正月である。 無論季節なんて物が在る訳はないファクトリー内では、何があると言うものでもなく、帰省なんて結構な習慣もないものだから、 時間はいつもと同じに流れていく。 ただし、12月31日の午後の授業がいささか早めに切り上げられる事だけが、連続する毎日とは若干異なっているくらいのものである。 これは別に、大掃除をしろとか迎春の仕度をしろとか、ましてや全館上げてのおせちの準備の為ではない。 何故この日、全てのレクチュアが早上がりになり、さらに夜間の自主トレが禁止になるのか、誰も知らないのだ。 一期生が誰一人知らないのだから、二期生以下が知っている訳もない。 単に、一部の教授陣の全き私的都合ではないかと言う噂もちらほらあるが、真相は今だ闇の中である。 別に自室待機を命じられている訳でもないので、手が空いた人間は自然に三々五々、関係者専用のフリースペースである 談話室に集まってくる事になる。今年もそんな調子に変わりはなく、暖色系の間接照明で照らし出されたホールの中には、 もうあちこちに人溜りが出来始めている。 「正月なんだよ」 そんな中、いい加減何度目か分からなくなって来た溜息を吐き出したのはキッドだった。 「何で俺は折角のカウントダウンを、こんな野郎ばっかりの所で迎えなきゃならんのだ!?ええ!?」 それは何故かと言えば、関西地区担当経由ロビン行きの書類・年内承認必須マーク付きの代物を、31日の午後になるまで 気付かずに放置していた為である。 この日ばかりは宇宙港の閉鎖も早くなる。地球戻り最終便に乗りそびれたキッドはファクトリーで年越しを迎える破目になったと 言う訳だった。 「そりゃ自業自得じゃねえか」 長々とソファを独占して横になったスカーフェイスが、読んでいた本から目も上げずに突っ込んだ。 「バカだね先輩も。いっそ見なかった事にして年明けしちまえば良かったのに、クソ正直に持ってきたりするからハマるんだ」 その足許の床に座り込んでいたキッドは思い切りブーイングの声を上げる。 「うっせえな。愚痴ぐらい言わせろよ」 「ああ、いっくらでもお好きにどーぞ。ただし俺の聴覚範囲からは消えてくれ」 それってかなりダイレクトに、ここから出ていけと言ってないか。 「なんだよおめえは。愛想のない」 「オレに愛想振りまいて欲しいか先輩──って、あ"ぁ!」 小刻みにびしばしと拳を当ててくるキッドを本で振り払って、スカーフェイスは吠えた。 「何なんだよあんたはったく、うざってえなあ!」 「やかましい。明日にならなきゃ帰れなくてイライラしてんのにトレーニングルームは閉鎖されてるし、俺は時間潰すので大変なんだ」 「…絡んでんじゃねえよ傍迷惑な…」 その有り様を対面するソファに座って見ていたジェイドとクリオネは、思わず目を見交わした。 「…絶対、仲、いいよな。あそこ」 思わずぼそっと呟いているジェイドに、クリオネは首を捻る。 「どうなんだろうなあ。」 ともあれ、全ファクトリー生徒─卒業生含む─を通じて、最も頻繁に自分からスカーフェイスにちょっかいを出しに行くのが キッドである事は間違いがない。 それを『仲良し』という言葉で表現するかどうかは、個々人のセンスの問題だと思う。 「あー…えーと、先輩」 はい、と軽く手を挙げながら、クリオネはキッドに呼びかけた。 「どうしてカウントダウンの時に、ここにいるのがそんなに嫌なんですか」 「どうしてってお前、ヒマだからに決まってるじゃん」 分かったような分からないような顔で眉間に縦皺が寄ったクリオネに、キッドはいいか、と前置きした。 「あのね。オレんとこはパパがアメリカ人でママが日本人なの。それは知ってるよな?」 「はあ」 「だからもう年末から正月にかけて、ビッグイベントになるわけよ。クリスマスは12月の頭から用意始まるし、 それが終ったら次は正月ね。あ、これは日本だけの習慣なんだけど…31日はまず夜明かしして初日の出拝んで、 そこから3日間はおせちっつって、まあ縁起物尽くしなんだけどご馳走並べて、ご近所親戚巻き込んでの無礼講のパーティに なるわけ」 かなり解釈が間違っているような気がしないでもないが、どうやらナツコ女史、アメリカにまで日本の麗しい習慣を持ち込み、 しっかり息子に擦り込んだらしい。 「へえ、楽しそうですねえ」 にこ、とジェイドの顔がほころんだ。 「だろ。あとは7日の七草粥」 「ナナクサガユ?」 「パーティ続きで内臓が疲れてるから、年が明けて1週間目に、色々体に良いハーブとか入れたお米のオートミールを食べる」 「なるほど、合理的ですね」 「なーにが合理的なんだ」 ぱら、とページを繰りながら、スカーフェイスが更に突っ込む。 「内臓の疲れを気にするくらいなら、いっそ最初からいつも通りの生活を送ってりゃいいじゃねえか」 「…おめーそれを言ったら、身も蓋もねえだろ」 情緒のない奴はこれだから嫌だ、とむくれるキッドに、ジェイドがくすくす笑いながら言葉を継いだ。 「まあ、民族の習慣ですからね。色々在るものなんですね」 「しかし、お祭り大好きアメリカ人と日本人の夫婦だけの事はあるよな。先輩の性格はそういう生活環境に育まれたわけだ」 「なんだよそれ」 「天井知らずでおめでたい」 「…さっきからケンカ売ってんのかおめーは!!」 まあまあ、とキッドを宥めたクリオネがでもねえ、と首を傾げた。 「そうですか。日本ではそんなに年明けのお祝いが華やかなんですか。」 「世界中でも少ないんじゃないかな」 同意したジェイド、両者共に北方出身である。 「あ、そうか」 キッドは肩越しにジェイドを振り仰いだ。 「ドイツではすげーのはクリスマスくらいか」 「逆ですよ」 ジェイドは軽く手を振った。 「あくまでお祝いは家族主体だし…大体聖誕祭は、静かに救世主の誕生を祝う為のものだから、店もさっさと閉めてしまうし… 街は下手するとがらがらですよ」 クリオネも肯いた。これは、殆どのヨーロッパ諸国で共通の事情である。クリスマスシーズン狙いで欧州旅行にでかけ、 肩透かしを食ったような静けさに当惑する日本人が多いのはこの所為だ。 「まして、新年のお祝いなんて、なあ」 「年明けのミサがあるくらいですかね。これはカウントダウンと同時にやりますから、皆参加します」 「どうせ行った事ねえくせに」 目も上げないスカーフェイスの言葉に、ジェイドはばれたか、と小さく舌を出した。 「レーラァが余りお好きじゃないので、俺もつい」 この時期、ベルリン旧市街地に立つ広壮な大理石の屋敷が、冬の冷え切った空気の中でいつもよりも一層人気を無くして 静まり返っていたのをジェイドは思い出す。 それでも何時の間に用意されているのか、滅多にJr.が自分から口にする事のない赤ワインが暖炉の前のテーブルに きちんと載せられているのが通例だった。 蒼白い頬に炎の照り返しを受け、薪がはぜる音を聞いているかのように沈黙したまま、グラスを傾けている師匠の横顔まで、 今でもはっきりと目に浮かんでくる。 子供の頃は、人気のない屋敷のどこからこんなものが用意されたのだろうか、とか、どうしてこの人は何も話さないのだろうかとか、 そんな事が気になって仕方がなかったのだけれど、こうして振り返ればあの降ってくる雪の音さえ聞こえそうな静寂に満たされた 闇が、懐かしく、胸を内側から温めてくれるような想い出に変わっている。 沈黙と孤独を守り続けてきた人が、傍にいる事を自分だけには許してくれた。その事がどれだけ幸せなものに感じられるように なっていったか、言葉では表し尽くせない。 「出掛ける必要がねえんだよ。」 ぱた、と本を閉じる音にジェイドは意外な思いでスカーフェイスを見遣った。濃い睫を閉ざしたまま、彼は続けた。 「『薔薇の礼拝堂』って、一族専用の礼拝室が屋敷の中にあるんだ。当主の書斎から徒歩3分。回廊で繋がってるから 一歩も外に出なくてもOK」 「……」 なんでこいつがそんな事を知ってるのだろうと一瞬誰もが思った事は言うまでもない。 「まあ、あのオッサンはそこにすら行きそうにねえけどな」 くぅっと大きく伸びをしたスカーフェイスに、キッドが訊ねた。 「お前は?」 「ああ?」 「いや、お前の出身って聞いた事ないからさ。お前の所の正月はどんなんかなと思って」 「オレん家か。そりゃもう先輩のとこと良い勝負なくらい忙しいぞ。細かく言ってくときりがねえから大雑把に言うからな」 座り直したスカーフェイスは、空に目を据えると、まるで何かを読み上げているかのようにすらすらと喋り出した。 「まず30日からだ。この日に一年の邪気を全部払う儀式をやる。ツイナっていう」 「へえ、31日じゃないんだ」 「で、1日、元日だな。この日は朝4時に起きて四方拝みやって、朝賀やって、宴会やって、2日は役所関係の挨拶回りがあって、 3日も大体同じ、あー日付言うの面倒になってきたから以下略!」 「……」 「その後が叙位、白馬節会、県召除目、御粥、踏歌節会、射礼、賭弓、で、21日に内宴と。ここまで来ると正月も一段落って 感じだな。すげえ、1月は殆ど仕事してねえじゃん」 指折り数えていたスカーフェイスの後頭部を思い切りキッドが張り倒した。 「いつからお前は日本の平安貴族になったんだ!?」 「ああ、分かったぁ?たまには知ってる事もあるんだな。」 だめだ…と、片手で顔を覆ったジェイドにクリオネが呟いた。 「あいつにまともな答えを期待した俺達がバカだったような気がする…」 「っていうか、なんでそういう、授業の内容と全然関係ない知識持ってるんだよあいつは?」 「…確かに…」 これで授業中は爆睡、遅刻サボリは常習犯の二期生ベスト4なのだから、キリキリ勉強している人間の立場はあったものじゃない。 「まあそう怒りなさんなって」 スカーフェイスはキッドを抑えながら笑った。 「俺が言いたかったのは、日本人の行事好き、お祭り好きは民族としての筋金入りであって、別に先輩ん家が特殊じゃねえって 事なんだからよ」 またしてもジェイドとクリオネは同時に特大の溜息を吐いた。 ほんと口、上手いし。 「まあ、冗談はともかく」 元通りにキッドを座らせたスカーフェイスは、ふと真顔に変わった。 「一応な、風習って言うのかな。それはあったぜ。ガキの俺にはあんまり関係なかったけど」 「どんな?」 「お袋サイドと親父サイドが別なんだよな。お袋の方は、夜明け前に水くみに行くんだ。ユークィンマの井戸ってのがあって、 そこから年一発目の水を汲んでくるんだけど、そこまでの道がもう真っ暗で」 そこでスカーフェイスはにいっと笑った。 「で、何が嫌だって、途中で誰かに出会っても、絶対口きいたり、振り返ったりしちゃいけねえんだって。 それが必ずいるってんだな。こう、木の下の暗がりに、白い人影がぼーっと」 「……」 何だかえらく季節外れのストーリー展開になってきた。 「もし話し掛けられて応えちまった奴がいた時は、そいつ捨てて逃げなきゃいけないんだと。 いたらしいんだよ。なんか若い子でさ。うっかり名前呼ばれて『はい』って言っちまったのが」 ごく、と微かにクリオネが息を呑んだのが分かった。 「で?」 「もう速攻ダッシュで逃げるんだけど、水運んでるだろ。そうそう速く走れるもんじゃねえよな。で、どんどん距離詰められて、 もうやべえって時に館の門に飛び込んで、皆して思いきり閂掛けちまった」 スカーフェイスはゆっくり脚を組み替えた。 「返事した子がまだ外にいたのによ。」 あーっ、お約束だーっと叫んでキッドが頭を抱える。 「暫くは、どう考えても一人じゃない足音が走り回ってる音がしてたらしいんだけど、そのうち静かになったらしい。 水汲みに行った女達にも、外に見に行く奴は誰もいなかった」 「…で?」 思わず先を促したキッドに、スカーフェイスは手にした本を軽くひらひらさせて見せ、ひょいと立ち上がると、 おどけるように腰を屈めた。 「教えない。」 「スカー、馬鹿野郎てめえ、気になって眠れねえだろ!?」 「暇つぶしにはなっただろ。後はお好きに想像して下さい」 うるさくて全然ページが進まないから行く、と言い捨てて出ていくスカーフェイスの後ろ姿に、キッドは舌打ちした。 「なんちゅー性格してんねや、あいつは…」 「…でも、良く考えたらスカーにも親がいるんですよね…」 変な所で感心しているクリオネに、キッドは目をやった。 「そりゃそうだろう。まさかあいつだって地面から湧いて出た訳じゃあるまい。今の話にだってちゃんとお袋さん出てきたじゃん」 「いや、それなんですけど」 「?」 「今の話、どこまでホントなのかなあと」 「……」 「慣れてくると分かるんですけど、今の話はどうも完全なフィクションだとは思えないんですよね。 だから、どこからどこまでが『作り』なのかなと…それを考えていたら、あいつにも親っている筈なんだなと何だか妙に 感心してしまいました」 全部マジだと信じて疑っていなかった先輩に言葉はなく。 そうこうしているうちに、時計の針は確実に動いて、新しい年へと彼らを送り込んでいく。 |