフェイスは瞼を開き、金の双眸で相手を見据え、次の瞬間ぎょっとした。 目があった。飛び出るほどに大きな眼球がそこに。 目の大きさに比べて身体は貧弱なほどに小さく、皺の寄った皮膚の色は濁っていた。胸のあたりに何かを擦りつけたような跡があり、 それはどす黒い染みになっている。小さな口の中から乱杭歯が覗いていた。 彼の身体に触れようと、枯れ枝のような腕を伸ばしたそのなりで、ソレは血走った双眸でスカーフェイスの金瞳を凝視していた。 最初の動揺は瞬時に過ぎ去り、スカーフェイスは見開いた双眸を細めた。 「誰だ」 低くよく通る声で、もう一度繰り返す。 半身を起こすと同時に、たじろいだソレは彼から離れた。数歩下がったところで身を起こした彼を見つめている。 応の声がしないまま暫く過ぎて、スカーフェイスが無視を決め込んで寝直そうかと思い始めた頃、ソレは漸く口を開いた。 「……赤」 スカーフェイスを指差す。 「はぁ?」 尻上がり調子にスカーフェイスの声が跳ね上がる。 「どういう意味だ?」 立ち上がって近づくと、同じ距離だけソレはあとずさった。 「……赤。……夕暮レニ躍ル赤」 何のことだかさっぱり要領を得ず、呆気に取られた彼を指差したまま、か細い声でソレは言い続けた。 「赤、オ前ニハ赤ガ似合ウ」 「何が言いたい──」 言いかけてはたと思い当たった。 コイツだ。夕暮れ時の視線の持ち主。 「テメェか」 「オ前ノ赤ハ美シイ。オ前ノ赤ハナゼソンナニ美シイ?」 それはただ繰り返すばかり。 馬鹿馬鹿しくなった。意志の疎通ができないものと会話をしても埒がない。 今度こそ無視して寝直すことにした。背を向けて寝転んでいた場所へ戻りかけた。 「我モ纏イタイ」 スカーフェイスは足を止めた。次の瞬間、ソレが叫んだ。 「オ前ヲ喰ラッテ我モ纏ウ!」 ソレが飛びかかるその刹那。 ざん スワロウテール。紅絹の柔らかさを刃に変えて。 鋭い切っ先はソレの鳩尾を貫いていた。 気だるげにスカーフェイスは首を肩へ預けるようにして振り向いた。 「うぜェ」 スワロウテールを引き抜く。濁った血が噴き出してあたりに飛び、彼の滑らかな頬に飛沫がはねた。 「赤いかどうかなんざ、知ったことじゃネェ」 頬の飛沫を無造作に手の甲で拭うと、声もなく絶命したソレを一瞥した。 「──まぁ、敢えて言うなら、浴びた血に染まってるんだろうよ」 形の良い唇に浮かぶ微笑は酷薄。 やがてそれはうんざりした表情に変わった。ケチがついた場所で寝直す気にはなれない。 「場所を変えて寝なおすか」 見上げた中天には赤い色は見当たらない。ただ、宵の藍色が広がるのみだ。 スカーフェイスは歩き出した。 あとに残るは、打ち捨てられた赤の羨望だけ。虚ろな眼窩が遠ざかる彼の姿を映していた。 終劇 |