オレの記憶の原点にあるもの。それは餓えだ。オレは常に餓えていた。目をギラギラさせながら食い物を待つ。 だがわずかなそれはあっという間に貪り食い尽くされてしまう。あとは手近な奴から奪うしかなかった。 本能の赴くまま食い物を持っている奴に殴りかかる。岩をつかんで振り下ろすこともあった。 オレは強かった。たいがい誰よりも多く奪い取ることが出来た。それでもオレは餓えていた。 殴りどころによっては目の前のそいつは崩れて動かなくなる。それは楽に食い物を奪えるということだった。 そのうち目も覚まさずに嫌なにおいをさせ始めた奴がいた。しょうがないのでオレ達は手分けしてそいつを運び、 崖から落とした。臭いにおいがなくなってやっとほっとした。 「たいしたもんだな、マルス」 声をかけられた。食い物を持ってくる奴。体の大きな……そう『オレ達』とは違う。力も強くてとてもかなわない。 そいつはオレをマルスと呼んだ。マルス、マルス……… それがオレの『名前』なのだ。 オレの世界はずっとその場所しかなかった。薄暗い地下の洞窟。しかしオレ達のいたあたりには天空に向けて 大きな裂け目があり、陽の光が射し込んでた。丁度大きな広場のようになっている。 「メシが欲しかったら登りな!!」 『訓練』はある日いきなり始まった。ムチを手にした男が怒鳴る。皆わけもわからず戸惑っていると、 男がムチを振るって叫んだ。 「登れって言ってんだよ!!」 一人が打たれ悲鳴を上げた。怯えは一瞬にして広がり、皆あわてて登り始める。オレも目の前の岩をつかんだ。 力を込めると体は楽々上がっていく。オレはその時一緒にいたガキどもの中じゃ一番体が大きかった。 あの頃のオレは一体いくつだったのだろう。三つか四つか……… そのぐらいのはずだ。 体は軽いが握力がない。じきに体重を支えているのが辛くなる。すぐ下で悲鳴が聞こえ、思わず振り返る。 誰かが落ちたのだ。打撲で動けないそいつを男は鞭でさんざんに打ち据えていた。 ごくりとつばを飲む。体に力がこもる。必死だった。何も考えずにしゃにむに登る。 そしてついに ─── オレは頂上にたどり着いていた。 いきなり光景が変わってオレは驚いた。あっけにとられ固まってしまう。広い広い青空。オレはそれを生まれて初めて見た。 辺りがあまりにまぶしくて、頭が痛くなってきた。オレは思わず目をつぶり、暴力的なまでに激しい日差しに耐えた。 しかし好奇心には勝てなかった。じっとしていても何も起こらない。危険なことも。まぶたを通してすらまぶしいと 感じていたが、やがてオレはゆっくりと目を開いた。 まだまぶしかったがさっきほどではない。オレはようやく動き出し、最後の岩を越えると地上に転がった。 体が反応し始めていた。全身の筋肉が痛み、ぜいぜいと息が切れる。だがオレを取り巻く風はさわやかで、 オレは呆然としたまま自分の真上に広がる青空を見つめていた。 オレからだいぶ遅れて『仲間』の何人かが同様に地上に上がってきた。みんな地面に身を投げ出して荒い息を吐いている。 と、世話係の一人がひょいっと飛び出してきた。あの切り立つ絶壁をものの数歩で上がってきたらしい。 男はイッカクと言ったはずだ。文字通り額から大きな角が一本生えている。しかしその『お大事』の角は、 根本から15cmほどのところでぽっきりと折れていた。顔も右半分に引き攣れたようなひどい傷が走り、 凄まじい形相になっている。右目も潰れていた。イッカクは転がるガキどもに「だらしねぇなぁ」などと声をかけながら、 軽く蹴飛ばしている。オレに近づいてきた。 「あれ、何?」 オレは聞いた。目の前にそびえ立つ美しい白。初めて見た青空とその白のコントラストに、オレは心を奪われていた。 「ああ……ありゃあ富士山ってんだよ」 しばらく休むと今度は下りだ。だがやってみると降りる方が難しかった。足の下が不安定でどうにも動けない。 「ガキはしょうがねぇなぁ」 世話係の一人、キング・ジョーがガキどもを小脇に抱えて飛び降りた。何往復かして全員降ろす。 『すごい………』 目をつぶっている奴も多かったが、オレは抱えられたまま、地下の岩壁が一気にグン!と近づくさまをたまげた顔で見つめた。 そのあと陽が陰るまで、何度も何度も崖を登らされた。オレたちは力つき、全く身動きできないまま体を丸めた。 グレイト・カイマンの奴が笑った。 「おいおい、食わねぇならオレたちで食っちまうぜ」 誰一人顔も上げない。食欲などあるはずもなかった。オレも疲れ果てていたが、腹立たしさに連中をにらみつける。 男どもはゲラゲラ笑いながら食事をしていた。ひどく悔しい。怒りで脳天が沸騰しそうな気分で、オレは体に力を入れた。 ちょっとでも動くと体中が引き攣り、筋肉が悲鳴を上げる。しかしそれでもオレはよろよろと体を起こした。 はいつくばりながら進む。世話係の男はその時は三人いた。全員体のどこかを失っている。それゆえに『戦力外』の 存在として、こんなガキの世話と指導をする羽目になっているのだと後で知った。だが当時はこいつらがオレの知っている 『大人』の全てだったのだ。 「お、マルスが来たぜ」 「こいつ食い意地はってるよなー」 「ああ、食え食え。お前は一番よくやったぜ」 思いの外の歓待ムードに、オレは怒りの矛先をどこに向けていいのかわからなくなった。 あの時のオレはただ腹の底から突き上げてくる感情に支配されているだけだったが、後から振り返ればあれは一つには オレたちをああまで何の理由もなく(あの時のオレには『理由』なんてわかりはしなかった)、いたぶり痛めつけたという ことに対しての怒り、もう一つはオレたちがメシを食える状況じゃなくしておいて、オレたちのメシを奪ったということに 対しての怒りだったのだと思う。 だが男たちは笑い合いながらオレを抱き上げ座らせると、スープを口元まで運んでくれた。 食欲などまるでなく、そのスープもほんの何口か飲み込んだだけでそれ以上は体が受け付けなかったが、 腹の底にしみいるような暖かさをオレは覚えている。 そしてオレは他の奴らよりも強く、ひたすらに強くあることが、メシを手に入れる一番の近道であることを すでに察していた。それにこうやって褒めそやされると不思議と怒りの気持ちは解け、むしろ得意げになっていく。 それも……ガキをその気にさせるための言ってみれば『手』なのかもしれないが、あの時の男たちは本気でオレを 褒めてくれていたように思う。 『訓練』が始まるとメシだけ与えて放ったらかしだった今までと違い、世話係の男たちは結構オレたちに付きっきりに なった。物心ってやつがついてきてこっちの認識力が上がってきているせいもあるだろうが、男たち一人一人の個性が 見えてくるようになっていた。 キング・ジョーは割と調子がいい。年中くだらないことを言っては自分で受けて笑っている。仲間内からも好かれて いるようだ。だがこと訓練となると一番厳しいのもこいつだ。世話係の中ではこいつがリーダー格のようだった。 イッカクは小ずるい。多分三人の中では一番弱い。三人の間でもきっちり『力関係』が存在しているようで、 ある意味他の二人からもいじめられているようなところがあった。 もっともそれは今だからそう言葉に出来るのであって、あの頃のオレはまるで飼い犬が『家族の中の力関係』を 見抜くように、三人の関係を感覚で察していただけだ。 イッカクはよくオレ達に回すはずのメシをくすねていた。こっそりどこかに隠してしまう。気づいたオレ達が 文句を言っても、あのでかい体で脅しをかけられると誰も何も言えなくなってしまう。いや実際一人首を絞められた。 あっという間に顔がどす黒くなり、痙攣するのをオレは見た。イッカクもさすがにヤバイと思ったのか事切れる寸前に 手を離し、しばらくしてそいつはか細いヒューっという呼吸音とともに息を吹き返した。 他の二人に訴えればイッカクの方がどやされるのではということを言った仲間もいたが、奴がどやされたとしても その後で、怒りにまかせたイッカクに結局は殺される羽目になるのではないかと皆思っていた。 そんなのはごめんこうむりたい。それにオレは他の二人は薄々承知していて、奴のやることをわざと放っているような、 そんな気がしていた。 最後のグレイト・カイマン。こいつは嫌な奴だ。短気で何の理由もなくすぐ殴る。ムチを振るう。訓練のためというより、 オレ達をいたぶる口実を見つけては楽しんでいるとしか思えなかった。しかし他の二人も特にグレイト・カイマンの そういった行為をとめだてしはしない。憎まれ役はお前に任せたぜとでもいう調子で、むしろニヤニヤ笑いながら グレイト・カイマンが殴るのを遠くから見ている。 そういう意味では三人ともさしたる差はないと言えただろう。オレ達は毎日毎日走らされた。デコボコの激しい岩穴を、 ムチに追われて必死に走る。初めの時と同じように岩壁を登らされる時もある。 何週間も経つうちに、オレ達はそんな状況でもしっかりメシが食えるようになっていった。いや正確に言うと 食えなかった奴は死んでいた。朝日が射し込みギシギシする体をどうにか動かし起きあがる。と、動かない奴がいる。 それは死んでいるということなのだ。オレはメシの取り分が増えることに喜んでいた。 ガキどもの間にも仲間意識はある。ことに『大人』対『子供』という感覚で考えるとき、一方的に訓練メニューを与える 大人を敵視している奴は多かった。オレだってどちらを『仲間』だと思っているのかと言えば、それはガキの方だ。 オレ達は身を寄せ合い、必死になって生きていた。 だが同時に仲間は最も身近なライバルで、メシを巡っては一番直接的に争う相手でもある。誰一人『弱い奴』にかける 情けなど持ち合わせてはいなかった。皆、自分が生き残ることに必死だったのだ。弱い奴はそいつが弱いのが悪い。 オレ達は当たり前にそう思い、自分は、自分だけは強くあらんとしていた。 それはもちろん大人どもの思惑通りだったのだろう。 そんな風にして歳月は過ぎていく。オレはまだ年や月という概念を持っていなかったが、大人達が時折り 「お前ももう何歳になった」と教えてくれる。 オレは五歳になっていた。 訓練で走らされている時、ほんの時々、オレ達よりももっとチビな連中が同じように走らされているのに 出っくわすことがある。訓練を始めたばかりなのだろう。オレは自分の時のことを思い返した。そうしてオレは 『年を取る』『成長する』ということの意味を理解していった。 それでも普段は数人の大人と自分と同じ年頃の仲間しか見ていないため、『大人』と『子供』がどういう関係にあるのか いまいち理解していなかった。つまり『子供が育つと大人になる』ということが、よくわかっていなかったのだ。 もちろん『大人から子供が産まれる』ということも、さっぱりわかっていなかった。 オレがなんとはなしにでもそれを知ったのは、全くの偶然だった。 世話係の三人は今はオレ達よりチビな連中の指導に忙しいのだろう。練習メニューだけ与えていなくなってしまうことも よくあった。だからといってオレ達はさぼらない。体を動かすことにはすっかり慣れっこになってしまっているし、 万一ばれて後で半殺しにあうことを考えれば、素直にメニューをこなしている方が得策だった。 それでも昼食の後、わずかな食休みが許された。皆、痛む体を抱えながら思い思いに転がっている。 オレはまたイッカクがメシの一部を持ってどこかに行こうとしていることに気がついた。全くあいつはどこにメシを 持っていってしまうのか。腹立たしくなったオレはこっそりイッカクの後をつけた。 d.M.p.のアジトは迷路のような地下洞窟に張り巡らされている。あちこち走るようになってから随分位置関係は 覚えてきたと思っていたのに、イッカクは見たこともないような岩穴から深く深く、さらに地下へと潜っていった。 抱えた食い物を落とすまいとしているのか、イッカクの動きはゆっくりでオレは助かった。 随分下りた。こんな深い所まで広がっているとは知らなかった。ひょっとしてそろそろ訓練が再開されて オレがいないことに気づき、グレイト・カイマンあたりが怒髪天を突いたように怒りまくって、誰かが代わりに ムチ打たれてるかもとも思ったが、自分の好奇心には勝てなかった。 微かな細い高い音が聞こえてきた。妙な音。時折り『外』で聞く、獣の声のように思われた。イッカクはここで 何か飼っているのか? いや、獣ではなかった。不意にはっきりと『言葉』が聞こえた。 |