1 定型 凍結した。 文字通り、髪の一筋から、血液の一滴まで。 まさにそんな気分で、彼は青い瞳を見開いたままそこに立ち尽くした。 「いよう。快調に勝ち進んでるようでどうも」 角度によって発色の変化する、鈍い光を帯びたレザー貼りの椅子にどっかり体を沈め、ついでに綺麗所を2人ばかり侍らかして 片手を上げた人物の第一声が、そんな底抜けに呑気な代物だったのが原因である。 不夜城と呼ばれる街の中でも殊更にぎやかな一角にある雑居ビルの地下に入っているこの店は、一年前と多少内装が変わっている。 客の入りは今夜も上々だ。相変わらずオーナー兼ママの経営手腕は冴え渡っているらしい。 瞬間凍結された人物の、形の整った唇から辛うじて声が落ちた。 「…何故貴様がこんな所にいる」 「ここまで来たら狙いはやっぱ万太郎先輩か。気を付けろよあのヒトは。シャレにならねえボケを無作為にかますからな。 計算してくれてればこっちにも付け入るスキがあるんだけど、なにせある意味、追い込まれた挙句の悪あがきが全部表目に 転ぶ運の強さ持ってるから」 「おい…」 「ああ、それをして火事場のクソ力っていうんだっけか。は、マジシャレになってねえな。親子二代の筋金入りじゃ どうしようもねえ」 「マールースー!!」 絶叫して指を逆立てたケビンの顔は、激怒を通り越していっそ美しい。 「何をしに来た!?大体貴様ファクトリー残留組だろうが!」 「そういう情報、ちゃんとゲットしてるって事は父上殿とちったあ話してるって事だな?いや、何より何より」 図星を指されて思わず声をなくしたケビンに、スカーフェイスは顎で示す。 「突っ立ってないで座れば?大体ここはお前のナワバリでしょーが」 思わず素直に腰を下ろし、それから長い金色の髪を掻き上げて、ケビンはまだ自分の目が信じられない様子で長い睫を瞬く。 「本当にお前なんだな…」 にやりと笑う、人の悪い面立ち。 「確かめてみたいなら遠慮しないぜ?」 いやもう、その台詞回しだけでもう十分お前だ。 そう言いたいのを堪えて、ケビンはその琥珀の瞳を覗きこんだ。 「ジェイドに何かあったのか」 その質問に、スカーフェイスは何だかえらく嫌な顔をした。 「な、何だ?」 「しかしなんでこう、皆して寄ってたかってジェイドジェイド言うかね。オッサンと言いあの阿呆と言い、あそこの師弟は 身内アイドルフェロモンでも出してんのか?しょうもない」 「マールース。」 さっきとは全く違う抑揚の声で呼ばれ、青い瞳ががっと正面から睨んでくる。 「事態は相当ヤバそうだな。貴様が話の焦点を外して下らん軽口をまくしたてる時は、もうのっぴきならない時と相場が 決まってるんだ。さっさと吐け。全部吐け。」 はっきり言うが、こういうケビンは半端じゃなく怖い。流石の百戦錬磨のホステス達が冷や汗をかきながら後ずさって逃げた。 だが、当のスカーフェイスの方は屁でもないと言った様子で笑う。 「言うようになったじゃねえかケビン。去年俺からケツまくって逃げ回ってた男の台詞だとは思えねえなあ。それともそれも ジェイド効果?」 そこでケビンはちょっと眉を寄せた。 「…話がある相手は俺じゃないのか。」 にやっと笑ったスカーフェイスに、静かだが気迫に満ちた声が掛かる。 「わたくしをご指名?それともケビンを呼び出す為の口実かしら」 目をやったそこには、薄く光る青紫のドレスを纏った、この店の店主であるキリコの姿がある。 長身にぴったりと沿ったデザインのドレスは、膝の少し上辺りから細かなプリーツを刻み、彼女が一歩歩みを進める度に さらさらと優雅な音を立てる。 すらりとした首の周りには、小粒な薄紫の真珠がちりばめられた、細いプラチナで作った網のような意匠の頚飾りが 巡らされており、それが一段とその形の美しさを際立たせている。頭を包み込む形で毛先を削いである真っ白な直毛が背中の 中ほどまで垂れていて、カットの深い背中から見える、剥き出しの形の良い肩甲骨が半ば見え隠れしている。 「よう綺麗なマダム。大分御無沙汰でどうも」 「お元気そうで嬉しいわ…と言いたい所だけれど」 キリコはウィッグに合わせたのだろう、白に近い蒼灰色の瞳を細めて言う。 「翡翠ちゃんはそうでもないようね?」 「ああまあ…」 流石にその先は言葉を濁したスカーフェイスに、ケビンはこれはよくよくの事態に陥っているらしいと察して、眉を顰めた。 それでその、今彼がはまり込んでいる窮地に、自分とキリコが一体どういう関わりがあるのか全く読めない。 「実はそれ絡みで、人を探してるんだけどな。」 一応、酒は呑んでも構わないのかと確認してから、自分でグラスに氷を落し始めるスカーフェイスに感じるのは、明らかに 言葉を選んでいる間を持たせる為の仕草。 だからキリコも、ことさらその手からグラスを取り上げるような真似はしない。ただ、彼が話し出すのを待っている。 二人に酒を渡し、新しく自分の分も作り直してから目の前に掲げて挨拶を交わすと、スカーフェイスは一口酒を含んで、言った。 「あのよお二人さん。この街のどっかに、とんでもなく男前な占い師がやってるバーがあるって話、聞いた事ねえか」 「占い師がやってる…バー?」 ケビンの語調が、奇妙な具合に上下する。その二つの言葉は、およそ彼の中では一つに結びつかないものだったからだ。 スカーフェイスは前髪を掻き上げざまに頬杖をつく。弾みで右の肩から肘へと長い髪が零れて落ちる。 「ああ、でもすげえ昔の話だから、もしかしたら占い師の方は廃業してるかもしれねえな。とにかくどっかこの辺だったって 記憶しかねえんだが」 「すげえ昔」に、「どっかこの辺」に来た事があるということなのだろうか、それは。 そう言われてみれば、自分はスカーフェイスがd.M.pに入ってくる前の、彼の過去を殆ど知らない。 と、キリコが口を開いた。 「知ってるわ。BALLAD≠フ事でしょう」 「今でもあるのか?」 「ええ。この辺って記憶はちょっと間違ってるけれどね。遠い所じゃないわ。 昔から在るお店で、店主がとんでもなくいい男の、カード使いだって事も当たってるから、多分間違いないでしょう」 ちょっと待ってて、地図をコピーして来てあげるから、と前置きしてキリコは席を外した。 ケビンは、問題が解決したにも関わらず眉間が寄ったままのスカーフェイスへ、ボトルを差し上げる。 「店を探し出すのが、直接的な解決ではなさそうだな?」 その言葉にちらりと視線を上げ、注がれる酒を受けながら低い声で応じる。 「まあな。手段は目的じゃない」 「カード使いの美男子が?」 「知ってる筈の人間の行方が知りたい。それも手段だけどな」 余計な部分を全て省略した会話は、例え漏れ聞いたものがいたとしても意味は取れないに違いない。 「目的は──」 答えはない事を覚悟しながら呟いたケビンに返されたのは空に踊る銀色の輝き。 思わず受止めてしまって、掌の中に収まっているものを見たケビンの顔が衝撃に揺れる。 「まさか」 「そのまさかだ。かれこれ一週間は経ってる。情報ゼロ」 返せ、と指で招かれて、その手の中に重い銀の塊を軽く弾いて戻す。 「父は?」 「知ってる。んで、御自分は動き取れねえから俺に任せると。」 ケビンは呆れたように髪を掻き上げて吐息した。 「なんて人だ…」 「一族の男が出張って来てる。俺にしか対応出来ねえ」 なにせこれだし、と指先で掃かれた頬の傷に、ケビンの顔が引き攣るように強張った。 「お前に傷を?」 「まあこっちも手と脚潰したけどな。ただし脚の方は多分ギミックだった。大した痛手にはなってねえ」 その言葉に、ふとケビンが考えるように目を逸らす。 スカーフェイスは訝しげに目を細めた。 「何だ?」 「ブロッケンの宗家に近い位置で…義手義足の男の話を、昔聞いた事がある気がする」 闘う者とは思えないほどに整った形の爪が眉間に当てられる。 「俺も聞きかじっただけだから、余り確かな話ではないが…確か宗家に準じる家の当主で…現在の一族の取り纏めは、 殆どその男の手に実権が移っている筈だ」 「有り得るな」 スカーフェイスはあっさり同意した。 「そういう人間なら、何気にジェイドを殺そうともするだろうよ」 「殺…!」 思わず声が高くなるケビンをしっと諌めた時に、キリコが戻って来た。 「はいこれ。印も付けておいたわ。あなたなら迷う事はないでしょうけど」 「野良猫並みの方向探知感覚だって言いたい?」 笑いながらも地図に目を落しているスカーフェイスを見ていたキリコは、ひょいとケビンを見遣ると、まるで外、 雨が降り出していたわよと言うのと同じレベルの気安さで言い放った。 「ケビン。あなた一緒に行って上げなさいな。」 「はあ!?」 流石のケビンが物凄い声を出した。 「何を言ってるんだキリコ、俺は今一応オリンピック参加中なんだぞ。そんなに長い間留守にしていたら、実行委員会から どんなクレームが来るか…」 その多少本気で緊張している声に、キリコはちょっとこめかみを指先で揉み解す仕草をし、シベリアンハスキーのような 色合いの目で、ケビンを横目に見遣った。 「あなたって、本当にそういう所融通が利かないって言うか、頭が固いって言うか、人を使うのが下手だって言うか…」 段々ケビンの頭が肩の間に落ちて来る。だってそんな事を言われても、咄嗟に解決法なんか思い付かないし、と心の中で 思っているのだろう彼の額に指を掛けてくいと上を向かせ、キリコはにっこり笑った。 「ねえ坊や。長丁場付き合う事になるかどうか、決めるのはあなたとツバメちゃんでしょ。そんな事今ここで気に病んでいても 仕方ないじゃない。それから、実行委員会からの圧力云々ですけど、あなたの不在を隠蔽できないような無能な執事なら、 さっさと解雇しておしまいなさい。それからあなたの素敵なお父様は、イベント用のお飾りかしら?全ての事情をご存知なら、 裏から何とでもできる筈じゃなくて?」 その余りの笑顔の迫力にケビンが蛇に睨まれた蛙状態になっていると、彼女はそうねえ、と顎先に指を当てて天井を仰いだ。 「あなたの付き人とお父様がそんなに使えない人達なら、いっそ私がやりましょうか?」 「いやいい、それだけはいい!!」 もれなくオプションで付いてくる、『使えないし邪魔なだけな奴はいても仕方ないから、三浦半島の沖合い辺り、タンカーが 良く通る所に捨てて来て』というけろっとした一言が想像できるだけにケビンの制止はかなり本気だ。 「…あーあ、怖いコワイ」 他人事の気楽さで笑いながらスカーフェイスは地図をキリコの前に戻した。 「ケービン。このおネエ様だけは裏切らねえ方がいいぜ。沈められるぞお前」 「あら。」 キリコはケビンの腕を取りながらにっこり笑った。 「ケビンが私を裏切るって事は、この子が自分で望んでもいない事ばかりやっているのに、それでいいんだって自分で自分に 嘘を付いている時だけですもの。大丈夫よ」 「ほお。もうそんな事こいつはしねえってか?大した信頼だな」 「いいえ。そんな状態にはまる前に捕まえて、反省するまで可愛がってあげるだけv」 うふ、とそれは色っぽい流し目をくれながら言われた言葉は素晴らしく奥が深い。 流石、過去持ちの方は対応が豪快である。 「さてと。用件だけで愛想なしで悪いけどな。行かせてもらうぜ」 立ち上がるスカーフェイスにキリコが問う。 「あら、これはいいの?」 「頭に全部叩き込んだよ。変なもの持ってて、あんたに迷惑が掛かるのも後味悪いし」 その言葉に、キリコは何とも言えない微笑みを浮かべて吐息した。 さら、と紅い髪の余韻を残して、足音一つさせずに人をすり抜けていく彼の動きは、やはりどこか大型の獣の優雅さを思わせる。 後も振り向かずに去っていくその背中に、ケビンの腰が思わず宙に浮く。 「後悔するくらいなら、いっそ尻拭いを他人におしつけてみなさいな」 見下ろしたそこには、頬杖をついてこちらを見上げる、キリコの薄蒼の瞳がある。 「キリコ…」 「たまにはその位、無責任になってみるのもあなたには必要ね。可愛い坊や」 少し躊躇うように唇を噛み締めた後、ケビンはぱっと身を返してやはり店を出ていった。 一人残されたキリコは、シガーケースを取り出すと細身の煙草に火を点けて、緩やかに紫煙を吐き出しながら微笑んで呟いた。 「…それが他人を信用して任せる、って事だって、気が付いてくれると良いんだけれど」 |